
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
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| 2008年04月29日(火) ■ |
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| 僕の人生という名の瓦礫の山。 |
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人の悩みというものは、往々にして矮小である。当事者で無いものが見たらなんて事無かったり、問題点が明確過ぎて灯台下暗しなんてのも。 取り分け自分の属するタイプは、そう捉えるんじゃないだろうか。馬鹿らしいだとか、思わないけど、軽口の一つとして叩く事はありますが、ただ実際、何故そんな事で足を止めるんだろうと言う疑問くらいはあって、それでいて、羨ましくも映る。 何かを思い悩み苦しんだり必死に答えを得ようとしたりする姿は、この心に無いものだからなのか新鮮で、その姿こそが人間があるべき本来のような気もして、いとおしいとかまでは言いませんが。 羨ましいとは、思う。 例えば恋人との関係が非常に複雑なんだと洩らす重たい表情は、完全にふって貰えないからでもあり、微かに繋がる希望だからでもあり、そうまでして縋りたい気持ちは笑い飛ばしたい一方で、一体どんな味がするんだろうとほじくってみたくなる。 例えば恋人未満との付き合いの時点で既に面倒だとぼやきながらも話題には出してみたりデートには誘ってみたりなんやかや気に掛けている節は、振り回されている事すら楽しんでいるようで、それがその人にとっての幸せなら好い事なんだろう。 何一つとして共感出来なくても、情報として、或いはいつかあるかもしれない経験へ向けての蓄積として、話とは面白いものである。そういう態度だと不謹慎だとか不真面目だとか言われるけれど、逆にわかるわかると親身になるよりも吸収しようとする姿の方がより明確ですっきりしてるんじゃなかろうか。 だからと言って一切の悩みが無い訳でも勿論無くて、そんなん余程自分勝手で周囲を見る目が無い証拠、だけどどうせそれもやっぱり、他人が見たらくだらない事の山積み。
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