Opportunity knocks
DiaryINDEX|past|will
今日はいろんなことを考えた日だったので、きちんと言葉にして残しておこうと思う。
昨日、BSで「サイモン・バーチ」という映画がやっていた。 この映画はJ・アーヴィングの「オウエンのために祈りを」という小説を原作にして作られたもので、小人病という障害を背負って生まれてきた一人の男の子の短い一生とその存在意義を深く問いかけた映画である。
ずいぶん前にその映画を連れ合いと一緒に観た、そのときの話。 連れ合いは映画が進むにつれ、顔をしかめるようになり、映画の半ばあたりでもう見ていられないといって結局見るのをやめてしまった。 なんで見ていられなかったの?と後できくと連れ合いの言い分はこうだった。 「(主人公の一生が)悲惨すぎる」 「救いがない」 etc・・・ 連れ合いにはこういうところがあって、たとえば子供の虐待事件のニュースなんかは見ようとしないし、悲惨な映像なんかが流れると見るのを止めてしまう。わたしは連れ合いのそういうところは一種の弱さだと思っていた。 で、今日。 少し前から田口ランディさんのHPを見ていて、今日も何気なくコラムを読んでいたら、前述したわたしと連れ合いのやりとりに関係があるようなことが書いてあった。 要約するのが苦手なのでうまく書けないのだけど、ランディさんは悲惨な事件、正視にたえないような映像などに対して自分はいつも身構えてしまう、というようなことを書かれていた。それを見ることによって自分が深く傷ついてしまうこと、それは自分の弱さでもあるということ、など。 でも一方でこうも書かれていた。映像というものは一方的なメッセージであるということ。そして、社会的な影響力や役目とは別の次元で、映像は個人の心に精神的な介入をしていると。
映像はしばしば一方的なメッセージを伝えようとする。そしてそれは人を深く傷つけたりもするし、歪んだイメージを植えつけたりもする。映像は見る人によっていろんな感情を起こさせるものであって、その情報量というか伝達力というものは完全ではないのかもしれない、そんなことを思った。
考えすぎて訳のわからない文章になってしまったけど、今日は一日中そんなことを考えながら過ごした。
|