ATFの戦争映画観戦記



【File098】あゝ邦画戦争映画は燃えているか・・・Shall We タンク!【中編】

2003年10月31日(金)

さて一ヶ月以上もお久しぶりの観戦記・・・今回も字数の関係で早速本編に突入だ。前回に引き続き邦画に関係した狎鐚岫瓩里話・・・それでは開演《開演ブザー》。いつものように携帯電話の電源はOFFにして。【恒例/この記述には資料的価値はない】

【花とシネマのドリームランド】
先日ある書店で立ち読みしていた時、ふと目に留まったのが『珍日本紀行』(筑摩書房刊/都築響一編)という文庫本・・・日本全国津々浦々の変わったテーマパークや博物館とか建造物、お店等を紹介した本で「東日本編」「西日本編」の二冊からなり、なんと一冊が1800円、文庫本にしては破格な値段だが一冊の厚さが2cm近くもあり、それなりの値段だと言われればそうなのだが・・・興味を引かれ手に取りページをパラパラと捲っていたところ、その「東日本編」の中のひとつの紹介記事が目が留まった・・・それは北海道の夕張にある花とシネマのドリームランドという地方テーマパークの記事・・・何のテーマパークか・・・まぁ読んで字の如しなのだが・・・旧夕張炭坑跡の広大な敷地に、四季折々の花々約12万株が植えられ、更に映画に因んだモニュメントなどを設置、四季それぞれに美しい花々を楽しむ事ができる・・・というテーマパークである。で何故シネマなのか、と言うと・・・夕張と聞いて映画でまず思い出すのが「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」である。これは国際映画製作者連盟が公認する格式高い国際映画祭のひとつで、毎年二月中旬に国内は勿論の事、世界各国から著名な監督や俳優が審査員・ゲストとして招かれ盛大に開催されているのは、御存知の通り。更に夕張と言えば名作『幸福の黄色いハンカチ』のロケ現場。ラストシーンの黄色いハンカチがはためく炭鉱の社宅が当時のままに再現され、映画のパネル写真や訪問者の願いを書いた寄せ書きなどが展示されている。そんな訳で夕張は牘撚茲猟であり、その象徴として花とシネマのドリームランドが存在するらしい・・・ジュリー・アンドリュース(サウンド・オブ・ミュージック)の巨大パネルが訪れた者を驚かせる・・・と言った一風変わったテーマパークではあるが・・・。さて、その花とシネマのドリームランドの紹介記事に目が留まった原因・・・それは、その中に載っていた一枚の小さな写真が原因だった!横2cm×縦1.5cm程のチッポケな写真には、な、な、何と戦車が写っていたのである!なんでこんな所に戦車があるんだ・・・それにしてもこんな戦車見た事ないぞ?・・・一体この戦車の正体は?・・・と言う訳で、この花とシネマのドリームランドの謎の戦車について、暫しお付き合いを!

【北海道の片田舎で朽ち果てている狷罎寮鐚岫瓠
ATFの興味を引いた謎の戦車・・・果たしてこの戦車の正体は・・・って大騒ぎするまでもなく、正体はいとも簡単に解ってしまった・・・この牴屬肇轡優泙離疋蝓璽爛薀鵐畢瓩Googleで検索したら、ヒットしたサイトやHPの中で何の躊躇いもなく紹介されていたのだ・・・その戦車、実は映画『226(1989)』で使用された戦車だった。それにしても何故、その戦車がこんなところにあるのか・・・Googleでの検索の結果から判明した事実によれば、どうやら『226』の監督である五社英雄氏(「三匹の侍」「鬼龍院花子の生涯」「吉原炎上」等)が、夕張市に寄贈した、と言う事らしい・・・それ以上は不明・・・何じゃソリャ?

【二二六事件】
この戦車について書く前に、映画『226』の題材となった「二二六事件」について簡単に説明しよう。まぁ軍オタを自称される方には牴燭鮑9広・・・な事ではあろうが、暫しお付き合い願いたい。「二二六事件」・・・1936年(昭和11年)2月26日早朝・・・雪が降りしきる中、国粋主義に心酔した陸軍の一部青年将校たちに率いられた歩兵第一連隊、歩兵第三連隊そして近衛歩兵第三連隊の下士官兵約1500名が「昭和維新」を旗印として決起、重臣を殺害し首都東京の中枢部・・・首相官邸・陸軍省・警視庁等・・・を四日間に渡って占拠した、日本近代史上有数の内乱事件。一部では軍事クーデターとも言われるが、事件を首謀した青年将校たちは、自らが政権奪取を目論んだ訳ではないので、一般的な意味での爛ーデターとは異なる。

【事件の背景】
1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌以降、日本国内でも農村部の困窮と疲弊、都市部における企業の倒産と失業者が増大・・・一方で政財官の癒着や汚職が蔓延し、軍部の青年将校を中心として、それらの根源を腐敗した元老・重臣による悪政とそ、天皇を取り巻く「君側の奸」を排除すべし、という「昭和維新」思想が広まりつつあった。そんな内憂とともに、日本国内の不況を打開する為の政策として、勢力を朝鮮・満州に伸ばしつつあった日本に対し、欧米列強は自分たちの権益を脅かす存在として、経済制裁による様々な圧力を加えており、これが外奸となっていた。そんな中、軍部では、窮状打開の政策を巡って派閥抗争が繰り広げられていた。主に各部隊付きの青年将校を中心として北一輝や西田悦らの思想を根本とした天皇親政による国家革新を唱える犢墜伺畢、総力戦・戦時経済体制の国家を確立し、合法的手段によって政財官界への軍部の発言権を増大させようとする陸軍省や参謀本部の幕僚将校を中心とした狹制派、この二大派閥による陸軍内部の主導権争いの激化する中、1935年(昭和10年)皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭に怒った相沢三郎中佐が、統制派の先鋒永田鉄山軍務局長を斬殺する事件が発生・・・青年将校たちは相沢裁判をキッカケとして、、それを荒木貞夫や真崎ら皇道派の将官が支持、両派の対立は益々激化していた。

【決起事件の経過】
〇件一日目2月26日午前五時過ぎ
■歩兵第三連隊(a)野中隊(500名)・・・警視庁占拠。一部は朝日新聞社を襲撃。(b)安藤隊(204名)麹町三番町の鈴木侍従長邸襲撃・・・拳銃で鈴木侍従長を負傷させ軍刀で止めを刺そうとしたが、夫人の懇願により果たせず・・・これによって鈴木侍従長は一命を取り止めた。(c)坂井隊(210名)・・・四谷仲町の斎藤実内大臣私邸を急襲し斎藤実内大臣を射殺。(d)高橋・安田隊(30名)+田中隊の一部・・・杉並の渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸へ向かい、拳銃で応戦した渡辺総監を射殺。
■歩兵第一連隊(a)栗原隊(280名)・・・首相官邸を襲撃。察官4名を射殺、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐(首相の義弟)を射殺。岡田首相は女中部屋の押入に隠れて助かる。(b)丹生隊(170名)+田中隊の一部・・・陸軍大臣官邸占拠。陸相他陸軍上層部への工作を行う。(c)河野隊(8名)・・・熱海湯河原の牧野伸顕伯爵別荘を襲撃するも、伯爵は無事救出される。この時河野寿大尉は負傷し部隊と合流出来ず、陸軍第一衛生病院熱海分院に収容。
■近衛歩兵第三連隊(a)中橋隊(130名)・・・赤坂の高橋是清大蔵大臣私邸を襲撃して高橋蔵相を射殺。
■歩兵第七連隊(a)田中隊(14名)・・・市川よりサイドカー・乗用車・トラックにて東京に進出。半数は高橋・安田隊に合流。残りは丹生隊と合流。
事件発生後、皇道派将校は決起部隊を擁護し事件の「穏便な解決」を目論んでおり「お前達の決起の主旨は天皇陛下の耳に達した」という説得文を作成、速やかに占拠を解けば、事件は不問に付すという様な妥協案を練っていた。しかし事態は皇道派の思惑通りには運ばず、予想し得なかった事態・・・天皇自身が激怒、決起部隊を「暴徒、叛乱軍」と呼び、川島陸相に「叛乱の速やかなる鎮圧」を強く命じた・・・体勢は「叛乱軍の強硬鎮圧」へと傾く。杉山参謀次長は第一師団の東京出動を命じ、東京に戒厳令を布告、海軍も横須賀から第一水雷戦隊を急派、特別陸戦隊を芝浦に上陸させ、また土佐沖で訓練中だった連合艦隊から第一艦隊を東京湾へ、第二艦隊を大阪沖へと向かわせた。
∋件二日目2月27日
天皇は事態の収拾に手間取る陸軍の対応に苛立ち「自ら近衛師団を率て鎮圧に出動する」と言われ、陸軍首脳部を混乱させた。東京湾に到着した第一艦隊は全砲門を東京市街に向け決起部隊を威嚇。そんな中、安否不明だった岡田首相の生存の情報が伝えられた。事態は決起部隊にとって一層不利となった。
事件三日目2月28日
夕刻、遂に「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下る。この時、青年将校たちの「昭和維新」の夢は崩れ去る。
せ件四日目2月29日
早朝より決起部隊に対し「今からでも遅くない」という原隊への帰隊勧告が行われた。昼過ぎから決起各部隊の帰隊が始まり、青年将校中最強硬派であった安藤大尉の拳銃自決(未遂に終わる)を最後に、事件は終息。
セ件後の経過
参加した各部隊(下士官兵)は大陸へと転属させられ、後に多くの戦死者を出す。3月4日から特別軍法会議が開かれたが、然したる審議も行われないままに結審。最終的に翌年8月19日までに関係者19名の死刑が執行された。青年将校彼らの行動を支持した皇道派将校たちは不問となったが、陸軍部内における勢力は衰え、逆に東条英機ら統制派が主導権を掌握、1937年(昭和12年)7月7日蘆溝橋事件が勃発し、日本は軍部主導によるファシズムの道を一直線に進んで行く・・・青年将校たちが目指した側近政治の打破、財閥の解体、農地解放が達成されるのは、太平洋戦争敗戦後のGHQ占領下であった・・・と言うのは歴史の皮肉である。

【映画「2/26」】
この映画は、事件の4日間を中心にドキュメントタッチの時系列式にドラマが進んでいく。過去にもこの事件をテーマとして描かれた作品は何本か製作されている・・・「叛乱(佐分利信監督/1954)」「憂国(三島由紀夫監督/1966)」「戒厳令(吉田喜重監督/1973)」「動乱(森谷司郎監督/1980)」・・・が、それらと観比べると、明らかに演出技法は異なっている。大体この手の作品では爐海譴泙任料洞抬疆な導入部分で簡単に物語の前後関係などを紹介するのだが、この作品にはそれがない・・・よってある程度は事件の背景や事情を知っていなければ、一体どうしてこうなったのか・・・この後どうなるのか、が全然想像出来ず、実に解り難い・・・。しかし松竹、いや当時の日本映画界の総力を結集して製作された大作で、日本を代表する俳優陣が多数出演・・・俗に言う爛ールスターキャスト瓩箸燹大スター総出演瓩箸・・・その顔ぶれの凄い事!って事はハッキリ言える。だが興行成績は、決して芳しくなかった・・・その理由は・・・まずハッキリ言って一般観客が好む狄恋ネタ=ラブストーリー瓩少ないのだ!それは俳優陣に比べ女優陣の出番が極めて少ない事からも解る・・・映画の終盤で、一部青年将校たちの回想シーン・・・幸福な瞬間・・・が挿入されているが、狄恋疆シーンと言えるのは殆どここだけ。五社英雄監督と言えば、過去の作品では男女の情念を描いた作品が多く定評もあるのだが・・・。そしてもうひとつ・・・この手の爛ールキャスト疂ではよくあるのだが、主要な登場人物の多さから、一度観たくらいでは誰が誰やら、どのくらい重要な役なのかチョイ役なのかがよく解らない。だが何度も言うがドキュメントタッチで事件の発生から終焉までの流れを描写した手法は秀逸!国家を憂う青年将校たちの純真さ、反面上官の命令に盲目的に従っただけで決起の意義も解らない兵士たちとの心情のギャップ、優柔不断な軍上層部の態度等良く描かれている。未見の方には、是非一見をおすすめする・・・野中大尉(萩原健一)安藤大尉(三浦友和)河野大尉(本木雅弘)それぞれの自決シーンは、邦画戦争映画中で描かれた軍人たちの自決シーンの中でも屈指の演出である。

【オイオイ、戦車はどうしたんだよ・・・】
おっと、そうだった!ちょっと入れ込んで書いてしまった。それでは閑話休題。花とシネマのドリームランドの駐車場横に無造作(将に猜置)に置かれた爍歌召寮鐚岫・・・看板の説明によれば牘撚茵孱横横供彁1討琉戮棒什遒気譴神鐚岫(以後称す:226戦車)で撮影後、五社英雄監督の厚意により、夕張市に寄贈された、とある。しかしそれ以上は不明。さてここからが、当観戦記の本領発揮だ・・・勇んで検索サイトを駆使し、この「226」の戦車の正体について調べる事にした・・・のだが、見事に撃退されてしまった。その正体については、サイト上の情報では殆んど不明なのである。戦争映画サイトCROSS OF IRONの「戦車が登場する映画会議室」に書き込まれた情報によれば、どうやらブルドーザーを改造した戦車である事は解った。

【三両製作された226戦車】
その型状を見れば、この戦車の車体の特異性が解る・・・異常なほどの車高の高さ・・・よく見ると、あのヘンテコな砲塔・・・なんと搭載砲(機銃)の直下に展視孔がある・・・なんであんなところに展視孔があるのか・・・と疑問に思ったのだが、考えてみれば、あの位置が丁度ブルドーザーの操縦席の位置に合いそうだ。劇中では戦車長がずっと砲塔上に身体を晒しているが、操縦者が砲塔内の操縦席にいる関係で、砲塔内にアレ以上入れないのではないか。実際に戦車の中を見た訳ではないが、本来の操縦席や前方機銃は全くのダミーと言ってほぼ間違いなかろう。転輪懸架装置がない為に走行中の振動が激しく、低速でゴトゴト乗り心地が悪そうなのは、山王ホテルに立て篭もる決起部隊に帰順勧告を行うシーンを見ても一目瞭然。この226戦車だが、映画中では三両が確認できる。それ以上の台数が登場しているシーンは多分合成だ。夕張にあるのは、この内の2両なのだが、そうすると残り一両は?・・・ところが、この残り一両の行方も簡単に判明した。なんと、かの有名?な那須の戦争博物館で、派手な迷彩塗装をされて展示されている。その戦争博物館について書いていたら、それこそHPが出来てしまうので、涙を飲んで割愛する。しかし凄い?ところだと言う事は強調しておく。さて戦争博物館に展示されている226戦車(ここでは大陸で使用された日本軍戦車という全く出鱈目なキャプションがつけられている)の写真を見ると、懸架装置が全くのダミーで転輪もひょっとしたら動かないのではないか・・・とも思えてくる。
※この226戦車、映画公開前に売りに出されていた・・・価格は150万円!那須の戦争博物館の名物館長さんは、この値段で購入したのだろうか・・・アームズマガジン1989年4月号に広告が掲載されていたそうだ。

【果たして、この226戦車のモデルとなったのは?】
見ようによっては色々と想像できる。97式?95式?ニニ六事件の実写フィルムを見た記憶では、戒厳部隊の戦車として登場するのは89式である(・・・一説では山王ホテル前に停車している92式重装甲車の写真があるらしい)が、どう見ても89式には見えない。しかしながら97式や95式と言われても納得し難い(前述の販売広告には97式と書いてあるが)。どう見ても砲塔に装備された火器は戦車砲ではなく、機銃だ(そんな事言ったら前回の馬鹿戦車だって94式をモデルにしてるのに戦車砲を搭載してるぞ・・・!)そんな風にアレやコレやと考えていると頭が混乱して来た。睡魔によって思考力も低下している・・・もうどうでもいいじゃん、そんな事(悪魔が耳元で囁く)・・・いやここまで読んでくれた観戦武官諸士の為にも、結論はハッキリ出ださなきゃダメだッ(碇シンジ風/一方で天使が囁く)朦朧とした意識の中で達した結論・・・それが92式重装甲車だった。92式重装甲車・・・騎兵部隊の機械化の為、火力と装甲を犠牲にし軽く高速な装甲車両を・・・との要求を基に、1931年石川島自動車製作所(後いすゞ自動車)が試作、翌32年完成。社内名称「スミダTB型92式軽戦車」・・・満州事変勃発により急遽採用・実戦投入された。しかし運用レベルで武装の貧弱さや重量の軽さによる踏破性の悪さ、エンジンの耐久性の低さという多くの欠陥が指摘された。重量軽減の為、それまでのボルト留め装甲を止めて溶接構造を採用。歩兵用として大型過ぎて不向きだった93式13mm機銃(オチキス機銃の改良型だが威力不足)を車体全面に搭載。当初「軽戦車」という名称を用いる予定であったが「戦車」という名称は歩兵科の兵器名称なので、騎兵部隊として使えず、結局「装甲車」と言う名称を用いた、という変な経緯がある。1933年から量産され、以後1939年まで毎年少数(総数167両)が生産された・・・大工場ではなく中小の工場を中心に犲蟶遒雖瓩剖瓩し舛農源困気譴唇戞∋斗佑砲弔い討聾帖垢紡拭弘曚覆襦F辰謀称悗禄藉型は小径ゴム転輪片側四個(懸架ニ組)中期型には六個(懸架ニ組)後期型では中径ゴム転輪四個となっている。民間からの献納車体(愛国号)も多数存在。主に関東軍と朝鮮軍の部隊に配属され、少数編成で歩兵部隊の直協として運用される場合が多く、現役期間も短かかった。1937年以降は多くが95式軽戦車に改編され、一部が二線部隊で後方警戒に使用。車体が縦長で操舵性が悪く、懸架装置の耐久性も弱かった為、94式軽装甲車の方が前線では人気が高かった・・・。

邦画の場合、自衛隊の協力がない限り、国内の撮影で本物の戦車を登場させるのは困難な事は前回も書いた。そこで製作スタッフが苦労して撮影用のプロップ=ハリボテ戦車を作り上げねばならないのだが・・・その結果この「226」では、紹介した様な戦車が登場する運びとなったが、その製作スタッフの苦労は計りし得ない。観客である我々は「全然似てねぇ〜じゃ〜ん・・・」とケチをつければそれまでだが、それは製作スタッフに対して礼を失している。以前から言っているが「戦争映画(兵器の登場する映画)は作っても貰えるだけでも感謝しなくてはならない」のだ。まぁ苦労してブルドーザーを改造し、実車とは余り似てないぞ、と言われる車両を製作したとしても、訳のわからない物体(例えばインディージョーンズに登場したような・・・)を丁稚上げられるよりは、モデルの戦車が○○式だとかまだ想像できる方が、この手の薀蓄ネタの記事を書く身にとっては、全くありがたいのである。しかし夕張の牴屬肇轡優泙離疋蝓璽爛薀鵐畢瓩226戦車だが・・・どことなく南方の戦跡で朽ち果てている日本軍戦車の雰囲気を醸し出してなくもないなぁ〜ッ!このまま錆びて屑鉄の固まりになってしまうのか・・・などと感慨に耽ってしまう今日この頃であった・・・【まだまだ続く】

【一部修正20031101】爐泙弔爐畦有畩霾鵑砲茲螳貮内容を加筆

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