道院長の書きたい放題

2002年08月15日(木) 【切り抜き/8月15日付・読売社説】

 [終戦の日]「歴史をすなおに見直したい」

 【国際法上は五十周年】

 今年も、戦没者追悼の日を迎えた。政府主催の追悼式典は、四十一回目となる。

 戦後五十七年になるのに、なぜ四十一回なのか。一九五二年四月二十八日にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が国家主権・独立を回復するまで、連合国軍総司令部(GHQ)が日本に戦没者を追悼することも許さなかったのが一因だ。

 八月十五日は「終戦の日」とされている。だが、国際法上の「終戦の日」は、講和条約発効の日である。それまでの日本はGHQによる占領行政下にあったのだ、という歴史の実態を改めて思い起こしたい。

 これは、現行憲法についても言えることである。

 四七年五月三日に憲法が施行されたはずの後も、GHQは言論・出版への厳しい検閲を継続していた。憲法の中核的原理である「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第二一条)は施行されていなかったのだ。

 その意味では、今年こそが実質的な憲法施行五十周年である。

 四五年八月十五日には、まだ、日ソ中立条約を破ったソ連が、千島列島から北方領土へと侵攻を継続していた。

 そのソ連が、極東国際軍事裁判(東京裁判)の検事席、判事席にいて日本を裁いていたというのは、実に矛盾した構図である。しかも、日本将兵ら数十万人の連行・シベリアでの酷使という、明白な国際法違反が「同時進行中」である状況下でのことだった。

 他方で、東京裁判中は、英、仏、蘭によるアジアへの再侵略も「同時進行中」だった。オランダ軍がインドネシア独立軍と停戦協定を結んだのは、東京裁判終了の翌四九年である。ベトナム北部のディエンビエンフーでフランス軍が降伏したのは、五四年になってのことだ。

 第二次大戦で、日本はアジア「諸国」を侵略したわけではない。当時の東アジアには、中国、タイのほかは、米、英、仏、蘭などの植民地しかなかった。大戦突入以前からの日中戦争の継続局面を除けば、日本はこれら「欧米諸国の領土」に侵攻した、という戦争である。

【東京裁判の再点検を】

 この点について、東京裁判のインド代表・パル判事は、欧米諸国には帝国主義行動の歴史に照らして日本を裁く資格はないとし、被告全員を無罪とした。しかし、「パル判決書」は、日本が国家主権を回復するまで、GHQにより報道も出版も禁じられていた。

 日本とドイツを同列に並べるというのも間違いであろう。

 ナチスドイツは、戦争そのものとは別の次元で、思想的・組織的・計画的にユダヤ人絶滅政策を推進した。ホロコーストのための組織運営は、時には軍事作戦上の都合よりも優先された。

 日本の戦争行動にも、さまざまな蛮行が伴ったが、特定民族を絶滅しようと図ったことはない。ドイツの「人道に対する罪」とは根本的に異なる点である。

 だからといって、当時の日本の指導者たちになんの責任もない、ということにはならない。日本を無謀な戦争に引きずり込んだという意味では、A級戦犯とされた人たちは、「A級戦争責任者」だったといえるだろう。

【平和祈る戦没者追悼】

 ともあれ、GHQの言論コントロールの下で進められた東京裁判の「文明の裁き」史観を、改めて再点検してみる時期ではないだろうか。東京裁判史観にとらわれている人たちは、しばしば、“日本一国性悪説”的な自虐史観に陥ってしまっている。

 いわゆる“従軍慰安婦”問題は、その典型だ。戦時勤労動員だった女子挺身(ていしん)隊を“慰安婦狩り”のための制度だったかのように歴史を捏造(ねつぞう)した一部新聞のキャンペーンなどは、自虐史観の極みというべきだろう。

 ドイツは、占領地で将兵の慰安施設用に、国家的、強制的な“女性狩り”をしていた。しかし、ユダヤ民族絶滅政策の暴虐があまりもの巨大悪だったために、“女性狩り”問題は相対的に不問に付され、ドイツの指導者も国民も、そんなことはなかったような顔をしている。

 自虐史観派はそうした歴史的事実をも見ないふりをして、「ドイツに比べ反省が足りない」などと論じている。

 二十一世紀に入ってから、日本の国家としてのアイデンティティーをめぐる論議が活発になっている。その論議のためにも、アジアにおける近代史の実態、そうした時代環境を踏まえた上での日本の近・現代史、さらには戦後史を虚心に洗い直してみることが必要だろう。

 現在の日本では、これは決して、戦前のような軍国主義への回帰を志向することなどにはならない。それは日本国民の大多数がよく知っている。

 日本は、平和な国際環境と自由な通商体制なしには、国民の豊かな生活を維持できない国だ。

 戦没者追悼の祈りは、それを再確認することに意義がある。



2002年08月02日(金) ◆(続)武道を考える!二つの武

 手元に以前に読みました一冊の本、題名『「武」の漢字「文」の漢字/藤堂明保』があります。今「書きたい放題」を始めて、改めて“武”の字義に関する解釈が興味深く、紹介して前論に続けます。

■ 著者は本文の中で武について、「…“止”本来の意味は、あくまであし(趾ということであった)。してみると、“武”というのは“戈(武器)をもって、止(あし)で進むこと”、つまり妨害をおかし、困難を切り開いて、荒々しくつき進むことを表しているのである。」と説明しています。確かに武にはその面があります。

信長の「天下布武」の武などは、正にそうしたものでしょう。歴史のページにおいて、もし彼が非業の死を遂げなかったら、中世日本の変革はどのように成されたか非常に興味があります。しかし同時に、上述の武の限界を見る思いもします…。

後継者となった秀吉は、上杉、毛利、長宗我部等、信長の敵対勢力を政権内に取り込み、あの足利義昭にさえ一万石を与えていたといいます。(NHK『その時歴史が動いた/本能寺の変』で放映)。つまり彼は、武力討伐ではなく「愛撫統一」で天下を手中に収めたのです。反面、朝鮮出兵を決行していますので…秀吉の武は良く分かりません。それにしても信長であったら、敵対勢力は必ず滅ぼし尽くされていたでしょう。秀吉、家康でさえ無事であったかどうか…。

その家康になると、「元和偃武(1615年)=武を庫に納める」と宣言します。家康は晩年、豊臣打倒の為にずいぶんとエゲツナイ策を講じますが、それでも、彼の子孫等による政権は秀吉のように他国を侵略せず、世界に例の無い長期の平和時代を築きました。最後の将軍・慶喜にしても好戦的な人物ではなかったようですし、家康の武は「平和目的の為の使用」であったと評価されましょう。

■ 戦国の世が終焉し、平和となった世に荒々しい武は収まり、醸成され、『葉隠れ/1716年』に象徴される武士道精神が生まれました。武が洗練されたのです。日本ではまだ軍事的領域に止まっていた武が、江戸期になり、ようやく文化的領域たる“武の道”に到達したのです。宮本武蔵/『五輪書』や柳生宗矩/『兵法家伝書』等の達人は、個人や流派の武技からそれに辿りついた偉大な先駆者であったのです…。

さらに太平の世となって、尚武の気風を保つ為に、例えば、庄内藩では武士達に磯釣りが奨励されたといいます。軍事教練?でもある訳ですから、釣果より、どこそこの荒磯に行った!ということが重要だったようです。各地に残るお祭りにもその片鱗がうかがい知れます。相馬藩の野馬追い祭りなどは、同様の意図が分かりやすい例と言えましょう。

具体的な個人の武は武芸十八般(馬術、槍術、剣術、弓術、抜刀術、薙刀術、 短刀術、砲術、手裏剣術、十手術、捕手術、棒術、 鎖鎌術、含針術、もじり術、柔術、水泳術、忍術)として修練されましたが、修行/修業形態はおおよそ、現在に伝承される古武術と現代武道に近いものであったと想像します。

当時、すでに武士の役割は単なる戦闘要員ではなく、極めて現代の社会人/会社員?と共通する部分があり、実戦と離れた、上述した祭りのような、ある種、武のスポーツ化があったと考えられるからです。

■ ところが幕末になると、武は血なまぐさい上述の武・武術に逆戻りします。我が国はこれ以後、太平洋戦争終戦まで度重なる実戦を経験します。ですから現代武道の中で、最も実際の戦闘に近い武道が剣道と銃剣道なのです。言い方が悪いかもしれませんが…人を切る、突く、殺す感触、手応えを残している武道といえます。逆に、実戦から最も早く遠ざかった武道は、弓道、薙刀(注:現連盟は“なぎなた”と表記)といえましょう…。

明治期になり、富国強兵政策と合致した武・武道は、特に剣術においては、明治3年の庶民の帯刀禁止令、明治9年の廃刀令により衰退の兆候を表したものの、大日本武徳会の設立(明治28年。尚、講道館は明治15年発足)により再び隆盛になります。ただし、剣術は西南戦争(明治10年)により、白兵戦時の威力が再認識されたといいます…。

同じく白兵戦時の銃剣道は明治27年、純日本式の教典が制定され、大正13年、大日本武徳会の剣道部の一科目として公認され、その後、独立の科目となりました。

明治期以後の武道は(洋式の)軍国主義、及び天皇制と関わったことが大きな特徴と考えます。元々、集団的な武は軍事力とその運用法ですから、武士からなる藩という個々の単位は軍事国家であり、前者はその度合いが強く出ただけといえます。ただし、近代的装備の軍隊は殺傷力が飛躍的に強くなっていました…。

もうひとつの特徴は、武道が国家神道と結びついたことで、これは軍隊の統帥権が天皇にあることに関連し、武なるが故に、結果、武道人が極めて天皇制と強く結びついたことになりました。ちなみに、初の天覧試合は昭和4年に行われています…。(続く)

■ 主な参考書籍

『「武」の漢字「文」の漢字/藤堂明保』〜徳間書店〜

『武道秘伝書/吉田豊編』〜徳間書店〜

『武士道/奈良本辰也・新渡戸稲造』〜三笠書房〜

『講道館柔道』〜講道館〜

『嘉納治五郎著作集』〜五月書房〜

『日本武道際/日本武道館編』

『日本武道館開館20周年記念誌/日本武道館編』

『国家と宗教…国家神道を考える…/田邊眞裕・大阪高槻道院長』


 < 過去  INDEX  未来 >


あつみ [MAIL]