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2003年02月23日(日)
「ぶざまの人生」「まれに見るバカ」が何とも面白い内容であったので 三たび「わたしを認めよ!」を買ってしまった。 これも前書にまけず面白い内容であった。 この3冊は日常の心の何気ない事を取り上げているから、 ひき付けてはなさない内容になる。 「なるほど、なるほど!」という説得力がある。 人間は誰でも褒められれば、解っていても有頂天になる。 人が褒めてくれない時は、自分で周囲に褒めてくれるように誘導さえする。 −「私って若く見えるでしょう?」 「あの人と自分はどっちが若く見える」 この場合明らかに自分の方が若く見える時のみいう。 その反面、自己認証が歪んだカタチとして貶しに入るケースがある。 私の嫌いな痴呆迷士と子狐に、このタイプが多い。 褒めるということは認証として、一番大事なことである。 しかし、認証はもっと深い意味の話である。 前書きと要約を書きうつしてみる。 ・・・・・・・・
「わたしを認めよ!」 洋泉社新書018 著者名 勢古浩爾 (エッセイスト) ジャンル 心理学・社会学 発刊日 2000年11月22日 買い入れ日 2003年2月19日 購入場所 新潟セゾン 価格 680円 ★★★
まずは「まえがき」の要約 ー我々は認められたがっているーもっと厳密にいうと「承認」されたいのだ。 「まじめでおとなしい」性格!、これは明らかに揶揄を含んだ否定の言葉である。 わたしには、「まじめでおとなしい」ことのどこが悪いのかまったくわからないが。 この言葉は自己証明にならないのだ。 根本的には、自分という存在を証明したいのだ。 人間は承認原則と証明原則の力学として読み解く事ができる。
ー内容 ・人間は、「承認」を求めて生きている。自分という存在の意味が他人から否認されるとき、 人は絶望し、あるいは暴発する。 人は、自分の何をどのように認めてもらおうと欲しているのか。 狂おしいまでに「承認」を求める人間の心理構造とはいかなるものかを考察し、 現代日本における承認の実態を解き明かすとともに、最終的な承認である「自己承認」を 手に入れるための心のありようを探る内容である。 何より、「人間に必要なのは、自分の『価値』を『肯定』してもらうことではなく、 『意味』を『承認』してもらうことだ」と主張している。
ーそれでもわたしが生きる意味とはなにか? わたしたちが世界のただひとりからも「理解されたり、認められたり、必要とされたり」 しないとき、自分が生きる意味を失ってしまう−−−。 ・古典的承認(家族、性、社会)、 ・現在的承認(金、「セックス」、「自己」)、 ・反承認(「自分」) など承認のかたちの三層を踏まえ、 この「承認」への欲望をいかに自分の生に捉えなおすことができるかを指し示す 他人の毀誉褒貶に翻弄されない自己承認の道を語っている!
古典的承認・現在的承認・反承認。なるほど美味いタームである。 これを「我が人生三枚舌悦楽教の三層スキーマ」=「世間・社会・魂」にあてはめると古典的承認 とは世間あるいは社会における承認であろう。 そして反承認とは?
この「自分」にとっては、もはや他人による承認など一切無用である。 他人を承認もしないし他人から承認してもらう必要もない。「自分」は自分が承認するからという 自己満足と、自分が世界だという全能感、これが1990年代を特徴づける反承認である (とはいえ、1990年代の主流は依然として現在的承認である。 そのなかの先端部分が反承認として突出する)。 反承認は突然変異ではない。 かつての「新人類」がそうであったように、あきらかに現在的承認の正嫡子である。
反承認とは魂のことだ。 世間がどうであろうと社会がどうなってもいい、 俺はベートーヴェン弦楽四重奏NO.16を聴いて随喜の涙を流す。 魂にとって世間も社会も究極的には無関心事なのである。 そうなのだ。魂にとって世間も社会も故に当然に承認も不要。 私が私であればそれでいい。 かくして魂は自律する。すなわち存在は関係を止揚して自律するのである。 起て万国の存在者よ
ー感想ー ・社会的の承認をまずは求め、と同時に一般の承認ー世間の承認を求め、 世間も社会も、そんなものどうでもよいという 自分の魂の世界を求める ―わたしがわたしを認める世界を求める。 これが 「わたしを認めよ!」 の三層である。 これが人生の意味なのかもしれない。 こうして毎日随想日記を書いているのも、 潜在的に自己承認を求めているのだろう。 ただ自己承認を強要してくるやつがいるから始末が悪い。 自信がないからだ! ー つづく
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