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2023年05月27日(土)
イキウメ『人魂を届けに』

イキウメ『人魂を届けに』@シアタートラム


そして、この物語を観客に届ける演者も自身の魂を削っているのだと考える。演じる対象こそが演者の身体を、心を傷付けてはいるのかもしれないと考える。誰かが泣いている? 演劇の恐ろしいところだ。だから観客も彼らを信じ、敬意を払う。目を凝らし、耳を澄ませ、しかと向き合う。この繊細な舞台が壊れないように。創り手の覚悟を受け止められるように。

この日の客席は理想的だった。開場後のロビーはそれなりにざわめいていたが、ひとたび劇場に入ると、客席は静まり返っている。入場後すぐ目に入る、耳に届く舞台の佇まいがそうさせたともいえる。教会の入口のような天井の高い居住スペースと調度品(美術:土岐研一)、その場所が森の中にあると即座に想像出来るひんやりとした日差し(照明:佐藤啓)、定期的に聴こえてくる鳥のさえずりとピアノの一音(おそらくチューニングの基準となる「A」=「ラ」)(音響:青木タクヘイ)。この場所に足を踏み入れた者がどう過ごせばよいかのガイドとなるような場づくりが施されていた。

チラシと当日パンフレットとでは、あらすじの文言が若干変わっている。クリエイションの過程で、「現在」に向き合った結果といえる。なので今後この作品が再演されることがあれば、またその姿は変わっているだろう。魂を届けにやってきた刑務官。彼を受け入れる「母」と「森に迷う者」たち。彼らは、今後この国の在りようによって、姿を消すこともあるだろう。傷ついた者が誰もいなくなることこそが理想だ。彼らの存在を隠される、なかったことにされるのではなく。

コミュニティとは? 社会生活を送るための制度とは? 何もかもが一筋縄ではいかない。断言も断罪も出来ない。登場人物たちはひたすら言葉を尽くす。その言葉に耳を傾け乍ら、それを聴いている(その言葉を向けられている)相手の姿を見る。目を見る、仕草を見る。彼らはどんな表情でその言葉を受け取っているか? 或いは拒絶しているか? 目を凝らすと、みるみる断言出来ないものが浮かび上がる。イキウメ作品の出演者は総じて声が良い。発声、滑舌といったスキルがしっかりと基盤にあり、ジェンダーを問わない言葉遣いで書かれる台詞を観客に伝えることが出来る。

その上で、今回の大窪人衛の目、藤原季節の目には、言葉を尽くしてなお足りない、言葉では表現出来ないものがあると思わせられる強い力があった。彼らが起こした(或いはこれから起こすかもしれない)行動が予感出来るような目。恐ろしく、寂しい目。キャパ300弱の劇場だからこそ伝わる繊細な演技でもある。

見事だったのは浜田信也。幕開けの「押し買い」についてレクチャーする人物、検死官、「恋人を亡くし(失くし、かもしれない)死のうとした」人物、刑務官の「妻」をシームレスに演じ、尚且つ「今、どの人物?」といった観客の混乱を呼ばなかった。表情と所作の変化で、いつの間にか違う人物になっている。特に驚かされたのは、声色を変えていなかったことだ。声を高くしたり、歪ませたりといったことはしない。しかし、ちょっとした言いまわし、語りのスピード、語尾の変化であらゆる役を行き来している。拵えの力も大きい。ワンレングスのショートカットの分け目(ヘアメイク:西川直子)、緩やかで柔らかなスモックとパンツ(衣裳:今村あずさ)。職業も性別も、そのままの姿で“変える”ことが出来るものだった。

登場人物全てとやりとりをするのは刑務官を演じた安井順平だけだったように思う。彼の受けの演技にはいつも舌を巻く。端々に込められるユーモアと哀愁の塩梅も素晴らしく、彼によって相手の違う面が見えてくることも多い。自身の疲弊に無自覚で、抑制の効いた人物。そしてどこかで奇跡を待っている人物。奇跡が起こり、そんな彼が感情を爆発させる。その変化。出されたお茶やスープに感激しつつ、それでもちょっとだけ「ごぼうだけじゃちょっとクセが強いな、野菜だけじゃ物足りないな」と思ってるんじゃないかな、と思わせられる(微笑)繊細な言葉遣い。彼がいるから、イキウメの一種寓話めいた、一歩間違えれば宗教色が濃くなり身構えかねないストーリーをサーフしていける。

そして篠井英介。森に迷う者からすれば「母さん、ママ」である人物は、公安からすれば「扇動者(魔女?)」かもしれない。そして刑務官にとっては、「極刑を受けた犯罪者の母親」から「キャッチャー」へとその印象を変えていく。観客には、篠井さんが長年かけてつくりあげた「現代演劇における女方」への信頼がある。長年、本当に長年だ。強く、優しく、慈愛に満ちた毒舌な女性。自身の悲しみを、憎しみを押し殺し(きっと許してはいない)、他者へ尽くす女性。こちらがそう思い込むには充分な説得力。篠井英介という唯一無二の女方こその演技だ。

ところが終盤、そんな演者と観客の信頼関係を逆手に取った、掟破りともいえる出来事が起こる。またそれも、篠井英介という女方にしか出来ないことだ。公安警察が放ったあの台詞は、一言で演者と観客の信頼関係を破壊する行為となる。セクシュアリティとは、アウティングとは、そして演じる者の魂を削る行為とは。あの瞬間、様々な情報と痛みが頭に浮かんでは消えた。

一歩間違えば笑いが起こるかも知れない。それは女方への無知や偏見から起こりうる。そして、そういった観客を拒絶することは出来ない。しかし、彼らはこのシーンを創り上げた。演者にも、それを要求したホンと演出にも覚悟のいるシーンだったと思う。恐らく二度は使えないフック。このシーンが出来上がる迄のやりとりや稽古の過程を想像し、脱帽する思いだった。

さて、素足の彼らが靴を履き、“街”へ戻るのはいつだろうか? 鶏鍋が食べられるのはいつのことだろう? それは歓迎ではなく送別のごちそうとなるか。『手ぶくろを買いに』みたいな話でもあった。「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」。

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・前川知大×浜田信也×安井順平インタビュー〜イキウメ最新作『人魂を届けに』は童話のようでありながら現実と地続きの物語┃SPICE
前川:中国には「魂魄(こんぱく)」という言葉があって、「魂」も「魄」も両方とも「たましい」という意味なんですけど、魂は死んだら天に上っていくけれど、魄は死んだ肉体に残り続けると言われていて、魄が残っているから肉体を焼かないといけない、という考え方なんだそうです。

・といえば魂、『岸辺露伴は動かない』のくしゃがらの袋綴じみたいなルックでしたね(微笑)。21gよりは重そうだった


篠井さんが被っていたスカーフはプラトーク、森の中の家はダーチャ……成程と膝を打つ。備蓄として干し野菜をつくるところも。まあイキウメ(前川さん?)は普段から干し野菜好きだけどね(笑)

・それにしても浜田さん所作から何からお綺麗でした。篠井さんに色々習ったのかな



2023年05月20日(土)
『虹む街の果て』

『虹む街の果て』@KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ


そういえば『皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと』には木内みどりさんが出演してらしたわねえ、緑繋がり……なんてどうでもいいことを思い出しつつ観てしまったのだった。

いや、どうでもいいということでもないのだ。『皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと』はベニサン・ピットで上演されたのだが、『虹む街』および『虹む街の果て』のセットは過去ベニサンで上演された『血の婚礼』を彷彿するセットだった。雨が降り続くコインランドリーというシチュエーションも同じだ。

webに当時の画像が見つからないので、2011年上演版の記事を。世界観は同じ。
・大規模修繕劇団「血の婚礼」フォトコール@にしすがも創造舎体育館特設劇場┃おけぴネット

『血の婚礼』上演記録はこちら。1986・1993・1999・2011年の4演中、1986・1999年の2演がベニサンで上演された。
・血の婚礼┃清水邦夫著作リスト

染色工場をリノベした劇場。ペニノやタニノクロウ演出作品とベニサンは相性いいだろうなあとずっと思っていた。実現しなかったそれを観られたようで嬉しかった思いは、一昨年の『虹む街』から続いていること。

以降連想ゲームのようになっていくが、『皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと』のインスピレーションとなったSF映画『ソイレント・グリーン』が、今作のモチーフのひとつだというのはあながち勘違いでもないかもしれない。未来で廃墟で緑でという視覚情報に引っ張られてるかな、私の思い込みかなあとぼんやり考えてはみたものの、舞台(上演前後に撮影してくださいと開放されていた)の片隅と、配布された撮影時の注意書きにはこんなマークが提示されていたのだ。



ここ迄くると、『ソイレント・グリーン』が世界観の下敷きになっているのは間違いないように思う。後述の「ごあいさつ」から察するに、『ソイレント・グリーン』をたたき台にトライアンドエラーが繰り返され、結果こうなったのかなあなんて思った。

前置きが長くなった。今作は2021年に上演された『虹む街』のリメイク作品だ。作・演出のタニノクロウを筆頭に、美術稲田美智子、照明大石真一郎、音響佐藤こうじと馴染みのスタッフも続投、“街の人たち”もほぼ続投。大きく変わったのは、物語を展開させる演者を置かず、“その後”の街の風景をスケッチするような作品になっていたことだ。台詞劇としての要素は少なく、共通言語は音楽で表現される。パーカッショニストである渡辺庸介が劇伴と歌の伴奏を担う。

その後といっても10年20年という近未来ではない。もっとずっと先の風景だ。セットは同じだが、それはカビだか植物だかの緑に侵食されている。そこに『ソイレント・グリーン』の世界が紛れ込んでくる。彼らが食べている、グリーンのゼリーは何か? それは何で出来ているのか? ともあれ、彼らは生きていて、異なる民族、異なる人種、そして恐らく異星の生命体と共生している。ロボットやマシーンといった人工物にも生命があるように描かれる。何せロボットのなかや自動販売機の“中”には人間がいるのだ。リアルで“中の人”。

『虹む街』でサロンだったコインランドリーは廃墟になっている。しかしサロンとしての機能は残っている。洗濯機も動く、占いゲーム、ホットスナックの販売機も生きている。中華料理店はその建物だけが残り、いぬを飼いたがっていた女児はいない。「いぬがかいたい、いぬがかいたい」という声が聴こえてくるが、その声の主は素性も行方も不明で、現れたいぬはロボットだ。このロボットの造形がまたなんというか哀れを誘う姿で、かわいいやらせつないやら。

雨の番人は代替わりしている。先代は死んでしまったのだろうか? それをいったら、再会出来たと思っていた登場人物は皆代替わりしているじゃないか。果たして彼らは人類なのだろうか? 明らかに姿形が違う者も登場していたが、それらとの境目はどこにあるのだろう?

雨は降り続いている。人類が滅びたあともきっとゴキブリは生き延びる、これ真理。

くらしの風景には歌がある。皆が幸せそうに唄ったのはMadonnaの「Material Girl」とThe Specials(!!!)の「A Message to You, Rudy」。なんでや。マドンナはともかく。アメリカとイングランドの歌謡曲ともいえるこの2曲を、登場人物たちは母語ではない(恐らく第二、第三言語の)英語で唄う。出演者にはアメリカあるいはイギリス国籍のひとはいなかった(恐らく……恐らく)と思われる。以前欧米以外──アジアやアフリカ──で、Nikeやadidasといったスポーツブランドと同じくらいバンドTシャツが着られている、レッチリのTシャツなんてどこの国に行っても見る(バッタもんだがというオチがつく)、という話を聞いたことがあるが、ことほど左様に英米のポピュラーミュージック、そして英語という言語の影響力は巨大なものだ。しかしこれは、長い先の未来も変わらないだろうか? 言語や文化が入れ替わるか、人類が滅びるか、どちらが先だろう。なんてことも考えた。

終演後「『Material Girl』はパブ勤めの人物がカラオケの定番にしていた、という裏設定があるのかもね」なんて話したが、興味深かったのは、英語で唄われた両曲のうち「A Message to You, Rudy」にだけ英語と日本語の字幕がついたことだ。「未来のことを考えよう」というメッセージは、何げに強く優しく心に沁みた。

ごあいさつに始まりごあいさつに終わる。馬さんがメモを片手に一列に並んだ演者を紹介していく。同じ台詞が中国語で繰り返される。「上演は大変困難なことでした」「演出家が何をやりたいかわからず苦労したこともありました(ここ笑うとこ)」「でも、皆の笑顔に助けられました」。舞台上のモニターに映った日本語字幕は、最初も最後も同じものが流れたように思う。しかし馬さんは、始まりは「謝謝」といい、終わりは「再見」といった。「未来のことを考えよう」。遠い先の未来、いつかまた会えるといいな。




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・『虹む街』┃KAAT 神奈川芸術劇場
・『虹む街の果て』┃KAAT 神奈川芸術劇場
スタッフ・キャスト情報はこちらで。馬さんのお店行ってみたい〜


おまけ。GWにベニサン・ピット跡地を見てきたのでした。このお店ずっとあるのよ〜ベニサンに通いつめていた頃アイスやお菓子買ったりしたよ。再開発でマンションが続々建てられている森下、このお店と公園は健在で嬉しかったな。ちょっと先の未来の光景を想像した



2023年05月01日(月)
『不思議の国の数学者』

『不思議の国の数学者』@シネマート新宿 スクリーン1



原題『이상한 나라의 수학자(不思議の国の数学者)』、英題『In Our Prime』、2022年、パク・トンフン監督作品。学費支援を受け名門私立高校へ入学した学生。塾通いが当たり前の裕福なクラスメイトと馴染めず、数学の成績がみるみる落ちていく。普通校への転校を勧められるが、息子の未来のためと懸命に働く母にそのことをいいだせない。そんなある日、学校の警備員が数学の難問をいともたやすく解いているのを目にし……。

心あたたまる、しかし切なくもなる作品。受験戦争、格差社会の現実が描かれ、朝鮮半島の問題も絡んでくる。学生たちの間にあからさまないじめはないのだが、これがまたタチが悪い。内申を気にして沈黙する。沈黙によってクラスメイトを売る。警備員を「人民軍」と呼んでいたり。こういう蓄積、地味にクる。

学生たちから避けられているその警備員、実は天才数学者。そんな彼が落ちこぼれの高校生に数学を教えることになる。以下ネタバレあります。

高校生は亡くした父の面影を、数学者は高校生に息子のそれを見るように、徐々に打ち解けていく。問題に対する正解だけを求めていた高校生に、数学者は正解への過程こそが数学の美しさだと説く。その数学の美しさを表現するものとして、音楽が効果的に使われる。「πソング」とバッハ『無伴奏チェロ組曲』が流れるシーンには幸福な時間が流れている。

小道具の使い方が上手い。何故イチゴ牛乳なのか、何故カメをかわいがっているのか。その理由が明かされる瞬間、胸がキュッと締め付けられる。カメを放すシーンは「ちょ、それ外来種」と思うと同時に、安住の地がどこにもなかった数学者の心の痛みが伝わってくる。余談だけどこのカメすごく大きくなってて、だいじに育ててたんだなあと思ってまた切なかった。食事や睡眠のシーンも印象的。数学者がひとりで栄養補給のように詰め込むものから、自室に高校生を呼んで一緒に食べるチゲへ。ごはんがだんだんおいしそうに見えてくる。音楽を聴くことで、眠れるようになってくる。心身の健康はやはり大切なものだ。

南北朝鮮間の緊張と、北と南それぞれの問題、そして理想の国への憧れが背景にある。天才であればある程“利用”される。自由を求めてやってきた筈の南で学問を続けることが出来ない。最終的に数学者はドイツのオーべルヴォルファッハ数学研究所へと渡るのだが、これって「韓国では無理なので、よその国に行ってちょうだい」といわれたようなものでもある。そうはっきり、素直に描けるところに韓国映画界の強さがあるともいえる。ウチでは無理です、でもまだ無理なだけで、いつかはきっと。それは南北統一という遠い道のりへの願いにも感じる。

あと「自由」を求めて渡る国がアメリカではない(まーアメリカ行っても軍事に利用されそうだしなあ。ドイツと韓国には交流の歴史もあるし)というところも今が反映されているというか、自由といえば! な国はもはやアメリカではないのだという現実はちょっと切ない。これは世代によって印象が変わるかも。しかし差別もなく、格差もなく、学問と思想の自由が保障される……そんな国、あるのだろうか。と、考えてしまう。これも切ない。

音楽への道を諦め受験勉強を続ける女子学生のその先はどうなったか分からない。この子はかなりのキーマンで、人嫌いの警備員の懐にするりと入り、学校の不正やクラスメイトの潔白を証明するため策を練る。裕福な子にも悩みがあるという役割を担っているのだが、振り返ってみればこの子が抱える問題はひとつも解決していなかったような気がする。不登校が続いてテストも受けていない。学校には残れたのだろうか。音楽は辞めてしまったのか。母親との関係は改善したのか。どれも描かれず終わっている。ラストシーンで数学者を訪ねる子たちのなかに彼女の姿があったか確認出来なかった。あの子はどうなったのだろう? ストーリー展開の小道具にされていたような印象があって、少し残念というかここも切ないところ。

数学者を演じたチェ・ミンシク、流石の演技。眉間の深い皺と、バサバサのまつ毛という両極端なチャームに苦悩と幸福が刻まれる。幸せになってほしい……好きなだけ数式を解くといいーと心から思いました。キム・ドンフィ、チョ・ユンソの高校生コンビも爽やかでよかったな…ひねくれてなくて眩しかったわ。

数学が利用されるのは軍事に限らない。オープニングの美しい映像で表現されるように、人々の暮らしを便利に、豊かにするために役立っている。ちょっと『ガタカ』っぽさもあり、希望を持てる終わり方。余韻がいつ迄も残る、沁みる映画でした。

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・輝国山人の韓国映画┃不思議の国の数学者
いつもお世話になっております。配役からプロフィール、他の出演作品迄辿れるのホント有難い


「πソング」とトレイラー。ほろり

・不思議の国の数学者[試写会日記]┃eHills Club
「それ(好不調があること)が野球なので。そんなことを気にしていても仕方ないですし、人生の方が大事ですから。野球ぐらいで落ち込む必要はない」
WBC期間中、ダルビッシュ有投手の言葉。こういう引用、映画が公開された時期を感じさせるもので好きなのです。
数学と音楽の関係についての話にも、詩的なものを感じる


呑めるひとは是非! 混沌とした場づくりが魅力♡のシネマート、今は上映中の『食人族』ディスプレイがすごいです(笑)