原初

羅列 回帰



―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2008年05月10日(土)
担った役とは違っていても。


最近御無沙汰になっているキズステで素敵に無敵、星霜編がやっていたので録画しつつ見てみる。アニメ全般を視聴する事が近頃なんでなんだか難しくなっている自分としては、つまりそれだけ気になったのかと。
若しかしたらこれ新作なんですかね。散々初公開がどうとか言っていたから。だとしたら出逢ったのも運命なのかも知れない。例えば最近アニメ版が気になって録画し始めたりとかもっと遡れば完全版を買った辺りから(それはちょっと強引なんじゃ)。あ、ウィキったら違うって言われましたorz
何はともあれパラレルとして見た方が宜しいような『るろうに剣心 星霜編』の以下ネタバレ。

追憶編のように基いてやるのかと思いきや(といってもこれの記憶も既にうろってますが)、先述の通り在り得たもう一つの未来、と捉えるべきのよう。
始まりは原作終了の更に十何年後のようですが、回想する薫の端々が、食い違っていて、途中から脳内がそうシフト変更しました。
食い違う、と一口に言うと否定しているようですが、本編で語られなかった更に隅っこではこんな事があったかも、という面(例えば神谷道場での会話とか)は中々楽しくて、だってほらそうやって隅を突付いて楽しむから二次作品なんてやる訳ですよ(笑)。
取り敢えず拝めなかった接吻が来た辺りで嗚呼これは差異歓迎ものだぞと段取りが出来たから良かったものの、縁の部分に関しては実はちょっと、唸ってしまった。

先ず、剣心が完全に絶望するに至る例の大事件が無かった事になっていて、尤もそれは薫視点だからなのか? とも思いつ、剣心が島に来るか否かを気にしている縁の様子からすると、そこまで簡単に見破られる事を見込んでいただろうか?
死んだと思い打ちひしがれ生き地獄でのた打ち回れと願い、だけど完全にそれを成せず人形に頼ったのは縁の特徴の為であって、単純に目の前から浚われただけなら無力感に苛まれる過程は同じでも陥る深みは変わってくるんじゃないだろうか。
嗚呼でもやっぱり、これは薫の追走だからってだけかも知れない。
取り敢えず「薫……」がここで出ない事には残念で、だからこそ前のステージで「薫……」が出て来たんだな、ってそんな事考えないで純粋に見てろよ話を。
その縁編の幕引きも、個人的にはちょっとなぁ。縁は狂いに狂って盲目的に直走ってその末に自分が結局剣心と同じ、彼を断罪されるべきと唱えるなら自らも断罪されるべき存在である現実に打ちのめされるのが大変好ましかったのですが、こっちの縁はやや分別があるようであっさりしていた気がする。
余談ですが、今回の縁は見届けてやる、的な事を言っていたので後半、色々割愛しますが大陸から剣心が船で渡る際、左之助は別の介助人を添えると言っていて、若しかしてここでまさかの縁か!? なんて期待したんですがそんな事はどうやら無かったようです。く、無念。
この縁編、導入から少しずつ変わっているところを見て、若しかしたら和月さんが完全版で言っていた別のルートで接触するんじゃないかと思ったんですよ。人誅の名の下に集まった同士達を省き、まさに廃人手前の縁がどんどんと懐まで迫って来るっていう。まぁ、そんな事もありませんでしたが(笑)。悉く予想が外れておりますって嗚呼なんだいつもの事じゃないかw

星霜編、と言われると縁の部分しか考えておりませんでしたが、この星霜編は寧ろ縁を越えた先を見せる事が本懐だったように思われます。こっからはよりネタバレるので御注意。まぁ、今更ですが。
原作でもやがて躯の限界が来ると言われていた剣心は、その時を迎えると剣を振るう事を諦めて、それでも何か出来る事をと模索して、言ってしまえば一人国境の無い医師団が如く駆けずり回っていたようです。
しかし病魔の方が人の手に負えないという実感を伴わせる、より無力さを感じさせる、というのはあくまでも自分の主観ですが、ただ目の前で死を看取る事しか出来ない現実に揉まれる剣心を支える薫の姿は当時追っていた彼女よりも深みが増していて、変わってしまったというより成長したんだなと概ね好印象でした。
しかし、そんな事をしていれば必然とも言うべき、どうしようもない病に掛かった剣心にその苦しみを渡してくれという薫は、作中でどれだけ後ろ向きじゃなく前向きに、一緒に死のうより一緒に苦しみながら生きようという意志の表れなんだと言われても、どうなんだろうとか。
恵さんとか燕ちゃんならまだ受け入れられるんですが(それもどうなんだ)更に薫は剣心の本当の笑顔を見たいと、つまり本当の笑顔は見せてくれなかったと、言っていたけれどそうだったのかな。
神谷道場に現れてから見せる笑顔の全ては心からのものではなかったのだろうか? けじめを付けても所帯を持っても逆刃刀を渡しても尚、剣心から零れたものは本心の笑みではなかったのだろうか?
それなら逆に、連綿と続いた原作はなんだったんだろうとか。志々雄編を経ても縁編を終えても剣心の笑った顔がまだ全てを明らかにしたものではないのなら、そこに到達するにどれだけ時間が必要なものであったとしても、なんだったんだろう。
例によってちょっとあれな言い方ですがいやとか否定とかではないですよ。純粋な疑問に近い。

終盤、朦朧とした剣心の元へ向かう薫と言うのは如何にも御都合的ではありますがそんなんはいいんです。疲労困憊で辿り着けないくらいのその元へ、自身も又重い身を引き摺りながらようやっと逢瀬に結び付くのは、素敵な御都合主義です。
彼が長く離れる前に残した、本来の名である心太に託した想い。少し耳慣れなかったけれど、薫が剣心に向かって心太と呼ぶ姿は、胸を突くものがありました。
一方で、師匠に貰った名、ずっと呼ばれ続けていた名、それではなく心太に掛けた想いは、中々に複雑だったんじゃなかろうか。
いやだったとかじゃなくて、ずっとそうして欲しかったのかはわからないけれど、初めに親に渡されたものの忘れられるようにして長らく封じられていた名が、時を経て薫に伝えられ、そして剣心に帰って来る。
うあー、なんかこの条は自身の感情が纏まっていないのかとても言い切れそうにないのでもういいです。あ、諦めんなよ!

そんな感じで自分は好ましかったですが果たして正統な幕引きと呼ぶには、どうなんだろうなぁといった印象です。やっぱり、そういう可能性もあるというパラレルの域を出ていない気がする。
出来が悪かったとかそうじゃなくて、全てをそのまま受け入れるには補完ではなく変更が多くて、数センチのずれを重ねて偶然は運命になる、あれ違うよそれじゃ中華一番だ。
らしいとは思う。在り得ると思う。だけども総て、じゃない。だってそれは、なんにだって云える事。


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