股・戯れ言
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ラースとその彼女と「関わっていく」ということについて

新年ご挨拶日記からしばらくご無沙汰しておりました。
その間に「2009初映画」「2009初ライブ」などを経験してきたので、それについて書こうかと思いますわ。


さて、2009年初映画(映画館でちゃんと見た映画)は「ラースとその彼女」でした。
http://lars-movie.com/
まあ、この前にテレビで見た「ゴシカ」がホントは2009初映画なんですけどね。これはいいとして。


雪深いアメリカ中西部の小さな町に住む、ラースという27歳の青年が主人公。人の良さそうな顔をしているし、信仰心は厚いし、老人に親切であるのだけど、血の繋がっている家族(兄)や席が近い同僚以外にはあまり心を開いていない青年で、特に兄の嫁(つまり義姉)や職場のアシスタント女子の親切や厚意(好意含む)は一切拒絶。
この拒絶の仕方が、「ラース、元気?」「ごはん食べましょ」なんて誘っても無言で無視、のような調子で、このシーン見てちょっと切なくなってしまいましたわ。
「親切や厚意が迷惑」「自分のテリトリーに入ってこようとされているようで、苦手」というラースの思うこともわからんではないのだが、無視されたあとに義姉さんやアシスタント女子が見せる、ちょっと傷ついたような表情にああー、わしも身に覚えがあるわー、と思ってしまうのだった。
彼はナイーブだからしょうがない、とか、まあ、今は気分が乗らないのね、などと解釈して、彼女たちはすぐに表情や感情を切り換えていくのだけど、それでもやっぱり無視されることは傷つくことなのである。悲しいことなのである。
でも、傷ついても、また別の機会に「ラース、晩ご飯うちで食べてって!」などと誘い続ける義姉さんの姿を見ると、愛情を注ぎ続ける=慈悲の心を感じますけどね。これが女の強みだよなあ!ちなみに義姉さんは妊娠中という設定。
無視されてもラースを心配し続ける彼女に、兄(夫)は「母性が強くなってるんじゃないか?ほっとけよ」などと言うのですが、これはまあ、母性うんぬんあんまり関係ないと思うのですけどね。


そんな心を閉ざしているラースが、ある日、兄さんと義姉さんに「彼女ができたんだ!家に遊びに来ているから紹介するよ!」と意気揚々と紹介してきたのが、リアルドールのビアンカ。要するにセックス人形ですよ。
あっけに取られた2人は、心理カウンセラーの先生に「弟は頭がおかしくなってしまった!どうすれば治るんですか?」と聞きに行くのだけど、心理カウンセラーの先生は
「彼は病気ではないわ。現象が現れた、ということは原因があるということなのよ。ラースがビアンカを必要としたことには、必ず原因があるの。治すのではなく、彼と同じようにビアンカを受け入れていきなさい」
というアドバイスをする。
というわけで、2人はなんとかまあ、それに付き合っていくのであった。
小さな町なので、リアルドールを恋人にしていることはあっという間に広がり(本人がいろんなとこに連れてくのもあるが、兄や義姉が友人や職場の人々、教会なんかで話題にするのも手伝って)、皆最初はとまどうが、みんなも「まあ!なんて美人なの!」などと相手にしていくという具合。


なぜ、ラースがビアンカというリアルドールを必要としたのか、などの原因は映画を観て頂きたいのですが、20代後半で彼女がいて結婚を考えていて、みたいなのが普通だとすると、ラースのようにリアルドールを彼女とするのは不自然なことですわな。
でも、ラースにとってはリアルドールと一緒にいることが自分にとって必要な過程だったわけで。同僚や周りの町の人が「何も言わない女なんて最高だよなー」などと言うのだけど、その「何も言わずに側にいてくれる」「何も言わずに自分の全てを受け入れてくれる」存在というのが、ラースには必要だったのかと思う。
当たり前のように自分を受け入れてくれる存在。環境。当たり前のように自分をぶつけられる存在。環境。つまりは、それは親と子、もっと正確に言うと母親と子供ですわ。
まあ、赤ん坊のうちは何をしてもお母さんはかわいがってくれるし、周りの人々もかわいがってくれるわけであるが、だんだんと母親の「他者」という側面を受け入れなければならなくなってくる。100%自分の思い通りにいくわけではないということ。


町の人々に受け入れられたビアンカを、「病院のパーティーに連れて行くわ!ドレスアップさせたのよ」と老女が連れて行った時に、ラースがビアンカに向かって「君は僕の彼女なのに、なんで勝手な行動をするんだ!僕だけを見てろよ!」などと叫び、「ビアンカは自分勝手だ!町の人々も僕とビアンカを引き離しやがって!僕はないがしろにされているんだ!くそー!」といじけるシーンがあるのだけど、
その時に誰よりもビアンカの面倒を見ていた義姉さんが

「ふざけないでよ!誰がないがしろにされてるって!?
 みんな、貴方のことが好きだからビアンカを受け入れてるんでしょ!
 貴方を受け入れたいから、リアルドールを人間として相手してるんじゃない!?
 なのになんなのよ、その言い方は!自分のことばかり考えてないでよ!」

と泣きながら叫ぶのですよ。
このシーンでわしは泣いてしまったなー。義姉さんの気持ちがわかる。ああ、ものすごくよくわかる。別に、義姉さんは私の苦労を解って欲しい、ということが言いたいわけではない。彼女がないがしろにされてるからそう叫んだわけでもない。
こんなに受け入れているのに、なんでそんなこと言うのよ、とただ悲しかっただけなのだ。悲しくて、悔しくて、やりきれなくて、いや、そういうすべての感情が一気に爆発してしまったのだ。


なぜ受け入れるのか。
受け入れることに対して、見返りが欲しいわけではない。
それは、ひとえに「好きだから」だ。恋愛感情でなくて、家族として、友人として、隣人として、愛があるから、理不尽なことであろうと受け入れようと努めるのだ。無視されて、ちょっと傷ついても、それが関係すべてを絶つほどのことには値しない=ちょっと傷つくくらいで嫌いになるような関係ではないと自負しているから、「晩ご飯食べに来てよ」と誘ったり、リアルドールをお風呂に入れたりするのだよ。
それでも頑なに「ないがしろにされている」「みんなわかってない」みたいなことを言われたら、つらいよ。かなしいよ。


義姉さんはこのように感情を爆発させるのだけど、その後は前と変わらずビアンカの世話を見ていく。そして、そんな義姉さんの様子を受けて、ラースも自然に仲直りしていくのだ。
許す、許されると言うことを、この過程で覚えていくのも目頭が熱くなりましたわ。許すということを自然にできないがゆえに、あるいは、許されないかもしれない、というおそれが大きすぎるがゆえに、人間との関わりそのものを絶っていく人も多いからね。
かくいう私も、許されていないのかもしれない、という恐怖故に連絡を取ることをためらったりしちゃうことが多々あるからなー。


前に「スティービー」という傑作ドキュメンタリー映画で、このスティービーがまさにラースのような「自分は皆にないがしろにされてるぜ」と思いこんでいる自分勝手人間なのだけど、妹や友人、町の人々はそんな彼から絶対逃げない(どうしようもないとは思いつつも)、というような関係性が築かれているのを見たのだけど、
「ラースとその彼女」のラースと彼の回りの人々の関係性もそれに近い。
何があっても、ずっと関わり続けていくのだ。
誰も無理矢理ラースを矯正しようとしない。ラース自身が選択していくものを、自然に、あるがままに受け入れていく。
教会の牧師さんが「神はいつでも、試練を与える。我々はそれをあるがままに受け入れていくのみです」というようなことを言っていたけど、その、あるがままを受け入れる、という精神はキリスト教に基づいているのかもしれませんね。今まであまりキリスト教的精神てものについて考えたことなかったけど。


あ、そういえば心理カウンセラーの先生が
「ラースはすべて自分で選んで、自分で決めているの。」
と、いうことを言うのだけど、自分の力ではどうにもならないことが「神からの試練/神から与えられるもの」であり、それに対して自分のことは自分で選んで、自分で決めることができるというものがあるのかな。
コレに関しては、次の日記(初ライブ感想文)にて続きを書くとしよう。


リアルドールとの恋愛の話、という部分がクローズアップされているので、エロ話なのか、とか、切ない恋愛の話なのか、とか思いがちですが、
これは、個人と、社会(コミュニティー)との関係性の話なような気がしました。
個人の成長、という部分に注目して見るのもおもしろいけれど、周りの人間が個人を受け入れていくということについて、という視点で見てもおもしろいと思います。
わし個人的には、自分が関わりたい/関わって行き続けたいと思っている人間に対しては、すべてを受け入れ、恐怖におびえることなく、行動し続けるべきなのだなーと思いましたよ。
て、いつもと同じ結論に落ち着いてんじゃねーか。


というわけで、皆さん観て下さいマシ。
次の日記(今日は更新しないかもだけど)は2009年初ライブの感想ですよ。
この日記とだいぶ内容がリンクするはず。


2009年01月15日(木)

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