ATFの戦争映画観戦記



【File130】男たちの硫黄島・・・コし咳卆顕嫉隆韻脇鹽戰魯(星条旗)を揚げる?【後編】

2007年01月27日(土)

前編から続きます・・・今まで謎だった通信兵の正体が、レイモンド・ジェイコブズ氏であると言う事が明らかになったのですが、それによって新たなる謎が私ATFの前に立ちはだかる事になろうとは(何かいつものパターンだよなぁ)・・・それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【前編に引き続き当書き込み記事にも資料的価値は一切ありません・・・(^o^;A】

【ルイス・シャーロ一等兵は、本当にそこに居たのか?】
ローリー軍曹の写真の中で唯一官姓名が不詳だったジェイコブズ通信兵の身元が明らかになった事で、新たな謎・・・疑問が沸き起こって来ました・・・それは現在の合衆国海兵隊における公式解釈によって最初の星条旗掲揚者とされている5名の海兵隊員中、旗竿の先端近くを支えているルイス・C・シャーロ一等兵の存在についての問題でした。前回の観戦記にも書きましたがルイス・C・シャーロ一等兵は、最初に摺鉢山に登頂したワトソン軍曹指揮下の偵察隊の一人でした。しかし元通信兵レイモンド・ジェイコブズ氏はシャーロ一等兵はシュリアー中尉の強行偵察小隊には同行していない・・・とはっきり証言しているのです。シャーロ一等兵はジェイコブズ通信兵と同じくF中隊に所属し、二人は旧知の中でした。そのジェイコブズ通信兵が、シャーロ一等兵は最初の星条旗掲揚の場には明らかに居なかった・・・と証言しているのです。これは非常に興味深い証言です。明らかに合衆国海兵隊における公式解釈が誤っていると指摘しているのですから。確かにシュリアー中尉指揮下の強行偵察小隊に、F中隊所属のBAR銃手であるシャーロ一等兵が配属されたと言う可能性は全く無いとは言い切れませんが、明らかに不自然であると思われます。この点について、ローリー軍曹が撮影した他の写真を基にして検証して見ましょう。以下の写真は星条旗掲揚直後に撮影された写真と思われる一枚です・・・この写真では8名の海兵隊員が確認出来ますが、写真中央に写っている人物(緑○)公式解釈に基づく各海兵隊員たちの立ち位置からすると、シャーロ一等兵である思われる人物です・・・・・・ところが続いて撮影されたと思われる写真では、シャーロ一等兵だと思われた(緑○)の人物は、実は二人の人物で、旗竿を支えているのは計4名であったと言う事が判明しました。そしてこの写真を、更に詳しく分析して見ると・・・シャーロ一等兵だと思われた人物はブローニング自動小銃ではなく、明らかにM1ガーランド小銃を持っている・・・と言う事が判別出来ます。そして何よりもシャーロ一等兵と比べて、写真の人物は頭部の輪郭が明らかに異なります。それじゃ〜この海兵隊員は一体誰なのか・・・米国内のサイトにおいても、明確にこの人物の正体を特定している資料は発見出来ませんでした。ただジェイコブズ氏や第三小隊の他の生存者の証言により、この人物はフィル・ウォード一等兵ではないか・・・と仮定しているサイトを幾つか見る事は出来ました。ウォード一等兵は生還し、ジェイムズ・ブラッドリー著『硫黄島の星条旗』の中にも登場しており、取材を受けて幾つか証言していますが、最初の星条旗掲揚については何も話をしていません。

しかし何故シャーロ一等兵は、最初の星条旗掲揚者として誤認されたのでしょうか・・・そして現在に至っても、何故誤認は修正されていないのでしょうか・・・謎は深まるばかりです。

※一説によれば、マイケル・マンスフィールド下院議員(モンタナ州選出/元駐日大使/ローゼンソールの写真の星条旗掲揚者たちを、第七次戦時国債募集のキャラクターに登用する事を提案した人物)が、摺鉢山に最初に登頂したワトソン軍曹の偵察隊に関するニュースとシュリヤー中尉の強行偵察小隊のニュースを同じものと勘違い・・・その時点で、シャーロ一等兵がシュリアー中尉の強行偵察小隊に同行していた、と誤って報告されたのではないか・・・との事でした。

【海軍衛生下士官は二度ハタ(星条旗)を揚げる?】
さて、シャーロ一等兵は最初の星条旗掲揚の場には居なかった・・・という疑問点を確認して見ましたが、ここで新たに旗竿を支えている第四の人物の存在が明らかとなり・・・更なる謎・・・疑問点が沸き起こりました。果たして、この人物は誰なのでしょうか?・・・この点を検証する上で、ローリー軍曹が撮影した写真の一枚が新たに登場します。ローリー軍曹は、星条旗掲揚の決定的瞬間は撮影していませんが、実は掲揚直前の写真を撮影しています・・・その写真には旗竿を支えている第四の人物の後ろ姿が明確に写し出されていました!この写真を詳細に観察する事よって、その人物は明らかに他の一般海兵隊員とは異なる装備を装着している事が確認出来るのです・・・そう、この人物は何を隠そう海軍衛生下士官だと思われるのです!この人物は、他の海兵隊員とは異なり、左右の腰付近に大きなバック状の装備を提げています・・・このバックには包帯・絆創膏・安全ピン・ピンセット・サルファ剤(ペニシリン消毒薬)・モルヒネシレット(即効性麻酔薬)・止血帯布・ガーゼ・止血鉗子等が収納されています。さて海軍衛生下士官と言われて直ぐに思い浮かぶ人物は・・・それは誰あろう第二の星条旗掲揚者の一人ジョン・ブラッドリー海軍三等看護兵曹・・・その人なのですよ。この事については、米国内の幾つかサイトにおいても記述されている事が確認出来ました。これって凄い発見・・・衝撃の事実だと思いませんか?何とローゼンソールの写真によって超有名になってしまった、第二の星条旗掲揚者の一人であるジョン・ブラッドリーが、実は最初の星条旗掲揚にも関わっていた・・・なんて凄いなぁ!・・・おい、ちょっと待ちな・・・シュリアー中尉指揮下の強行偵察小隊の隊員の中には、海軍衛生下士官はブラッドリー一人だけしかいなかったのかよ?【ATFの寝惚けた頭の上で天の声が囁きます】・・・う〜ん、確かにそうなんですよ・・・前述の米国内のサイトでは、この海軍衛生下士官がブラッドリーだと説明されてはいるんですけど、この狢召乏し咳卆顕嫉隆韻呂い覆ったのか?と言う疑問点については、どこも言及出来ていませんでした。実際ジェイムズ・ブラッドリー著『硫黄島の星条旗』の文中には、ブラッドリーの同僚の海軍衛生下士官としてクリフォード・ラングリー他数名の海軍衛生下士官が登場しています。しかし彼らの何れも最初の星条旗掲揚については言及していません。これでは話が先に進めないので、仮にこの海軍衛生下士官がブラッドリーであると仮定して話を進めてみたいと思います。因みに映画『父親たちの星条旗』におけるライアン・フィリップ演じる爛献腑・ブラッドリーの画像です。米国内の幾つもの硫黄島戦関連のサイトを探して見ましたが、ブラッドリーの野戦戦闘服姿の写真は発見出来ませんでした・・・まぁ発見出来たとしても、ローリー軍曹の写真中で、この海軍衛生下士官について明瞭に顔の輪郭を判別出来る写真も無いのですが・・・。最後に残された手段・・・ローゼンソールの第二の星条旗掲揚写真中のブラッドリーの姿と比較して見ましたが、明確にブラッドリーであると断言出来ませんでした。
米国内の硫黄島関連サイトの中には、ジェイコブズ氏や他の第三小隊の生存者たちが、この写真の人物がブラッドリー海軍衛生下士官である可能性が高いと証言している、と記されていました。しかし実際に星条旗を掲揚した最後の生存者であるリンドバーグ氏は、この点については否定も肯定もせず沈黙している様です。ジェイコブズ氏は、2005年2月にサンフランシスコで開催された硫黄島戦友会の会場において『硫黄島の星条旗』の著者であるジェイムズ・ブラッドリー氏と会い、その時この牾し咳卆顕嫉隆院瓮献腑・ブラッドリー畧を話し、その後ブラッドリー氏に対し写真や関連資料を送ったそうですが・・・ブラッドリー氏は、ジェイコブズ氏の資料の内容については今だ検討中との事で、現在まで公式な場での発言は行っていない様です・・・。

【ローリー軍曹の写真に見る、その他の男たち】
さてジェイコブズ氏は、ローリー軍曹の星条旗掲揚写真の中の男たちについては、他にも修正が必要であると証言しています。それらの修正点は、ローリー軍曹の他の写真によっても確認出来るので、ここでご紹介しておきます。まずは【写真上】ローリー軍曹の星条旗掲揚写真の修正前と思われる写真。【写真下】同じくローリー軍曹の星条旗掲揚写真に続いて撮影されたと思われる写真。・・・この二枚の写真からは、ハンセン軍曹とジェイコブズ通信兵の背後(写真左下)にもう一人【海兵A】が・・・そして写真下からは、リンドバーグ伍長の背後に更にもう一人【海兵B】の姿を確認する事が出来ます。そして【各写真】ローリー軍曹の星条旗掲揚写真の撮影直前あるいは直後に撮影されたと思われる写真。・・・からは、まずジェイコブズ通信兵の足下にしゃがみ込んで無線の受話器で話をする人物【海兵C】が確認出来ます。ジェイコブズ氏は、この人物【海兵C】こそ強行偵察小隊長のシュリアー中尉だ、と証言しています・・・ジェイコブズ通信兵は小隊長付の通信兵なので、この証言は、まず間違いないと思われます・・・現に第二大隊の記録によれば、星条旗掲揚直後に大隊長ジョンソン中佐とシュリアー中尉との間で無線の交信が行われている(この直後に日本兵の攻撃が起こった)、と記録されている事も、この人物【海兵C】がシュリアー中尉である事の裏付けしています。
右側の写真の中で、ブラッドレーではないかと思われる人物の足の間に背中が確認出来る人物【海兵D】・・・ローリー軍曹の星条旗掲揚写真の各人物の立ち位置からして、この人物はジェームズ・マイクルズ一等兵であると思われます。また下中央(赤枠左)の写真では【海兵A】の姿を明瞭に確認出来ました。

【最初の星条旗掲揚の現場に居合わせた男たち】
以上これまでに明白なった、或は推定される各事項からローリー軍曹の写真における8名の海兵隊員及び海軍衛生下士官の立ち位置を想定して見ました。更に未検証ながら、米国内の硫黄島関連サイト中で発見された二人の人物・・・【海兵A】及び【海兵B】の氏名を基に・・・私ATFの想像(妄想?)の味付けをして・・・1945年2月23日午前10時20分・・・摺鉢山の山頂に最初の星条旗が掲揚された時に旗竿の周囲に居て、ルイス・ローリー軍曹の撮影した複数の写真に写っていた男たちを特定して見ました・・・。

ご存知の通りジョン・ブラッドレーは、戦後この硫黄島での体験を「忘れてしまった」と言って殆んど語る事はありませんでした。47年間に及んだ結婚生活の中でも、ブラッドレーがこの事を語ったのは妻のベティに対してだけ・・・しかも最初のデートの時の一度きりでした。そして家族の中では、この話をする事はタブーにすらなっていました。1985年になって一度だけ、ブラッドレーは自らの思い出を語りますが、これはどうしても孫たちの為に話してほしいという妻の強い願いに応えた為でした。ジョン・ブラッドレーは、硫黄島での戦いの中でラルフ・イグナトウスキー(1945年3月4日戦死・・・1945年3月8日遺体発見)を始め多くの戦友を失い、また自らも重傷を負い、更に帰国後は星条旗掲揚者の生き残り=英雄として第七次戦時国債募集ツアーに従事させられて、大きな精神的な苦痛を味わいました。また彼は、同じく星条旗掲揚者の生き残り=英雄という重圧に押し潰されてしまったアイラ・ヘイズの悲劇や、その後の人生の道を踏み誤ったレイニー・ギャグノンの最後も知っています。そんな彼が自分は最初の星条旗掲揚にも関わっていた・・・と新たに証言する事によってふたつの星条旗掲揚に関わった史上希に見る英雄として再び歴史の表舞台に担ぎ出され、より大きな精神的な苦痛を味わうかもしれない・・・事を自ら望むでしょうか?またこれは私ATFの妄想ですが・・・ブラッドレーは最初の星条旗の掲揚には関わったが、第二の星条旗の掲揚には関わっておらず、実は第二の星条旗を掲揚したのは別の海軍衛生下士官(その後戦死した・・・)だった・・・のかも。そんな理由の為に・・・彼は生涯を通して星条旗の掲揚に関する話をしなかったのではないか・・・なんて激しく妄想してしまいます。結局ジョン・ブラッドレーは、真実を明らかにする事なく墓の中まで持って行ってしまいました。
リンドバーグ氏やジェイコブズ氏、そして1945年2月23日に摺鉢山の山頂で星条旗の掲揚を、間近で目撃した海兵隊員たちの幾人かは現在も存命していますが、60年と言う歳月を経て彼らの記憶も薄れつつあります・・・彼らは硫黄島で命を落とした戦友たちの思い出と共に、真実を棺の中に持って行くつもりかもしれません。合衆国海兵隊が、未だ最初の星条旗掲揚者としてのルイス・シャーロの存在を修正しないのは、誤りを修正する事によってジョン・ブラッドレーに関する真実や、その他まだ公表されていない新事実と複雑に絡み合った人間関係に至るまでの全てを今更ながら穿り返し、硫黄島戦の年老いたベテランたちの思い出まで壊しかねない事に躊躇しているからかも知れません・・・ね。

硫黄島に上陸した海兵第28連隊麾下チャンドラー・ジョンソン中佐の指揮した第二大隊1,688名の内、戦死及び戦傷者は1,511名(89.5%)・・・実に9割近い損害を出しています・・・硫黄島占領後に島から生還した177名の内91名は戦闘中に何らかの傷を負いながらも戦闘に継続して参加していました。そして大隊長ジョンソン中佐自身は1945年3月3日に戦死しています。デイヴ・セヴェランス大尉が率いたE中隊310名の内、戦死及び戦傷者は260名(83.9%)・・・第三小隊ではフィル・ウォード、グレイディ・ダイス、ハロルド・ケラー、ジェイムズ・ブキャナン、ジェームス・マイケルズの5名のみが、自らの脚で歩いて硫黄島を後にする事が出来ました。またシュリアー中尉の指揮下で摺鉢山に登った強行偵察小隊の42名中、36名がその後の戦闘で死傷しました。またローゼンソールが第二の星条旗掲揚写真の撮影後に写した爛ンホウ畆命臣罎房未辰討い18名中14名が死傷しています。第二次世界大戦中、合衆国軍兵士に対して与えられた議会名誉勲章は全部で353個・・・その中海兵隊には84個・・・更に硫黄島戦従軍者には27個・・・実に海兵隊員の議会名誉勲章受章者の3名に1名が、硫黄島での戦闘に従軍した海兵隊員と言う事になります。

ヘンリー・ハンセン軍曹/1945年3月1日戦死
ルイス・シャーロ一等兵/1945年3月2日戦死
アーネスト・トーマス小隊先任軍曹/1945年3月3日戦死
ハロルド・シュリアー中尉(退役海兵大佐)/1971年6月3日死去
ジェームズ・マイクルズ/1982年1月17日死去
ルイス・ローリー/1987年4月15日死去


最後にルイス・ローリー軍曹が撮影した最初の星条旗掲揚写真の別アングルをご紹介させていただきます。海兵隊員たちが仰ぎ見る先には、力強く翻る星条旗が・・・ローゼンソールの写真には、とても敵わないかも知れませんが、星条旗掲揚の模様としては、この写真の構図の方が至極自然体で、私ATFは非常に気に入っています。そして写真家トーマス・E・フランクリンが2001年9月11日の同時多発テロ時、崩壊したWTC世界貿易センタービルの廃墟(グラウンド・ゼロ)で撮影し『グラウンド・ゼロ・スピリット』と言うタイトルで発表した・・・廃墟に星条旗を掲揚するNY市の消防士たちの姿です・・・56年前に摺鉢山の山頂に星条旗を掲げたアメリカ人たちの精神は、今もアメリカ人の不屈の精神の象徴として受け継がれている・・・と言う事でしょうか。

今回の観戦記は如何でしたでしょうか?実に参考にしたサイトの90%以上が米国内の硫黄島関連サイトと言う、国文科出身の私ATFにとっては、針の莚の上に座って執筆している様で全く無謀なもの・・・お陰で誤釈・誤変換は多数・・・そして相変らず睡魔と戦いながらの執筆でしたので誤字・脱字も、更に多数と思われます(滝汗。摺鉢山の第二の星条旗掲揚者の最後の生き残りだったジョン・ブラッドリーが、実は最初の星条旗の掲揚にも関わっていた・・・かも知れないと言う突拍子もない仮説の検証?を試みた観戦記でしたが、歴史に誤りは付き物です。軍ヲタ物好きの大ホラ話としてでも結構ですから、観戦武官諸士の記憶の底に留めていただければ執筆者としては幸いです!【これはオマケですけど・・・続きます】


【File129】男たちの硫黄島・・・こし咳卆顕嫉隆韻脇鹽戰魯(星条旗)を揚げる?【前編】

2007年01月26日(金)

イーストウッド監督による『Letters from Iwo Jima/硫黄島からの手紙』は、先週2007年1月15日(日本時間1月16日)に開催された第64回ゴールデングローブ賞授賞式において最優秀外国語作品賞を受賞、そして今週23日(日本時間24日)発表された第79回アカデミー賞の各賞候補作品の発表において、作品賞、監督賞、脚本賞、音響編集賞の四部門においてノミネートされました(日本語による作品が作品賞候補になったのはアカデミー史上初めて/残念ながら当初囁かれていた渡辺謙の主演男優賞候補、二宮和也の助演男優賞候補へのノミネートはありませんでしたが)・・・これは戦争映画ファンとっては誠に喜ばしい事なんですが・・・でも待って下さいな・・・イーストウッド監督の硫黄島二部作として製作された『父親たちの星条旗』は一体どうなったんでしょうか?残念ながら全く気配すらありません(悲・・・仕方無いので『Letters from Iwo Jima/硫黄島からの手紙』のアカデミー賞受賞を祈念しつつ、今回も早速観戦記を始めさせていただきます。今回は『父親たちの星条旗』の映画・原作ともに全く触れられていなかった狷罩に挑みます。毎度毎度、書込字数制限に苦しめられておりますが、今回は頑張って最初から前後二回分をまとめて書き上げましたよ!一応これにて観戦記『男たちの硫黄島/父親たちの星条旗編』は終了です。それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつも以上に当書き込み記事には資料的価値は一切ありません・・・(^o^;A】

【摺鉢山の山頂に星条旗は翻ったが・・・】
1945年2月23日午前10時20分・・・シュリアー中尉指揮する強行偵察小隊によって、日本の歴史上2600年間で始めて日本古来の領土に外国の国旗・・・星条旗が翻りました。しかしその時、強行偵察小隊に同行していた海兵隊広報誌レザーネック・マガジンの従軍カメラマン、ルイス・ローリー軍曹が星条旗掲揚場面として撮影した写真は、ローゼンソールが撮影した様な躍動感漲る決定的瞬間写真ではありませんでした・・・残念ながら2枚の星条旗掲揚写真(左:ローゼンソール撮影/右:ローリー撮影)を比較して見ても明らかだと思いますが、ローゼンタールの写真は、見様によっては如何にも抵抗激しい敵弾飛び交う中で星条旗が掲揚されている・・・迫力満点な写真であるのに比べ、反対にローリー軍曹の写真は、構図の手前で海兵隊員がカービン銃を構え、周囲を警戒してドラマ性を盛り上げている(言い様によっては、これもヤラセ写真なんですけどね・・・まぁ細かい事はさて置き)とは言え、他に写っている海兵隊員の様子が、如何にものんびりとして緊迫感がありません。私ATF的には、もしこの2枚の写真が米国内で同時に公表され、ローゼンソールの写真が第二の星条旗だと紹介されても、軍配はロ−ゼンソールの方に上がりそうな気がするのですが・・・如何なものでしょうか?

さて、ジェイムズ・ブラッドレー著『硫黄島の星条旗』の中の記述によれば・・・山頂に星条旗が翻った後に日本兵の小規模な反撃が起こった・・・と言う事になっています。しかし幾つかの米国内のサイトの記述によれば、日本兵の反撃は星条旗掲揚前に起こった出来事・・・とされているのですが、実際史実はどうだったのでしょうか?少数の日本兵による反撃の模様は・・・最初に飛び出して来た日本兵は、海兵隊員のハロルド・ケラーが射殺・・・次の日本兵を同じく海兵隊員ジェームズ(チック)ロブソンが射殺・・・更に怒り狂った日本軍将校が、折れた軍刀を振りかざしながら突っ込んできた様ですが、星条旗に近づく直前に射殺された・・・そうです。また無人と思われていた幾つかの洞窟陣地から手榴弾が飛んで来た為に、海兵隊員たちは素早く遮蔽物の陰に身を隠すと、今度は自分たちの手榴弾を洞窟目掛けて投げ返し、そして手榴弾の爆発が静まるやいなや、今度は洞窟を火炎放射器で焼き払いました・・・結局この小規模な銃撃戦は十数分間続いた様です。この戦闘における海兵隊側の唯一の負傷者はルイス・ローリー軍曹で、日本軍手榴弾の爆発を避けようとして足を踏み外し、山の斜面を20〜30フィートほど転がり落ちたそうですが、幸いにも軽い打撲症・・・またカメラは破損しながら、幸運にもフィルムは無事だったそうです・・・この事からも日本兵の反撃は、最初の星条旗が掲揚された直後の事だと推定されます。

【写真】星条旗の掲揚直後、周囲の不穏な雰囲気に一部の海兵隊員たちが気付いた・・・って言う風なキャプションが付けれそうな写真。
【写真上】日本軍の攻撃に対し散開し、反撃に移る海兵隊員たちの緊迫したショット・・・写真右端の海兵隊員はヘルメットを被ってないのでハンク・ハンセン軍曹と思われる。【写真下】上陸海岸側の斜面において、カービン銃で日本兵に射撃を加える海兵隊員・・・山頂での戦闘が続く最中も、海岸では続々と兵員・兵器・物資の揚陸が続けられていた。
【写真上】日本軍の攻撃を撃退し、星条旗の周囲でホッと一息吐く海兵隊員たち。【写真下】摺鉢山の旧火口側からの日本兵の攻撃を警戒する海兵隊員たち。

実は後に判明(戦利記念品目当てで洞窟内に入った海兵隊員が発見)した事ですが、山頂に星条旗が掲揚された時点では、シュリアー中尉指揮の強行偵察小隊42名の約4倍以上・・・200名近い・・・の日本兵が、摺鉢山山頂付近の地下陣地の中で生存していた様です。しかしこれら日本兵たちは、反撃する事もなく地下陣地内で手榴弾によって集団で自決していました・・・この状況は『硫黄島からの手紙』でも描かれていました・・・これらの集団自決は、米軍の攻撃によって上級指揮官(将校)の多くが戦死し、組織的な統制を失った中で突発的に引き起こされた集団自決ではないかと思われます。山頂での小規模な戦闘が終了した後、摺鉢山には海兵隊の増援部隊が送り込まれ、山腹や山麓での日本軍陣地の掃討戦が数時間以上も続けられました。

【写真上】摺鉢山の中腹で日本兵の掃討戦を行う海兵隊員たち。写真左上の山頂付近に海兵隊員と星条旗らしき物が確認出来る。【写真下】星条旗が翻る山頂近くの斜面で日本軍陣地の捜索を行う海兵隊員たち・・・ハンドトーキー型無線機で本部と交信する分隊長(?)の右肩横に開いているのは日本軍陣地の銃眼だろうか?海兵隊員が小銃に着剣しているのが興味深い・・・陣地から飛び出てくる日本兵との白兵戦を想定しているのだろうか?

摺鉢山の山頂に送られた海兵隊の後続部隊には、米国内のマスコミ各社の従軍報道班員たちが同行を許されていました。既にご存知の通りローゼンソール一行もその中に含まれていた訳ですが、彼らは1945年2月23日の正午頃に山頂に到達・・・早速カメラマンたちは写真を撮影し始め、記者たちは頂上にいる海兵隊員たち相手に取材を開始しました。そんな中シュリアー中尉の指揮の下、星条旗の交換作業が黙々と行われていた訳です。

【写真】摺鉢山山頂に到達し、最初の星条旗の下でポーズを取って記念撮影するローゼンソール他の従軍報道班員たち。

【硫黄島の三番目の星条旗の掲揚】
摺鉢山の山頂に星条旗が掲揚されてから19日後・・・硫黄島での戦闘も終盤となり、日本軍総指揮官栗林忠道中将が残存兵力による最後の攻撃を決断し、歩兵第145連隊長池田増雄大佐に軍旗の焼却を命じた1945年3月14日・・・その日の午前9時30分、硫黄島に上陸した三個海兵師団他を統括する第5水陸両用軍団司令部において、硫黄島における三番目の星条旗の掲揚が行われました・・・遠征軍総指揮官リッチモンド・K・ターナー海軍中将、硫黄島派遣部隊総指揮官ホーランド・M・スミス海兵中将、第5水陸両用軍団司令官ハリー・シュミット海兵少将、第3海兵師団長グレーブス・B・エルキンス海兵少将、第4海兵師団長クリフトン・B・ケーツ海兵少将、第5海兵師団長ケラー・E・ロッキー海兵少将ら米軍首脳が参列する中、ディビス・スタッフォード海軍大佐によって太平洋方面最高司令官チェスター・W・ニミッツ海軍元帥の猯臆島の占領と軍政の開始を告げる宣言が代読された後、第5水陸両用軍団司令部前の旗竿に、第三の星条旗が厳かに掲揚されると、参列した将兵が一斉に敬礼を捧げました・・・そして、それまで摺鉢山の山頂に翻っていた第二の星条旗は、その役目を終えて静かに降ろされました・・・米軍が硫黄島の完全占領を公式に宣言したのは、それから更に二日後の1945年3月16日午後6時の事でした。

【写真】第5水陸両用軍団司令部の旗竿に翻る第三の星条旗に対し、一斉に敬礼する米軍兵士たち。彼方に摺鉢山が聳える。

【最初の星条旗を掲揚した男たち】
さて、ここからが今度こそ話の核心です(本当ですよ!)・・・『父親たちの星条旗』では、殆んど重要ではなかった最初の星条旗を掲揚した男たちについてのお話です。まずは今までの公式解釈に基づく、ローリー軍曹の写真における各海兵隊員たちの立ち位置をご覧下さい。この写真には7名の人物が写っているのが確認出来ますが、その内で官姓名が明確に特定出来ていたのは6名だけです。ハンセン軍曹の左横に立っている通信機を背負った海兵隊員については、長い間その官姓名が不詳でした。しかしそれ以前に、このローリー軍曹の写真自体が、ローゼンソールの第二の星条旗写真が余りにも有名になり過ぎた為に、余り注目されずにいたのも、また事実です。その為、最初の星条旗掲揚に立ち会い、ローリー軍曹の写真に写っているチャールズ・W・リンドバーグ伍長は、戦後長い間「私は摺鉢山の星条旗掲揚に立ち会ったと言っても、周囲から散々嘘つき呼ばわりされ、禄な事がなかった」と述べています。当時まだ24歳だったリンドバーグ伍長ですが、既にガダルカナルとブーゲンビルでの戦闘を経験したベテランと呼べる海兵隊員で、1945年2月23日にはシュリアー中尉の強行偵察小隊所属する火炎放射器兵として摺鉢山に登り、最初の星条旗掲揚に関わりますが、その6日後の1945年3月1日に、硫黄島北戦区で日本軍陣地掃討中、迫撃砲弾片を右腕に受ける重傷を負い後送されます。その後硫黄島での英雄的行動と負傷に対して銀星章と名誉戦傷章を授けられています。そんな真の英雄であるリンドバーグ伍長ですら、戦後長年「嘘つき」呼ばわりされ続け、結局ニクソン大統領やクリントン大統領と面会を果たし、1996年にワシントンの硫黄島記念碑の落成に招待されるまで、公式には、摺鉢山上の最初の星条旗掲揚者と言う名誉を認められなかった訳です(2006年現在リンドバーグ氏は84歳で、星条旗掲揚者の最後の生き残り・・・とされています)

摺鉢山の山頂で撮影されたチャールズ・リンドバーグ伍長の雄姿。
現在(2006年)のチャールズ・リンドバーグ氏。
※ルイス・ローリー氏は晩年、自らが撮影した星条旗関連の写真の版権を全てリンドバーグ氏に譲っています。

くどい様ですが、ローリー軍曹が撮影した写真の中には、星条旗掲揚の決定的瞬間を写した写真はありません。しかし2005年に硫黄島戦60周年を記念して、新たに修正された海兵隊公式戦史に基づき、星条旗掲揚の瞬間を描いた戦争画が製作されました。この戦争画にはチャールズ・リンドバーグ伍長の姿がしっかりと描き込まれています・・・画面左下の氏名不詳の海兵隊員は、多分ローリー軍曹の写真においてカービン銃を構えているジェームズ・マイクルズ一等兵に間違いないと思われますが、画面右側の半身だけ描かれた海兵隊員は一体誰なんでしょうか?

【忘れられていた最初の星条旗を掲揚した男たち】
前述の通り、ローリー軍曹の写真に写っていた海兵隊員たち・・・最初の星条旗を掲揚した男たち・・・については、合衆国内でも長年殆んど注目されませんでした。実は1945年2月25日・・・星条旗掲揚の二日後に、ターナー提督やスミス海兵中将の座乗した上陸作戦総指揮艦エルドラド(AGC11)の艦上で、最初の星条旗を掲揚した海兵隊員の一人アーネスト・トーマス小隊先任軍曹に対し、CBSのドン・プライヤー記者が、星条旗掲揚の状況についてのインタビューを行っていたのですが、ローゼンソールの写真の影響力の大きさからか、このインタビューは歴史の闇の中で黙殺されてしまった様です・・・結局ローリー軍曹の写真が公の場で発表されるのは、太平洋戦争終戦から2年が過ぎた1947年9月になってからなのですが、その時点では、米国民にとっての硫黄島の英雄とは、既にローゼンソールの写真に写っていた6名の男たち・・・という認識が固まってしまっていました・・・また合衆国海兵隊の歴代司令官たちも、長年この最初の星条旗掲揚者については、敢えて公式な場での発言は控えていた様です・・・あくまでも推測ですが、海兵隊は関係者に対し緘口令を布き、民衆の話題に上らない様にしていたのかもしれません。
私ATFは、ジェイムズ・ブラッドレー著の『硫黄島の星条旗』を初めて読んだ時から、この最初の星条旗掲揚者たちが重要視されていない点について、非常に疑問に思っていたのですが、その疑問はイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』を観戦した後、一層掻き立てられる事となりました・・・そう最初の星条旗を掲揚した男たちは実際何人で、そして彼らは一体誰なのか?と言う疑問が・・・。

【ローリー軍曹の写真に写っている通信兵は誰なのか?】
この疑問を解く為に、私ATFが最初に取り掛かったのが、ローリー軍曹の星条旗掲揚写真に写っている7名の海兵隊員中で、唯一官姓名が解らない謎の通信兵について調べる事でした。しかし調べようにも、日本国内のサイトでは全く関連する記述を発見する事は出来ず(・・・まぁこんな事に興味を持つヤツは、日本にゃ他にいねぇ〜よなぁ・・・)、結局残された手段は海外・・・主に米国内の硫黄島戦関連サイトで調べるしかなかった!・・・のですが、以前の観戦記でも口が酸っぱくなる程述べていますが、私ATFは英語が大の苦手(そんな訳で大学受験では英語の試験がない国文科を受験しました)・・・結局翻訳サイトと英和辞典の助けを借りつつ、今回の観戦記を執筆する事となりました。従って今回の観戦記は90%以上米国内の硫黄島戦関連サイトの資料を基に執筆されていますので、誤釈・誤訳が非常に多いものと思われます・・・その点を予めご了承下さいませ(大汗。ただ幸いな事に米国の軍事関連のサイトは、英語翻訳サイトで日本語変換して多少変な語訳になっても、原文中の単語と前後の文脈から想像し易かった・・・って事でしょうか。例えば爛侫ックス会社2/28、第5海運課なんて、全く妙な語訳が文中に登場しても、これくらいなら軍ヲタを長年やって来たお陰で、即座に第5海兵師団第28海兵連隊第二大隊F中隊って判別出来る訳ですよ・・・。

さて件の官姓名不詳の謎の通信兵ですが、これが意外と簡単に官姓名が判明してしまいました・・・流石は本場米国の硫黄島戦研究サイトであります。実はローリー軍曹の星条旗掲揚写真は、合衆国海兵隊広報誌「レザーネック・マガジン」の1947年9月号の誌面に初めて掲載されたのですが、その時点では写真のキャプションに彼の通信兵氏の官姓名は既に掲載されていたのです・・・レイモンド・E・ジェイコブズ一等兵・・・しかしローリー軍曹の星条旗掲揚写真が長年注目されない中で、彼の名も歴史の闇の中に埋もれて行った様です。彼はシュリアー中尉指揮下の強行偵察小隊が編成された時点で、戦力増強の為に第二大隊長ジョンソン中佐によって大隊中の他の部隊から抽出された機関銃2班と60mm迫撃砲1班、負傷兵後送用担架兵1組と無線通信兵1名の計15名中の一人で、大隊指揮所と強行偵察小隊との間の通信の確保を命じられていたそうです。後に彼の背負っていた無線機のバッテリーが消費された為、中隊伝令レイニー・ギャグノン一等兵が予備のバッテリーを届けるよう命じられ、またストランク軍曹たちが、山頂まで有線電話回線を敷設するよう命じられたのは、前回の観戦記で記述した通りです。また彼が強行偵察小隊に配属された通信兵だったと言う事は、当時のロサンゼルスタイムズ紙に掲載された記事中に彼の名前が見られる事によっても確認出来るのです。本来ジェイコブズ通信兵はF中隊の所属の兵士で、強行偵察小隊の母体となったE中隊第三小隊の海兵隊員たちとは、殆んど面識が無かった為(前述のリンドバーグ氏を始め第三小隊の生存者たちは通信兵が配属されていた事は記憶していたが、氏名まで記憶していなかった)に、時を経る内に結局官姓名不詳とされてしまった様です。レイモンド・ジェイコブズ氏も健在(2006年時点)で、現在ではローリー軍曹の写真に写っている人物として公式に認定されています。ジェイコブズ通信兵は、強行偵察小隊長シュリアー中尉に随伴するよう命じられていた為にローリー軍曹が他に撮影した星条旗掲揚準備風景の写真でも、その姿を確認する事が出来ます。

今まで謎だった通信兵の官姓名は確認出来たのですが、その事が一層大きな謎を呼ぶ事に・・・後編に【続く・・・】


【File128】男たちの硫黄島・・・ある星条旗(ハタ)の物語【後編】

2007年01月21日(日)

今や毎度お馴染みになりつつありますが、世間では殺人やら幼児投げ落としやら、火事、ガス漏れと物騒な事が次々に起こっております。日本は一体どうなるんでしょうか・・・考えるのも厭になるので、今回も早速観戦記を始めさせていただきます(今回も書込字数制限が〜汗)それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつもの如く当書き込み記事には資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【ジョー・ローゼンソールの栄光と影】
1945年2月23日午後、摺鉢山から下山したジョー・ローゼンソールは、撮影したフィルムを現像する為、その日の内にグァム島へ送りました。彼の写真は、報道写真として優先的に軍の空輸ルートで運ぶ事が出来たそうです。グァム島において現像された写真12枚の内、2枚は感光していて失敗だったそうですが、残りの写真は無事現像され軍の検閲を通過、翌2月24日土曜日朝7時には、在グァム島AP通信写真部長ジョン・ボドキンのデスク上に届いていました。写真を一枚づつ眺めていたボドキンが、一枚の写真を見て叫び声を上げます・・・「空前の写真だ。これは歴史的な一枚だぞ!」ローゼンソールの撮影した第二の星条旗掲揚の写真でした。ボドキンは、その写真を直ぐにニューヨークのAP通信本社に電送・・・その後AP通信からアメリカ各地の新聞社へ配信され、翌2月25日の全米朝刊各紙一面上段トップを、ローゼンソールの撮影した第二の国旗掲揚の写真が飾りました・・・それは撮影されてから約40時間・・・と言う当時としては驚異的なスピードでした。その後、空前のスクープに対して、AP通信本社からローゼンソール宛に祝福電報が届きますが、当のローゼンソールは、その時どの写真がスクープになったのか全く検討が付かなかったそうです。

※この時、ルイス・ローリー軍曹の撮影した最初の国旗掲揚写真は、報道写真としてではなく海兵隊の公式記録写真として処理される途中で、未だ現像すらされていませんでした・・・その後一週間程の間、他のフィルムと一緒に保管され、結局現像され正式に記録写真として登録されたのは、更に半月も後の事だったそうです・・・

名声には僻みが付き物です・・・星条旗掲揚写真については、当初から一部マスコミ関係者に疑いの目が持たれていました。1945年3月4日グァム島へ戻ったローゼンソールは、他社の記者に「撮影時にポーズを取らせたのか?」と聞かれ、てっきり星条旗掲揚後に撮影したE中隊の「ガンホウ」ポーズ写真の事だと思い「勿論だ」と答えます。この為、タイム誌特派員ロバート・シャーロッドは「ローゼンソールの星条旗掲揚写真はポーズを取らせて撮影したヤラセ写真だ」とし、タイム誌傘下のラジオ番組タイム・ビューズ・ザ・ニュースは「ローゼンソールは星条旗掲揚写真撮影者と言う名声の誘惑に負け、既に掲揚されていた星条旗を再度掲揚させて撮影した」との非難を繰り返しました。その後ローゼンソールは「ヤラセ写真を撮った」「自分が最初の星条旗掲揚写真を撮影したと言い振らした」等の非難を受け、ニューヨーク・タイムス紙はローゼンソールのピューリッツァー賞受賞を剥奪せよ、と主張するまでになります。結局ローゼンソールは絶えず批判の声に晒され、その都度反論を繰り返さなければならなかったそうです。
2006年8月20日・・・彼はサンフランシスコのゴールデンゲートパークの近くの介護施設で老衰により亡くなりました・・・享年94歳。1911年にワシントンD.C.でユダヤ系ロシア移民の子として生まれ、その後写真に興味を持ち、世界恐慌後にサンフランシスコに移り、1932年サンフランシスコ・ニュース紙に入社して報道カメラマンとしての第一歩を踏み出します。第二次大戦中は極度の弱視の為に兵役は免除されますが、AP通信社に移籍し海兵隊従軍カメラマンとしてニューギニア、ホーランディア、グアム、ペリリューそしてアンガウル、硫黄島等の戦場を転戦。戦後AP通信社を退社し、サンフランシスコ・クロニクル社に入社。1970年代に引退するまで同社カメラマンとして活躍しました。ローゼンソールは生前「自分は一生に一度だけ、とてつもない大仕事に恵まれた」と常に話しており、また星条旗掲揚写真のヤラセ疑惑については「もしヤラセなら、あれほど良い写真は撮れなかったよ。私はただ幸運だったんだ」と話していたそうです・・・合掌。

なおローゼンソールと共に、第二の星条旗掲揚シーンを映画フィルムで撮影した海兵隊記録班のウィリアム・H・ジェノースト軍曹は、星条旗掲揚の9日後・・・1945年3月4日に硫黄島北部戦区における日本軍洞窟陣地掃討作戦に同行中、狙撃され戦死・・・その後洞窟陣地は爆破封鎖された為、遺体は現在に至っても収容されていません。

【第二の星条旗を掲揚した男たち】
ローゼンソールが撮影した第二の星条旗掲揚写真は、その後多くの新聞や雑誌の一面を飾り、上陸後四日間朗報もなく、増大する死傷者数ばかりを知らされていた米国民を歓喜させ、その年のピュリッツァー賞を受賞しました。マイケル・マンスフィールド下院議員(モンタナ州選出/後の駐日大使)は、米議会においてローゼンソールの写真の星条旗掲揚者たちを、第七次戦時国債募集(7th WAR LOAN DRIVE)のイメージ・キャラクターに登用する事を提案し採択されます。1945年3月20日、星条旗掲揚者中の生き残り3名の兵士が前線から呼び戻され、ホワイトハウスでハリー・トルーマン大統領と会見。写真を基にした戦時国債募集ポスターは350万枚が製作され、米国全土に配布されました。生存者3名が参加した第七次戦時国債募集は、当初募集金額目標の二倍233億ドルを集め大成功を収めます。また写真を基に切手が発行され、多くの絵画や彫像が製作されました・・・その内の代表的なものは、今もバージニア州アーリントンの合衆国海兵隊戦争記念館で武勇と犠牲のシンボルとして見る事が出来ます。この辺の事情はイーストウッド監督による『父親たちの星条旗』の中でも描かれておりました。今まで述べてきた様に、このローゼンソールの写真に写っていたのは、摺鉢山山頂に掲揚された交換用の星条旗であって、その場にいた者たちにとっては殆んど重要な意味を持たない物でした。しかし、この第二の星条旗に関わった6名の兵士たちの内3名は生きて島から出る事叶わず、生き残った3名の、後の人生に大きな影響をもたらした事は皆さんも良くご存知の通りです。

星条旗掲揚者6名の立ち位置

マイケル(マイク)・ストランク(Michael Strank)軍曹
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月1日、星条旗掲揚から6日後、硫黄島西部海岸戦区で味方駆逐艦の艦砲誤射により戦死。享年25歳。
ハーロン・ブロック(Harlon Block)伍長
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月1日夕刻、ストランク軍曹が戦死したのと同日(数時間後)、硫黄島西部海岸戦区において日本軍迫撃砲弾により戦死。当初星条旗掲揚者とは認定されず、代わりにハンク・ハンセン軍曹が誤認されていた。1946年5月アイラ・ヘイズの証言により誤認発覚・・・1947年1月15日合衆国海兵隊ヴァンデクリフト総司令官により公式に修正された。享年20歳。
フランクリン・サウスリー(Franklin Sousley)一等兵
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月21日午後2時半頃、ニミッツ提督による硫黄島公式占領宣言から5日後(日本軍の組織的抵抗の終わる数日前)に日本兵に狙撃され戦死。享年19歳。
アイラ・ヘイズ(Ira Hayes)一等兵
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1955年1月24日、生まれ故郷のフェニックスのヒーラ・リヴァー・インディアン保留地にて、過度のアルコール摂取により事故死。彼は海兵隊入隊前からアルコール依存症の傾向があったが、戦後心的外傷後ストレス障害(PTSD)により一層アルコール依存症が重くなっていたと言われている。享年32歳。【追伸】著名なカントリー歌手ジョニー・キャッシュが「アイラ・ヘイズのバラード(1964)」を作り、ヘイズの人生を歌っている・・・後年ボブ・ディランもこの曲をカバーした。
レイニー・ギャグノン(Rene Gagnon)一等兵
第28海兵連隊第二大隊E中隊指揮班所属(中隊伝令):1979年10月12日、職場のボイラー室内にて心臓発作により病死。戦後、星条旗掲揚者という栄光にすがる人生を送っていた。享年54歳。
ジョン・ブラッドリー(Jhon.H.Bradley)海軍三等看護兵曹
第28海兵連隊第二大隊E中隊第三小隊所属(衛生下士官):1994年1月11日、ウィスコンシン州アンティゴーで長年葬儀社を営んだ後、老衰による心臓発作にて家族に看取られて死亡。戦後心的外傷後ストレス障害(PTSD)による不眠症等に長年苦しんでいた。享年71歳。

ついでですが、観戦記ネタの調査中に発見した画像と記事を紹介しておきます。前々回の【File126】男たちの硫黄島・・・.ぁ璽好肇Ε奪匹猟戦で紹介したトニー・カーティスがアイラ・ヘイズを演じた『硫黄島の英雄(THE OUTSIDER/1961)』の画像です。
もうひとつ・・・ジェイムズ・ブラッドリー著『硫黄島の星条旗(FLAG OF OUR FATHERS)』の文中で紹介されているリー・マービンがアイラ・ヘイズを演じた作品ですが、どうやら1960年にNBC系列で放送された『Sunday Showcase』と言う短編テレビドラマ・シリーズの1エピソード『The American』という作品らしいです。また彼は『硫黄島の砂(1949)』にもエキストラとして参加しています。因みにリー・マービンも実際に海兵隊に所属し1944年6月のサイパン攻略戦で負傷、名誉戦傷章を受章しています。一説では彼が硫黄島で海軍十字章を受章したと言われていますが、現在のところ明確な証拠はありません。
そうそう『硫黄島の砂(1949)』のラスト近く、摺鉢山登頂シーンに登場するハロルド・シュリアー中尉は、ご本人が演じています。

【摺鉢山の最初の星条旗】
さていよいよ話は核心に近づいて行きます・・・今までの話は前置きですから忘れてもらっても結構ですよ・・・(オイオイ。話は前後しますが、今回の観戦記の本題は『父親たちの星条旗』では殆んど重要なシーンではなかった最初の星条旗/1stFlag掲揚についてのお話です。話は1945年3月23日、米海軍長官ジェイムズ・フォレスタルが上陸作戦総指揮官ホーランド・スミス海兵中将と共に硫黄島に上陸する五時間程前に遡ります。
その日の朝、前日までの米軍の激しい砲爆撃によって、摺鉢山の日本軍からの反撃は殆んど無くなっていました。第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐は、摺鉢山へ偵察隊を送る事を決め、指揮下のF中隊長アーサー・ネーラー大尉に少人数の偵察隊を山頂に送る様命じました。ネーラー大尉は部下の中から、最も経験豊富な下士官で第三小隊の分隊長シャーマン・ワトソン軍曹を選び、摺鉢山北側からの登頂ルートを偵察する様命じます。0700時シャーマン・ワトソン軍曹は信頼出来る部下のジョージ・マーサー、テッド・ホワイト、ルイス・シャーロの3名を率い登頂を開始・・・一時間半程で無事に下山し、ネーラー大尉に対し摺鉢山の頂上には日本兵の姿は無かったと報告しました。ネーラー大尉からの報告を受けたジョンソン中佐は、今こそ頂上確保のチャンスと判断し、部下のE中隊長デイヴ・セヴェランス大尉に一個小隊を頂上確保に向わせる様に命じます。E中隊所属の各小隊は、上陸初日以来大きな損害を出していましたが、中隊長セヴェランス大尉は頂上確保部隊として第三小隊(残存25名)を選びます。第三小隊は本来の小隊長キース・ウェルズ中尉(海軍殊勲章受章者)が負傷し後送されており、小隊先任下士官であるアーネスト(ブーツ)トーマス軍曹(海軍殊勲章受章者)が、指揮権を引き継いでいました。E中隊長セヴェランス大尉は、摺鉢山麓北東の第二大隊指揮所に第三小隊員を呼び寄せると、歴戦の海兵隊将校で副官としても信認の厚いハロルド・G・シュリアー中尉を臨時の第三小隊長に任命します。またジョンソン中佐は第三小隊の戦力増強の為に、大隊の他の部隊から機関銃2班と60mm迫撃砲1班、負傷兵後送用担架兵1組と無線通信兵1名の計15名を臨時に第三小隊に配属します。この時、海兵隊員向け広報雑誌レザーネックマガジン誌の従軍カメラマン、ルイス・ローリー軍曹が、小隊への同行を申し出て許可されます。ジョンソン中佐は、小隊員たちを前に任務を説明した後、シュリアー中尉に、頂上を無事に確保出来た場合に掲揚するように、と一枚の星条旗を手渡しました。この小さな星条旗(W54inch×H28inch)は、大隊副官ジョージ・G・ウェルズ中尉が、艦隊輸送艦USSミズーラ号(APA-211)から持参したものでした。こうしてシュリアー中尉以下42名の海兵隊員たちは、不気味に静まり返った摺鉢山山頂(166m)を目指し、ゆっくりと登り始めたのです。
【写真上】大隊指揮所の前に集められた海兵隊員たち【写真下】摺鉢山山頂を目指して出発するシュリアー中尉率いる強行偵察小隊
シュリアー中尉率いる強行偵察小隊は、途中怪しい洞窟を見つけると火炎放射器で焼き払い、入り口を手榴弾で爆破しながら、用心深く山肌を登って行きました。歴戦のシュリアー中尉は、一列縦隊で山肌を登っている小隊の側面を護る為に数名を側衛として配置・・・場所によっては手も使って攀じ登る程の急な斜面を登って行きます・・・その間、上陸海岸や沖合いの艦艇からは、海兵隊員や水兵たちが心配そうに彼らの登頂を眺めていました。
【写真】砲爆撃により一層険しくなった山肌を登って行くシュリアー中尉率いる強行偵察小隊
【写真】海兵隊員たちの登頂ルートを当時の摺鉢山写真にて推定
【写真】ネット上で発見した現在の摺鉢山の写真・・・長年の風雨侵食で、1945年2月当時に海兵隊員たちが利用した登頂ルートは判別出来ず・・・現在は写真右上に見える舗装道路によって、車両に乗ったまま山頂まで登る事が出来る
やがて45分程で山頂に無事到着・・・1010時、頂上に辿り着いた海兵隊員たちは最頂上付近の旧噴火口周辺部に散開、暫くの間は周囲を警戒していましたが、結局心配していた様な日本軍の反撃は無く、数人の日本兵の遺体を発見しただけでした。
【写真上】山頂付近に到達した海兵隊員たち【写真下】日本軍の反撃を警戒して配置につく海兵隊員たち
緊張の解れたレオ・ロゼクとロバート・リーダー(彼は小隊非公式画家と呼ばれていた)は、山頂に並んで立つと、噴火口跡に向けて立ち小便をしながら「この火山はアメリカ合衆国の所有地だ」と宣言したそうです。日本兵の反撃はないと判断したシュリアー中尉は、先任下士官のアーネスト(ブーツ)トーマス軍曹に、星条旗掲揚の旗竿に適当な棒状の物を探すよう命じます。トーマス軍曹はレオ・ロゼクとロバート・リーダーの二人に命じ、二人は散乱していた日本軍の雨水集水用パイプの中から手頃な長さの物を見つけ、トーマス軍曹の待つ場所に持って来ました。トーマス軍曹はパイプを受け取ると、ハンク・ハンセン軍曹、チャールズ・W・リンドバーグ伍長(火炎放射器担当/1927(昭和2)年に大西洋単独無着陸飛行に成功した飛行家とは別人)そしてジェームス・R・マイクルズ一等兵たちと共に星条旗を結び着けました。
【写真上下】パイプの先端に星条旗を結び付けるトーマス軍曹以下の海兵隊員たち
1020時遂に星条旗を結び付けたパイプが摺鉢山の頂上に掲げられました・・・合衆国海兵隊の公式戦史によれば、この時星条旗を掲揚したのはハロルド・シュリアー中尉、アーネスト(ブーツ)トーマス小隊先任軍曹、ハンク・ハンセン軍曹、チャールズ・リンドバーグ伍長、ルイス・シャーロ一等兵の5名と記録されています。

摺鉢山山頂に肉眼では確認出来ない程の・・・日本古来の領土に2600年間で始めて・・・星条旗が翻った瞬間、海岸拠点と沖合いの300隻以上の艦艇から驚く様な不協和音が一斉に沸き起こりました。海兵隊員たちは皆歓声を上げて口笛を吹き鳴らし、ヘルメットやライフルを打ち振り、沖合いの艦艇は太くて低い汽笛を鳴らし続けました。その光景はまるで、新年に変わった瞬間の様だったそうです。そして海兵隊員たちの何人かは、硫黄島での戦いが間も無く終わり帰国出来る、と錯覚を覚える程でした。

部隊に同行していた従軍カメラマンのルイス・ローリー軍曹は、同行中30枚程度の写真を撮影していますが、残念ながらローゼンソールの様な星条旗掲揚の決定的瞬間場面は撮影はしていません・・・一説によれば星条旗掲揚の瞬間にカメラが故障してシャッターが下りなかった・・・とか。結局、彼が星条旗掲揚場面として撮影した写真は、掲揚されてから暫く後に撮影した、あの犂竿を数名の海兵隊員が支えている手前で、マイケルズ一等兵がカービン銃を構え周囲を警戒している写真なのでした。

ゲゲェ〜偉そうに書いておきながら、まだ本筋に到達してない!・・・お前は一体何が書きたいのか・・・ってですか。それは次回観戦記のお楽しみ・・・と言う事で【続く〜ッ】


【File127】男たちの硫黄島・・・△△訐云魎(ハタ)の物語【前編】

2007年01月12日(金)

世間では新年早々物騒で猟奇な事件や政治家の不可解な経費処理が問題になっておりますが、一体どうしたもんでしょうかねぇ・・・それはさておき、早速ですが今回の観戦記を始めさせていただきます(書込字数制限がぁ〜)・・・それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつもの如く当書き込み記事には資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【硫黄島の星条旗】
クリント・イーストウッド監督による『硫黄島二部作』は戦争映画としてだけなく、映画としての評価や興行成績からしても間違いなく映画史に名を残す事でしょう。そんな訳で前回の観戦記では【イーストウッドの挑戦】という事で、敵味方それぞれ別の視点から、二部作として同一の戦場で戦った兵士たちの姿を描く、新しい戦争映画の手法について取り上げてみました。そんな訳ですから、当然の如く今回の観戦記は、その第一作目である『父親たちの星条旗』と言う作品について書いて行こう・・・と思っていたのですが・・・実は映画を観戦して二ヶ月近くが経ってしまい、思い出そうにも細部について思い出せません。DVDはまだ発売されておらず、お得意の重箱の角を突く様な細部についての粗探しが出来る訳もなく・・・思い出せる範囲では・・・_甬(硫黄島の戦場/戦争国債ツアーと主要登場人物3人の戦後の物語)と現在(資料調査や生存者への取材)が入り乱れて、私ATF的には構成的に非常に観戦し辛かったという点、それと■達任大袈裟過ぎた・・・特に上陸シーンが混み合い過ぎ(幾ら何でもあんなに混み合ってたら、もっと被害甚大だぜ!)と言う二点くらいでしょうか。世間一般の評判通り、流石にイーストウッド監督!この映画については、それ程ツッコミどころがない・・・と言うか最初に述べた如く細部については記憶があやふやで、ネタが浮かばない・・・(大汗。しかし何とか観戦記執筆の足がかりを得ようと、原作であるJ・ブラッドリーとR・パワーズ共著の『硫黄島の星条旗(Flags of Our Fathers/島田三蔵訳・文藝春秋刊)』を読み返してみました。原作では、著者が父親ジョン・ブラッドレーが亡くなった後、遺品を整理していた中から、父が摺鉢山に星条旗を掲揚した6名の英雄(星条旗掲揚者/THE FLAG RAISERS)の1人であった事を知り、父が何故その事を家族にすら語らなかったのかという点に疑問を持ち、資料や関係者への取材を始めた経緯、6名の英雄それぞれの生い立ちと硫黄島へ赴くまでの人生、硫黄島での戦闘と国旗掲揚、第七次戦時国債キャンペーンにおける作られた英雄像と戦死者の遺族たちの苦悩、そして生き残った3人のその後の人生が丁寧に描かれています。この点は、前述の通り構成上での難点を除けば、『父親たちの星条旗』は原作を丁寧に描いておりました。しかし何度か原作を読み返していた私ATFは、あるひとつの点について疑問を抱いたのであります・・・それは、この『硫黄島の星条旗(Flags of Our Fathers)』は、全編560ページ(文庫本版)に及ぶ長編ノンフィクションなのですが、この物語における最も重要な場面・・・そう星条旗の掲揚についての記述は20ページ程(3.6%)しかありません。その20ページ中最初と第二の旗掲揚に関しての記述が、それぞれ半分と言ったところなのです。結局のところ、この『硫黄島の星条旗(Flags of Our Fathers)』は、1945年2月23日に摺鉢山の山頂に最初に翻った星条旗の交換の為に掲揚された旗に関わった6人(海兵隊員5名・海軍衛生下士官1名)について詳しく書かれてはいますが、その第二の旗が有名になった事によって完全に忘れ去られてしまった【第一の旗】については全体の僅か2%弱しか述べられていない・・・と言う事でした。

【摺鉢山の山頂に翻った二つの星条旗】
歴史上、戦争の一場面として語り継がれる数々の場面の写真の中でも最も有名なのが犧任眸しい戦場写真瓩箸盡世錣譴襦1945年2月23日にAP通信カメラマンのジョー・ローゼンタールによって撮影された『6人の兵士によって擂鉢山の山頂に掲げられる星条旗』・・・ミリタリーマニアや軍ヲタならば一度は見た事があると言える、あの写真です。しかし現在では、硫黄島の戦闘自体が戦争体験者や一部研究者、軍ヲタくらいにしか知られていません。でも今回の『父親たちの星条旗』公開によって、この写真の事が広く知られ、また写っている星条旗は、実は最初に掲揚された旗が小さかった等幾つかの事情によって掲揚し直された二枚目の旗だって事が、多くの一般観客の知るところとなりました。しかし肝心の一枚目の星条旗はどのような状況で掲揚され、その後どうなったのでしょうか・・・そして何よりも一枚目の星条旗を揚げた猖榲の星条旗掲揚者/THE TRUE FLAG RAISERSは一体誰だったのでしょうか・・・『父親たちの星条旗』の中では、ほんのワンシーンとしか描かれておらず、観客の記憶にも殆んど残っていないと思われる、この『摺鉢山の山頂に最初に掲げられた星条旗』について、私ATFは非常に興味をそそられたのでした。そんな訳で今回の観戦記は、映画そのものよりも摺鉢山の山頂に掲揚された星条旗と掲揚者たちについて、『父親たちの星条旗』の文庫本とネット上で知り得た情報(海外サイトの情報も翻訳サイトで変換して参考にしているので誤解釈している可能性は非常に大・・・汗)そして私ATFの溢れんばかりの妄想・・・いや想像を交えて書かせていただいております・・・大汗。

【摺鉢山の戦闘】
摺鉢山の山頂に翻った星条旗について語る前に、摺鉢山の戦闘について復習しておきましょう。硫黄島の東南端にある546フィート(166m)の死火山である摺鉢山は、敵よりも高地に陣取るという兵法の鉄則からも戦術上の重要拠点・・・硫黄島の大部分(海兵隊の上陸拠点が丸見え)が見渡せる絶好の観測地点で、日本軍守備隊1,700名余(陸軍二個大隊1,060名/海軍陸戦隊640名)が、網の目の様な洞窟陣地と主要砲台に配置されており、また米軍上陸部隊の第一の目標でもありました。摺鉢山の攻略を命じられたのは第5海兵師団第28海兵連隊。3月19日、山麓に接近した第一大隊は、日本軍砲台からの猛烈な反撃を受けます。日本軍陣地及び砲台の偽装は完全で、米軍の事前偵察では全く発見されていませんでした。結果第一大隊は、所属の中隊長が一人を残し全員戦死すると言う大損害を被りました。その後幾度か攻撃が繰り返されますが、M4戦車の支援も空しく、日本軍によって撃退されます。翌3月20日、第一大隊は部隊再編の為に後方へ後退させられ、今度は第二大隊が攻撃を開始します。海上からは巡洋艦や駆逐艦、砲艦等が海岸から300m程度まで接近し、第二大隊支援の艦砲射撃を加えました。艦艇の中には砲弾を消費し、再度補給を受けて砲撃を繰り返す艦もあったそうです。しかし摺鉢山の日本軍砲台からの反撃も凄まじく、大きな被害を被った艦艇も少なくありませんでした。3月21日夜半、その日決行された海軍特別攻撃隊第二御盾隊の突入に呼応して日本軍斬込隊が出撃し、米軍前哨陣地に殺到しましたが、圧倒的火力差によって撃退されました。3月22日、一時的なスコールによって日本軍守備隊は水分の補給が出来、また海兵隊の攻撃も一時停滞しますが、反面悪天候による日中の照度低下により、それまで巧みに擬装し発見が困難だった日本軍砲台が、その発射炎によって位置を特定され、次々に破壊されて行きます。摺鉢山の形が変わる程の二昼夜にわたる激しい艦砲射撃と艦載機による爆撃によって、日本軍砲台は全て破壊され、摺鉢山守備隊長厚地大佐も戦死。守備隊の兵力は300名程度しか残っていませんでした。生き残った日本軍守備隊兵士は、地下陣地の出入口に高射機関銃(海軍の13mmや25mm機銃等)を備え付け、山麓から登頂を試みる海兵隊員に向けて撃ち下ろし、大きな損害を与えています。結局海兵隊は二日間で200m程しか前進出来ませんでしたが、それでも火炎放射器やガソリン・黄燐、TNT爆薬を併用した爆破・生き埋め戦法によって、日本軍洞窟陣地をひとつひとつ潰して行きました。こうして日本軍の抵抗も次第に弱まり、海兵第二大隊は3月22日までには摺鉢山の山麓をほぼ制圧する事に成功します。3月23日、摺鉢山からの反撃が殆んど無くなったのを確認した第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐は、副官ハロルド・シュリアー中尉に山頂の偵察を命じ、約40名の小隊を山頂の占領に向わせます。シュリアー中尉指揮する偵察小隊は、日本軍守備隊の大した抵抗を受ける事もなく40分程度かけて摺鉢山登頂に成功・・・午前10時20分最初の星条旗を山頂に掲揚(約二時間後に第二の星条旗と交換)しました。これは日本軍にとって島の最重要拠点の失陥を意味し、海兵隊にとっては将兵の士気を大いに鼓舞する・・・星条旗掲揚直後、山麓や上陸堡、海上の艦艇から一斉に喚声や銃声、汽笛が沸き起こる・・・出来事でした。その後の島の中部や北部の戦闘で、頂上を占領したシュリアー中尉指揮の偵察小隊42名中、無事に生還を果たしたのは僅か5名に過ぎません。3月23日夜、生き残った日本軍守備隊将兵は地区隊長松下久彦少佐に率いられ、包囲網を突破し独混第二旅団主力への合流を企図。残存兵力をもって総出撃を敢行。2300時頃海兵隊の前哨線に潜入するも、その大部分が途中で発見・射殺され、僅かに水野軍曹他25名が独混第二旅団司令部に辿り着けたに過ぎませんでした。

【摺鉢山の第二の星条旗】
『父親たちの星条旗』でも重要なアイテムとなる第二の星条旗/2ndFlag掲揚についても確認しておきたいと思います。そもそも全ての事の発端ですが・・・1945年3月23日、米海軍長官ジェイムズ・フォレスタルが上陸作戦総指揮官ホーランド・スミス海兵中将と共に硫黄島に上陸します。そして摺鉢山の山頂に最初の星条旗が掲揚されるのを見たフォレスタルは、スミス海兵中将に「摺鉢山上の星条旗掲揚は今後500年間、海兵隊に対して重要な意味を持つな」と言ったそうです。そして気まぐれに掲揚された星条旗を記念に(戦利品として)持って帰りたいと言いました・・・全てはこの一言が発端でした。このフォレスタル長官の要請は、その後、人伝てに第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐に伝わります。この要請は生粋の海兵隊員であるジョンソン中佐には、とても受け入れる事の出来ない要請でした・・・ナッツ!(と言ったかどうかは不明ですが・・・汗)・・・糞喰らえとかふざけるな的発言があったのは間違いない様ですな。ジョンソン中佐にしてみれば「あの旗は我々第二大隊のものだッ!」だった訳です。彼は大隊副官テッド・タトル中尉を呼ぶと、海岸に行って資材の中から交換用の別の、そしてより大きな星条旗を探して来るよう命じます。タトル中尉は星条旗を探しますが、兵員や資材の揚陸直後で大混乱中の海岸堡で、そんな簡単に見つかるはずありません。しかし鬼の大隊長の命令は絶対です・・・右往左往した挙句、タトル中尉は戦車揚陸艦(LST)779号の乗員アラン・ウッド少尉から星条旗(H56inchXW96inch)を入手する事に成功します(海兵隊公式戦史による)・・・後に解った事ですが、この星条旗は真珠湾攻撃の日に沈んだ艦艇から引き揚げられ、オワフ島の廃材置場に置かれていた星条旗だったとか・・・なんか嘘臭いけど本当かなぁ。
※一説によれば、ジョンソン中佐に星条旗探索を命じられたのはタトル中尉ではなく、中隊指揮所付伝令であったレイニー・ギャグノン一等兵で、彼は戦車揚陸艦(LST)758号の補給担当士官ロバート・レズニックに星条旗を譲ってくれるように頼み、それに対しレズニックは艦長フェリックス・モレンダ沿岸警備隊大尉の許可を受け、艦に搭載されていた星条旗のひとつをギャグノンに渡したとの事(・・・レズニックが2004年11月に証言した)・・・因みにこの星条旗はメア島海軍工廠の職員メイベル・ソヴァギューが縫われている(沿岸警備隊戦史部による)

ジョンソン中佐は、山頂のシュリアー中尉の無線通信機のバッテリーが弱っていて交信に支障が出ていた為に、E中隊長デイヴ・セヴェランス大尉に対し、大隊指揮所と山頂の間に有線電話の電線敷設を命じ、セヴェランス大尉は部下のマイケル・ストランク軍曹にそれを命じます。またセヴェランス大尉は、シュリアー中尉の無線通信機の交換用SCR-300バッテリーを入手する為、中隊指揮所付伝令レイニー・ギャグノン一等兵を大隊指揮所に派遣しました。電線敷設を命じられたストランク軍曹は、自分の部下の中から気心の知れた3名(ハーロン・ブロック伍長、アイラ・ヘイズ一等兵、フランクリン・サウスリー一等兵)を選び、共に大隊指揮所に向い、そこでレイニー・ギャグノン一等兵と合流します。この時ジョンソン中佐は、ギャグノンにバッテリーと一緒に交換用の星条旗を持たせ、シュリアー中尉に届けるよう命じていました。1100時頃ストランク軍曹一行は電線を敷設しながら、摺鉢山を登り始めます。

同じ頃、AP通信社カメラマンのジョー・ローゼンソールが、海兵隊報道班カメラマンのボブ・キャンベル一等兵とムービーカメラマンのウィリアム・ジェノースト軍曹(星条旗掲揚の9日後に戦死)と共に摺鉢山山頂を目指して登っていました。ローゼンソール一行は、山の中腹で下山する海兵隊員一行と擦れ違います。その中に最初の星条旗掲揚の写真を撮影した海兵隊報道班のルイス・ロワリー軍曹がいました。ロワリー軍曹は、ローゼンソール一行に対し既に星条旗の掲揚が終わり、その写真を撮影した事を告げました・・・星条旗掲揚シーン撮影のチャンスを失ったローゼンソール一行は、一旦は下山しようと考えますが、ロワリー軍曹から山頂からの景色は絶景だと聞かされ、とりあえず山頂へ向う事にします。ルイス・ロワリー軍曹が撮影した最初の星条旗掲揚写真
1200時頃、無線通信機予備バッテリー、交換用星条旗を持って電線を敷設しながら登頂していたストランク軍曹の一行が山頂に到着。同じ頃ローゼンソール一行も山頂に到着します。

シュリアー中尉は、最初の星条旗降旗と新しい星条旗掲揚の二つの作業を同時に行うよう部下に指示を出し、新しい星条旗の掲揚をストランク軍曹一行に命じました。ストランク軍曹は、サウスリーとヘイズに旗竿となるパイプを探すように命じ、その間に自らは旗竿を立てる場所を選定・準備、旗竿を立て易い様にブロックに石を積み上げさせました。まもなくサウスリーとヘイズが重さ100ポンド以上もある長いパイプを見つけて来て、その先端にギャグノンが星条旗を結び付けました。その頃山頂には強風が吹いており、星条旗を結び付けた旗竿のパイプが重くなった為、ストランク軍曹は丁度両手に大量の包帯を持って通りかかったジョン・ブラッドリー海軍三等看護兵曹を呼び止め、手を貸すように頼みました。そしてシュリアー中尉の合図で、ふたつの星条旗の掲揚と降旗が同時に行われました。その時山頂にいた他の海兵隊員たちの中で、一分間ほどの旗の交換作業には注目した者は誰もいませんでした・・・それは、この作業が単なる事務的な作業に過ぎず、旗も単なる代わりの旗でしかなかった為で、第二大隊の戦闘報告にも、第二の星条旗掲揚については何も触れられていません。

星条旗の交換作業を準備している海兵隊員たちを見つけたローゼンソール一行は、とりあえず撮影する為の位置を確保します。キャンベル一等兵は山頂から少し下がった位置・・・最初の星条旗のほぼ真下。ジェノースト軍曹とローゼンソール・・・第二の星条旗から約30ヤード離れた場所(二人は殆んど同じアングルで星条旗掲揚を撮影します)で星条旗掲揚の絶好のタイミングを待っていました。この時、身長の低いローゼンソールは、より良い撮影アングルを確保する為に足下に石や砂袋を積み上げていました(彼のカメラは35mmSpeed Graphic・・・シャッタースピード1/400秒・絞り8と18の間でした)。またジェノースト軍曹のムービーカメラには、フィルムが数フィート分しか残っていませんでした。結局ローゼンソール一行は絶好のタイミングで星条旗掲揚シーンを撮影する事となります。この時カメラを岩の上に固定しようとしていたローゼンソールは、星条旗掲揚に気付いて慌て、ファインダー越しに被写体を確認しながら撮影する事が出来ず、撮影に成功したかどうかは確信がなく、ピンボケしているかもしれないと思っていたそうです。

ローゼンソールの撮影した第二の星条旗掲揚写真
ジェノースト軍曹の撮影した第二の星条旗掲揚映像
キャンベル一等兵の撮影した最初の星条旗の降旗写真


第二の星条旗掲揚写真の撮影後、ローゼンソールは山頂にいた海兵隊員たちを呼び集め「ガンホウ」ポーズ(日本軍で言うところの万歳写真)を撮影しています。星条旗掲揚シーンの撮影に自信のなかったローゼンソールは、この「ガンホウ」ポーズの写真こそ本国の新聞の一面を飾るに相応しい写真だと思っていました。そしてこれはキャンベル一等兵が「ガンホウ」写真を撮影するローゼンソールを撮影した写真・・・ローゼンソールが土嚢と岩を積み上げた上に立っているのが解ります。次は「ガンホウ」写真の直前或は直後に撮影された写真ですが、撮影者は不明です。
一時間後、思い通りの写真を撮影し終えたローゼンソール一行は下山しました。シュリアー中尉以下の偵察小隊の海兵隊員たちは、その後四日間を山頂で過ごす事になります。最初に掲揚された星条旗は、その後第二大隊長ジョンソン中佐の下に送られ、大隊指揮所の金庫の中に保管・・・この星条旗は、大隊にとってとても名誉な遺物であり、無防備な状態で放置出来ない・・・されました。第二の星条旗は、掲揚後三週間もの間、摺鉢山の山頂に翻っていて、終いには強風でズタズタになっていました。これら二枚の星条旗は、現在合衆国海兵隊戦争記念館に保管・展示されています。
※画像は現在の第二の星条旗

第二の星条旗掲揚の経緯・・・如何でしたでしょうか・・・しかし二つの星条旗掲揚を巡る物語はまだまだ謎を深めて行ったのでありました・・・【続いてます】


【File126】男たちの硫黄島・・・.ぁ璽好肇Ε奪匹猟戦

2007年01月01日(月)

新年明けましておめでとうございます。昨年7月に『誰が為に鐘は鳴る』に関連した観戦記を発表してから、なんと5ケ月振りの観戦記です・・・(滝汗。前回の観戦記の冒頭で倏_燭帽洪恵抉笋靴討い襪が身に染みております瓩覆匹判颪い討きながら、全く反省していない観戦武官長なのでありました・・・(自爆。いや観戦記を書こうとは努力しておったのですよ。その為に『バルトの楽園』も観戦したし、私を含め観客2人という状況下で『出口のない海』も最終日に観戦して来ました・・・しかし人間さぼり癖が付いてしまうと遺憾ですなぁ全く・・・『バルトの楽園』は兎も角、『出口のない海』には甚く感動し、観戦記執筆の準備も着々と進んでいたのですが・・・そんな訳(?)で予定を大きく変更して『硫黄島二部作』ですよ!それでは今年最初の観戦記、早速行ってみましょう・・・それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつもの如く文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【2006年の戦争映画情勢を振り返って・・・】
さて戦争映画ファンにとっては、戦後50年の節目でもあった2005年は、それなりに豊作な年であったと言えると思います。大方の期待には応える事が出来ませんでしたが、それなりに邦画界を盛り上げた福井晴敏三部作『ローレライ(2005/03)』『戦国自衛隊1549(2005/06)』『亡国のイージス(2005/07)』・・・そしてドイツ映画界が自国のタブーに挑んだ『ヒトラー〜最後の12日間(2005/07)』・・・かつて角川映画シリーズで邦画界を席捲した角川春樹氏が、実姉辺見じゅん女史のノンフィクションを映画化し久しぶりの邦画戦争映画大作となった『男たちの大和/YAMATO(2005/12)』等々。
しかし2006年を思い返して見ると、戦争映画及びミリタリー関連作品の公開数的には、前年以上ながら、木々の葉が紅葉を始める頃までは戦争映画ファンの心を篤くする様な話題作は、殆んど無かったと言っても過言ではないでしょうか。凄惨な内戦を描いた社会派作品ながら、当初は日本での公開予定がなく、署名活動により公開が実現した『ホテル・ルワンダ(2006/01)』・・・湾岸戦争を舞台に戦場の兵士たちの日常の真実を描いた『ジャーヘッド(2006/02)』・・・戦時下のラップランドの大自然を背景に、言葉の通じない三人の男女の不思議な交流を叙情的に描いた『ククーシュカ/ラップランドの妖精(2006/03)』・・・第一次大戦下の西部戦線で、クリスマスの夜に起こった奇跡を描いた『戦場のアリア(2006/04)』同じく第一次大戦下を舞台にドイツ人捕虜収容所での国境を越えた人々の交流を描いた『バルトの楽園(2006/06)』・・・俳優今井雅之氏の原作・演出による特攻を題材とした舞台劇の映画化(1995)作品を再度完全英語版でリメイクした『THE WINDS OF GOD(2006/08)』・・・終戦間際、特攻基地のある町を舞台に特攻隊員と彼を慕う女性の日常を描いた『紙屋悦子の青春(2006/08)』・・・人気ミステリー作家の横山秀夫氏による人間魚雷回天特攻隊員の極限下の青春を描いた原作を映画化した『出口のない海(2006/09)』・・・韓国版「戦国自衛隊」的作品の『天軍(2006/09)』・・・これらの作品の中には内容的に素晴らしく、一般的に評価の高い作品もありますが、如何せん戦争映画ファンの篤き心を満足させる何か・・・を満たした作品はコレと言って殆んどありませんでした。しかし、そんな篤き心の戦争映画ファンの最後の希望の星となっていたのが、前年から出回っていた某監督の情報・・・それが西部劇やマカロニ・ウェスタン、刑事アクション作品等で絶大な人気を得て、最近では監督作がアカデミー賞を受賞する等ハリウッドを代表する巨匠の一人としての地位を確立した東森クリン・・・ッじゃなかった・・・クリント・イーストウッドその人なのでありました!

【その男・・・イーストウッド(敬称略)】
クリント・イーストウッドと言えば、その50年以上の俳優・監督人生の中で、幾つかの戦争映画(ミリタリー作品)に関わっています。その代表格は何と言っても『荒鷲の要塞(1968/出演)』『戦略大作戦(1970/出演)』『ファイヤーフォックス(1982/製作・監督・出演)』『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場(1986/製作・監督・出演)』の四作品であります・・・そしてそれ以外にも、太平洋戦線における上陸用舟艇母艦の活躍を描いた『全艦発進せよ(Away All Boats/1956)』や第一次大戦下の義勇戦闘機隊を描いた『壮烈!外人部隊(Lafayette Escadrille/1958)』そして『Francis in the Navy(1956/内容不明)』なんて作品にも出演しています。特に『全艦発進せよ』では、チョイ役ですが海兵隊(海軍)の衛生兵を演じています。『荒鷲の要塞』と『戦略大作戦』と言えば、戦争映画史上に残る名作戦争映画ですが監督作ではありません。『ファイヤーフォックス』はミリタリー色の強い作品ですが、どちらかと言えば冷戦下のスパイ・アクションの部類の作品です。そんな訳でイーストウッドが初めて監督した戦争映画は『ハートブレイク・リッジ』となるのですが、皆さんもご存知の通り、この作品は落ちこぼれの海兵隊員たちを、朝鮮戦争で名誉勲章を受章した歴戦のタフな古参軍曹が叩き直し、グレナダ侵攻作戦で見事に手柄を立てさせる・・・と言った作品で、後半部にグレナダ侵攻の戦闘シーンが少々ありますが、全般的に観ると本格的な戦闘映画と言うよりは、軍隊・兵営・兵隊映画の傾向が強い作品で尚且つ合衆国海兵隊賞賛映画であると言えます。
ところで、ご存知かとは思いますがイーストウッドと言えば、民主党支持者が多いハリウッドの映画人の中でも、一貫して共和党(現大統領の所属党派)支持者として有名でした。またバリバリの反共産主義者(・・・なので、以前噂に上った様に、イーストウッドが南京事件の作品を製作するなど到底考えられない・・・)で超保守派(リバータリアン)でもあり、ジャズやカントリー等古き良きアメリカの文化や伝統を愛し、自主独立の精神に富み、偽善を激しく憎む典型的で熱烈な愛国者でもあります。しかし共和党支持者にも様々な派閥があり「共和党=タカ派(好戦的)」という図式は一概には成り立ちません。イーストウッドは「合衆国が世界を管理するのはおかしい」「イラク戦争によって合衆国は極めて重大な過ちを犯した」と発言する程で、最近のリベラル派も新保守派も大嫌いという爛▲鵐繊Ε哀蹇璽丱螢好鉢瓩箸盡世錣譴討い泙后私ATFは、戦争映画以外の作品・・・特に社会派作品・・・は殆んど観ないので、イーストウッドが自ら製作・監督し高い評価を得た「ミスティック・リバー(2003)」や「ミリオンダラー・ベイビー(2004)」についての評価は出来ないのですが、ネットで調べた限りの受け売りでは・・・自ら愛する合衆国の社会における不条理や不義を丹念に暴いて行き、常に新しい視点から問題提起を行って来た・・・との事でした。特に「ミスティック・リバー(2003)」などは、バリバリの民主党支持者ティム・ロビンスと、自称「共和党でも民主党でも緑の党でもない無党派」ながらイラクを侵攻したブッシュ政権を激しく批判したショーン・ペンと主義主張を越えて手を結んで作り上げた前代未聞の作品なのだそうです。そんなイーストウッドが次なる監督作品として選んだ題材が太平洋戦争の中でも有数の日米の激戦が展開された猯臆島の戦い・・・しかもひとつの作品ではなく日米の兵士達それぞれ別の視点から二部作として描く・・・でした。そして米海兵隊を語る上で猯臆島の戦いは忘れる事の出来ない戦いであり狎鉢山の山頂に翻る星条旗瓩亮命燭蓮∧導な実發自らの血によって勝ち取った武勲と栄光の象徴としてアメリカ人の殆んどが知っていると言っても過言ではありません・・・しかし我々日本人にとって猯臆島の戦いと言っても、かつて「パール・ハーバー(2001)」公開時の観客インタビューの中で狷本とアメリカが戦争をしていたなんて知りませんでした瓩伴慢気に言うネェちゃんたちが大勢いた様に、高齢の戦争経験者や戦史研究者、そして一部の軍ヲタな方々を除けば、殆んど忘れられた存在でしかありませんでした。

【古今東西・・・戦争映画で描かれた猯臆島の戦い瓠
前述の通りイーストウッドは『ハートブレイク・リッジ』において、米海兵隊とは深い関わりを持っています。その米海兵隊を語る上で猯臆島の戦いは避けて通れません・・・しかし逆説的に考えると、この猯臆島の戦いは米海兵隊にとっては、一番話題にされたくない戦いとも考えられるのです・・・何故かって?・・・太平洋戦争中、太平洋上の大小多くの島々において日米両軍の死闘が繰り広げられましたが、その殆んど全ての戦闘において、米軍は圧倒的物量による兵力・火力において日本軍を圧倒し、一部で日本軍守備隊の善戦は見られたものの、結果的に犇椋姚と言う結末を辿っています。そんな中で猯臆島の戦いは、最終的に日本軍守備隊は狒缶猫して島は米軍の手に陥ちましたが、米軍の戦傷者数が日本軍のそれを上回った唯一の戦いだったのです。そんな訳からか、これだけ有名な戦いの割には、ハリウッド製戦争映画の題材として余り描かれてはいません。しかしそれは・・・ジョン・ウェイン主演の『硫黄島の砂(1949)』が有名過ぎるからじゃないのか・・・と言う方も多い様ですが、私ATFはその意見に素直に納得は出来ないのです。『硫黄島の砂(1949)』は、アメリカを代表する俳優ジョン・ウェインを語る上でも忘れる事の出来ない映画です。しかしこの『硫黄島の砂』の中で描かれた猯臆島の戦いは、映画終盤の20分程度の尺でしかありません。資料によれば、この『硫黄島の砂(1949)』は、合衆国において第二次大戦終戦後に軍備縮小の声が昂まる中、合衆国四軍中まず槍玉に上がったのが海兵隊(・・・陸軍があるから要らんわい・・・という主張から)だった事から、米海兵隊首脳部が自らの栄誉と存在意義を国民にアピールする為の宣伝映画だったのでした。その為、撮影に当っては米海兵隊が全面協力(車両と兵器の貸与・兵士のエキストラ参加・訓練基地の使用許可等)しています・・・そのくせ海兵隊は車両の燃料経費やエキストラに参加した兵士の食費等をしっかり請求して損はしていないそうです。結果的には、部下を一人前の海兵隊員に育てて死んで逝く鬼軍曹を好演した爛潺好拭璽▲瓮螢瓮献腑鵝ΕΕДぅ鵑凌裕い發△辰董興行的に大ヒットして海兵隊への志願者が増加、海兵隊首脳部の思惑は見事に成功した・・・実は公開翌年の1950年6月に朝鮮戦争が勃発したので、海兵隊首脳部の心配は余り意味が無かったんじゃないかと思えますが・・・のでした!またジョン・ウェイン演じるストライカー軍曹が戦死する直前に、摺鉢山の山頂に掲揚する為の星条旗を手渡す三人の海兵隊員役で、実際に星条旗を掲揚したジョン・ブラッドレー、アイラ・ヘイズ、レイニー・ギャクノンが出演しているのですが、ワンシーンのみで映画の宣伝の為の話題作り程度でしかありません。そんな訳で『硫黄島の砂』と言うタイトルの割には猯臆島の戦いが中心の作品ではありませんでした。と言って、この『硫黄島の砂』以外にアメリカ製映画で猯臆島の戦いを描いた作品は・・・と聞かれても直ぐに思い当たるのは、唯一トニー・カーティスがアイラ・ヘイズを演じた『硫黄島の英雄(1961)』くらいです。私ATFは、この作品を未観戦なので想像の域を出ないのですが、あらすじを読む限りでは猯臆島の戦いそのものよりも、平凡な兵士が英雄に祭り上げられて戦時国債のPRに利用され、その後に辿る悲劇に重点が置かれて描かれているのではないかと思われます・・・実際のアイラ・ヘイズは、戦後精神的な疲労からアルコール依存症となり1955年1月に亡くなっているので、彼の死後6年程で摺鉢山に星条旗を掲揚した英雄達の虚構が脚色されながらも映画化された事は、高く評価されるに値すると思われます。余談ですが、この『硫黄島の英雄(1961)』の製作を担当したサイ・バートレットという人物は、何と戦前ロサンゼルス滞在中の西竹一男爵と親しく交流し、また戦時中は米陸軍航空隊の情報将校として本土爆撃に参加・・・占領後の硫黄島に不時着した時に西中佐の安否を尋ね周り、戦後映画プロデューサーとして成功した後の1965年に東京麻布の西未亡人宅を訪れ(この時、俳優のケーリー・グラントも同行)、靖国神社で自ら故西竹一大佐の慰霊祭を催して弔事まで読んだそうです(・・・一説に彼が西中佐に投降を呼びかけたと言う説もある)・・・因みに戦争映画ファンに馴染みの深い戦争映画に製作や脚本家として関わってもいます。
因みに邦画において猯臆島の戦いを題材とした映画は、日本映画界を代表する俳優の一人だった宇野重吉氏が監督し、組織的抵抗の終った硫黄島を舞台に生き残った日本兵たちが辿った運命と生還者の苦悩をサスペンスタッチで描いた『硫黄島(1959)』と、ミッドウェー敗戦後に海軍の基幹となるべき中堅幹部の養成を目的に、予科練等の志願年齢であった16歳よりも低い14〜15歳で採用した少年兵たちが硫黄島に配属され、地獄の戦場で散って逝く悲劇を描いた『海軍特別年少兵(1972)』くらいでしょうか・・・。

【イーストウッドと硫黄島二部作】
1994年1月11日午前2時12分・・・摺鉢山の山頂に星条旗を掲げた6名の英雄の最後の生存者ジョン・ブラッドリーが亡くなった・・・享年71歳。彼の死後、息子であるジェイムズ・ブラッドリーが亡父の遺品の中から、亡父が摺鉢山の星条旗掲揚者として得た写真や書類そして手紙を発見しなければ、この硫黄島二部作を私たちが観戦する事はありませんでした。ジョン・ブラッドリーは、戦後生まれ故郷のウィスコンシンの片田舎の町に戻り、幼馴染と幸せな結婚をし、念願だった葬儀社を開業し、8人の子供を得、そして一生を終えるに当たって、自分が摺鉢山の星条旗掲揚者の一人だった事実を、墓場の中まで持って行くつもりだったからです・・・つまり息子が亡父の手紙を見つけたのが最初の幸運。そして亡父の手紙を読み、亡父が決して語らなかった摺鉢山の星条旗掲揚者について息子ジェイムズ・ブラッドリーが興味を持った・・・これが二番目の幸運。その後6年近くの歳月をかけて資料を調査し、関係者にインタビューした結果をまとめたジェイムズ・ブラッドリーが、出版の企画を27社もの出版社に持ち込みながら、その全てで相手にされなかった時、28社目の出版社の一女性編集者が企画に興味を持った・・・三番目の幸運。そして執筆活動は全くの素人だったジェイムズ・ブラッドリーがピューリッツァー賞作家ロン・パワーズに出会った・・・四番目の幸運。やがて出版されたノンフィクション作品『硫黄島の星条旗/FLAGS OF OUR FATHERS』は一躍ベストセラーとなった・・・五番目の幸運。そのベストセラーにイーストウッドが興味を持ち、是非映画化したいと思った・・・六番目の幸運。しかしイーストウッドが映画化権を取得するには資金的に問題があったのだが、スティーヴン・スピルバーグの協力があり映画化権を取得出来た・・・七番目の幸運。イーストウッドは当初監督するつもりはなかったが、スピルバーグ自身は自分が監督するのは無理と、イーストウッドに監督を薦めた・・・八番目の幸運。イーストウッドは監督を引き受け、自ら猯臆島の戦いについて調査する内に、日本軍の作戦や将兵(指揮官栗林忠道中将)にも興味を持ち、日米双方の兵士の視点から全く別々の映画を製作する事を思いついた・・・これが九番目の幸運。こうして幾度もの幸運が重なって、私たちは硫黄島二部作を観戦する事が出来たとも言えます。それではイーストウッドは、何故一本の作品ではなく二部作として撮影したのか?
イーストウッドが自らが【父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙】公式サイトの中で牴甬遒寮鐐莟撚茲梁燭は、善悪が明確に区分され描かれているが、人生も戦争もそんな単純な区別は出来ない瓩判劼戮討い泙后3里に戦争映画の大部分では敵方のドイツ軍や日本軍、ベトコン等は大抵悪役です。スピルバーグ監督作『プライベート・ライアン』でさえ、観方によっては、次第にドイツ軍憎しという感情が湧いてきます。反面敵味方を公平な立場で描いた作品(『トラ・トラ・トラ』等)や、敵よりは自軍内部の不条理を描いた作品(『戦争のはらわた』等)には名作や秀作と呼ばれる作品が多いのも事実です。
猯臆島の戦いでは、当初米海兵隊指揮官ホーランド・スミス中将が狎衫里泙任砲5日くらい瓩犯言していました。しかし実際には日本軍守備隊指揮官栗林中将の優れた作戦指導により、当初予測の7倍もの日数が掛り、更には勝った米軍が日本軍よりも大きい死傷者を出しています。しかしその結果の影には、米国側には、次第に昂まる軍の作戦指導への批判や米海兵隊指揮官の更迭論と言った世論があり、そんな世論の目を逸らすものとして意図的に作り上げられた二つの虚構・・・狎鉢山の山頂に掲げられる星条旗の写真狎云魎を掲げた6名の英雄がありました。また日本軍守備隊は、総指揮官である栗林中将は駐在武官として米国力の実情を熟知しており、また家族への手紙を絶やさない良き父親であり、更に戦車第26連隊長西中佐は、ロサンゼルスオリンピックの馬術障害競技の金メダリストで、欧米各国の社交界に多くの知人を持ち、また戦場に愛馬ウラヌス号の鬣一束を持参する程に馬を愛していた・・・排他的な日本陸軍の内部にあって将に最も敵を知り、最も己を知る人物と言える指揮官に率いられていたのでした。
これ程に興味深い日米両軍将兵にまつわるエピソードがありながら、例えば、これらエピソードを『史上最大の作戦(1962)』や『パリは燃えているか(1966)』『空軍大戦略(1969)』『遠すぎた橋(1977)』の様に、時間軸のあちらこちらに散りばめて、ひとつの戦いの流れを描いて行く戦争映画(いわゆる時系列系大作戦争映画)や、『バルジ大作戦(1965)』や『レマゲン鉄橋(1969)』の様に、相対する両軍の指揮官や個々の将兵の動向を二本の軸として、戦いの流れを描いて行く戦争映画(いわゆる相対軸系大作戦争映画)として、一本にまとめるには映画の尺が長くなり過ぎるだろうし、下手をすればそれぞれのエピソードが持つ素晴らしい輝きを汚しかねません。やはりイーストウッドが猯臆島の戦いを一本の作品の中で勝者と敗者を明確に線引きするのではなく、日米双方の視点で自らの意思とは異なる運命の渦に巻き込まれていく人々の姿を、それぞれ別の硫黄島二部作として描いた事は、映画的に最良の選択であったと思われる・・・のです。

2006年10月28日に『父親たちの星条旗』公開に続き、12月9日に『硫黄島からの手紙』が公開され、日本国内でも好成績を収めている様ですが、ATF的に観ると・・・次回に期待を持たせつつ観戦記は【続くのであった!】

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