ちむたんのつぶやき
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昨日の午後くらいから体調が落ち着いてきて、自分の中で「あ、もう大丈夫そう」という感じがしました。 腰が痛いので久々にコルセット着用ですが…。
月曜は会社を休んだと書きましたが、火曜・水曜もつらかったです。会社で座って仕事をしていても、なんかこうどうにもいてもたってもいられない気分だったので、帰りは気晴らしにひと駅歩いてみたりしてました。
今日は実家にいかないので、しばらくぶりにスーパー銭湯に行って汗をかいてみようと思います。土日は近場でのんびりお花見でもしようっと。
チャーちゃんのお茶会の連絡がきました。何を着ていこうかしら(といって大したおしゃれもしませんが、きっと)。 セリーグも本日開幕です。ヨネノくんが使ってもらえますようにと祈っておきます。
ずっと車酔いが続いているような感じで、頭痛・立ちくらみ・めまい・腹痛にしくしくと攻め立てられております。 熱が出るわけでも、ほんとうに吐いたりおなかがこわれるというわけでもなく、はっきりいたしません。 月曜日は気持ちわるくて起き上がれず、会社を休んでしまいました。 ほぼ一日寝てましたが、そうすると今度は腰が痛くなってしまって…とほほ。
季節の変わり目は仕方ないのかなあ。 前にも書いた覚えがありますが、こういうときってどのお医者さんにかかればいいんでしょうかねえ。 とりあえず、先月血液検査をしてもらって結果を聞きにいけてない婦人科に行ってくるか…。
週ナカのお休みは大好きです。基本的にハッピーマンデーはあまりうれしくないと思うわたくし…。仕事は詰まるし。 3連休を増やしたからってみんなが旅行にいったりしてお金遣うかというと、微妙な感じがするんですが。
今日は次兄が内野タダ券をくれたのでひさびさに神宮球場に行くつもりでしたが、あえなく雨天中止。やっぱり雨女か。 仕方がないので、ここしばらくの懸案事項を解決するため神楽坂に出かけました。 さてその懸案事項とは。話せば長くなりますが。
わたくし、実家と自宅を往復する生活を長年続けてまいりまして、恥ずかしながら基本的に自宅では全く炊事をしていなかったんですね。週末にめったにいないから買い物ができなーい、というのを理由にして、平日はコンビニなどで買って帰るか外食して帰るかのどちらかで、お料理は一切しておりませんでした。 しかし父がいなくなり、実家でごはんを作る機会が今後ほとんどなくなることが予想される今、このままでは私は一生料理をしなくなってしまう、と思いまして。 外食や買い弁にもいいかげん飽きましたし、健康面でもよくないし。 というわけで、3週間ばかり前から自炊をしています。朝は弱いので夕食だけですけど、野菜が摂りやすいし量も調節できるし、なかなかいい感じです。
なんせ醤油もなかったくらいなので、必要なものを少しずつ揃えていっています。ここしばらく、暖かいと思ったら急に冷えたりするので、温かいめん類(うどんやにゅうめん)が食べたいなー、と思って作るのですが…
どんぶりがない。
仕方なく、相棒が学生の頃?にミスタードーナツでもらったシリアルボウルによそったりしていますが、なんとも味気ない。量が入らないので途中でおかわりするのも面倒だし。 近所のスーパーでテキトーなものを買ってしまったら、ずっとそれを使い続けなくてはならなくなるので、早いとこどこかで気に入ったどんぶりを見つけなくては!とずっと思っていたわけですね。 書いていてどんどん恥ずかしくなってきましたが。
デパートで扱っているようなものは素敵だけどお高くて、普段使いにするにはもったいないので、いわゆる瀬戸物屋さんのような感じのお店で探したかったのですが、最近その手のお店は減ってるんですかね。地元では見つからず、イメージ頼りで神楽坂まで行きました。 お店はありましたが気に入ったものがなく、結局築地まで足を伸ばしてようやく買えました。 これでどんぶり物やめん類が気軽に作れます。
あと汁椀がほしいんですよね…。 器に凝るほどゆとりのある暮らしではありませんが、あまりちゃちなのを使うのもさびしいので、ちょっとずつ揃えていこうと思っています。
土日は熱海にいってまいりました。 雨女ジンクス返上!と言いたくなるほどの好天に恵まれ、例によって外をうろうろ歩き回っていたら日焼けしてしまいました。
この季節の熱海は初めてだったのですが、梅はそろそろ終わりかけ(それでも今年は1月が寒かったので長めに咲いてたそうです)、そしてそして街じゅういたるところに桜が! さすがに染井吉野はまだですが、河津桜や寒桜なのかな?季節感が狂うほどの見事な咲きっぷりでした。今年は二回お花見ができそうです。
三度目にして初めて、街中をたっぷり歩き回りました。熱海は、古い建物好きの私と相棒にはストレートど真ん中に好みな街ですね。
泊まったのは伊豆山のヴィラ・デル・ソル。 紀伊徳川家の侯爵が明治時代に東京に建てた図書館「南葵文庫」の建物を移築し、ホテルとして使用しているのです。 以前父と来たホテルニューさがみやのまるっきりお隣だったのに、その存在にまるで気づいてませんでした。
ロビーやレストランのある本館は上に書いたとおり、クラシックで素敵な洋館。 宿泊棟となっている別館は白を基調にした、飾り気のないモダンな建物。 渡り廊下で行き来して、両方の魅力が味わえます。
お部屋のアメニティは充実していて、寝具やタオルケットやスリッパはふかふかでいい匂いがするし、目の前は青い青い相模湾。窓が大きく取られていて明るい。 そして、真下に有料道路が通っているにもかかわらずすごく静かで、異世界に来ているような感覚を味わえました。
でも、一番おすすめしたいポイントは断固、お食事です!!!!
わたくし、さっぱりうんちくは語れませんが、ここのお食事はすさまじいです。もちろん褒め言葉として。ひと皿ごとに鋭利な刀で斬り付けてこられるような迫力を感じました。 とか書くとなにやら恐ろしげですが、違うんですよう。それほど美味しいって言いたいんですよう。
普段食べてるものとは食材の生まれ育ちが違い、その上、作り手の格と気合いが違う…みたいな気がします。 たかが食べ物にそんなにお金と手間をかけてもったいない、と言ってしまえばまことにぜいたく極まりないことではありますが、ごくたまにこういう極上のお料理をいただいて非日常的な衝撃をうけるのも、いいことなのではないかと思います。 ほんとに、夕食も朝食も涙がでるくらい美味しかったです。
サービスも親切で丁寧で感じがよく、すばらしいひとときを過ごさせていただけました。
また行きたい。でも少なくとも1年以上経ってからでないとなんかもったいない。 そういう気分です。
今回の宿選びのコンセプトは、前回の日記にも書きましたとおり「父には絶対ウケないお宿」でした。 帰ってきて考えるに、微妙かも。ひょっとしたらウケちゃうかも(爆笑)
いやでもお風呂が遠いな。裏山の上のほうにある姉妹旅館のお風呂まで石段をかなり長いこと登ってゆくので、父にはとてもムリだったでしょう。 温泉をあきらめれば、ホテルのお風呂もユニットバスながら快適なのでいいんですけどね。実際、お部屋の居心地があまりに良いので、外のお風呂には一度しか行きませんでしたし。
あとお食事そのものはきっと口に合った(というよりむしろ喜んだだろう、特に朝食)と思うのですが、ゆっくり時間をかけてお食事を楽しむ雰囲気なので、せっかちな父は我慢してくれなかったでしょうね。夕食に3時間かかりましたから。
そんな話を相棒としながら、風に舞い散る桜の花びらになんとなく涙を誘われながら、ちょっと久し振りの旅を満喫してきたのでした。
土日で温泉にいってきます。
長年「温泉チーム」としていろんなところへ旅行してきた父と私と相棒ですが、父を欠いての初めての旅立ちです。 お正月に、3月頃暖かくなったらまたどこかへ行こうと父が言うので、今までこのメンツでは行ったことのない房総半島にしようか、なんて話をしていました。宿もおおよそ当たりをつけて、あとは予約するばかりでいたんですが、今となってはもうかなわぬ夢です。
かくして、今回の宿選びのコンセプトは「父には絶対ウケないお宿」(笑) こじゃれたお部屋と気取ったお料理、しかもお風呂は建物の外、石段をながながと上がってゆくらしいです。ああ、ウケない要素てんこ盛り。 父とのかずかずの旅路をしのびながら、楽しんできたいと思います。
亡くなった父が叙位・叙勲の対象になっているので、遺族が受け取りにくるようにと連絡があり、今日私が行ってきました。
父は法曹関係の仕事をしていた国家公務員でしたが、大学は出ておらず、最終的な職に就くまでにちょっとイレギュラーな道を辿りました。もちろん父はたいへんな努力をしてその地位を得たのですが、東大その他あまたの有名国立大学出身の同僚たちの中で、商業学校卒であることが父にとって誇りであり、コンプレックスでもあったように思います。 父が就いていた職は、70歳になると叙位・叙勲をうけられるはずなのですが、父の場合在職年数が不足ということで、対象外でした。
春と秋の叙勲のとき、新聞にずらっと名前が載りますよね。新聞をひろげて、同期のかたがたの名前が載っているのを(そして自分の名前はないのを)確かめ、さびしそうにしていた様子をよく覚えています。 しきたりとかならわしとか、そういう感じの堅いことはどちらかというと煩わしがるほうだと思っていたので、けっこう意外でした。
うすうす予測しており、決まりとして当然のこととわかってもいたでしょうが、実際にそうなってみると、年数が短いとはいえ同じ職にあって一生懸命働いてきたのに…と複雑な気持ちにならずにはいられなかったのでしょう。 もしかしたら、長年抱いてきた学歴コンプレックスに整理をつける最後のチャンスだったのかもしれません。
それから13年。 父は、亡くなったことによってようやく勲章を受ける資格を得たのですね。この世にもういないということ以外、父の身の上にはなんの変化もないのに。 簡単に調べた限りでは、もし88歳まで生きていたらその時点でもらえたようですが。 つくづく不思議な制度です。
正直なところ生きてるうちにもらえたらよかったよね、と兄たちとも話しました。 次兄によると「俺が死んだらもらえるはずだよ」と父は言っていたそうです。
冗談で「“これを生前に頂けていたら、父がどんなに喜んだことか…!”とか言って泣き伏してこようかな」と言いながら出かけました。 応接室に通され、伝達式の次第の説明を受けてしばらく待つあいだ、机の上に置かれていた父の略歴を眺めていたら、在職当時仕事が大変そうで悩んでいた様子や、退職後に聞かせてくれた思い出話などがたくさんよみがえり、目頭が熱くなってきて困りました。 式に臨んだ私の目はおそらく真っ赤だったと思います。花粉症とでも思ってもらえていればいいのですが。
位記と勲章を受け取り、挨拶をして外に出ました。
おとうさん、勲章がもらえたよ。よかったね。 うれしい?
必死にこらえていた涙があふれ、しばらく止められませんでした。
四十九日の法事を父の生まれ故郷でやったので、前日の土曜から泊まりがけで行って、母の生家があった場所を訪れたり、名物のかつ丼を食べたり、路線バスに乗って町をぐるっと回ったり、やりたい放題遊んできました(笑)。
母の生家はだいぶ昔に壊してしまって今は空き地になっているのですが、門柱が一本と表札がぽつんと残っていて驚きました。母はこの状態を見たのかなあ。
日曜は上天気。この時季、突然雪が降ったりすることもままあるので心配していましたが、とても良い日になってよかったです。 父方の親戚はわりと陽気な人が多いので、会食では昔話などが弾み、母の法事のときより賑やかでした。
で、そこで聞いた、うちの両親が結婚したいきさつ。
娘に生まれたからには、母親に一度は聞きますわな。「お父さんとどうやって知り合って結婚したの?」みたいなことを。 私ももちろん尋ねましたが、母が「お見合いよ。あの頃恋愛結婚なんてないわよ」としらっと答えたので、完全にそれを信じ切っておりました。時代も時代だし(結婚は昭和27年)、そういうもんなんだろうな、でもちょっとつまんないな、とか思って。
ところがどっこい。 両親は、進駐軍のキャンプに勤めていて知り合ったのでした。父は通訳、母はタイピスト。
母は、お医者さんだった父親を早くに亡くしたものの、町では名の通った家のお嬢さんでした。叔母(父の妹)とは女学校が一年違いで、在学当時から知り合いだったのですが、上で書いた母の生家の庭はそれは見事なものだったそうです。 そんなお嬢さんが、嫁入り前とはいえなぜ進駐軍でタイピストなどしていたかというと、それはひとえに太平洋戦争のせい。 戦後の農地改革で、地代収入に頼っていた母の生家の暮らしは非常に苦しくなってしまったのでした。 母の兄二人はお医者さんになりましたし、母の姉たちは地元の女学校から東京の学校に進んだので、母も家が豊かなら当然同じ進路になったのでしょうが、残念ながらその頃にはもうゆとりがなく、女学校を卒業した母は働かねばならなかったのですね。
そこで、父と知り合ったと。 当時の父はたいそうモテて、一緒に歩いてる相手が毎回違ってる、といわれていたほどだったとか。叔母はよく女性からラブレターを預かって父に渡していたそうです。 まあ確かに昔の写真を見るとなかなかバタくさいハンサムなので、お嬢さん育ちの母はイチコロ(死語)だったのでしょうなあ。 そういえば、両親が昔話をしていて、当時母の同僚だったというある女の人の名前が出ると、母がなんとなくイヤな顔をしていたような記憶がおぼろげにあります。今にして思えば恋敵だったのかもしれません。
母が一方的に熱をあげたというわけでもなかったようで、父は母の実家へ結婚の申込みにいくことになりました。
ところが、今とはやっぱり時代が違う。 父の家はごく普通の商家だったので、父方の祖母(祖父は亡くなっていました)は、お医者さんの家からお嫁さんをもらうなんて家柄が違って不幸のもとだと大反対。 それでも申込みを敢行した父に対し、母方の祖母はやはり「娘は医者でなければお嫁にやれません」ときっぱり断ったのだそうです。 断られた父の落胆ぶりといったらなくて、叔母に「俺はもう一生独身でいる」としょげていたとか。生前の父の学歴コンプレックスはたいそう強いものでしたが、原因はこのへんにあったのでしょうね。
そこで破談になっても不思議はなかったのでしょうが、どうも母はただのおとなしいお嬢さんではなかったらしく。 なんと、父の下宿に転がり込んで押しかけ女房になってしまったのでした!
しかもその事態の露見のしかたがまたふるっていて。 ある日父方の祖母が、留守中に下宿にやってきて父の帰りを待っていたところ、母が「ただいまー」と帰ってきたのだそうです。 仰天した祖母は母に向かって「とにかくあなたは家にお帰りなさい」と諭し、帰宅した父をこっぴどく叱ったのち、こうなってしまった以上はもう結婚させるしかないと腹をくくって母の実家に頭を下げにいったのでした。 母方の祖母もさすがに承知するしかなく、昭和27年4月15日、めでたく結婚の運びとなり、翌年10月には長兄が生まれました。 そして平成7年2月17日に母が亡くなるまで、ずっと一緒にいたわけです。
…しかし、祖母ふたりの心中、察するに余りあります……明治の女は気骨があった(涙)。父方の祖母は私が生まれるだいぶ前に、母方の祖母は私が生後4ヶ月のときに亡くなってしまいましたが、元気だったらぜひ当時の話を聞きたかったです。
まあ当時の父が27歳、母が21歳くらい。若かったんだなあ(遠い目)。
そんな大騒ぎまでして一緒になったわりには、しょっちゅうケンカしてた夫婦でした。 長兄が小さい頃、母はしばしばプチ家出みたいなのをしてたそうですし、一時期は本気で離婚を考えたこともあったようです。 私もたしか高校生くらいのとき、母に「結婚なんてすることないわよ」とシリアスな顔で言われたことがありました。 そんなふうに書くと母がわがままだったようですが、父も強烈でした。 いったん怒り出すと手がつけられないという感じで怖かったので、とにかく怒らせないようにつとめていた少女時代でありました。母を亡くしたあたりからはずいぶん穏やかになりましたが、それでも怒らせるとおっかないので、一緒に旅行にいくときなんかは常に顔色を窺っていました。
要するに二人ともキャラが濃くて熱かったんですな。ひるがえって自分の薄さに唖然といたします。とてもかなわない(笑)。
っていうか、娘にそういう大事なことでウソつくなよ母!
まあきっと照れと、もしかしたら後悔もあったのでしょう。 でも、私の記憶のなかにたくさん残っている母の姿が、父と結婚したことを悔やんでいるだけではないと語ってくれているように思います。 人生は幸福ばかりでも、不幸ばかりでもないのだから。
私が知っている両親は、人生の後半にさしかかりそれなりに落ち着いてきていたのですね、たぶん。 が、こうして若い日の話を聞くと、父母それぞれに歴史があり、私と同じように迷ったり悩んだり失敗したりしながら生きてきたのだなあ、としみじみと思うのでした。
いつか両親に再会できたら、結婚のいきさつについて父が黙っていたこと、母がウソをついたこと、それぞれに対してじっくり問い詰めたいと思います(笑)。
姪2号が無事志望校に合格しました。めでたい。
先日、四十九日の法事のことで長兄(姪2号の父)に確認電話をしたついでに「入試どうだったの?」と訊ねたらなんとも微妙に言葉を濁していた(近くに本人がいたのか?)ので、失敗したのかなーと心配してました。 合格発表後に聞いたところ、数学で失敗しちゃったらしいです。試験当日に帰宅したときは真っ暗だったそうで。
でもまあ、問題が難しかったのなら彼女だけができないってことはあまり考えられないわけで、きっと他の子もできなかったんでしょう。仮にビリに近くても、合格してしまえばこっちのものだし。
と、自分自身も高校入試の数学で100点満点で50点を取り(図形の合同を証明する問題がまるで解けなかった)、たしか400人中300番台半ばくらいでやっと合格し、入学してすぐの担任との面接で「どんなバカが来るのかと思った」といわれた過去を持つ叔母は思うのでした(笑)
それでなくても悲しい法事に、受験に失敗した姪2号が暗い顔で現れたら悲しさ二乗なので、本当によかったです。9日に会ったとき、お祝いにほしいものを訊くので考えておくようにとメールしておきました。
昨日は、父が自筆でのこした遺言状の検認をしてもらうため、きょうだい揃って実家の町の家庭裁判所にいってきました。 検認済みの証明書が来月あたりに発行されたら、いよいよ相続の具体的な手続をはじめることになるようです。
父が亡くなってからひと月半、週末に実家に通っては少しずつ片付けをしてきました。 空き家になってしまった実家の玄関を開けるたび、戸締りをして帰るたび、両親を失った悲しみは増幅されてゆきます。 でも早くきちんとしないと家も庭ももっと傷んで荒れてしまう、特にこの先夏が来れば…という焦りと、悲しくて思うように手が動かないつらさとに苛まれる辛い日々がずっと続いていました。
前にも書いたように、父の遺言に従って家は私が相続することになるのですが、今後どうするかは性急に決めてしまわず、少なくとも一周忌まではこのままにしてゆっくり考えてみたらどう?と兄たちから勧められました。
両親がはじめて建てた一軒家。きょうだいの中で、この家で暮らしたことがあるのは私だけです。 母はここで息を引き取り、父も最期に家を離れたのはほんの数日間だけでした。私にとって実家は、両親と切り離して考えることはできない存在なのです。
両親の死に対する思いが全く整理できずにいる以上、家をどうするかも今すぐ決められるわけがないのに。 そんな簡単なことさえもわからないほど混乱していたんだと、兄たちの言葉で気付きました。いえ、正確に言うなら兄たちの言葉を聞いてから一日経った今、この文章を書きながらようやく気付いたという感じです。兄たちと話していたときは、家の話題になると涙を抑えるのに必死だったので。
両親を慕ってきたように、この家に思いをかけてもいい。 いつか、両親を思う気持ちが悲しみ一色だけではなくなる時が来たら、この家に新たな役割を与えるのか、それとも別れを告げるのか、きっと決められる。
今は、そう考えていようと思います。
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