道院長の書きたい放題

2002年07月23日(火) ◆武道を考える!

■ 日本武道館に関わる「(古武道と区別される)現代武道」の各団体は、相撲、柔道、空手、合気道、弓道、剣道、銃剣道、薙刀、そして我が少林寺拳法です。この中で、“対人対戦形式の競技種目”として最も尖鋭化した現代武道は柔道であると考えます。

柔道はご承知の通りオリンピック種目であり、同時に国体種目です。他に相撲、空手、剣道、薙刀、弓道、柔剣道もそうです。

国体種目中、最も特殊な武道は弓道で、いわゆる“対人的な強さ”を問題にしません。競技は行われますが、相手は“的”です。対人対戦形式は成立し難い武道です…。

合気道は(一部団体を除き)競技試合を行っていません。その意味で、これも全武道中、非常に特殊なものです。

では少林寺拳法はというと、“団体、単独、相対演武”を採点する競技が行われます。ただし、空手にも団体、単独の型競技部門がありますので、結局、少林寺拳法では“相対演武の競技”が特徴となり、同時に“対人対戦形式の種目を行わない”ことが大きな特徴となります。

■ さて、明治維新の初期、剣術の興行があったと何かの本で読みました。柔道もプロ化の話が一時期あったといいます。スポーツ種目ではボクシング、レスリングが興行を行っています。空手は…伝統空手は興行がありません。フルコンタクト空手はあります。

しかし、この言い方はおかしく、アマチュアのボクシング(連盟)、レスリング(連盟)も当然、興行は行いません。伝統空手(全空連)はむしろ柔道のようにオリンピックに向かい、方向は、国体→アジア大会→世界大会→オリンピックと一貫しています。

興行という点で相撲は非常に特殊で、アマチュアとプロは別組織といえ、興行との関係は不可分の文化的な背景を持って現代に到りました。ですから“大相撲”とは面白い表現で、アマチュアと区別すべき表現を、決して“プロ相撲”と口にしません。しかし近年、世界に普及する際は(“大”抜き)の相撲ルール。アマチュアルールにしました。これは重要な点です。

いずれにせよ、プロ相撲、プロボクシング、プロレスリング、プロ空手、オリンピック(種目となった武道、格闘技)が、スポーツ、格闘技、武術、武道の境を分かり難くしたようです。

さらに古武道を第1世代、現代武道を第2世代とすると、特に徒手格闘技に、第3世代の武道? 例えば、KI、プライドに参加している各種挌闘技が誕生しました。スポーツチャンバラは格技とは異なる新世代ですか…。

一度、きちんと整理する必要があります。

■ 現代武道の特徴は国体参加に象徴される“競技化”であり、その意味で、オリンピックたる競技スポーツと重複する要素があります。いや、この言い方もおかしい!? 柔道はすでに完全なスポーツとなりました。と言うと…講道館に叱られますか…。

さらにもうひとつの特徴は、我が国の武道は一旦“GHQ/アメリカの洗礼を受けた”と考えます。戦前の武道が軍国主義と深く関わってきた所の“主義/精神”を切り離し、スポーツ化としての再出発を余儀なくされたのです。しかし、これは“学校教育への進出”を容易にしました。

スポーツの最大の特徴は安全で無主義であること。したがって、誰にでも楽しめることができます。スポーツ化の功と言えます。

例えば、アマチュアのボクシングルールでは10オンス以下のグローブは使用されません。他にもヘッドギア、ランニング着用。バンテージはプロより短い。なにより3R制で、12R(昔は15R)も闘うプロボクシングに比べ、安全に対する配慮は想像以上です。そうして、気軽に勝敗を楽しむのです。

もっとも、ボクシングはそれでも厳しいです…。また、スポーツ全般に、国家、所属の威信を背負ってしまう場面を多々散見します…。

罪の面として、現代武道の苦しみは競技スポーツの勝敗至上主義に影響されたことにあり、精神性/武の心がおざなりになっている点が指摘されています。

(続く)

*特に資料を確認しないで書きました…。間違いがあれば訂正します。ボクシングルールに関しては、確認しました。



2002年07月15日(月) ◆武道先進国の役目!

「書きたい放題/2002年02月15日(金) 勝手史観!」の中で、先進国の規範ということに触れました。

“先進国”という定義はなんでしょう。それに対しては後進国ではなく、“発展途上国”と表現されますが…先進国たる所以は、彼の国を援助して発展を促し、制度など場合によっては文化にも立ち入って善導するということでしょう。

例えば、女性の性差別など、文化に由来するもの。エイズ、伝染病など、貧困に由来するもの。独裁政治、人権の問題など、国家体制によるものなど…。いずれにせよ、経済問題を含め(善導の)範囲は多岐に渡ります。厄介なのはクジラ、犬などの食文化。…してみると、日本、韓国は先進国ではないのですか(?)

■ 一方で、先進国発信の悪影響も深刻な問題です。核保有・核戦争の問題。武器輸出の問題。あるいは、富の独占などの問題です。また、地球温暖化、森林伐採など、発展途上国と先進国が共に関わる問題も深刻です。テロ問題の遠因というより根本は、先進国が引き起こした「自分さえ良ければ!」というエゴイズムの手痛いしっぺ返しと言えます。

皮肉にも、麻薬問題や児童ポルノ問題などは需要者?と供給者?が貧富の関係で強く結び合っています…。

ともかく、先に核を保有しておいて、後の国が持つことまかりならん! あるいは、他国の資源/木で家を建てておきながら、今になったら、木は切るな!うちは切らん!では、たまったものではありません。しかし少しずつですが、矛盾を解決しようとする意志/良心が働きつつあるようにも見受けられます。

■ 前置きが長くなりましたが、先進国と発展途上国の麻薬の問題に匹敵するのが、最近、テレビで放映される格闘技番組ではなかろうかと考えるようになりました。

昨日の「K1戦」。プライド(総合格闘技)側の選手がK1ルール、打撃技のみに挑戦し、一勝一敗の成績で終わりました。面白かったのは「かつてK1の中で、これほどの野獣性を感じさせる選手がいたでしょうか」と選手紹介したことで、失礼ですが…苦笑してしまいました。

ところが、紹介通り、プライドには野獣性剥き出しのとんでもない試合シーンがありました。それは、両方の選手がお互いの首を持ち合って、一歩も引かずに殴り合うものでした。血がほとばしるそれは技? 根性? 両者、どういう精神状態になっているのでしょう…。

■ 昔、テレビの血の色は黒かった…。今はハイビジョンにより、血そのもの! 

K1では今後、膝蹴り無しのルールを検討中ということです。ただし、石井和義氏によれば「“ブラウンカン・スポーツ”(←造語ですか?)として、膝蹴りを禁止にするとクリンチが少なく、パンチが多用されるのでKO決着となり易く、観ていて面白い」(要旨)というのがその理由らしく、残念ながら“膝蹴りは危険!”ということからではないようです…。

フランス・スポーツ省の判断はキックボクシングの膝蹴りは危険という認識です。当然、プライドルールは認められないでしょう。しかし、フランスは柔道が大変盛んで、武道、格闘技が嫌いな民族ではないようです。この点、先進性を感じます。つまり、国家が武道、格闘技に対して見識を持っていることになるのです。

■ 何年か前、「サカキバラ」を名乗る少年による“生首事件”がありました。その際、青少年の暴力を助長するような表現の漫画、テレビアニメ、ドラマの暴力シーンなどが問題にされました。

なのに…それに勝るとも劣らないシーンが茶の間で放映されています。悪いことに放送機器の発達により、リアルな映像、それの保存、インターネットによる手軽な再生などなど。残酷な場面が永遠?に消えることがないのです…。ノド元過ぎればなんとやら…。今、格闘技番組、特に“プライド”は問題があると考えます。

我が国にも飲酒、喫煙は20歳過ぎ。成人映画の判断は表現の自由の問題があるせよ、18歳という基準があります。放送禁止用語もあります。何故、格闘技に対する放送基準がないのでしょう…? 

この感覚に疎いのは、案外、我が国が“武道の国”であることが災いしているからではないでしょうか…。いかにこの番組、乃至この格闘興行が、本来、武道先進国である日本国民に暴力性を植え付けるか…今後、研究機関できちんと調査する必要があるでしょう。 

■ タイの“ムエタイ”は肘打ち、膝蹴り有りという打撃ルールを発信しました。ブラジルの“ヴァーリートゥードゥ”は目、金的、噛む以外なんでも有りの総合ルールを発信しました。しかし両国は貧困層が多く、残念ながら青少年の生活と直結していたからこそ、発達して来たものなのでした。

先進国がその情報をキャッチして増幅しました。今は、豊かな側の人々がそれを行うのが不思議でなりません。元々、先進国は残酷な格闘技を、例えばグローブを発明したり、人間が傷つかないような安全なルールを考案して発信したのです。ちなみに、サンボに締め技が無いのは人を殺すことを連想するからだそうです。

■ 柔道は締め技こそありますが、当身技を取り除きました。発展の段階で、試合で危険な技を禁止して来ました。日本拳法は自衛隊でも取り入れている総合格闘技型ですが、防具で身を守ります。伝統空手(全空連)は面を付けて寸止めします。一部では行っていますが、合気道は対戦試合を放棄しました。

すべて、先人は武術、格闘技の持っている危険性/暴力性を了解していたのです。言ってみれば、武術を知的格闘技に仕上げたのでした。武の精神を保ちながら、大和の精神を養う。これが日本の文化である“武の道”なのです。

今、少林寺拳法も武道先進国の一員たる自覚を持って、さらに私達の“徳”性を、正しく世界に発信し、且つ、世界の武道人を善導して行こうではありませんか! 



2002年07月11日(木) ◇知的格闘技!

 7日の日曜日、TBS放映『情熱大陸/脅威の頭脳棋士・羽生善治のパリ、チェス決戦』を見ました。たまたま、当日午前中、NHK教育テレビの将棋番組でも、羽生氏の変り種記録を紹介していたのです。NHK杯戦における最大年齢差記録は、「大山(確か65歳だったかな?)対、羽生(18歳)戦」というものでした。

故大山康晴名人は60歳を過ぎてもA級の現役棋士であったという、化け物的な棋士です。一方、羽生氏も、小学生名人になって以来、15歳(中学生)でプロ棋士となり、史上初の7冠王に輝くなどの記録を持つ天才棋士です。ちなみに上の対戦は、羽生氏が勝ち。

■ 将棋は、例えば竜王戦一日制の場合、持ち時間は各自5時間。対局は深夜にまで及ぶ場合があり、それでも千日手などになると、三十分休息の後、指し直しとなるルールです。今回、メジャーリーグのオールスター戦で(選手の健康面を考えて)延長引き分けがありましたが、将棋の場合、100%引き分けがありません。過酷な完全決着方式なのです。

不思議なことに、棋士の中には体力があるようには見受けられない方がいるのです。羽生氏もそうです。将棋でも体力がある方が有利と思います。先程の深夜の再試合などは、明らかに年配棋士にとっては不利ですから…。

またデーターによれば、NHK杯戦のように持ち時間が短く、使い切って一手三十秒になると、「ある種の反射神経が良い若手が有利なのでは…?」と島朗八段がコメントしていた通り、早指し戦では圧倒的に10代、20代棋士の勝率が勝るのだそうです。しかし、特別な条件を除けばそうでもないようです…。

■ 番組中、私が凄いなーと思ったのは、羽生氏が年に一回の貴重な十日間という長期休暇を、趣味であるチェスの世界大会出席の為に費やすことなのです。これには驚きました。

凡人の感覚では、毎日毎日、将棋を指す生活をしていてそんな長期休暇が取れたら、温泉などでのんびり頭を休めたいと思うのです…。しかし羽生さん、フランスの名門チェスクラブ主宰の世界大会に出席して、またまた頭をかきむしっていました。成績は10人中、5位たって…普段チェスの駒なんか握らないでこうですから…凄いです。

伝説のプレーヤと対戦して引き分けに持ち込んだりとか、優勝した選手には勝っても、上位入賞に大事な一戦を12歳の天才少年によって阻まれる、などのドラマがありました。興味深かったのは「将棋は家元制度があったりという伝統文化なんですが、チェスはスポーツなんです」(要約)と表現したことです。ただし、本論では羽生氏の言には触れません…。

確かに、将棋、チェス、あるいは囲碁に代表されるゲームは盤を挟めば年齢、体力、性別などは関係ありません。一緒になって知的格闘を楽しめるのです。その意味ではテレビゲームも同じですが、「ゲームは攻略本があるけれども、囲碁は答えが無い所が面白い!」と、最近の囲碁ブームにコメントを求められたある子供が模範的?な解答をしていました。

私の道場には立派な将棋盤と駒が置いてあります。チェスもあります。少年拳士の中には将棋に興味を示す子供がいて、「先生、練習が終わったら将棋やろう!」とねだってきます。で、飛車角落ち。将棋では二枚落ちと言いますが、「お願いします!」と頭を下げあって対戦します。

■ 憎しみを発生させないで、勝敗を楽しむ。これがスポーツであり、将棋、チェス、カードなどのゲーム/知的格闘技の醍醐味です。ですから、例えば将棋にお金を賭けると一転します。ゲームから“賭け事”になり、優れた徳性が失われます。

羽生氏の今回のチェス大会は当然自費ですし、勝っても賞金など出ません。仕事(同じような将棋?ですが)を離れ、静かに知的格闘技を楽しむ羽生氏の精神的、肉体的タフさに驚嘆しました。

どなたか、チェスしません?




2002年07月08日(月) ◆(続)鬼(技)!を考える

 考えてみれば、鬼のような酷い仕打ちに対して「人でなし!」と言うところに、問題の本質があります。人であって人ではない…。しかし、「佛」も「ひとにあらず」と書きます。同じ人間でも片や仏に、片や鬼となるのです。その境はどこにあるのでしょう…。

■ 山口県で起きた「母子殺人事件」の被害者の夫。善良な市民である彼は、「…司法が裁かないのなら、私がこの手で“殺す”!」と言い切りました。もし、法律が整備されていない時代であったなら、彼は一夜にして本当の鬼となって、地の果てまで犯人を追い続けたでしょうね…。

おりしも、間もなく「スターウォーズ・エピソード2」が上映されます。以前、掲示板でもこの問答を行いましたが、今回、アナキン・スカイウォーカーが何故、暗黒面に落ちたのかが明らかになるといいます。どうなるのでしょう…。

■ 最近、久しぶりに?武道・格闘技関係の本を読みましたら…驚きました。『船木誠勝・リアル護身術』には随所に“噛む”という言葉/反撃技が書かれてあるのです。「そうかなー?」と以前の護身術関係の書を調べましたら…中には金的や目に対する攻撃の記載はありました。けれども、噛むという行為はありませんでした。

また、船木氏の金的や目に対する攻撃内容は、噛むことに劣らず大変厳しいものです。あれでは潰れてしまいます! どちらも…。しかし、これだけ防御の立場である護身術の反撃技が厳しいということは、攻撃技、攻撃者が予想を上回るほどの暴力的な進歩?を遂げたということなのでしょう。

■ 子供の頃、プロレスがありました。元々ボクシングの国から来た格闘ショーなのに、ボクシングを売り物にするレスラーはいなかったと記憶しています。ですから、打撃技である空手(チョップ)の出現は新鮮でした。また、噛み技専門?のブラッシーと力道山の闘いは流血につぐ流血で、お年寄りが心臓麻痺を起こして死亡したとかしないとか…。しかし、プロレスはまだショーと分かって観ていました。

高校生の頃、キックボクシングがテレビに登場しました。極真館がフルコンタクト空手を提唱し、これもマスコミで取り上げられ始めました。いずれも、ボクシングに代わる真剣勝負の打撃試合でした。

過去のない現在はありません。マスメデアの発達に伴い、競技スポーツ、武術、格闘技、アマ、プロ、様々な立場、あるいは国が「強さ」を追求して入り乱れ、それがだんだんと積み重なって、ついには90年代アメリカで行われたアルティメット大会(金的、目、噛む以外なんでもあり)で先祖返りを果たしたのでした。

もっとも、ブラジルではそれ以前から“ヴァーリートゥードゥ”という試合が行われていて、『木村政彦/わが柔道』の文中には、「…グローブをはめず、素手で殴り合うから、眼に二、三発もろに食らったら最後だ。肘打ちで直撃されて眼球が半分とび出し、救急車で病院に運び込まれた例は数え切れないほどあるそうだ。だから、会場の入り口にはいつも救急車が二台、待機していた」(昭和34年頃?)と自身の死闘の話と共に、その実態が語られています。

■ ボクシングが素手の拳闘から安全なグローブファイトになったというのに、ヨーロッパではボクシング自体を禁止にしている国があります。また、フランスでは暴力的であるという理由で、今回、K1パリ大会で“膝蹴り有り”なら公共施設を貸さないという話になったといいます。K1はすでに肘打ちは禁止です。

鬼の世界に通じる道…。

開祖はご法話で、こんなことを言われたことがあります。「私は君達に教えていないことが、まだまだ沢山あるのだよ」(要旨)。それを聞いていた聴講生一同、古い先生方も含め「へー!」と驚いたものです。多分、鬼技があったのでしょう。あの当時での修行ですから、素手、及び武器で人間をどうこうできる技を先生は沢山知っており、その上で人間完成の行に相応しい技とそうでない技を取捨選択されたのです。 

今、武技・武道の価値観の多様さで、少林寺拳法の修行が難しくなっていると考えられます。いっそうの警戒が必要です。我々の在り方に誇りを持って、先生が捨て去った(鬼の)世界がよみがえらない様にしたいものです。



2002年07月05日(金) ◆鬼(技)!を考える

修行中に現れる鬼を退治しましょう!

■「鬼!」というのは恐いという意味で、世間一般では「鬼のような○○!」と使用されます。

“鬼婆”“鬼軍曹”は、人あるいは役に対して付けられる形容です。“鬼のような仕打ち”は読んで字の如く酷い仕打ちのこと、行為を形容します。釣りでは、針に掛けた魚を絶対捕る仕掛けを“鬼仕掛け”といい、将棋では、妙手、名手に対して“鬼手”なる言葉/指し手があります。確かお酒で“鬼殺し”という商標がありましたが、この意味は分かりません…。

面白いのは鬼に“神”がつくことで、これは“鬼神”となり、いままでの意味とは少し異なるようです。戦場では人を殺します…。ですから、戦場でとてつもなく強い武人は敵にとっては鬼ですが、味方にとっては神のように映ります。複雑ですね…。

人間の心の中には鬼が棲むと言います。本当かな…!? 

■「卍/まんじ」を、表と裏に分けるから分からなくなります。…と思います。つまり、少林寺では道場などで(意識で認識するため)便宜上、正面に二つに飾るから分かれてしまうのです。人間の理性の、実はそこが落とし穴ではないでしょうか…。

仮に卍がそのように左に回っているとして、それをお互いが向かい合って見詰め合うとしましょう。私の側から見る卍と、反対側の人から見る卍は違いますね。向こうからは逆回り、つまり“同一の物”が裏卍に見える訳です。

私はそういう非判別的な相反する世界を心の問題も含め、「卍/まんじの世界」と表現します。

■ 戦争と平和は卍の世界の時間差的な変形です。共産主義世界と資本主義世界という相異なる世界の存在は、空間的な卍の世界の変形です。

門下生を指導していると、彼等の出来ない技の動作に私の技が出来るヒントがあることを経験します。ひとつの卍の世界の自覚です。また、武道、武技は人造りの手段ではありますが、用い方により凶器となります。残念ながら、武道の卍の世界です…。

■ 善悪を縦の線とか横の線では表現できません。拳士が「卍(の世界)」を胸に着ける意義は、(従来の意味に加え)人間の生命が続く限り、善性を発動しなければならないことを表現しているのです。表卍を善の世界としてここに止まり、武道人として行ってはならない“人と鬼との境界”があることを認識する為に着けるのです。

少林寺拳法の鬼技は「シャクルこと!」「挫くこと!」「折ること!」―以上は柔法で、利かない相手についつい仕掛けたくなります。

剛法では「打ち砕くこと!」「流血させること!」。特に乱捕りでは、「壊しを意識した肘受け」「壊しを意識した膝受け」「ノックアウト!」「激昂すること」―以上は拳士の心を喪失した行為です。

卍を胸に着ける資格がありません…!





2002年07月01日(月) ◆受け、技有り!ワールドカップから

 熱狂のうちに、昨日30日、サッカー・ワールドカップが終了しました。この歴史的なイベントの最終舞台が横浜であったことは、ハマッ子の一人としてまことに感慨深いです。本大会については色々と述べられていますが、私は少林寺の拳士として、「守り」という視点から述べてみたいと思います。

■ 決勝におけるブラジルとドイツの攻防は本当に見応えがありました。ブラジルは“攻撃のサッカー”と喧伝されていましたが、あにはからんや、他チームとの対戦でハットトリックを達成したドイツの選手は、ブラジルの守りを「固かった!」と評しました。

攻防一体と言います。特に、サッカーのような団体競技は守りが固いと攻撃に専念できます。結果、攻撃力が増します。“守りのチーム”と言われたドイツも、カーン選手の存在によって予選リーグでは8点も奪った試合がありました。

カーン選手の、両手を広げてガニ股で前進する防御スタイルを真似すると、少年拳士達は「先生、怪しい!」と大喜び?します。「少林寺拳法と同じなんだよ」と説明すると、「…???」返事が返ってきます。

彼の防御構えは股下がガラ空きです。しかし“気”で押されるのか、その構えで前に出てこられると、相手は吸い込まれるように作られた隙にシュートしてしまいす。多分、シュート直前の選手からすると、あの姿は数倍の大きさとなって目の前に立ちはだかるのでしょう。前半のロナウド選手は明らかに気圧されていました。

■「書きたい放題/2001年11月07日(水) 布陣法/構えについて! 」の中で、「一字構えは中段の攻撃、主に回蹴りに強い構えです。ですから、中野先生は仁王拳においてやや前屈、上段を誘うが如くの構えをとります。」と書きました。実はこれは、「気の先」といわれる“気構え”があって成立するもので、通常拳士が行うような単に待つ、誘う構え/守りではないのです。

剣道では、気で押していって相手が堪え切れずに打ってくるところを打つと言います。以前、日本空手協会の大会をテレビで見ました。こちらの大会は全空連のように面を付けず、素面で試合します。もちろん寸止めですが、拳サポーターは無し。真剣勝負の匂いが漂います。解説者はしきりに「気で詰めて行く!」と言い、確かに堪え切れずに打って出てしまう選手に対して、「対の先」「後の先(受け手を伴う)」の返し技を決めていました。

もっとも、海外の大会では文化の違い?でしょうか、気のせめぎ合いという妙味が理解されないようで、ピョンピョンと外人選手にフットワークで間合いを外されていましたが…。

ともかく、股下に対してシュートを放つことは前述の話と同様、カーン選手にとっては思う壺で、一瞬に閉じてブロックしてしまいます。まさに、彼にとっては必勝のパターンです。つまり一番守り易いのです。どうです! 少林寺拳法と呼吸が同じですね!

■ 個人的に守りについては、『七人の侍/黒澤明監督』の中で、志村喬、扮する老武士が、「城をただ守るだけではダメだ。一箇所、隙を作り、そこに敵を誘い込んで攻めるのだ!」(要約)というセリフが印象深いです。で、野武士が襲って来ると作戦通り柵を開き、誘い入れて闘います。あの老武士の、「一騎、通ーすぞー!」という声と、村人とノブセリの泥臭い戦闘シーンが記憶に残っています…。

さて、今回の大会では2対0でブラジルが勝ちましたが、ロナウド選手とカーン選手に関しては、私はカーン選手の守りが勝ったと思います。攻撃点のみが得点されるからで、もし防御点が加点されたら、(確か5回シュートしたから)3対2でカーン選手の勝ちでしょう。他にも野球でいう、「一点に匹敵する守り/受け、技有り」が随所にあったからです。

できれば、ロナウドとカーンが一対一になって、あの股下を“抜けるや否や!?”という真の盾と矛の激突を観たかったですね!


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あつみ [MAIL]