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2010年03月31日(水)
『Festival Neo-Voice #1 ヴォイスの挑戦』3日目

『Festival Neo-Voice #1 ヴォイスの挑戦』3日目@青山円形劇場

OAのヴォイス・オペラには間に合わず。本編は巻上公一『超歌謡リサイタル』。演奏メンバーはまるっとヒカシュー+サポートのチェロとアコーディオン。事前に発表されていたいろんな歌謡曲と巻上さんのソロアルバムからの曲を、巻上さんとゲストのおおたか静流さんで唄いまくるとても楽しい最終日でした。客層も面白くて、年配の方が多かったり。小林旭のカヴァーや「イヨマンテの夜」「蘇州夜曲」辺りはとなりのおじいさんがすごく反応していた。

とは言え“超歌謡”なのでただのカヴァーではない訳で、即興も入るわトゥバ民謡も入れるわでまったりとは聴けません(笑)。「森の小人」も「おおブレネリ」もなんつうかもうスラッシュメタルかと言いたくなるようなどひゃーって感じでしたよ。いや曲調がメタルって訳ではないんだが、なんだろう泣く子も黙ると言うか寝る子も起こすと言うか。

おおたかさんと巻上さんが全く違う歌を同時に唄うパートが面白かった。歌詞がまたうまいことヒネッてあって。おおたかさんが「だきしめて〜♪」と唄うと同時に巻上さんが「もう恋なんてしたくない〜♪」と唄うんだけど、おおたかさんの押しが強いんだ(笑)。どちらも芝居っけのある方なので、歌だけでなく表情や身体の動きでかけひきを見せてくれてウケたー。あとやっぱり曲中台詞のある曲にはニヤニヤするね。

「平成じゃらん節」も聴けて嬉しかった。

思えばヒカシュー@円形って、『あっちの目こっちの目』以来なので17年振り。どへー。円形で音楽ものを観るの大好きなんだけど、毎年恒例だった『ア・ラ・カルト』がこの先どうなるか判らなくて(結局昨年の「リニューアル中」には行かなかったし)、あーこれから足が遠くなるかなあなんて思っていたところだったので(演劇公演ではこれからも来ると思うけど)、今回のイヴェントは嬉しかったな。そして前日田口さんとのトークで「僕は教えるのうまいよ」と巻上さん仰ってたので、こどもの国で声のワークショップとかやってくれればいいのにーと思った。こどもも喜ぶで。



2010年03月30日(火)
『Festival Neo-Voice #1 ヴォイスの挑戦』2日目

『Festival Neo-Voice #1 ヴォイスの挑戦』2日目@青山円形劇場

巻上公一さんと天鼓さんの企画による「声に何が出来るか」と言うフェスティヴァル。2日目のこの日はチャクルパホーメイ+山川冬樹の『ホーメイ交響詩』、ボロット・バイルシェフ+梅津和時+佐藤正治による『アルタイの英雄叙事詩カイ』、巻上公一×田口ランディのアフタートーク、と言うプログラム。

チャクルパホーメイは巻上さんの教え子さんたちだそうです。彼ら4人が登場して、ホーメイにとどまらずいろんな声を出す。しばらくして山川さんが出てきました。断髪後初めて観る山川さん。なんだか縦ロールになっていました。馬頭琴を弾き乍ら唄う、使っている弓は髪の毛のものではなかった。いきなりトップギアで倍音出るのがすごいなー。助走ほぼない、みたいな。でもこの日の声は至って柔らかく優しいものでした。あああ、4月1日の『トカゲラウンジの3人の住人たち』観たかった……。

休憩中に見掛けた、私服に着替えた山川さんはとても穏やかそうな雰囲気のひとで、ちっちゃなおんなの子の頭をなでていた。なんだか不思議な感じ。

アルタイからやってきたボロット・バイルシェフ。カイとはホーメイ、ホーミーとも通じる喉歌で、シャーマンによって2000年歌い継がれて来たものとのこと。アフタートークで巻上さんが、「ロシア、モンゴル辺りは神秘主義者が多い土地柄だけど、あんなに広大なツンドラに囲まれて暮らしていればあらゆるところに神のような存在が感じられるんだろう」と言うようなことを話していた。喉歌で謡い、口琴を使い、メロディもリズムも口で出す。そして低音部分の倍音がすごい!言葉は解らないけど圧倒されたー。その上とても響きが心地よい。集中して聴いているんだけど、こちらの身体が緊張しないと言うか、堅くならない。どのくらいリハしたのかは判らないけど、途中ボロットさんが梅津さんに、ここで好きに吹いて、みたく耳打ちして、それに梅津さんがえっ僕?ここで?みたいな感じで応えたりしていた。それもとても穏やかなやりとり。佐藤さんは打楽器以外にもさまざまなものを駆使してアクセントを付けていた。

壁面にはアルタイのさまざまな景色が映し出される。センターステージの円形劇場なので、まるでパオの中で歌を聴かせてもらってる感じもしてよかったなー。アンコールでは巻上さんも参加。豪華だったー。

田口さんは登場するなりアルタイのことを滔々と語り始め、当初の打ち合わせと違ったのか巻上さんが面食らっていた(笑)。いつ終わるとも知れない田口さんの話に頷いたりんん?と言う表情をしたりしつつ、持ってきた楽器を奏でたり。おふたりはご近所さん(湯河原在住)から交流が始まったそうです。アルタイの音楽フェスに呼ばれた巻上さんに田口さんが同行し、そこで交流したひとたちの話等、興味深い前半。後半は田口さんが巻上さんにインタヴューするような形で面白かったー。田口さんはズバッと核心を突く質問、疑問をテンション高くビシバシ繰り出し、巻上さんがたじたじになる場面も。「ビックリしちゃった、巻上さんがあちらであんなに有名人だったなんて!『アルタイの息子・巻上公一』なんて言われてたんですよ!」「巻上さんどうしてそんなにいつ迄も若いの!?お肌とかピチピチだし!なんで!?」と言った感じ(笑)。「いやいやそんな」「温泉入ってるからじゃない…?(湯河原だけに)」て感じで答えつつ、「自分の声が好きじゃなかった、唄うのも苦手だった」「楽器の演奏もあんまり好きじゃない。ベースは指にたこが出来るし、コルネットは唇が腫れるからいや。テルミンは触らない楽器だから腫れないしたこも出来ない」と言ったルーツ的な話も聴けて貴重だったー。東京キッドブラザースを辞めてそのままロンドンの劇団(ルミエール&サン)に参加しちゃった話も面白かった。「空港でやってくるお客さんの邪魔をするパフォーマンスをしてたんだけど、これはイーノの『MUSIC FOR AIRPORTS』と同じ系譜です」だって。あとストレスで声が出なくなった時の話とか…これは怖い話だった……演出家ってこえー!

終始笑える楽しいトークだったのですが、「声は発した途端に、それが言葉でなかったとしても意味を持ってしまう。知性を持ったひとが聴くと意味を考えてしまうから。知性を持ったひとが意味を持たない声を発し、その意味を考えずに聴くことは出来ないか。そんな声の可能性を探りたい」と言うような話を聴いて、以前スズカツさんが書いていたことをまた思い出した。→・『転々』ツアーで思ったことへのヒント



2010年03月28日(日)
『黒髪譚歌』

Postmainstream Performing Arts Festival 2010 山川冬樹『黒髪譚歌』@VACANT

鎮魂歌は続く。前日観た展覧会についてのインタヴューで、森村さんは「レクイエムとは、過ぎ去ってしまった人や時代や思想に対する敬意の表明です。しっかりとそれらを記憶に残す儀式です。『私はあなたを忘れません』ということの証としてのレクイエム」と話していた。そして、「芸術家的立場というのは『私的世界から発して社会に至ること』だと私は思っています。『私的』だから、一般論ではありません。一般論ではないから、誰にでも同じ解答となる科学とは異なります。しかしその私的世界が、私的に生きられた手応えとして観る人に伝われば、人は動く」とも。

『黒髪譚歌』は、非常に私的な内容に思えた。山川さんに何が起こり、そして何故この表現に到ったかを見せてもらえた。そしてこちらは、前日に髪を切り(偶然だが)『なにものかへのレクイエム』と名付けられた作品の展覧会を観に行った状態で『黒髪譚歌』に立ち会った。非常に私的な視点で観ていることになる。そして全ての観客が、それぞれの私的な経験を抱えた上で同じ作品を観ている。どこ迄踏み込んでいいのか?とも思う反面、これだけパーソナルなことを他者に見せてくれるのだから、こちらもガッツリ向き合わなければと思う。

2007年8月20日、あるひとの棺に納めた髪。名前は出さなかったが山口小夜子さんのことだろう。それ以来切っていない髪についてのあれこれ。フロアの両端にステージ、それを横断するランウェイ沿いに客席を設置。山川さんはステージを行ったり来たりし乍ら、腰迄ある長い髪を連獅子のように振り乱し、ギターを弾き、骨伝導マイクを通した体内からの音でリズムを奏で、電子聴診器で拾った心拍音でキックを刻む(その際心拍のスピード、強さは自身が意図的にコントロールしている)。「アカシアの雨がやむとき」の弾き語りはホーメイの喉で唄われ、倍音が力強く響く。比喩ではなく全身音楽家。

各シークエンスのセッティング中には、髪にまつわる街頭インタヴューの映像や、髪をビジネスにしている中国人のドキュメンタリー映像が、上方に設置されたモニターに流れる。何故髪を切るの?何故髪はビジネルになるの?開場時からフロアに流れていた、スピーカーを通した外国語らしき呼び込みが、その中国の髪買いによるものだと気付く。それはとても印象的な響きで、今でも耳に残っている。

ランウェイの中央で髪を洗い(シャンプーはTSUBAKIだった(笑)ご本人のTwitterによるとシャンプーより石鹸派だそうですが)、曲間ドライヤーで乾かしてもらい、ひとふさを切り取り弓を作り、それで楽器(胡弓より大きい…馬頭琴かな)を演奏する。そして終盤、山川さんは髪についてつぶやく。「何故髪を切るのでしょうか。気分転換のため、自分を変えたいため、愛するひとを忘れるため、愛するひとを忘れないため、愛するひとに捧げるため……」和服姿の女性(恐らく山川さんのお母さま)が現れ、2007年8月20日以降に伸びた髪を計ってジョキ、ジョキジョキ、ザクザク、と切っていった。

髪を切る理由についてのさまざまなつぶやきの中に、前日自分が髪を切った理由があったような気がする。普段は伸びたから切る、程度の習慣だが、今回はちょっと思うところがあってのことだった。会場で見掛けた飴屋さんも、髪が短くなっていた。私的な表現に対して、私的な感想を持つ。ひとつしかないやりとり。二度とないやりとり。あの場にいることが出来てよかった。



2010年03月27日(土)
『森村泰昌・なにものかへのレクイエム ―戦場の頂上の芸術』

『森村泰昌・なにものかへのレクイエム ―戦場の頂上の芸術』@東京都写真美術館

うーん、戦場ものが続くなあ。偶然ですが。

「20世紀の男たち」をテーマとする新作シリーズ『なにものかへのレクイエム』。2フロア4セクション。2Fに06年『烈火の季節』07年『荒ぶる神々の黄昏』、3Fに新作『創造の戦場』『1945・戦場の頂上の旗』。2〜3Fの吹き抜けに降ろされたスクリーンには、割腹自殺前の三島由紀夫の演説をモチーフにした『MISHIMA 1970.11.25-2006.4.6』がずっと流れていました。これ7分ちょっとの映像作品なんだけど、一日に何回流れるのかな…警備員や職員のひとたち夢に見たりするんじゃないか。しかもその吹き抜けフロアはカフェになっている。落ちついてお茶など出来ん(笑)。

このシリーズは映像作品も結構あるので、森村さんの声が重要になっているものも多い。姿形は徹底した造形で変えられるけど(いつも思うがなんであんなに似るのだろう?その上不思議なのは、モチーフにそっくりなのに、見れば見る程“森村さんの顔”なのだ)声は変えられない。その声でヒットラーの演説をやってたりするのだが、よくよく聴いてみれば「メンタマーノ、キンタマーノ、アトミックボーン!イングリモングリー!」なんて言っている。いやはや前日観た『イングロリアス・バスターズ』を思い出してニヤニヤしてしまった。そういった強烈なパロディの中にゾッとするものが込められている。エディ・アダムス撮影の有名な報道写真をモチーフにした『VIETNAM WAR 1968-1991』は、シチュエーションも構図もそっくりなのに、場所が新宿のド真ん中に置き換えられている。

ニヤニヤし乍らも考えさせられ、モチーフとなった歴史を目撃した写真のことを考え、歴史を動かした人物たちのことを考える。後半のセクションには、世界の安息を願うようなものが多かった。戦争を終えて帰国した兵士のパレード、非暴力を突き通したガンジー、硫黄島に白い旗を掲げる兵士たち。「あなたなら、どんな形の、どんな色の、どんな模様の旗を掲げますか?」鎮魂歌は、静かでありながら強靭な意志を持って作品に焼き付けられていました。



2010年03月26日(金)
『イングロリアス・バスターズ』

『イングロリアス・バスターズ』@早稲田松竹

最終日最終回にすべりこみ、立ち見も出る盛況でした。なんかすごい男性客多かった…。気付けば二週連続で週末に戦争映画、しかもどっちもオスカーのノミネート作品であり、監督もノミネート。あ、脚本もか。しかし内容は真逆と言うか何と言うか…今年から5作品から10作品になったとは言え、よくこんな映画ノミネートしたなアカデミー賞(笑)。タランティーノ大好きだわ、最高だわ。スクリーン上映に間に合ってよかった!

いやーそれにしてもどうしてこうタラちゃんの映画はバイオレンスがこんなに楽しいのかなー!といろいろ考えてしまったのでした。もう終始ニッコニコの笑顔で観てしまったよ、ずっと口角上がってたよ。それってやっぱりタラちゃんが映画のことを心底愛していて、映画のことを信じ切っているからなのかなと思いました。これは映画だよ、映画は何でもやっていいんだ、映画は大ロマンスも描けるし、残虐なシーンも描ける。映画は大ボラを吹けるものなんだ!

その大ボラな世界に引き込んでくれる登場人物が、分け隔てなくバカばっかりなのが最高だ…それもお互いのお国柄のイメージを拡大し極端にしてるところが素敵だ〜。ドイッチェはちょう冷静、上下関係厳しい、保身大好き、下手に出てても歯向かわれると沸点低くてキーッてなる。一方アメリカは大雑把の極みで、台詞中にもあるが「英語しか喋れんのか」って言われちゃうし(イタリア語喋れるよーつってて全然ダメだったシーンに大ウケ。あれで「いちばん喋れる」んかい!)、そんな穴だらけの作戦成功する訳ねーだろー!ってところを腕っぷしの強さで帳尻合わせちゃう。問題と答えが合ってても式が間違ってる。分け隔てないと言えば、男が女をボコボコにすれば、女も男もボコボコにします。今回は素手でそういう場面はなかったけど、力関係としては互角です。こういうとこはいっつも徹底していて大好きだ。いや、こういうとこは、じゃないな…タランティーノの作品って、どこもかしこもあらゆるところが徹底している。それはやはり前述の、映画は大ボラを吹けるものと信じて疑わないから、だからこそ徹底してその大嘘を突き通すんだ、と言う映画への愛情なのだろうなと思う。

そんでおバカな登場人物たちが皆かわいげがあるんだよね、にくめね〜。フレデリックとかちょうウザいんだけど、根っからの悪人じゃないと思わせられる台詞や態度がちょこちょこあってさー。“ユダヤ・ハンター”ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ最高!)もお菓子好きで牛乳好きで笑い上戸でさ。忘れっぽいヒトラーも、さめざめと涙ぐむゲッベルスもね。バカっつったらレイン中尉が最たるもので、演じるブラピがこれまた最高。ホンットいい役者さんだな!大好き!

そのおバカちゃんたちが一瞬だけ輝くところを捉える演出とカメラもいいんだよ〜。映画館での銃撃戦で、オマー(オマー・ドゥーム)が銃を取り出し乍ら走るシーンがスローモーションになったのにはシビレた。あと微笑んでフィルムに火を落とすマルセルの姿には涙した。あ、マルセルとショシャナはおバカちゃんではなかったな、このふたりは今回の作品のロマンを背負っていた役だと思いました。最後のハグとキスはとても美しくせつないシーンだった。ロマンと人情を見せた登場人物は見事に全滅したところも徹底してていい…もうたまらんこの非情さ。

映像、編集(間)もだけど、台詞がまたいっつも素晴らしいなー!お互い腹に一物の登場人物たちが、いつ嘘を見破られるかと一触即発の会話を繰り広げるシーンの緊張感と言ったら!そしてその回避/激突時のカタルシスと言ったら!大丈夫だったと言う解放感と、ダメだったイコール地獄行きのスピード感。ギリギリ迄どっちに転ぶかわからないそのスリル!ラストシーン〜エンドロールの間も最高。これ『デス・プルーフ』の時もよかったよねー!観客呆気にとられる→爆笑、みたいな。あんだけ残虐描写があっても後味がなんでこう爽快なんだ!

脚フェチっぷりもまた存分に見せてくれた。靴の照合するとこなんて最高にエロい!食事の描写もエロいよね〜そのクリームをあんなにアップで撮る意味は!うまそうじゃねえか!最高です。女優たちをいつも格好よく撮るところも大好き。ショシャナがデヴィッド・ボウイの「Cat People」(映画版のver.)をBGMにドレスアップするシーンの格好いいこと!チークをのばす前に指で1ラインずつ両頬にひくんだけど、それが戦化粧みたいでさ!しかしこの子はすっぴんもちょうかわいかった。メラニー・ロランはユマ・サーマン系列の顔立ちで、あ〜こりゃタラちゃんのミューズ顔だ、と思った。女スパイダイアン・クルーガーのクラシックな美貌とファッションも格好よかったー。あ〜タラちゃんの撮る女性大好き!

BGMと言えば「荒野の1ドル銀貨」も聴けた。わおー西部劇!な導入からショシャナが逃げるところ迄、もうニヤニヤしっぱなしだよ。タラちゃん、最高…サントラ買おう。タランティーノのことだから、きっともっともっと数えきれない程の映画からのオマージュが挿入されているのでしょう。知ってたら二重に楽しめるのでしょうが、知らなくてもOK!いつの日かその元ネタに気が付いて、そうだったのか!とまたニヤニヤ出来ると思えばそれもまた楽しい。

あー、あとユダヤの熊が出てくるとこ、釘バット持って出てきたらどうしようかと思う程ニヤニヤニヤニヤしちゃった。普通のバットだった(笑)。

あ〜最高ばっかり書いた。タラちゃんの映画はロマンありバカありバイオレンスありオマージュあり笑いあり涙ありのてんこもり、いつでも腹いっぱい!何度でも言うがタラちゃん大好き!あ〜映画ってホントいいな〜(えびす顔)。



2010年03月23日(火)
『極東最前線/巡業〜ドッコイ生キテル街ノ中〜』

eastern youth『極東最前線/巡業〜ドッコイ生キテル街ノ中〜』@Shibuya O-EAST

快気祝いみたいな趣もありましたが、ライヴの内容は相変わらず、いや以前よりもトガッているとすら感じる緊張感。吉野さんすごく痩せてて流石にギョッとする。ちょっと一触即発みたいな場面があってヒヤリとしたが、あそこらへんは吉野さんこらえてる感じもしたなあ。何度もフロアに感謝の意を述べていたので、場の雰囲気を悪くしたくなかったんだろうな。身体壊して弱ってるってんじゃないよ。

とは言うものの、吉野さん「そんな簡単には死なねえぜ」と言ってたけど、うっかり死んだひとを何人も知っているんで、そしてそれはもう運としか言いようのないもので、神さまって存在は信じているけど、それがなんとかですって言う名前をつけて崇め奉るようなものとして信じている訳ではないので、何にしても何に祈っているか分からないけど、とにかく守ってくださいと祈るだけなのです。吉野さんの歌が聴けてよかった。これからも聴き続けられますようにと。

ジョン・ルーリー展に行った時に思った。音楽を、演技を奪われても、彼には絵があったのだ。倒れても、タフな状況に置かれても、なんとかなる、なんとか出来る。そう思い続けられることも覚悟であり才能なのだろうな。

と言う訳で昨年のAXの振替公演とも言えるツアーの楽日。いつにも増して(O-EASTだったから?)ギターがカッキカキに金属質。終わってみれば耳がキンキン。歌もすごかったけど、この日はギターがとにかくキたなー。ニノさんのベースとやりとりする様や、MCとともに爪弾き乍らインプロに入る瞬間等、身震いする程格好よかった。二階から観たんだけど、裸ステージ(しかし照明は結構派手)で等間隔で立つ三人の距離感もいい感じ。よっかかりもせず、しかし遠過ぎず。「近付けば近付く程見えなくなる」ってこの日のMCそのままにも感じました。

「青すぎる空」で終了、外に出ると雨。春先の冷たい雨は好きだ。いいライヴにいい夜。皆元気でいてねー。

****************

■どうでもいいネタ
・二階から観たんで皆さんの足下がよく見えたんだが、ニノさんが革靴だったのがなんか不思議(笑)
・タモさんがリーゼントみたいな髪型に…そしてすっかりメガネが定番になりましたなあ。こないだ見た白フレームは結構衝撃的だったけど今回は吉野さんのと似た感じ?何種類持ってますのん



2010年03月21日(日)
『ジョン・ルーリー展 ドローイング You Are Here』

『ジョン・ルーリー展 ドローイング You Are Here』@ワタリウム美術館

『お前、俺のこと元気だと思ってるだろう? 2、3年前は本当に死にそうで、今でもたまに意識が空中をフワフワ浮いてしまうんだ。』

彼が大病を患い、音楽活動も俳優の活動も休止したと知ったのは数年前、ジャームッシュの『コーヒー&シガレッツ』が公開された頃だった。もう彼の新しいサックスは聴けない、彼の現在の姿をスクリーンで観ることは出来ない。

不穏な世界がハッとする程鮮烈な色彩で描かれている。タイトルや、絵の中に書き込まれているテキストは、愚痴のようなつぶやきであったり、神さまへの質問だったり、情景描写だったり。基本英語だが、ハングルやアラビア語のような文字も使われている。多分こちらには意味はなく、形が面白いから描いたんじゃないかな(笑)。そういう茶目っ気は今でも健在。罵倒の言葉にクスリとしたり、彼の境遇を連想して悲しくなったりと、観ている間自分の中もせわしなかった。深刻な表情で観ているひとも、親子づれも結構いて(DNA、ラウンジリザーズに熱狂した世代が親になったのかな)、おかあさんがこどもに絵の中のテキストをちいさい声で読んであげていたり、「この絵どう思う?」「へん!」「これは?」「おもしろい」なんて会話している父子もいた。不気味だけどかわいい、とても綺麗な色彩、独特なモチーフ選択とそれに対するニヒルな眼差し。手法は違えど、知っているジョン・ルーリーがいたような気がした。

ワタリウムの白い壁面の一部がペインティングされている。2〜3Fの吹き抜けは「Lurie-blue」、4Fは「WASABI」と色に名前が付いており、フィニッシュペイントを担当したひとの名前もクレジットされていた。毎日決まった時間に会場からジョンにメッセージを送り、webを通して彼がそれに応じると言うイヴェントも行われているようだった。あまり遠出が出来ないのだろうな。しかし、彼の描く絵はこれからも増え続けるし、その作品はこうやって日本迄やって来て、実物を観ることが出来る。

サさんが100セット限定の特装カタログを購入。結構なお値段だけど確かにボッてない、魅力的な内容。しかしおらには手が出なかったーいいなー。オーナーさん(?ナイスキャラ)とサさんの話を便乗して聞かせてもらう。「ハングルとか描いてますよね」「あれはー、意味はないと思いますね!」(ははは、やっぱりそうか!と言うか、皆からそう思われてるジョンって…)「元気ですよ。相変わらず。会場でのメッセージのやりとりも、まず『今日、かわいいコは来てるか?』ですもん。『俺にとってそれは重要なことなんだ!』って。かわいいコには丁寧に応えてあげてるの(笑)」(うひーイメージ変わらん!最高!)「各作品のタイトル翻訳を最初は自分たちでやっていたんですが、どうもしっくりこなくて、ある詩人の方に依頼したんです。そしたらとてもいいふうな訳になって…意訳も多いけど、ジョンの世界と合っていると思った。頼んでみてよかった」(詩人の方って誰だろう?)

限定カタログは買えなかったけど、ワタリウムはパスポート制なので、会期中何度でも行くことが出来る。あの色をまた目に映したいな。



2010年03月20日(土)
『石井桃子展 ―石井さんの本はみんなの宝もの』

『石井桃子展 ―石井さんの本はみんなの宝もの』@世田谷文学館

訳者と言う職業を知らない時から、無意識に石井さんの訳書は目にしている。『うさこちゃん』も、『ピーターラビットのおはなし』も、『クマのプーさん』も。石井さんが100歳になられた時、これからのお仕事について意欲的にお話しているインタヴューを新聞で読んで、ああいつ迄もお元気でいてほしいなあ、これからも沢山の訳書を読ませて頂きたいなあ、と思っていたが、一昨年亡くなられてしまった。没後初の回顧展。

最近デザイナーの祖父江慎さんが、新装『うさこちゃん』についてツイッターでいろいろお話されており(→『祖父江慎さんがつぶやく、ディック・ブルーナ「うさこちゃん」について』)、その中に「石井桃子さん、松岡享子さんは訳をするにあたって英語を底本にはしているものの、必ずオランダ語の音で読んで、リズムを大切にしている」「福音館に石井桃子さんの訂正赤字の入った昔の本があったんです。すでに10刷くらいになっているというのに訳を直し続けていたんですね。びっくりしちゃいました。完璧主義!」とつぶやかれていました。今回その『うさこちゃん』をはじめとする、さまざまな作品の訳文赤字原稿や翻訳に際しての細かいメモの展示を観ることが出来ました。

原文の意味を壊さずに、字数やリズムの制限を飛び越える。時には大胆な意訳もあります。しかしそれが、直訳よりも原文のニュアンスを伝えるものになっていたことに気付いたのは大人になってから。“うさこちゃん”や“ねこまきだんご”、“プー横丁”、“トラー”、“トオリヌケ・キンジロウ”……。知らず知らずのうちに、石井さんから翻訳の妙をに刷り込みされていたんだなあ。ちいさい頃に、石井さんの訳で絵本を読めたことに、しみじみ感謝しました。

ディック・ブルーナさんとの書簡もありました。石井さんとブルーナさんは英語でやりとりしており、ブルーナさんの手紙の字が、あの絵の隅に添えられているまるでタイポグラフィのような「Dick Bruna」の字体だったことにも感動したー。石井さんの字も綺麗。どちらも丁寧に丁寧に一字一句を書いている感じ。翻訳に関しての質問と回答、自分の本を翻訳してくれることに関しての感謝。こうしたやりとりが何度もあって、あの絵本はこどもたちに届けられていたんだなあ。だから『うさこちゃん』に親しんだこどもたちは、大人になってもうさこちゃんを大事にして、自分のこどもに同じ絵本を伝えていくんだろう。時代とともに少しずつ新訳が繰り返され、リデザインされても消費し尽くされない、名作の強靭さの秘密を垣間見られたようにも思いました。『うさこちゃん』は今年55歳。『ゴーゴーミッフィー展』も楽しみー。

そうそう、展示されていた『ピーターラビット』シリーズが、ウチにある代の装幀だったのがちょっと嬉しかったな。当時は本の大事さを知らないから、散々らくがきしたり折り曲げたりしちゃってるんだけど、今でも大事にとってあるし、時々読み返したりする。こどもの乱暴な仕打ちにも耐えうるパッケージの強靭さも絵本には必要ですね(笑)。

戦争によって中断された仕事も多々あったそうです。石井さんが『ノンちゃん雲に乗る』を上梓したのは40歳の時。人生は長い、諦めてはいけない。



2010年03月19日(金)
『ハート・ロッカー』

『ハート・ロッカー』@新宿武蔵野館 1

アカデミー賞受賞作品ですが、決して皆で楽しく観られる内容ではなさそうなのでそんなにロングランはしないかも、早めに行っとこうと週末のレイトと言う「仕事疲れがいちばんたまっていて、導入がヌルいと即寝てしまうコース」で観たのですが、眠くなる暇もありませんでした……。よかったとも面白かったとも感動したとも言い難い、しかし記憶にグッサリ刺さって忘れられない映画になりました。

キャスリン・ビグロー監督は『ストレンジ・デイズ』を撮ったひと、として記憶していました。個人的にはとても好きな映画。ラストシーンの2000年を迎えた街の光景がとにかく素晴らしく(話のツッコミどころはこれでチャラに出来る!)、ジュリエット・ルイスやスカンク・アナンシーがド迫力の歌を聴かせるライヴシーン(サントラも名盤!)、アンジェラ・バセットのちょう男ットコ前のアクションシーンと見どころも盛り沢山。そ・し・て!レイフ・ファインズがアクションものを!ワイルドなファッションに包まれたその中身はヘタレ!と言う新境地(笑)を見せてくれた作品でもありました。そう、これはアンジェラがナイトでレイフが姫のお話だったのです(妄想入ってきた)。いやーこんなレイフ、これ以前にもこれ以降にも観たことない。有難うビグロー監督!

で、今回キャストを前面に押し出した宣伝ってしてませんでしたよね。なので公開近くなってファインズさんが出てると知ってビックリ、しかもガイ・ピアースもデヴィッド・モースも出ている。えー!?となって俄然観に行く気になった訳です(そんな理由…)。以下ネタバレあります、未見の方はご注意を。

あのじさんが「キャスト押しにすると誰が死ぬかわかっちゃうからじゃない?」と言っていて、蓋を開けてみればその通りだった。冒頭10分程でガイ・ピアースが……あああ。予告編でもポスターでも使われている爆発のシーン、防護服を着て走っているのは彼だったんですね。と言う訳でええーと言う間にピアースがいなくなりました…いやーしかしほんのちょっとのシーンだったのに、彼が班の中でどんな役割を果たしていたか、部下たちにどんな態度で接していたかがよく伝わるものでした、流石。そしてファインズさんも…いやでもファインズさんはああなるとは思ってなくて、ガーンとなった!これは後で詳しく(笑)。モースはベラベラベラッとまくしたてるアホッぽい軍人のお偉いさんで、最初彼だと気付かなかった!お見事。

キャスト押しにしていなかった理由はもうひとつ、スターではない役者(ジェレミー・レナーごめん、でもこの作品で彼はスターになるのかも)が戦場中毒の人物を演じることで、この作品をフィクションとしては観られない――ひとごととは思えないものにする意味合いもあったようにも思いました。レナー演じるジェームズは戦場中毒であり、死ぬかもしれない中毒でもある。そして恐ろしいのは、注意深く観ていないと、それが狂気だとこちらに伝わらない程に自然なのです。彼のとっている行動が自然に見えてしまい、普通に納得してしまう。赴任してきた当初は部屋で爆音のミニストリーをかけているものの、新しい同僚への挨拶と、先任への悼みの言葉は誠実そのもの。仕事は確実にこなす、腕も確か。しかし何かがおかしい。爆発物のある地点へ躊躇もせず踏み込んで行く、危険な場所で防護服を脱ぐ、作業中に無線を断つ。

ところが、その一連の行動がだんだん「ん?おかしくないかも?自然なことかも?」と感じられてくるのです。防護服を着ていると作業しづらい。暑いし、動きづらい。ああ脱いじゃうよね。だいたいそんなん着てても着てなくても近くで爆発が起これば一緒だもんね。それなら脱いで確実に作業した方がいい。無線も爆発物を処理すると言うとても集中力を必要とする時に聴いてられるか、うるさいし、邪魔だ。しかし、そう思えてしまうためには、何かがすっぽり抜け落ちているのだ。それは何か?死ぬことに対する恐怖感だ。

あーこれを観て「ジェームズかっけー」とか思っちゃうひともいるんだろうな。確かに彼の仕事っぷりは感嘆する程です。しかしその背後に、彼の心がすっかり死に対して麻痺しているところ、そしてそれが高じて、死ぬかもしれない状況に常に自分を置いておきたいと言う中毒症状が見てとれるところが恐ろしいのです。任務を終え帰国した彼の家には、夫の帰りを待っている妻(ジェームズは「離婚したが、家にいる」と言っている)と幼いこどもがいる。妻とスーパーに買い物に行き、家ではこどもをかわいがる。ごくごく穏やかで幸せそうな風景だ。このシーンの、レナーの繊細な演技がまた素晴らしい。だからこそ、続くラストシーンが余韻の残るものになる。彼は、そんな生活がものたりないとでも言いたげに、なんだかんだと理由をつけてまた戦場へ出かけて行くのだ。負のループだ。

エルドリッジとかはまだまともなんだよね…かなり追い詰められているけど、医者に自分の精神状態を相談しているし、持久戦に持ち込まれた戦闘でおびえるさまも「おかしくない」ように映る。んーとややこしいな、この状況では「おかしくなる」ことが「まとも」=「おかしくない」ってことです。反面この時のジェームズは、目や口に虫が入ってもおかまいなしで淡々と敵情を観察している。その様子は「おかしい」が、いつ銃弾が飛んでくるか判らない状況で集中力を切らせないでいられる=平常心=「まとも」。となると「おかしい」=「まとも」。しかも受け取ったドリンクを先にサンボーンに飲ませる気配りを見せるんだよね…こういう「まともさ」が残っているので、ますます「ん?おかしくないかも?このひとまともかも?」と思わせられてしまうのです。しかしこれをまともだと思ったらかなりマズい。ジェームズは死に対してとことん無頓着。そしてその死は自分の死に関してだけなのだ。大怪我をして赴任先を離れることになったエルドリッジは、悪態をついているけどちょっと嬉しそうだった。自分の身体はだいなしになったけれど、ここから離れられる。怪我を負わせてくれて有難う、とも言いたげだ。それが一瞬表情に出る。これは「まとも」に見える。

この「人間としてのまともさ」がだんだん判らなくなっていくのが怖い。

人間爆弾に改造され損なって死んだこどもが親しくしていたイラクの少年に似ていて、その後ジェームズが取り乱すところがあるんだけど、そのシーンで「あ、まだ麻痺しきってない、彼は大丈夫かも」と思わせられたのも皮肉な話だ。あの状況ではまともでいない方がいいのだ。戦場に人間らしさなど必要がない。戦争は人間を人間でいられなくする。

余計なことを言わない台詞もよかった。サンボーンは何故こどもがほしいのか、それもおとこの子を、そして何故それがもう無理だと思うのか。ジェームズの「ひとつだけ残っている大事なもの」は何なのか。こういうところって、脚本家がうっかり筆を滑らせてその理由や根拠を書いてしまいたくなる見せ場でもあると思う。それが一切なかった。理由や根拠を詠うことで納得させられる程、それはイージーなものではない。声高に戦争反対を叫ぶよりも恐ろしく、戦争への嫌悪を突きつける作品でした。

ジェームズ役のレナーはホントすごかったな…顔見て思い出した、『ジェシー・ジェームズの暗殺』に出ていて「ジョシュ・オムに似てるなあ」と思ったひとだったわ。『ジェシー〜』ではそんなに出番多くないのに印象的だったんだよなあ…いやあ…すごかった……他の出演作も観てみたい。

さてファインズさんですが、目!目でわかった、目で!リネさんが声で判ったと言っていたので、ああじゃあパッと見判らないんだな…変装?ヨゴレ?とかってすっごいアンテナ張って探してて…私もあとちょっと出てくるの遅かったらバッテリー切れてたかも(笑)。ターバンぐるぐるで、目だけ出してたんだけど、ん、これ?これか?青い瞳!と思ったのも束の間、両腕がすっごい日灼けしてたんであれ?レイフこんな腕の色だっけ?いや『ナイロビの蜂』でもこれくらい灼けてたっけ?そういやあれも砂漠だったなあなんて思ってしばらくひとりでオロオロする。その後声を聴いて「まーちがーいなーい!」と安心(バカ)。そんでまあまたいやーんこんなレイフはじめてー!てなお調子者っぽいと言うかチャキチャキと言うかな役で、有難うビグロー監督と頭を下げたくなりました。銃撃戦になったらなんかヒャッホーイとでも言いそうな感じでしたよね…お、オモロい……。そしてターバン巻いた姿は『ロレンス 1918』以来で、コスチュームプレイ的な面でも楽しかった。楽しい時間は一瞬で終わったが。人間ってあっけなく死ぬね……。直前迄アヒャーイとか言ってたのにね…(言ってません)。そんな訳でファインズさん的にも見どころ満載でした。

と、面白おかしい感じで〆ないとやりきれない程に重い内容ですが、戦争反対のメッセージが濃密に込められている作品です、観るか観ないかで言ったら絶対観た方がいい。

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追記:その後これを読んであああそうなのかあ!と思いました。「アメリカがやるべき後始末」…。しかし主人公が戦争中毒(あーでも戦争だとニュアンスが違うか、戦場中毒か)だ、と言う印象は変わらないな…日常生活を送れない状態になっている描写から。あの場所にしか彼は身を置き続けられない。
・町山智浩×宇多丸 『ハート・ロッカー』 まとめ - Togetter
それにしてもミニストリーの曲の歌詞の解釈がアカデミー賞会員に伝わっていないだろう、と言うのは皮肉な話だな。だからこそ受賞出来たと言うことも



2010年03月14日(日)
『農業少女』

『農業少女』@東京芸術劇場 小ホール1

ネタバレあります。そうそう、なるべく早く劇場に入った方がいいと思います。ロビーにいろいろと仕掛けがあります。

初演は観逃しています。松尾さんが演出に専念するのは珍しいけれど、再演にあたって脚本の補足も手掛けたのかな。笑いを増幅させたところと、ツイッターが出てきたところ。エッセンス的な使われ方ではあったが、これがあるとないとではかなりの違いが出たのではないかと思う。

初演は2000年で、webで通販、とか、携帯電話の使い方、と言った部分は、当時まだそんなに普及していなかったからこその、カルト的な情報提供とその収集と言う図式として効果的だったのだと思う。「『自分だけが知っている』と言う優越感と『何故皆知らないの?』と言う歯痒さ」「当事者が期待している程は外部の人間に拡がっていかない」と言うこの関係は、今では殆ど当たり前のようになっている。これは、共通言語がどんどん減ってきていることにも繋がる。それをより強力にしていくのがツイッター。webサイトからの情報発信は、2000年当時はまだ網羅出来ないこともなかった。検索を駆使すれば、web上にある相当数の情報は探し出せないこともなかった。ツイッターは網羅を諦めるくらいには膨大な数で、流れも早い。あまり使いたくない言葉ではあるが、「情報格差」を歯痒いと思うか、諦めるか。ここが奇妙な程にリアルだった。ゾッとする程。ツイッターもギリギリのところかも、数年後には違うツールが出てきているかも。松尾さんの嗅覚の鋭さには毎回ビビる。

ただ、先日観た菊地成孔と金原ひとみのトークイヴェントでも話題にのぼった「インターネット上に不在である」ひとと言うのは必ずいて、webに関わらない方が穏やかに暮らせるひともいるし、そもそもweb上に存在しようとしゃかりきにならない方がいいひともいる。それは世俗から離れる、劇中の言葉で言えば大衆の“気分”から離れることでもあり、ひょっとしたらこのことが百子の未来に光を示すものではないかと思い、少しだけ希望を持った。そして、彼女を失った山本に思いを馳せた。ファシズムは独裁者ではなく、大衆の気分が作り上げる。

「東京都青少年育成条例の改正案」はどうなるのだろう。マンガだけではない、表現と言う表現にその規制とやらは拡がっていく。『農業少女』も、内容からしてひっかかっている。

プログラムでも指摘されていたモチーフ『ロリータ』がよりハッキリしたのも松尾さんの演出に因るところが多いと思います。「少女を想う中年男のみじめな恋と、ファシズムに関する思索が交錯する斬新なアプローチの舞台」。衣裳からセットから抽象的なもので成立させる野田演出とは違い(小道具の使い方は野田さんに寄ったところもあったように思うが)、徹底して笑いを織り込み、人間の滑稽さからもの悲しさを浮かび上がらせる。うーん、これ、『パンドラの鐘』演出合戦の時に、ストーリーの骨子が明確に伝わったのは蜷川演出の方だったことを思い出した。勿論どちらも感動的な仕上がりでしたが。

舞台初出演の多部未華子さんの身体性は替えが利かないと思わせられる説得力、まさに百子。その身体をフルに使って表現した多部さんの役者力も素晴らしい。あの無邪気さ、残酷さ、傷付きやすい繊細な心と、ひとを試し傷付けることを楽しむ心が同居出来る。これは見事だった。吹越さん、山崎さん、江本さん皆見応えのある立ち方でした。映像で野田さんがひっそり出演していたのにはウケた。

あと個人的には、わたくし九州出身で、東京に出てきたばかりの頃、家のポストにオウム真理教のコンサートのチラシ(宗教思想については触れておらず、コンサートをしますよと言うお知らせのみ)が入っていて、こんなのがあるのかあ、随分近所だな。無料だし、面白いのかな。としばらくそのチラシを保管していたことを思い出した。もしあのコンサートに行っていたら、今頃私はどうなっていただろう。今回の芝居に宗教は絡んでこないけど、ひとりの冷静で卑小なカリスマと、それに熱狂する若者たち、と言う光景をよりリアルに感じたのも、そのことがあったからだと思う。



2010年03月13日(土)
『スイートリトルライズ』

『スイートリトルライズ』@シネマライズ 2F

原作は未読です。なかなかうぬうと言う作品でした。ダブル不倫の話なんだけどドロドロさは皆無、だから逆に怖い(笑)。で、個人的には主人公(妻)よりも旦那の方に共感してしまう部分が多かった。いや、うーん、でも、どっちもどっちかなあ。で、どっちもどっちだからなんだかんだあっても修復機能があって、諦めでも意地でもなく、お互いのプライドの奪い合いでもなく一緒にいられるんだろうなー。ふたりが別れてそれぞれの愛人と一緒になったとしても、絶対うまくいかないよ(断言)。

うーん、でも自分を好き!と言えるひとは、あの妻くらい迄いかないといやらしさが出ちゃうんだろうな。あの妻の自分好きっぷりは、自信やアピールに繋がらないレベルに迄それがあたりまえのことになっている(=無意識)から人間的ないやらしさが感じられない。「貪欲だ」と言われても理解出来ないくらい、それは彼女にとってあたりまえのことなのだ。で、それは、ある意味真実。自分は自分を好きでいた方がいいのはやまやまですが。

と奥歯にものがはさまったようなこの感想……(笑)。

そんなこんなでいちばん心を持ってかれたのは、妻の愛人の恋人(ひいーややこしい)の「自分だけがさびしいと思わないで」と言う台詞でした。そーのーとーおーりーだー!この子を演じた安藤サクラちゃんが素晴らしかった。出演場面はそんなに多くないのにすごい存在感。

十市さんは登場人物の中でいちばん脱ぎっぷりがよかった(笑・バレエダンサーならではのシーンも沢山あったで)。このひとだけ、何をやっているひとかってのがハッキリ示されない(ミュージシャンではありそうだが、それが生業に繋がっているのか不明)ので、ファンタジー的な面が強調された感じでした。

そうそうおとなのおとぎ話として観ればいいのではないかと思った。ビスクドールのような容貌を持ち、エゴがエゴに見えない中谷さんでないとあの妻役は厳しいし、十市さんも強引な王子様キャラで、嫉妬深いのにそれが嫌な表出にならない。夫の愛人の積極的な言動は池脇さんが演じたことで“略奪”と言う言葉からは遠くなり、ただただこのひとが好きだから、と言う印象を持たせるのに効果的だった。「雑誌によく載っている」「東京一おいしいレストラン」と言ってしまえる無邪気さも含め。いちばん人間的な迷いや困惑を見せるのがおーもりさん演じる主人公の夫。妻への本能的な怯えみたいなものから、愛人に惹かれていく過程を丁寧に表現していて、正直納得しちゃったもんなあ。絶妙なキャスティングだったと思います。

矢崎監督の徹底した画作りも、現実感から少し浮遊した美しさを捉えていたように思います。

個人的に萌えたのは、おーもりさんの寝顔がいちいちすっごいブサイクだったことだな(笑)。苦悶するいぬのような顔で寝ていたよ。

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さて初日舞台挨拶も観覧することが出来ました。中谷さん、おーもりさん、池脇さん、矢崎監督。十市さんは舞台『冬のライオン』の地方公演に出かけており欠席(残念!)。いろいろ面白かったですが、印象に残ったのは、矢崎監督の「(カメラの前で)こんなに楽に立っているひとを見たのは、趙方豪さん、ダンサーの(名前失念)だけだったんですが、大森さんが三人目」と言う言葉でした。故・趙方豪さんは矢崎監督の『三月のライオン』で兄を演じた方です。



2010年03月07日(日)
アラーキーんちのチロちゃん

アラーキーんちのチロちゃんが亡くなったそうです。22歳。チロちゃん、長生きしたね。

http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100306/tky1003060000000-n1.htm

メールフォームでお知らせくださった方、有難うございます。書かれていたアドレスに返事を送ってもエラーで返ってきてしまいます。こちらを借りてお礼を。有難うございます。

チロがテーマの展覧会って、昨年7月の『チロのゲロ』が最後だったのかな。アラーキーの展覧会や写真集には、必ずと言っていい程チロの写真が一枚はあって、ああアラーキーが家に帰るとチロちゃんが迎えてくれるんだな、と思ってて。会ったこともないのに元気かなあ、もうおばあちゃんだよね、と時々思い出したり。

耳の大きな美人ねこ。『愛しのチロ』や『センチメンタルな旅・冬の旅』は年に何度も開く写真集。陽子さんが亡くなった後、雪の積もったベランダでジャンプするとても美しい姿が印象に残っている。

金曜日のイワゴーさんの展覧会を観ている時、「このねこたちでもう死んでる子もいるんだよなあ、それを今こうやって写真で観られるってのはせつないけどうれしいことでもあるなあ」なんて思っていたけど。チロちゃんの新しい写真はもう撮られることはないけれど、生きていた時の写真はこれからも残るんだなあ。

アラーキーも最近体調崩されているので心配。チロちゃんもうちょっと待っててね。まだつれていかないで。

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土曜日は『富士見町アパートメント』Aプロに行きました。後で書き足します。



2010年03月06日(土)
『富士見町アパートメント』Aプロとか

(3月9日に書いている)あー、そういえば仕事机にチロのポストカード飾ってるんだよ。高橋コレクション日比谷で今『荒木経惟・舟越桂「至上ノ愛像」展』をやってて、おみやげに買ってきてもらったの。こんれがまたあーた、すんごい美人で。あ〜チロは美人だな〜。写真いっぱい撮ってもらってよかったね、チロー。

チロちゃんも海ちゃんもミーちゃんも、カメラマンの傍にいるねこは写真をいっぱい撮ってもらってる。あたりまえと言えばあたりまえと言うか、自然なことなんだろうけど、それを観ることが出来てよかったなーと思う。

てか『至上ノ愛像』は私も行きたいんだ。行けるかな。

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自転車キンクリートSTORE『富士見町アパートメント』Aプロ@座・高円寺 1

本日はAプロ、蓬莱竜太『魔女の夜』、赤堀雅秋『海へ』。こうやってみると『ポン助先生』が異色だったかな。他の三本は今の社会の重苦しいところをとりあげたものだった。あのアパートのセットの印象がこういう話を引き出したのか、カナリアのような作家たちが現在の空気を感じ取って書いたものなのか、いろいろ考え込んでしまった。以下ネタバレあります。

Aプロは男性作家の書いた女性のドロドロと男性作家の書いた男性のドロドロと言う、なんともなまぐさいものが揃いました。そして演出は(個人的な印象です)、女性同士のドロドロはスタイリッシュとも言えるスッキリとしたもので、男性たちのドロドロは靴下くさい見てくれの底にはキラリと美しいもんがあるよって言う(笑)。蓬莱さんも赤堀さんも自ら演出もするひとで、そのふたりの演出を反映させているようも思いました。「生活に使っているのか?と思ってしまうくらい殺風景な部屋」「自殺した男のゴミ部屋」と言うそもそもの設定がホンにあったからだとも思いますが、二本立てと言うことを考えてのことか、うまいことメリハリが付いていた。

山口紗弥加さんと明星真由美さんの『魔女の夜』は、女優とマネジャーの間に積もる複雑な感情のやりとりと、事件が起こっているのか?と言うサスペンス、と言うふたつの緊張感が並行して続くもの。しかしそのお互いを試すかのような台詞の応酬が、途中からもうそれが事実でも虚言でも、どちらでもいいや、と言うところに落ちてしまう停滞があったような感じがしたのが惜しいかな…一時間の上演時間なのにそれを感じてしまったのが残念。基本最悪なことから考えるのがいかんのか。

とは言うものの、この女性同士のなんつうか離れられないけど一緒にいたくないんじゃホントは!みたいな微妙な関係を浮かび上がらせる流れは目が離せなかったなー。明星さんがもうね…些細なきっかけで憎しみが芽吹く、と言うのを説得力のある語りで表現する。ここらへんは流石でした。氣志團のマネジャーをやっていた明星さんのことをつい思ってしまうのも、作り手側の思うツボなんだろうか。山口さんはこれ迄まっすぐな役でしか観たことなかったので新鮮だった。後がない女優のやけっぱち感と諦め感が、数秒単位で入れ替わる。難しかっただろうなあ。

マネジャーは自分の残りの人生のことを考える。女優は女優人生のことを考える。女優の人生って何だろう?

『海へ』はもうあかほり好きにはもうたまらんものでしたよ…。ゴミだらけの部屋、ねこにかにかまをあげる、チン毛をトイレにためる、それぞれのエロDVD嗜好をムキになって論議する、そして何がおこると言うこともない、人生は平凡なもの。平凡なものはこれだけ濃厚なんだ。逆にこれよく一時間に収めたな、と感心もした。

いつものように説明的な台詞は一切ない。会話だけで進む。男は何故死んだのか、何故死ぬ前日に十万円を借りたのか、隣室の老人とはどのくらいの仲?双子の弟は童貞?金子の仕事は何?伊藤の家では妻とこどもたちが待っている。少しずつ疑問が提示され、状況を把握していき、登場人物たちの関係性がだんだん浮かび上がって来る。これが、全て会話で示される。

巧いとか言う技巧ではなく(いやそりゃ何本も書いてるひとだから技巧はあるんでしょうが)、腕力と言うか、腕っぷしの強さで書ききっているように思える。意地にすら見える。何が何でも説明台詞を書くか!と言う(笑)その意地の張り具合がまたいいわ〜(笑)。そして赤堀さんの作品はやはり光を(どんな小さなものであっても)見出すもので、それは死にものぐるいで手を伸ばすもので、そうでなきゃやってらんないからだ。普通に暮らすひとたちが、普通に暮らす中で何故か波立ってしまうもの、どんなに慎ましく生きていても降り掛かる災難。ちょっと調子に乗ってみることもある。それをただただ、ひたすら、脂汗をにじませ乍ら掴んで文字に落としている印象。

これってすんごい辛抱強くないと書けんよなあ…遅筆なのも…し、仕方がないのか……な………。

それを達者な役者さんたちが演じるものだから、ホンに仕込まれている層がますます厚くなる訳です。舞台上から姿を消している(奥の部屋にひっこむ、こたつの中に隠れている等)時ですら、登場人物たちそれぞれの人生を背負った声が聴こえる。笑っているようにすら聴こえる号泣、実にもならない遊びに真剣になる姿。同じ部屋でひと晩を明かし、それぞれの生活へ戻っていく彼らに思いを馳せずにはいられない。最後部屋にひとり残った井之上さんの立ち姿が美しかったなー。「チン毛、海へ!」なんて台詞言ってても。

デリヘルのミカちゃんを演じた遠藤留奈さん、よかったなー。赤堀さんの作品って、こういったギャルをオッサンたちの中にポーンと投げ込んで会話させたら、ギャルがその中の誰よりも達観してて腹が据わってて理解が深く勘がよく、オッサンたちが唖然とさせられる図式が時々出て来るんだけど、正にそれ。トイレにためているチン毛に「あ、大事なんだよね、流しちゃいけないんだよね?」と理解を示すシーンは爆笑しつつも感動すらしたなー。時間にして15分もあったか?そんなに長くないシーンなのに、すごいパンチ力だった。こういうやりとりで女の子のすごさを見せる赤堀さんのなんつうの、ツンデレ?っぷりがもはや清々しい(笑)。

清水さんと入江さんは裕美さんの演出作品にはよく出ていて、それこそ皆二十代の頃から観ている訳だけど、そんな彼らが、人生の半分を過ぎた中年役をそのまま演じられるようになっていたのもなんだか感慨深かった。この世代の共通言語として松田聖子の「赤いスイートピー」が印象的な使われ方をされているんだけど(皆二番迄唄える)、思えばあかほりの方が歳下なんだよね…。

はー、あかほりのこととなると語るなー(笑)。いや新作久し振りだったしね…『沼袋十人斬り』行けなかったから。そしてこんだけチン毛と書いたのも初めてだし、今後書くこともないであろう。あかほりのバカー!

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そんなこんなでこの日はすんげー具合が悪く、芝居以外の予定がいろいろパーになりました。無念。せっかく高円寺行ったんだからお店とか見てまわりたかったよー。まあむしろ芝居で助かったか…座って観られるっていいね!(としより)



2010年03月05日(金)
『ある日どこかで』『ねこ』

■『ある日どこかで』@TOHOシネマズ六本木 スクリーン5
『午前十時の映画祭 ―何度見てもすごい50本』での上映。スクリーンで観られる機会もそうそうないので出かけることにしました。行ってみれば何故か午後八時の回もありましたが(笑)午前十時に観るのがいいのじゃよ。以下ネタバレあります。
映画を観るのは初めて。原作では主人公の一人称で語られていた物語なので、読み方によっては脳腫瘍で余命いくばくもない主人公が見た一瞬の幻とも解釈出来るものでしたが、映画では(脚本も原作者のマシスンが手掛けている)主人公が病気であると言う設定はなく、タイムトラベルをはっきり現実に起こった――主人公が自分の力で現実のものにしたこととして描いていたので、ストーリーが一層強いものになっていた感じがしました。あと映像で観ると、あたりまえのことだけど登場人物が読み手の想像の中ではなく実際に動くものとして目の前に現れるので、そのギャップが面白く思える。ん、なんだ、それって自分の想像力が貧困ってことか(苦笑)。なんだろなあ、実体があるからなのかどうなのか、皆いいひとに見えてしまうんです。
具体的に言えば、テキストで読んでいると、主人公の脚本家リチャードの女優エリーズへの思いの強さに恐怖感を感じたり(ストーカーにもとれるもん…結構怖いよ……)、エリーズのマネジャー像が主人公からの目線なので、(僕の恋路を邪魔するやつとして)かなり変人・悪人として描かれていたように感じていたところが、映画で観ると、ひとめぼれとも言える勢いで猛烈にエリーズへ向かってしまうリチャードの行動にそんなに違和感を感じなかったり、マネジャーがエリーズに厳しいのは、女優としての彼女を大事にしているからだと思わせられる様子が窺えるので、リチャードとマネジャーがポーチで話し合うシーンにとても説得力を感じてしまうのです。
反面、観終わった後は、映画に描かれてないエリーズのその後――リチャードが消えてから何年も何十年も彼を待ち続けることになった彼女の心情がいちばん気になった。だってあんな幸せそーな瞬間に忽然とリチャードに消えられて、女優も辞めて隠遁して、その後彼を待ち続けて暮らすうちに、彼が口ずさんだ曲が新作として発表されたりするようなことがあって、そこできっと彼は未来から来たんだと気付くものの、自分はどんどん年老いて、やっと会えた時にはもう晩年で…ほげー胸が潰れる。で、そうやって待っている彼女がいることなどリチャードは知らない訳で、知った時にはもう遅いんだよー!て言う。なんかさ『ベンジャミン・バトン〜』でも思ったけど、おとこ目線の時間をテーマにしたお話はおんなには残酷だよねー!
そんな訳でひじょーに甘いのにひじょーに後味が…つらしま……いや、いい話ですけども。リチャードがエリーズに出会うきっかけになった肖像写真を撮った時のシーンはいいシーンだったなあ。そういう幸せな場面があるからこそ後がつらいんだけど。ホテルのおじーちゃんアーサーのこども時代がちょうかわいくて、あれもなんか救いにも思えたわ…ちっちゃいこどものかわいさはいろんなものをやわらかくするねえ。
キーとなる曲がマーラーではなくラフマニノフになっていて、その『パガニーニのラプソディー』が作品のロマンティストっぷりにぴったりで、とても効果的でした。あとホテルがミシガン州のグランドホテルになってた。
思えばスーパーマンでないクリストファー・リーヴは初めて観たかも知れない…目が綺麗だったなー。最後の椅子に座ってる時の瞳の色はギョッとする程綺麗だった。あれ、フィルムに着色したのかな?と思う程の鮮やかな碧さだった。
そういえばあの金時計はどこでどうなってああなったんだろう、リチャードが持ったままだったように思うけど、何故エリーズは時計を持っていたんだろう

『午前十時の映画祭』はこれからも名画がいっぱいかかるんでまた行きたい。『スティング』とか観たーい。ラストシーンの「!!!!!」を映画館で他のひとと共有したい!

■岩合光昭 写真展『ねこ』@日本橋三越本店 新館7階ギャラリー
日本橋に移動してイワゴーさんの展覧会。入口では丁度ご本人がいらしててサイン会の真っ最中でした。たっぷり写真を観て出てきてもまだやっていた。行列は全く短くなっていなかった(笑)。すごいー。
日本のねこ、外国のねこ、イワゴーさんの永遠のねこモデル海ちゃん、観たことのあるもの、初めて観るもの。しかし何度観ても飽きないもので、何度観ても笑顔になるもの。たくさんのねこがいてもう笑みがとまらん。「あっ、このねこ知ってる」と思ったりして、それってイワゴーさんの写真で見て知っているってことなんだけど、また会えたって気分になって嬉しくなったり。かわいいなー。鎌倉のお寺にいるでぶねこがおきにいり。お寺の壁にもたれているんだけど、そのポーズがなんか座椅子に座ったオッサンみたいなんだよ(笑)あーかわいいなー。
各写真についている、イワゴーさんのコメントがまたいい。
海ちゃんをはじめ、もうこの世にはいないねこたちもきっと沢山いる。写真の中でしか会えないと思うか、イワゴーさんが写真に撮ってくれたからこうやって今も会うことが出来ると思うか、その時の気分によってせつなくなったりうれしくなったりする。
『音楽堂』のジャケットがイワゴーさんのねこ写真だったからでしょう、矢野顕子さんからの花が飾られていました。平日の昼間だったからか年配のお客さんが多く、そのせいか背が低いひとが多い。おかげで何重にもなっている列の後ろからでも写真がちゃんと観られて快適でした

■おまけ
おとしよりが多いからなのか、レストランのことを食堂と言っているひとが多くてなんか新鮮だった(笑)