股・戯れ言
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初ライブは、ジャクチョンなのだ!

前回の日記で宣言したとおり、今度は2009年初ライブに行った感想を書きたいと思います。
ライブ!と言っても、実はロックでもジャズでも無論ヒップホップでもなく

説法ライブ

なのですよ。
そうです、私が2009年の最初に行ったライブは、瀬戸内寂聴さんのライブでございました。


まーわしが瀬戸内寂聴さんの本読むようになったのは、ここでも書いたとおり、11月になんとなく古本屋で買った「ひとりでも生きられる」という本を買ったのがきっかけでございました。
過去ログ読み返したらそれ以上のことを何も書いていないが、実はこの本を買ったのはハローワーク出頭の日だったのだよな。ハローワークの近くにブックオフがありまして、ハローワーク帰りになんとなく立ち寄ったのですよ。
で、100円コーナーをただだらだら見ていたときに、この本が目に付いて即購入したのだった。そのときは、まさかこのように寂聴ライブに足を運ぶことになるなんて、思いもよらなかった。
でも、今思い返せば、本に呼ばれたのだと思うのですよ。
そのときの私は、自分の意志で仕事をやめたものの、これからどうなるんだ、ホントにこれでよかったのか、という不安でいっぱいだったし(ハローワークに行かなければならない、というのも気が重い事柄であった)、今よりももっとずっと「私の何がいけなかったのか」「何でこんな風になってしまったんだ」と毎日毎日四六時中考えていて、考えすぎて頭や心が押しつぶされそうになっていたのだよな。ま、そのへんは過去ログにいやというほど書いてありますが。(今でも読み返すが、このへんのことをちゃんと書いておいてよかったなあ、と思える)
そんなときにこの本に出会い、「自分の思うことはなんでもやっていいのだ」という言葉にどれだけ励まされたことか。「期待なんかしなくていい、自分が思うことが大事なのだ」ということにどれだけ自分の非を気づかされたことか。救われたのかどうかは、わからない。でも、確実に、寂聴先生の言葉に、私の心のある部分は支えてもらったのだった。


その後、私が、自分の思いをどのように受け入れたかについては、これまた過去ログに書いてあるわけですが。
あまりにも感銘を受けて、「寂聴さんに会いたい!」と友人に話したりもしていたなー。京都まで行かないとダメよ、と言われて京都かー、と考えたりもしたもんだ。


そんな調子であったところに、説法ライブである。
11月に初めて本読んで、1月はじめにライブがあることを知るとは!
前からそうだが、私にはこういう「タイミングいいな!」ということがよくある。それを私は、単に運がいいと思っていたのだけど、寂聴さんがおっしゃるには、それは、
「自分では決められない、おおいなる力のおかげ」
なんだそうだ。
それを、キリスト教だったらキリスト様の思し召しというし、仏教だったら仏の思し召しというわけである。
石垣島のナミィおばあが「ウティングトゥ、カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」という言葉を使っていましたが、それもきっと一緒だね。
もちろん、ただの偶然、神だの仏だのは存在しねえよ!と思うことも可能だし、神とか仏とか気持ち悪い、と嫌悪感を感じる人も多いだろうけど、
私はなんとなく、信じてみるのも悪くないな、と思っております。
自分の力が及ばない、宇宙の神秘とか、そういうものに導かれるというのが、あってもいいと思うのだよね。自分がそういう風に思うのなら、それでいいのだ。ただ、勧誘とか押し付けとかしなければいいだけの話だ。
実際は自分で「この本を買おう」「このライブに行ってみよう」と選んでいるのかもしれないが、私は自分が、ずっと辛抱強く、耐えて耐えて、考えに考え抜いてここまでやってきたことに対するご褒美が、このタイミングでこのライブに来れたということなんじゃないかなーと今は思っているのですよ。



と、先にライブ内容をちらりと書いてしまいましたが、会場の赤坂ブリッツは満員。そして「新しい10代のための説法」というタイトルがついていたにも関わらず、会場の7割以上は50〜70代の女性が占めておりました。
あまりにも10代がいなさすぎて、会場入った途端にちと笑ってしまったわ。
わしも今年三十路であるから、ちょっと肩身狭いなーなどと思っていたけど、心配無用でありましたよ。むしろ堂々とさせてもらっていたわい。
寂聴さんは86歳なのに90分間立ちっぱなし、話しっぱなし。
すばらしいことよのう。
話の内容は、著作品で繰り返し述べられているような、
「期待はしないで、愛を与えてみるといいわ。いつか、予想を超えたところで自分に還ってくるもんだから」
とか
「幸せというのは、自分が満たされるだけのことではないの。自分が存在することで、誰かが助かってる、ということでもあるのよ」
とか
「私は人に教えられたことを疑いもせずに信じてたけど、戦争があって、ああ、こういうこともあるんだから自分が触れたものだけを信じていこうと決めたのよ。だから、自分がしたいと思ったことは全部やるの。あなたたちも誰にどう思われるかなんて気にしなくていいから、本当にしたいことをどんどんやっていきなさい」
とか
「他人を変えることはできないの。でも自分は変えられるのよ」
とかの話が多かったですが、声でこの言葉を聴くのは、また全然違うのだね。改めて、ああ、そうか!やっぱりそうなんだ!という気持ちにさせられる。
ライブという形式であれど、相手の声を聞く、というのは双方通行のコミュニケーションだからなのだろうね。
人間は誰かと関わりたいものだけれど、「話をする(話を聞く、喋る)」ということが、一番、人と繋がっているという安心感を得られるコミュニケーションなのだと思った。
事実、質疑応答で感極まって泣いてしまう女の子多数。わしも思わず貰い泣きすること多数。
みんな、会話がしたいのだな、と思う。
聞いてもらいたいのだ。声をかけてもらいたいのだ。
ただ、それだけのことをしたいだけなのに、私たちはなんでこんなにも相手が思うことを気にしたりするのだろう。嫌われるかもしれない、拒絶されるかもしれない、ということばかりに気をかけて、何も言えなくなってしまったりするのだろう。


寂聴さんに「私の話を聞いてほしい」と手を上げる女の子たちがたくさんいたのは(いや、質問した/しないに関わらず、あの会場にいたすべての人間がそうだったと思う)、この人は私を受け入れてくれる、という信頼があったからだ。それは、寂聴さんがまず最初に、自分のすべてを話していたからこそ持てた信頼なのだろう。
そういう信頼を、どうしてより近い人間と結べないのだろうか。
私などは、自分に欠陥があるからそうなんではないかとばかり思っていたのだけど、欠陥があろうとなかろうと、そんなことは関係ないのだと思う。
肝心なことは、「どんな欠陥があろうとも、あなたそのものすべてを受け入れる」という姿勢だろう。
その姿勢があったからこそ、みな、安心して自分を委ねられたのだ。
寂聴さんはそれをまず、最初に示されていた。
自分がどんな人間であるかわかっており、その自分をすべて受け入れている、という形で。


私が一番欲しいのは、「人を信じる心」なのだけど、
やはり、自分がどういう人間なのか理解し、その自分をすべて受け入れているということができていないと、そこにはきっとたどり着かないのだろうなあ。
そのうえで、他人を断罪しないこと。否定しないこと。
それは、今日明日で獲得できるものではない。
時間はかかるが、じっくりゆっくりやっていくしかないんだなー。
まあ、それはもうしょうがないけどね。
じっくり耐えて、ゆっくり実践できていけば(ただし、決して逃げないこと。あきらめないこと)、いつかまた、神様か仏様から、ボーナスポイントがもらえたりするのだろう。


ちなみに一番印象深かった言葉は、
「あなたの運命は、あなたが決めるのよ!」
という言葉でした。
会社辞めたり、苦難の時間を送ることになったりしたけど、私はそれを自分で決めたのだ。自分がそうしたかったから、そっちを選んだのだ。
これでいいのだ。



あ、最後だけなぜか赤塚不二男ちっくになってしまったなー。

2009年01月16日(金)

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