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2003年02月24日(月)
ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
・・・「ふつう」の意味とは・・ ・「普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない」。当然である。 だれも知らないからだ。 わたしが考える「ふつう」とはこういうものである(「普通」と区別する)。 「奴隷みたいな退屈な生き方」が上と下の「中間」(中流)に落ち込んだ「普通」だとするなら、 目指されるべき「ふつう」とは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。 「普通」が惰性なら、「ふつう」は意思である。 すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、 それが「ふつう」である。 たしかに、「普通に生きていくのは簡単ではない」。けれども「ふつう」とは困難にして容易である。 できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとってはこれが最善であり最も 正しいとおもうことを、覚悟してやるしかないのである。むろん判断は一回かぎりではない。 覚悟もまた一回かぎりではない。
・・・「断念」について・・ ・いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である(それゆえくりかえし打ち立てられなければならない)。 自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという弧絶した自己承認には限界がある。 すくなくとも、「わたし」が承認する一人の他者から、「わたし」は根本的に承認されているという 自己確信は不可欠である(たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも〈少しだけ大きな他者〉 などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。 世界のなかで、「わたし」はすくなくともひとりの人間から承認されているという確信さえないところには、 ほんとうの勇気や元気は出てこない。 ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、 自分はあくまでも「ふつう」を一生懸命生きるという覚悟のない者には、 他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。 承認は循環するのだ。 その場その時に、最善の判断と選択を求めつづけたあとになにが残るか。信頼するに足る承認が 「わたし」に残る、とわたしは信じるが、それと同時に、ある種の断念が残るとおもう。 家族、性、社会も、金も、「セックス」も、有名であることも、そしてあくまでも「自分らしく」 ありたいという欲求さえもが断念されるとおもう。 「人事」をつくしたあとの行方さえ、断念しなければならない。 「わがはからいにはあらず」という言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。 「なるようにしかならない」と思い、さらに、「しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ」 と心の中でうなずきます。 そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じる。 (五木寛之『他力』講談社)
この「安心感」のなかには、「人事」をつくしたあとに、もしそれでも「承認」がもたらされないのなら、 それはしかたがない、という断念がある。 もう、それでいいではないか、という断念の強さがあるとおもう。 ・・・・・・・
ちなみに著者は1947年生まれの団塊ではあるが「平凡パンチ」にも「朝日ジャーナル」 にもかすらず生まれてこのかたドライヤーをただの一回も使ったことがなく、 麻雀牌を握ったこともなく、クラブ・バー・キャバレーの類の店には一歩も足を踏み入れたこともなく、 競馬場競艇場競輪にも無縁で、車の免許持たずカラオケも基本的には好まず、 赤提灯にも無縁ゴルフもやらず、どんなサークルにも属していない洋書輸入会社の勤め人という。
ー感想 地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。 もっとも都会は内幕情報社会だが。 この三層の元−下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。 子供時代は「世間」レベルしか見えない。 成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。 成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。 前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。 三層の世界をきっちり意識していれば、特に世間の現象をクールに対処する事が できそうなのだが。 ーつづく
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