
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2006年05月21日(日) ■ |
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| 思い思われ思い起こし。 |
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思った、という区切りが自分の頭の中で出て来た時、一種の警報が為される。 そんな時にしか考えないのだから仕方が無いが尚悪く、思ったという形容詞を普段はどのように 心の中で表現しているのか、自分自身に全く答えが無かった。少なくともあからさまに文章の終わり、 そう見せ付けるこんな硬くまだるっこしい事を、既に思っている事の中でいちいち思ったと事実確認を 加える程、暇では無い。要するに、無意味以外のなんでも無い訳です。思った事は、判ってるさ。 大抵そんな文章表現が胸中にさえナチュラルになるのは、小説をどっぷり読んだ後。 媒体はありとあらゆりますが(何語)一週間でも漬けになっていればふつふつ湧いてきます。 ここ数週間はネットでのDB小説探しからハリー・ポッター最新刊に触発された既刊の掻い摘み、 どちらかというと全部読み直したに違いないんですが、兎に角活字注意報が鳴っていました。 注意して読まないとほんの些細な点から伏線が伸びていたりするので、時系列等々確認を含めて。 発症と原因はこんなもんです。重要視すべきは内容で、困った事に悪循環が築かれていく。 まるで話の登場人物宜しくなつもりでいちいちの行動を振り返り、挙句には思った、なんて地の文まで 付け加えて、それに気付いたとてもその時点では認識しただけで対処のしようが無い。 先に述べておけば時が解決してくれるという甚く古典的なものに縋ります。何れ元に戻るので。 がしかし考えている最中は其処に到らない。少なからず動揺を引き起こしているとも。 活字による汚染なんて悪い事では別に無いんですが、そのような状態になっていると自覚した後、 それを表現するにもまだ文章でしか表せない。そもそも心に何かを思うという事自体突き詰めると 不思議で、今考えても普段がどうだったかなんて、考えている時点で普段を思い起こせない無力。 或いは台詞と呼ぶとして硬質なナレーションに移り変わる時、そもそも書き手なのか登場人物なのか。 と思った。と思った。その様にしか表現が出来ない。これを発音出来ず自らの口で言えないのが ナンセンスですが、事実そうとしか現せない。というよりも、己の頭の中で理解する事しか出来ない。 内に思った事を理解した瞬間そのままの形で、外に表し難い。それって致命的とも言えますが。 それはこの際置いといて下さい。なんたって悲しくなるだけです(笑)。笑うしかない。逆を言えば、 それが出来るようになった時、知識か経験か何某か自分の中に一つ増えたという事でしょう。 「と思った。」という形で自らの内情が区切られた時、自らの内々、心の中でさえそういった話の形容で 考えている事実をまた、「と思った。」そう結論付ける。つまり、勝手に一人で台詞に鍵括弧つけて 勝手に地の文を作り、はたと我に帰ってもまた別の地の文で上塗り、と思ったなんて言わずともいい 余分が付随する。既出ですが、別に悪いこっちゃないんです。害は無い。ただ、一人でそんなモードに 陥っているのがこの上なく怪しく限り無く馬鹿みたいなだけです。そうでない時に振り返った際(笑)。 さて、そんなところまでくれば創作意欲は絶好調、波に乗って、何も考えずとも勝手に考えや想いは 文章化され口から手から現れる。常にそうしてはいませんが、文として抽出するのに捻り出すのに 一切、悩む必要ナッシング。暴走モードを経て覚醒モードにでも到った感じです。へー、そう。 そうしたい、と思った時に自由に身の回りや情景、背景を文章に換言する事は出来ますが、 そうしたい、と思わずとも何から何までそうなるんです。そして終盤まで無自覚です。 何故なら気付いた時点でやがてそれらは終わりを告げ、そうでない状態に戻るから。 斬ろうと思ってないものまで斬れてしまうのは一流では無いと何処かの三刀流が申しておりました。 あれ違ったっけ。その先生? それとも対峙していた相手? 記憶あやふやんはいつもの事ですとも。 そうでない状態時には最早それらさえ忘れ、忘れると言うよりも戻ったという明確なスイッチが無い以上 わざわざ振り返ったりもせず、振り返るか同じ事になった時、嗚呼またなったと思うしかない。 そうでない状態だと思ったり、考えている時には既にそれを逸脱しており、また文章化モードやら 他のにチャンネルが合わせられている訳です。思わない事が、そうでないというものなのだから。 ややこしくなってきましたね? そういうこんがらがるような言い回し、大すきです(にっこり)。 それこそお前の表現力が駄馬なんだといわれれば、じゃあそれも味って事でどうか一つ。 不思議な事で、思ったという事を何故わざわざ思ったなんて言わなければならないのだろうか。 なんだか面白くも感じ、面白がっている事が若干阿呆らしくも感じ、それなりに愛着を持っている。 ただあんまり、と思った、と言った、なんて表現が続けられれば飽きます。自己空間でではなく、 読み物、小説、文章化モードに移行する鍵となったもの、現実の書面等々に単調且つありきたりで 作文を始めて書かせた三歳児の現し方を丸々鵜呑みにするようなだけのそんな言葉だけが続けば、 才能無いんじゃないかとか冷たい事思ったり致しますが。特殊な状況下や感触を示す道具に 一定の言葉、名称はいいですが、ずっと同じ単語が使われれば辟易するというものです。 それがその、名称に取り違えてしまう事さえ屡ある、と思った、と言った、にだけ外される理由は無し。 まぁでも実際Aが思いBが言ったのだから、少なくとも話の中では、その表現は間違っていませんし 適切でもあるのでしょうが、要は飽きさせない工夫、自分が満足する為の創意、敢ての事、含めたり 意味を持たせる為の言い回しや繰り返しで無いのなら、と。努力の欠如と言えるのではなんて。 だけどそれこそ、無意識下とも言える事。幼稚に思えても、例え読み手として飽きても、それが 与えられた事実なら、そうなったとしか言いようが有りませんし、書き手がそれに納得したのなら、 それが最良の、その人の頭の中では最良の、表現方法だったという他有りません。推敲不足。うん。 無常に言い放つならばそんなところですが、それさえ可愛いもんだと笑って誰も彼もが許せるだけの、 許すに到るまで腹が立つもんでも有りませんが原稿料を頂く方ならば多少疑いますね、度量があれば きっと全人類は平和を愛し幸福に暮らしている事でしょう。些細って、積み重ね。そういうものが、日常。 目をしばたかせ一体何行目を、どの辺りまでを読んでいたのか空ろな頭から解けて空気中に 染み出してしまう、そんな経験を久々に、自己管理がなっていないだけですがうん、眠りとの狭間で 行える事は、また時折、本当に時折、あれば楽しく触発にも一種、なりうるのではないかなと。 媒体が違うだけでこんなにも、書き方だってそう、言葉一つ変わってしまうものならば、その些事を 計り取れる脳みそや機微が、あってよかったなと、ある人であれてよかったなと、思える豊かさは きっと満点です。但し湧いた頭とも取れるのはミソかな。短所は長所でしかし短所。然り。 眠気さえを堪えて読んでいる時は、既にその時点でもう以後内容をしっかりと把握出来ないだろうと 理解してますから睡魔に身を委ねよと本能の指摘を思いつ、それでも読もうと思う反抗心とか、 途切れて縺れる感触とか、目で追っていたのがどの位置か探る鬼ごっことか、無駄にさえ思えるから 楽しい事は、たまにやるからオツなもの。嗜好品や遊び、退屈凌ぎにもよく似ています。 作品自体に渾身の力を込めているなら作者にとってもその他関係者にとっても無礼失礼という条は 捨て置くとして。大丈夫です。本命とか、初めて読むものに対してそんな事はしません。 没頭はしますが、ちゃんと読みたいので。やるのは大体、何遍かの読み返し中です。 ルールの上で成り立つ遊び心は、するり滑り込んで擽る賜物。さぁ次は、何をして遊ぼうか。
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