samahani
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2002年10月05日(土) 「運動会」で涙したわけ

Code Blue も翌日の金曜日には解除になり、5日(土曜日)には、日本語学校の運動会が、青空の下 開催された。

日本語学校の運動会は、今年からできた幼稚園年長クラスから高校3年生までの、園児、児童、生徒(ちっちゃくてかわいらしいのから、髭の生えたオッサンみたいなのまで)が一堂に会して行なわれる。それは、まさしく日本語学校ならではという光景なのだ。

ただ、運動会で使用する道具の関係からか、毎年同じプログラムで行なわれるうえ、2学年ごと同じ競技をし、さらに高学年になるほど出番が少なくなるという、もう今年で4回目の我が家には、飽き飽きして楽しめないはずのイベントだった。

今年は、リレーの選手に選ばれなかったと言ってくやしがっているこうすけ(小6)と、リレーに出たいなんてガキだね、そんなもん辞退するんだよと言っているなおき(中3)の出ない、最終種目「紅白リレー」。朝から居ても 午前中1種目、午後2種目しか見るモノがない。

そんな私だったが、日本語学校の運動会を見ていたら、「運動会は、やっぱり日本の秋の風物詩だよねえ」とじんわり涙があふれてきて、いつのまにかぽろぽろと涙をこぼしていた。

半周遅れになっても、一生懸命完走している子に、思わずガンバレーって、拍手しながら応援していたり、最後の紅白リレーの迫力に、どの子も一生懸命に走っているその姿が、短いドラマのようだったり、私の涙腺は緩みっぱなしだった。

最後の校長先生の挨拶を聞いても、泣けてきたのは、あの中でも たぶん私くらいのものだっただろう。


今年の、7月4日、独立記念日、子ども達が一足先に日本に帰ってしまっていたので、わたしは夫とふたりでDCまでパレードを観に出かけた。あの時も、私はパレードを観ながら、ぽろぽろ涙をこぼし続けていた。

わたしは泣きながら、自分でも意外な その涙の訳を考えていた。

一番初めに思ったのは、もしかしたら、私はなんだかんだ言っていてもアメリカのことが好きじゃないんだろうかということだった。ワシントンやリンカーンが苦労して、母国アメリカを築いていったその国が226回目の誕生日を迎えられたこと、この国の過去に思いを馳せているのだろうかと思った。

それから、次に思ったのが、夫が日本には帰りたくないと言っているから、私はもしかしたらずっとアメリカに住むことになるかもしれない。日本に帰りたいのに帰れない。そんな自分がけなげで可哀想に思えるからだろうかと思った。

それから、このパレードしている人たちの姿に感動しているからだろうかと思った。暑い日で、Tシャツで立っているだけでもダラダラと汗が流れてくるのに、みんな重そうな衣装を着けて、パレードに情熱をかけて一生懸命やっている。その姿に。


結局 私はその時の涙の訳が分からなかった。けれど、運動会を観ていて思ったのは、私はあの時と同じ理由で泣いているのだろうということだった。

一生懸命にひとつのことに取り組む姿に感動し、それからそれがいまの自分に一番欠けているものだと自覚し、涙をこぼさないではいられないのだ。

いまの私はとても中途半端で不安定だ。駐在員の妻の中には、せっかくのチャンスだからとこちらで大学に入りなおしたり、こちらで仕事を見つけたりする人もいる。また、英語の上達なんて望まない、楽しければいいと、日本人奥さんたちでかたまって、日本語のお稽古事をしたり、ランチをしたりして、アメリカ生活に溶け込むことを諦めてしまう人もいる。わたしはその中間でどちらでもないのに、初めはそこそこにあった好奇心や気力もどんどん失せて、内向的になってしまっている。

アメリカの滞在は2年の予定だったのに、4年になり、さらに延び、先の見えない不安と焦燥感に、私は家族にも世間にもひとり取り残されたような気持ちになっている。

それでも、私は「みんなで日本に帰ろうよ」と夫に言うことはできない。私には、夫がここに居たいという気持ちがよく分かるからだ。私の無理を通せば、こんどは日本に帰った夫が私のような不安定な気持ちになり、きっと悔やみきれない後悔をすることになるだろう。

いま、夫と私の間では 私がひとりでしばらく日本に帰るということまで話し合われている。子どもたちは、父の転勤ででもない限り日本には帰らないときっぱりと言ったからだ。けれど、それさえも決めかねた状態でぐずぐずと歳だけ取っていくわたし。






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