みのるの「野球日記」
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2004年04月28日(水) 全日本少年軟式野球大会 沖縄県予選

 8月23日から26日まで横浜スタジアムで行なわれる第21回全日本少年軟式野球大会。先月末、全国トップを切って沖縄県代表が決まった。沖縄は3月末の「沖縄海邦銀行杯争奪中学軟式野球大会」を制した1チームが代表になり、横浜の出場権を得る。この大会は平たくいえば、春季沖縄大会。沖縄の春のチャンピオンが、夏の全国大会に出場できる(冷静に考えると変な仕組みであるが、神奈川も春のチャンピンが横浜に出場する)。

 今年、春の沖縄を制したのは豊見城市立伊良波中。
 (琉球新報によれば、勝ち上がりは以下の通り)
 3月25日 1回戦  4−0 本部中
 3月26日 2回戦  3−0 安岡中
 3月26日 準決勝 5−3 平良中
 3月27日 決勝   5−0 与勝中

 3日間で4試合という、中学野球では当たり前の強行スケジュールを勝ち抜き、全日本初出場を決めた。
 決勝ではエースの新城周平が2安打完封勝利。新城は1回戦でも完封、2回戦では途中で交代したが無失点に抑えている。「新城周平」、今は名前しか分からないが、豪腕投手なのか、それとも技巧派なのか…8月の開幕が今から待ち遠しくなってきた。

 ここ数年、中学野球を見てきたが、最近特に思っていることがひとつ。それは「化け物に出会いたい!!」ということ。めちゃくちゃ球が速い、とんでもない飛距離を放つなど、何でもいい。「これはすごい!」という選手をこの目で見てみたい。昨年は全中と全日本を見て、好選手はいたが、「化け物」には出会えなかった。

 沖縄・伊良波中と聞くだけで、どんな選手がいるのか、どんな野球をするのかワクワクしてくる。去年の沖縄代表・上本部中には與那嶺祐也(現興南)という素晴らしい投手がいただけに。
 先月、沖縄遠征を行なった川中島中の高山裕一先生(現西中原中)は「沖縄はすごい。身体能力がずば抜けている。日本のキューバだったよ」と話していた。
 伊良波中……驚くようなスーパープレーを横浜で見せて欲しい。 

 ちなみに沖縄の次に決まるのが、開催市となる横浜市の代表。横浜市春季大会優勝校が全日本の出場権を得る。こちらは5月8日に準決勝、9日に横浜スタジアムで決勝が行なわれる



2004年04月27日(火) 因縁対決(2)横浜vs桐光学園

 29日に行なわれる注目の対決。遊学館vs星稜に続いては、横浜vs桐光学園。過去の公式戦対決は横浜が7勝1敗と大きくリード。特に過去3回の対決は、98・00・01年と夏の県大会決勝で対決。いずれも横浜が勝利し、夏の甲子園切符を掴んでいる。

<桐光から見た、対横浜>
01 夏 決勝  ●7−10
00 夏 決勝  ●3−5 
98 夏 決勝  ●3−14
96 秋 4回戦 ●1−9
92 夏 4回戦 ●2−5
84 夏 5回戦 ○5−2
80 秋 2回戦 ●0−11
80 夏 3回戦 ●0−12

 記録を見ると、意外なことに春季大会では初対決だと分かる。
 両校はすでに夏の第二シード以上を確定。29日の試合は、夏とは違い「絶対に」勝たなくてはいけない試合ではない。夏を見据えて、横浜・涌井、桐光・山室の両エースを温存してくる可能性もある。ただ、両校とも昨秋は不本意な成績で終わっている。チームに勝ち癖、自信をつけるためには「勝ちたい」試合といえる。
 先週の4回戦終了後、東海大相模の門馬監督は「どんな試合展開でも勝ったら絶対に選手の力になる」と話していた。高校生にとって、ひとつの勝利はとてつもなく大きい。特に、対横浜に勝つ、対桐光に勝つことは夏の大会にも大きく影響してくる。

 「因縁の対決」と書いたが、正直、横浜高校からしたら、それほどの意識はないと思う。過去の対戦成績では大きくリード。「桐光には負けるはずがない」、首脳陣はそう思っているかもしれない。
 桐光の場合は違う。桐光は夏の決勝で横浜に敗れ続け、その敗戦を糧に神奈川を代表する強豪にまで上り詰めてきたからだ。84年秋以来、20年ぶりの勝利をどうしても掴みたい相手である。

 98年、夏の決勝。横浜のエースはあの松坂だった。のちに春夏連覇を達成し、「史上最強」とも言われる横浜に対し、桐光は3−14と大敗した。
 野呂監督は「ショックというよりも、これからやるべきことが分かった」と、98年の決勝を見ている。「体の大きさが横浜とは違う。パワーにしてもスピードにしても、劣っている部分が多すぎた」。
 横浜に追い付くため、98年秋から、チームは専属トレーナーを雇い、体の強化に力を入れた。今でもトレーニングは続き、週1回は体作りの日に充てられている。

 00年の決勝は、意識を変えさせられる敗戦だった。体の大きさでは、横浜に見劣りしないほどになっていた。桐光の名も県内に売れ、有望選手が入部するようになった。
 試合も中盤まで桐光のペース。そのまま押し切るかと思えたが、7回表に集中打を浴び、逆転負け。「試合巧者」という言葉がピタリと似合うような横浜の戦いぶりだった。

 のちに野呂監督は敗戦をこう振り返っている。
「甲子園に出たいと思ってやってきたが、それではいくらやっても神奈川を勝ち抜くことはできない。ほかのチームは全国制覇を目標に取り組んでいる。全国制覇を本気で目指さなければ、神奈川を勝ち抜けないと思いました」
 ほかのチームとは、言うまでもなく、横浜・桐蔭学園・東海大相模といった過去に全国制覇の経験を持つチームだ。こららのチームにいかに勝つか…。「全国で勝つ」という意識をチームに植え付けていった。その結果、01年センバツ出場、02年夏の甲子園出場と、全国舞台に足を踏み入れることができたといえる。

 桐光学園は上記の2度しか甲子園出場がない。しかも、ともに横浜と戦わずして掴んだ出場権。県内のファンからは「横浜に勝たなければ、桐光の強さは認められない」といった声も聞かれるほど、横浜高校の名前は大きなものだ。

 20年前、唯一横浜に勝利した84年は野呂監督就任1年目のときだった。法政二、横浜ら強豪を連破し、ベスト8まで進んだ。「嬉しさよりも、優勝まであと3つもあるのかと思いましたよ」と野呂監督は話す。神奈川を勝ち抜くことの大変さを、就任1年目から実感した。

 先週の土曜日、ほぼ完璧な試合運びで勝利した、対桐蔭学園戦。じつは桐蔭に勝ったのは、創部以来初のことだった。過去5戦ですべて黒星を喫していた桐蔭に、走攻守で完全に上回り完勝。

<桐蔭>
01 秋 準決勝  ●3−10
96 夏 3回戦  ●6−11
91 夏 準々決勝 ●4−5
91 春 準々決勝 ●4−8
90 春 準々決勝 ●3−5


 29日、桐蔭に続き横浜に勝利すれば、神奈川の「強豪」として県内の高校野球ファンから認められるかもしれない。
 全国制覇を実現するために、超えなくてはいけない横浜高校の壁。どのような戦いになるか、注目の一戦だ。



2004年04月25日(日) 因縁対決(1)遊学館vs星稜

 4月29日、みどりの日(ちなみに前日はワタクシの誕生日)。祝日のこの日、全国各地で高校野球春季大会が行なわれる。その中でも個人的に注目する対決がふたつ。ひとつは石川県大会の3回戦、遊学館vs星稜。そしてもうひとつは神奈川県大会準々決勝、桐光学園vs横浜である。
 
 まずは遊学館vs星稜。
 両校の公式戦での対決は01年秋の準決勝以来、2度目のこと。その時は遊学館が7−0で圧勝し、初の北信越大会出場権を獲得。当時の遊学館は創部1年目オール1年生の布陣。その若いチームが甲子園の常連・星稜に圧勝。「遊学館」の名を県内に大きくアピールした試合だった。
 敗れた星稜としては屈辱的な敗戦。長い間、石川の高校野球界をリードしてきた学校が創部1年目の新興勢力にいいところなく完敗。奇しくも、星稜はこの敗戦を境に、凋落の一途を辿っていくことになった。
 
<星稜>
03秋 2回戦敗退(●1−8小松市立)
03夏 2回戦敗退(●5−8金沢)
03春 3回戦敗退(●2−3金沢市工)
02秋 ベスト8(●5−7羽咋工)
02夏 ベスト8(●4−10小松市立)
02春 ベスト4(●0−11金沢)
01秋 ベスト4(●0−7遊学館)
01夏 準優勝(●6−17金沢)
01春 準優勝(●3−4金沢)      北信越初戦敗退(●3−4長野商)

 01春は遊学館が石川県高野連に加盟した時期。それから今年で4年が経とうとしているが、結果を見れば分かる通り、遊学館の登場と星稜の凋落が見事なまでに重なっている。

<遊学館>
03秋 準優勝(●8−9金沢)    北信越ベスト4(●1−8福井)
03夏 準優勝(●1−5金沢)   
03春 優勝(○11−0金沢西)   北信越準優勝(●1−4福井)
02秋 準優勝(●3−4小松市立)  北信越優勝(○10−3福井商)
02夏 優勝(○11−6金沢)     甲子園ベスト8
02春 優勝(○6−5金沢)      北信越ベスト4(●0−3足羽)
01秋 優勝(○11−4金沢)     北信越ベスト8(●3−10松商学園)
01夏 ベスト4(●1−5金沢)
01春 2回戦敗退(●3−4鶴来)
 
 遊学館は01秋から県内の大会では7大会連続で決勝進出。対する星稜は01秋から7大会連続で決勝に進めていない。結果が示すとおり、01年秋の準決勝は、その後の遊学館と星稜の地位を決める大事な一戦だったといえる。それ以来の再戦、注目度は高い。


 遊学館をここまでのチームに作り上げたのは、創部以来指揮を執る山本雅弘先生の存在が大きい。かつては星稜中野球部を率い、3度の中学日本一を経験。その手腕を買われ、00年秋から遊学館野球部の監督に就任した。率いていた星稜中からは野球部創部にあわせ、門前歩(現東海大)、藤原逸平(上武大)ら主力が山本先生を慕い入部。野球部の伝統を山本先生とともに築きあげた。

 今年のチームを見ても、中山健蔵、和田竜太(ともに3年)、鈴木将光、曽根瑛二(ともに2年)ら、星稜中で活躍した選手がレギュラーとしてプレーしている。もし、山本先生が星稜中で続けていれば、彼らはほぼ間違いなく星稜高に進学していた。となれば、星稜のここまでの凋落はなかったと思われる。遊学館に野球部が創られたこと、そしてそこに山本先生が監督として就任したこと。このふたつのことで、石川の高校野球界はガラリと変わった。

 中山、和田らが星稜中2年だったとき、星稜中は全中準優勝を果たしている。チームを率いていたのは全中での最後の指揮となった山本先生。このときエース番号をつけていたのが、2年生の山本達也。彼はそのまま星稜高に進み、現在はエースとして活躍している。星稜には2年生左腕の林、4番を打つ鹿野大地とほかにふたりの投手がいるので、遊学館戦での登板があるかは微妙だが、山本の登板があれば面白い。恩師ともいえる山本先生の前でどんなピッチングを見せるのか、そして教え子のピッチングをどう攻略していくのか。また中山、和田、そして山本は当時のチームメイト。どんな対決となるのか、興味は尽きない。

 山本先生が遊学館に移ったあと、星稜中の監督に就任したのが田中辰治先生。田中先生も星稜中野球部の卒業生で、現役時代は山本先生の教えを受けた。山本省吾(現近鉄)とバッテリーを組み、全中ベスト4。星稜高進学後は、マネージャーとして夏の甲子園準優勝に輝いている。
 遊学館の鈴木、曽根、そして星稜の片岡(いずれも2年生)ら星稜中出身の現高校2年生は、中学1年の半年間、山本先生の指導を、残り2年間は田中先生に教わった。鈴木らの代は、全日本少年でベスト4。片岡がエース、鈴木が4番、曽根がファースト(兼控え投手)という布陣であった。彼らのプレーぶりにも注目が集まる。

 星稜高の夏の甲子園準優勝。マネージャーとしてチームを支えたのが田中先生であれば、核弾頭としてチームを引っ張ったのが1番を打っていた中川光雄選手。現在は遊学館の教諭となり、野球部のコーチも務めている。準優勝メンバーが、星稜中の監督に、そして遊学館のコーチへ。こんなところからも、因縁を感じずにはいられない。

 なお、曽根とともに遊学館の投手陣を支える旅将平は氷見北部中(富山)で北信越を制し、全中に出場しているが、このときの正捕手が小笹拓。彼は星稜に入学し、現在は正捕手の座を掴んでいる。星稜中が絡んだ因縁対決とともに、氷見北部中のチームメイト同士の対決もみられそうだ。

 低迷続く星稜も指をくわえて見ているわけにはいかない。今年から、社会人で指導経験のあるコーチを招聘し、指導スタッフを充実させた。新1年生も有望選手が多数入部、星稜中からも今年は主力選手が揃って入部した。遊学館には負けられないというプライドがひしひしと伝わってくる。

 両校の公式戦での対決は01年秋以来と書いたが、じつは02年秋にも対戦している。「1年生大会」という大会でその名の通り、1年生だけによるトーナメントだ。両校は決勝で対戦、星稜が6対5で遊学館を下し、優勝を遂げた。このときのメンバーは現在3年生。出場した選手のほとんどが、主力選手として成長している。

 様々な因縁が絡んだ注目の遊学館vs星稜は29日、石川県立野球場で行なわれる。



2004年04月24日(土) 大胆な守備位置(桐光学園ー桐蔭学園)

◆4月24日 神奈川大会4回戦
桐光 100000202|5
桐蔭 000000002|2

 桐蔭打線が放つヒット性の当たりが、ことごとく桐光の守備網に掛かる。打球が飛ぶ場所を事前に察知しているかのように、桐光は守備位置を変えてきた。印象的なシーンがふたつある。

 まずは2回裏。桐蔭の4番長谷部がレフト線の安打で出塁。二塁を陥れようとした長谷部は、一塁をオーバーランしたところであきらめた。桐光のレフト日野が、しっかりとライン際に守っていたからだ。定位置であれば、二塁を狙えた当たり。無死一塁と、無死二塁では大きな違いがある。事前の準備で、ピンチを未然に防いだ。
 
 そして4回裏。目立たないビックプレーがあった。桐蔭は2死一塁で5番の渡辺。カウント1−1からエンドランを仕掛けてきた。渡辺は外角ストレートを芯で捉え、打球はライト線へ。ネット裏から見ていて「抜けたかな」という当たりだった。が、ライトの片根が2歩、3歩とライト線に走り、悠々とボールを掴んだ。定位置であれば、抜けていてもおかしくなかった。エンドランがかかっていたことを考えると、一塁ランナーのホームインもありえた。ここで桐蔭が同点に追い付けば、その後の試合展開は変わっていたかもしれない。

 試合後、野呂監督は守備位置についてこう話していた。
「普通なら抜けたかなと思う当たりが何本かあったけど、ポジションがうまくいっていた。ベンチから指示を出したこともあるけど、選手が意味合いを分かって動いていてくれたのが大きい」
 単にベンチから動かされるのではなく、なぜ動くのか、なぜそのポジションを守るのか、そのことを選手がどれだけ理解できているか…。野呂監督は「監督と選手の考えが噛みあっていた」と表現した。十分すぎるほどの褒め言葉である。

 今日の試合、スコアは5−2。「接戦」と言ってもいいかもしれない。ただ試合内容は桐光の完勝。9回裏の2点も、桐光のセンター光木が2死からセンターフライを落球したため。これがなければ、5−0。文字通りの完勝だった。
 野呂監督は「最後のひとつが勉強になったと思う。最後の1イニングが次の試合のプラスになるように持って行くのが、監督の仕事。ミーティングでそういった話を選手に伝えます」

 次の試合…夏の決勝で3度負けている横浜高校との準々決勝。
「次は横浜ですね?」と聞かれると、「いいじゃないですか(笑)」と笑顔を浮かべながら、「久しぶりですね」とポツリ。01年夏の決勝以来の対戦となる。

 この日、投手人生初の140km超え(MAX141km)を記録したエース山室は、「倒したい気持ちはあるけど、意識はしてません。自分のピッチングをするだけ」と冷静なコメント。
 山室は「甲子園は行って当たり前。甲子園で優勝して、プロに行くのがぼくの目標です」と高校2年生とは思えぬビジョンを持っている。ビジョンを叶えるためには、倒さなくてはいけない相手・横浜高校。全国屈指の投手、横浜・涌井との対決が楽しみだ。



2004年04月21日(水) 東海大相模の新1年生

 東海大相模の応援掲示板を見ていてビックリ。3回戦の日大戦で、新1年生の田中大二郎がスタメン5番で出場を果たしたそう。打撃成績までは分からないが…そうですか、いきなりスタメンですか。そっか、やっぱりすごい選手だったんだなぁ。。

 田中は明徳義塾中の4番ファーストとして、昨夏の全中で日本一を成し遂げている。兄は現在桐蔭学園3年の田中淳太郎。兄も明徳義塾中で全中制覇を果たしており、兄弟で中学日本一を経験した。

 全中で田中を見たとき、「ほんとに中学生?」と思った。いかにも4番ファーストというガッチリとした体つきで(智弁和歌山ー早稲田大の武内にソックリだった)、中学生とは思えぬスイングスピード。ついでにプレースタイルも中学生とは思えなかった。ファーストでのミット捌きも抜群。挟間監督は「田中がエラーしたのは見たことがない」と言っていたほど。言葉どおり、ショートバウンドの処理は中学生としては一級品。恐ろしい選手だ〜と思いながら見ていた。

 修徳学園中との全中決勝戦。田中の第二打席が印象に残っている。
 1−0と明徳中リードで迎えた4回裏。1死ランナーなしで田中。修徳中のマウンドにはエース磯部(現修徳高)。田中はカウント1−0から内角低目を右中間に弾丸ライナーで運び、二塁打を放った。確か、ビヨンドマックスを使っていたとは思うが、それでもとんでもない当たり。火を噴くような痛烈なライナーだった。その後、6番打者にタイムリーが出て、2−0と明徳中がリード。結局、この1点が決勝点となり、2−1で明徳中が2年ぶり3度目の優勝を遂げた。

 昨年秋頃、東海大相模へ進むという話を耳にし、早いうちに球場で見られるかもと思っていたが、こんなに早く出場しているとは…。田中が硬式出身であれば驚きはしないが、昨年8月まで軟式をやっていた選手。戸惑いはなかったのだろうか。全中から半年を経てどんな成長を遂げているのか。今週末の武相戦を楽しみにしたい。

 なお、全中優勝メンバーの明徳義塾中からは、1番サードの石丸健太も東海大相模入り。ミートセンス抜群のトップバッターで、彼も活躍が楽しみな選手のひとり。

 そして、全中ベスト4の相模原市立内出中(神奈川)のエースも地元東海大相模へ進学。ここ最近の相模は軟式出身者がエースとして活躍しているので楽しみ(硬式からもかなりいい選手が来ていると聞くが…)。軟式出なので、長い目でじっくりと育ててもらえれば、と思います。

→相模の軟式出身投手
 00年筑川利希也(相模原市立東林中)
 02年上津原詳(厚木市立睦合中)
 03年小林敦(東海大一中 *現東海大翔洋中)
 04年堀内久大(相模原市立新町中)

 堀内に次ぐ次期エースに小林の後輩・小泉圭市(東海大一中)に期待しているのだが、果たしてどうでしょう。武相戦で投げて欲しい。。




2004年04月20日(火) 「最低でも50HR」(桐光学園・岡山真澄)

◆春季神奈川大会4回戦(4月17日)
県川崎工 0000000 0
桐光学園 0020302 7
 (7回コールド)

 5回裏、2死一塁。桐光学園の5番、巨漢:岡山真澄(180センチ、94キロ)はカウント0−1から、外角のストレートを真芯で捕えると、打球はキレイな放物線を描き、センター後方へと飛んでいった。桐光学園Gの中堅フェンスには白字で「120」と書かれているが、ちょうどその上。ホームベースから一直線で放たれた大飛球は、試合を決定付ける2ランホームランとなった。
 
 度肝を抜かれた。県川崎工のエース柳沢久志のボールも、確かに甘かった。外角とはいえ、高さはベルト付近。でも、甘い球をしっかりと打てる、しかもホームランにできるとは相当な力がなければムリ。打球音、そしてセンターへの放物線とともに、恐ろしいバッターだと感じた。

 ホームランを打つまでの二打席。岡山は徹底したインコース攻めに苦しんでいた。柳沢は「桐光打線は内角を攻めないと抑えられない」と序盤はグイグイとストレートで内を突いてきた。岡山もフルスイングを見せるが、バットは空を切り、1・2打席ともに三振に終わった。
 岡山は柳沢に対し、「前の試合のビデオを見て、外角のストレートが多かったんです。だから外角に張っていました」。しかし、柳沢が攻めてきたのは内。面食らった結果が三振だった。

 5回に迎えた岡山の第3打席。柳沢はその前の4回頃から、配球が変わった。序盤見せていた内角攻めが少なくなり、外のストレート、スライダー中心の配球。時折、「弥栄西戦では投げなかった」というチェンジアップも投げ始めた。「序盤はインコースを攻められたんですけど、中盤からは投げられなくなった」と柳沢。桐光打線の迫力に、攻めのピッチングができなくなっていた。
 岡山に打たれたホームランはある意味、投げる球がなくなってしょうがなく投じた外角ストレート。第1打席から張っていた岡山には絶好球だった。柳沢は「高校に入って初めて打たれたホームラン。いい経験になりました」とサバサバした表情で語った。

 試合後、岡山に「何本目のホームラン?」と訊くと、「21本目です」と即答。「高校通算で最低でも50本打ちたいんです。だから一本一本数えています」と薄っすら無精ひげを生やした岡山が人懐っこい笑顔を浮かべた。
 過去の21本のうち、どのホームランが最も印象に残っているか。「横浜との2軍戦で打ったホームラン」とこれまたすぐに答えが返ってきた。「飛距離がすごかったんです。長浜グラウンドのレフトネットの最上段に当たって、もう少しでネットを超えそうでした」と、今でも感触を覚えていますよ〜といわんばかりの嬉しそうな言葉。ホームランの数だけでなく、飛距離にも相当こだわっていることが伝わってくる。
 
 最初に紹介したように、180センチ94キロの体。誰がつけたかわからないが、「桐光のボブサップ」と呼ぶ声もある。清原や中村ノリに憧れてるのかなと思い、目標の選手を訊ねると「高橋由伸」と意外な答え。オイ、全然違うじゃん! と心の中で突っ込みを入れてしまった。
「今、自分は三振かホームランなんですけど、ゆくゆくは率も残せて、守れて走れる選手。走攻守で勝負したい」とその理由を語る。岡山のプレーを見たことがある人は分かると思うが、その言葉とは全く違うプレースタイル。走りと守りはまだまだ…である。だが、今はまだ2年生。由伸のスタイルにどれだけ近づけるか、注目してみたい。個人的には三振かホームランかという、一発屋として生きていくのも、岡山の魅力だと思うんですが。まぁ、目標は高く!

 次戦は今週土曜日に桐蔭学園戦。県川崎工業戦は桐蔭学園の片桐コーチ以下、選手2名が偵察に訪れていた。ビデオもしっかりと録画していたので、対策は十分練ってくるはずだ。桐蔭エースの渡辺は外角スライダーが光る投手。オーソドックスに、内角ストレートで攻めて、外角のスライダーが勝負球…という配球が予想されるが、岡山がどう対応できるか注目だ。



2004年04月15日(木) 「内さんに近づきたい」(県川崎工・柳沢久志)

 先日開幕した春季神奈川大会。10日、桐蔭学園グラウンドでは1回戦屈指の好カード桐蔭学園vs慶応に続き、県川崎工vs弥栄西の試合が行なわれた。県川崎工といえば、昨秋のドラフトで内竜也が千葉ロッテから1位指名を受け、一躍注目を集めた高校だ。今年、その内が着けていたエースナンバーを継いだのが新2年生の柳沢久志。来年のドラフト候補として名が挙がるほどの好素材である。

 柳沢の名前を初めて聞いたのはいつだったか…。確か今年の冬だった気がする。「1年にも柳沢っていう良い投手がいるんですよ」と、教えてくれたのは川中島中の高山裕一先生(現西中原中)だった。川中島中といえば、川崎市にある内竜也の母校。柳沢もまた、川崎市の富士見中出身。市内で、柳沢の名は知れ渡っていたという。
 
 桐蔭学園グラウンドで第1試合を見ていると、桐蔭学園中の大川和正先生から電話を頂いた。「第2試合の川崎工業の柳沢、ほんといいピッチャーだから、見ておいた方がいいよ」。もともと第2試合も観戦予定だったが、どれほどの投手なのか、さらに楽しみとなった。 

 第1試合が中盤に入った頃、三塁側ブルペンで柳沢が投球練習を始めた。第一印象は(小さいなぁ)だった。「内竜也二世」という触れ込みもあったので、内の上背を想像していたが、それほどの上背はない(後で本人に聞くと、175センチくらい、とのこと)。
 最初は軽いキャッチボールで始めた柳沢。正直、(ほんとに好投手なのか)と疑問を持った。テイクバックでヒジが引っかかるようなところがあり、ヒジが下がったまま投げていた。あんまり、マジメに投げてないんだろうなぁ、と思いながら見ていたら、やはりそうだった。キャッチャーを座らせると、キャッチボールでの投げ方と明らかに変わり、ヒジがしなって、ストレートが低めにビュンビュン決まっていた。キャッチボールとピッチングでこうも変わるのか、と思った。

 そういえば、高山先生も内についてこんなことを言っていた。
「キャッチボールをさせると、内は普通の投手。でも、ピッチングをやらせると、モノが違う!」
 内が中学2年の秋に野球部に入部したとき、高山先生はピッチングを1球見ただけで、度肝を抜かれたそうだ。「キャッチボールでは感じなかったんですか?」と訊くと、「キャッチボールは遊びながらやってましたから」と苦笑いの先生。柳沢の変貌ぶりをみて、(内にそっくりだなぁ)と感じた。

 徐々に熱を帯びてくるピッチング練習。何回から始めたか忘れてしまったが、(大丈夫か、そんなに投げて)と思うくらい、結構な球数を投げていた。投げるのが好きなのか、それともあんまり考えていないのか…。ちょっと心配になって見ていたら、キャッチャーを務めていた3年生が「もういいよ、投げすぎだよ」と一言。「ハイ」と帽子をとる柳沢。普通、ピッチャーが、「このくらいでOK」と決めるもんじゃないの…。

 試合開始。第1試合と比べて、さすがに観客は減ったが、ネット裏には「柳沢」みたさに残る人もいた(自分もそのひとり)。
 初回。ピッチャーゴロ、空振り三振、見逃し三振と、簡単に三者凡退に仕留める柳沢。ブルペンで見た通りのピッチングを見せてくれた。球種はストレートを中心に、ヨコのスライダーとタテのスライダー、そしてシュート。軸足一本でたったときの姿勢、グローブの使い方など、どこか内に似てる気がしてならなかった。

 これは打てないなぁと思いながら見ていると、2回3回と連続三者凡退。試合展開がコールド濃厚だったため、完全試合もあるかもと思ったが、4回に初ヒットが生まれ、さらにボテボテの内野安打で1失点。特に気にする素振りもなく、5回〜7回を無難に抑えた。
 結局、7回を投げ、3安打10三振1四球。二種類のスライダーもなかなか良かったが、最も魅力と感じたのは右打者にも左打者にも投げられる内角のストレート。特に、左の内角にはピンポイントで威力のある速球を投げていた。ネット裏のガンでは、133キロや134キロの表示だったようだが、もっと速く見えた(MAXは138とのこと)。

 試合後の柳沢も「インコースへのストレートが一番良かった」とコメント。スライダーとともに、相当自信を持っている球のように感じた。
 試合中気になっていたことが、柳沢のプレートの位置。珍しく、ド真ん中を踏んでいたからだ。普通右投手は、右打者の外角へ角度をつけたいため、三塁側を踏む。内竜也も、高速スライダーを生かすため、三塁側を踏んでいた。それが、ド真ん中。柳沢は「スライダーだけじゃなく、シュートも投げるんで、左右を広く使いたいんです」と説明。江成監督に言われたわけでなく、自分でそういう意図を持ってやっているそうだ。

 柳沢は目標の投手に、迷わず「内さん」と偉大な先輩の名を挙げた。「内さんに一歩でも近づけたらいいなと思ってやってます」。でも、「フォームは上原(巨人)のマネしてます」とちょっと矛盾したことを言っていたが(笑)。いいところだけ盗んで、近づきたい、ということだろう。

 江成監督は「野球センスは抜群のものがある。でも、ちょっとお調子者だからね〜。ヒジが痛い肩が痛いとか言ってるのに、突然今日は投げます、と言ってみたり…」と苦笑い。
 お調子者といえば、試合中、こんなシーンがあった。ベンチ前を通りかかった柳沢にたまたまファールボールがゴロで飛んできた。柳沢は素手(左手)でそれを捕ろうとして失敗。「イテッ!」と声を上げていた。利き手の右手ではないといえ、ピッチャーなんだから、手を大事にしなさい…と思ったのは言うまでもない。

 県川崎工は明後日土曜日、桐光学園と対戦する。桐光学園とは昨夏の準々決勝で対戦。内が終盤に打ち込まれ、逆転負けを喫した因縁の相手だ。ちなみに、柳沢は中3の春に川崎市大会準優勝を経験しているが、そのとき決勝で負けたのが桐光学園中学。何とも不思議な因縁ともいえるが…、強豪相手に柳沢がどれほどのピッチングを見せるか注目したい。
 



2004年04月13日(火) 元中学野球監督対決(市立船橋vs習志野)

 前日ネットで調べ物をしていたら、偶然春季千葉大会ブロック予選の組み合わせ表を発見。13日に船橋市民球場で市立船橋vs習志野があることが判明した。予定には全く入れていなかったが、(これは見に行かなくてはいかん!)と思い立ち、本日は船橋まで観戦の旅へ。旅といっても案外近く、我が家から1時間半で到着した。

(見に行かなくてはイカン!)と思い立ったのは、何も強豪同士の戦いだったからわけではない。両チームの監督ともに、中学野球出身の方だったからだ。
 市立船橋の石井忠道先生は常盤平中で全中ベスト4、松戸六中では01年全中準優勝を遂げている。翌02年から市立船橋に移り、野球部監督に就任。昨夏の千葉大会ではベスト4進出を果たした。
 一方の習志野・椎名勝先生は83年全中で習志野二中を率いて準優勝。決勝では現マリナーズの長谷川滋利がいた宝殿中(兵庫)に敗れた。習志野に移る00年秋まで、中学の千葉県大会を6度制覇。石井先生とともに、千葉の中学野球をリードする指導者だった。習志野でも就任1年目にチームを14年ぶりの夏の甲子園に導き、いきなり手腕を発揮し話題を呼んだ。

 そんな二人が指揮をとる試合は、1点を争う接戦となった。
 先手をとったのは2回裏の市船。5番山崎がレフト場外へ消える豪快なソロホームランを放ち、1点を先取。この山崎は松戸六中出身で、中学時代は石井先生の指導を受けた。石井先生が市船に移るとともに、山崎も市船へ入学。中学1年から高校3年まで、何と都合6年も同じ場所で野球をしていることになる。市船はほかにも3番細川、9番のキャッチャー赤沼が松戸六中出身。この3人は中学3年のとき、全中準優勝を果たした主力選手だった。
 
 1点を追う習志野は直後の3回表に、2死満塁から6番ヒラオカ(漢字不明)がセンターへの2点タイムリーで逆転。6回にも1点を追加し、3−1とリードを2点に広げた。

 市船は習志野のエースの前に(名前不明)、凡打のヤマ。ヒットが出ても牽制死で自らチャンスを潰すなど拙攻。球場の雰囲気もどことなく、習志野の勝利濃厚、という感じだった。
 だが、それを覆したのが1番の向後。6回裏にランナーを一塁におき、起死回生の同点2ランを放った。湧き上がる市船ベンチとは対照的に、静まる習志野側。市船は内野陣にもミスがあり、ゲーム内容ではここまで完全に習志野だった。それを一発で払拭した。

 が、市船の喜びもつかの間。最近の高校野球は打つ。打たなければ勝てないと思うほど。今度は7回表、習志野の6番金子にレフトへ勝ち越しホームランが飛び出した。(オイオイ、春の大会でこんなにホームランが出るのか…)と思いながら、金子のベース一周を眺めた。と同時に、やはりこんなところで当たるなんて、勿体ないカードだと思った。ともにこの試合で負ければ、夏はノーシード。それどころか、春季県大会への出場権すら失う。甲子園の常連ともいえる強豪がブロック大会で当たる…両者の負けられない意識が痛すぎるほど伝わってきた。

 その裏、市船はランナー二塁に置いて、6番福井がレフトオーバー二塁打で同点に。外野のエラーもあり、1死三塁のチャンスを迎えた。打席には7番木南。1死三塁といえば中学野球でよく見られる光景が、セーフティーエンドラン。内心、(ここでエンドランが見たい!)と思ったが、そこは高校野球。石井先生の選んだ策はスクイズだった。だが、これはピッチャーへの小フライと終わり。最悪の併殺。勝ち越しのチャンスを潰した。

 8回表、市船のエース渡辺知剛が四球のランナーを出すものの、何とか踏ん張りゼロに抑える。渡辺は「好投手」として評判を集める投手だが、今日のデキは今ひとつだった。簡単に四球を出したり、カウント不利になる場面が目立った。この日は10度を切ってるんじゃないかと思うほど冷え込んでいたので、その影響もあるかもしれないが。

 8回裏、市船は先頭打者がライトオーバーの二塁打。ライトは捕れない打球でもなかったが、若干目測を誤った。9番がバントできちっと送り、さきほどホームランの1番向後がセンターへ犠牲フライ。結局、これが決勝点となり、市船が5−4と接戦を制した。春の大会らしく(?)ミスもあったが、両者の勝利への意識をメラメラと感じる好試合だった。

 さて、お目当ての監督はというと…石井先生はじっと腕組みを組み、試合中静かに戦況を見つめる時間が多かった。ミスした選手を怒鳴ることもなく…、静かに静かに試合を見つめていた。市船ベンチで大声を上げたり、選手を鼓舞していたのが部長の長岡尚恭先生。普通、部長といえば…監督の陰に隠れて…というイメージだが、長岡先生の場合は違った。むしろ、ベンチでの姿を見る限り、石井先生が部長で、長岡先生が監督と見間違えるほど。じつは長岡先生も大穴中という千葉の県立中学で野球部を指導しており、昨春市船橋に移ってきた。つまり市船は両首脳が中学野球出身である。
 対する習志野の椎名先生は、赤いメガホンを口にあて、何度も何度も選手に檄を飛ばしていた。ベンチ上のスタンドから試合を見ていると、ベンチで叫ぶ椎名先生の声も耳に入ってきたほどだ。

 試合後、石井先生は「椎名先生とは中学時代は市の大会でも、県の決勝でも当たったことがある。いい仲間でしたよ」と言う。高校に移ってからは、今日が初めての対戦だったそうだ。「こんなところで当たるとは…」と苦笑いを浮かべていた。
 千葉は今日対戦したふたりのほか、市立松戸の嶌田孝先生、昨秋関東大会に出場した市立柏の福島紀和先生ら中学野球から移ってきた指導者が他県よりも多い。中学軟式野球ファンとしては、夏の決勝で中学野球出身同士の対決が見てみたい。



2004年04月11日(日) 「甲子園にはおれが連れて行く」(修徳高・斉藤勝)

 春季東京都大会4回戦、修徳vs日大豊山。この試合に勝てば都のベスト8入り。夏の大会の第二シード以上が確定となる。

 1−1の同点で迎えた7回裏。修徳は先発・小林聖(3年)が無死一、二塁のピンチを迎えた。ブルペンでは6回から投球練習を始めた背番号11の左腕・斉藤勝(2年)の姿が見える。小田川雅彦監督はブルペンに交代の合図を送り、斉藤が足早にマウンドに向かった。マウンドを下りる小林には三塁側スタンドから大きな拍手が送られた。

 エース番号を背負った3年生の小林は、右サイドスローの技巧派。驚くようなボールはないが、ストレートと変化球のコンビネーションで豊山を1失点に抑えた。修徳はベンチ入り20名中、3年生はわずか4人。一桁の背番号を着ける3年生は小林ただひとりである。小田川監督は「小林が3年生の意地を見せてくれた」と試合後、7回途中1失点の小林をたたえた。

 マウンドに上がった斉藤は、184センチ69キロの大型左腕。ここのところ、高校野球雑誌にも「注目投手」として名が載ることが多くなった投手だ。小田川監督曰く、「中学時代は相当なやんちゃ坊主」とのこと。「野球をやってなかったら…」なんて話をしていたこともある。
 斉藤は1年夏からベンチ入りを果たし、夏の都大会でもマウンドを経験。秋は主戦を任されるも、2回戦で堀越に敗退。「自分の守備のミスで負けてしまった。ひとりで野球をやってしまって、負けたのは自分のせいです」と振り返る斉藤。秋の敗戦で、冬場の練習への意識が相当変わったという。投げ方も、スリークォーターからサイドに変えた。「自分が一番腕を振ることができる位置がここ」(斉藤)。左のサイドスロー、しかも思い切りクロスに踏み込んでくる。左打者はかなり打ちにくそうなタイプである。

 無死一、二塁のピンチ。豊山は3番の斉藤望(左)が打席に入る。見るからに強気な顔をした斉藤勝は、初球からストレートを投げ込んだ。左打者の外角へストレートを三球。見事にコントロールされたストレートに、打者は手を出すことができず、見逃しの三振。斉藤は一球投げ終わるごとに、マウンドを数歩下りてきて、捕手からの返球をグラブでパン! と音が聞こえてきそうな勢いで掴み取る。早くボールが欲しくて、早く投げたくてしょうがないのか…。こういうタイプは波に乗るとグイグイくる。
 1死満塁で迎えるのは4番橋本。外角へカーブが外れたあと、キャッチャー長野はインコースに構えた。「右打者の内角が一番の得意球」と話すとおり、斉藤はインコースにキレのあるボールを投げ込んだ。内に2球ストレートを続け、カウント2−1。勝負球も内角ストレートを選択。橋本は力のないセカンドゴロを放ち、4−6−3のダブルプレー。無死一、二塁を見事な投球で切り抜けた。斉藤は満面の笑みでマウンドを下り、ベンチの小田川監督からは拍手で、控え選手からはハイタッチで迎えられた。
 
 ピンチのあとにはチャンスあり。
 8回表、3番田母神がヒットで出塁したあと、4番長島がライトへ2ランホームラン。その後はスクイズ、そして9回には田母神の2ランが飛び出し、終盤の8回9回で5点を追加。一気に試合を決めた。
 斉藤は9回に四球でランナーを出すものの、打者9人を無安打、3三振と見事なピッチングを見せた。それも三振はすべて見逃し三振。コースでいえば、右打者の内角が1度、左打者の外角が2度である。左のサイドスロー、そしてインステップを生かしたクロスファイヤーが存分に力を発揮した。

 斉藤は、秋の堀越戦の敗戦以来、「野球は全員でやるもの。それをいつも頭に入れてやってきた」と話す。チームメイトからも「もっと周りを見てやれ」と言われることが多いそうだ。この話を聞くだけで、斉藤がどんなタイプの性格か分かるのだが…。
 「負けるのが大嫌いなんで」という斉藤の今大会の目標は「優勝して、関東大会に出ること」。そして、帽子のツバには「甲子園にはオレが連れて行く」と書かれていた。いかにも斉藤らしい言葉である。
 
 来週の準々決勝、修徳の相手は一昨年秋の準決勝で大逆転負けを喫した国士舘。この試合に勝てば、夏の第1シード獲得が決まる。

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 今日の試合で光っていたのが、修徳の守備位置。外野手が「何でここにいるの?」という当たりが5本ほどあった。特に右打者の場合、センターが右中間、ライトはライン際を守る。打者のスイングスピードや構えによって、もちろん若干の差はあるが、ほぼその陣形で1試合を通した。「外野の位置がハマりましたね〜」と試合後、小田川監督も笑みを浮かべていた。そのセンターとライトを守る、高山和也(2年)と村上雄大(2年)は秋にはベンチ入りすらしていなかった。冬に力をつけ、レギュラーポジションを獲得した選手である。



2004年04月08日(木) 桐朋・林祥央

 神宮第二球場で春季東京都大会の3回戦、日大三対桐朋が行なわれた。両校は昨秋の2回戦でも当たり、桐朋が7−0の7回コールド勝ちを収めている。夏の優勝校・日大三がコールドで敗れるという「大波乱」を進学校の桐朋が演じた。桐朋はこの勝利がもとで、関東地区の21世紀枠候補校に選出され、一躍、マスコミ注目の高校となった。
 大波乱を演じた主役は桐朋のエース林祥央。130キロ中盤のストレートとスライダーで日大三打線を完封。もともと、「好投手」として注目を集めていたが、三高を封じたことで一気に株が上がった。
 今日の試合は秋の再戦。日大三としては、再び桐朋に負けることは許されない。何としても林を打ち崩す! そんな意気込みで試合に臨んだ。

 だが…、蓋を開けてびっくり。桐朋の先発はエース林ではなく、背番号20を着けた2年生の居村裕平。181センチの長身から角度のある球を投げてはいたが、いかんせん制球が悪すぎた…。3回、ふたつの四球でランナーをためると、日大三の4番佐々木大輔にレフトスタンドへ3ランホームランを浴び、降板。背番号10の鈴木優太郎に代わった。
 
 ホームランを打たれたあと、林が三塁側ブルペンで軽いキャッチボールを始めた。鈴木のあとに投げるのかな、と思いながら眺めていた。5回に入ると、捕手を座らせて、ビュンビュン放りはじめた。だが、ストレートは高く、変化球もすっぽぬけを連発。本人は何度もクビをかしげていた。。

 試合の方は、桐朋の投手が全くストライクが入らない…。代わった鈴木は4回を何とかゼロに抑えるが、5回に四死球でピンチを作り交替。ここで出てきたのが背番号11の谷口誠。この時点で、今日の林の登板はないなと思った。谷口は5回6回に7点を失い、10−0でコールドゲームが成立。桐朋は登板した3投手が14四死球と大乱調だった。
 
 試合後、桐朋の田中隆文監督に投手起用について訊くと「今日は最初から3人の継投で行く予定でした」とコメント。桐朋は初戦の岩倉戦で林が9回4失点完投。その時点で、「三高戦は投げさせない」と決めていたそうだ。「3人の投手にはいい経験になったと思う。夏に生かして欲しい」。夏は林ひとりでは上までは勝ち抜けない。どこかで公式戦の経験を積ませたかったのだろう。

 林本人は「冬が明けてから、テイクバックを小さくしようとしたら、本来の自分の腕の振りができなくなってしまって…いま元に戻している段階です」と苦悩の表情を浮かべていた。もともと制球に不安があり、その制球を安定させるためにテイクバックを小さくしたという。が、それが逆効果。腕の振りが鈍くなり、スピードも落ちた。「今は中間点」、林はそんな表現を盛んにしていた。

 21世紀枠に選ばれなかったセンバツはどう見ていたのか。林は「さすがに何日かは凹みました」。田中監督は「それでも私より選手の方が切り替えが早かったですよ」。
 21世紀枠…以前から思っていたが選ばれれば天国、落ちれば地獄。目前まで見えていた甲子園が、何事もなかったかのように消える。しかも、桐朋の場合、マスコミからの注目度がかなり高かった。高校生のこと、「選ばれるんじゃないか」という気持ちは強かったはずだ。

 選ばれなかったセンバツ。林は抵抗を感じながらも、テレビを点けたという。
 「開幕日と決勝戦は見て…」と林。どう思った? と訊くと、「そう遠くはないと思った」と返答。正直、ちょっと意外な答えだった。
 21世紀枠候補校に選ばれ、初めてリアルに感じた甲子園。林は中学まで「甲子園なんて全く興味がなかった」というほどだ。高校に入ってからも、そこまで甲子園に固執していない。それが、昨秋、目前に迫ったことで林自身に意識の変化が見られた。
 第三シードで臨む夏の西東京大会まであと3ヶ月。この3ヶ月でどれだけ自分を追い込めるか…3ヵ月後に成長を遂げた林を見てみたい。




2004年04月07日(水) 26歳は…そういう歳らしい

 ちょうど3週間後に27歳になります。そんなバカな…もう歳はとりたくないという思いがかなり強いです(なんて言ったら各方面から怒られそうですが…)。

 3月下旬、金沢に行ったとき、こんなことがありました。
 星稜中野球部の田中辰治先生と話していると、ワタシと同い歳であることが判明。どっちが若く見えるかはさておき…、ともに26歳と知るやいなや、田中先生はワタシに「結婚されてますか?」と一言。あまりに突然出てきた「結婚」という言葉にびっくりしながらも、「してるわけないじゃないですか!」と反応。人生26年、「結婚してますか?」と訊かれたのは間違いなく、その日が初めてでした。そもそも、そんなことを訊かなくても、雰囲気で結婚してないことが分かるはずだ…。

 田中先生は「高校時代の同期がどんどん結婚していってるんですよ〜。取り残された気がして…」と苦笑いを浮かべていた。そうなのか、26歳って、もうそういう歳なのか…。初めて気付いた。幸か不幸か、自分の周りには結婚した友人、知人が全くいない。同期が結婚していれば、身近に感じるのだろうが、ほんとにひとりもいないもんだから、結婚なんて別世界である。。

 調べたくないが、平均初婚年齢なるものを調べてみると、<02年度 (夫)28.5歳 (妻)26.8歳>らしい。「あと、2.5歳あるじゃん!」(もうじき、1.5歳だが)となぜかホッとした…。

 そういえば、この前、母親に「26歳には見えないわ」と言われた。もっと若く見えるらしい。じつは、これは母親以外にもよく言われること。不思議なことに、高校までは老けて見られたのだが、今はそれが逆転している。
 今でも忘れられないのは、高校時代に修学旅行で北海道へ行ったときのこと。函館の市場で買い物をしていると、「社員旅行ですか?」とお店のおばちゃんに言われたことだ。あれはショックだったなぁ…。

 年相応に見られない原因を分析すると(分析するな)、毎日スーツを着ていないこと、上司にいじめられていないこと(上司なんぞいない)の二点が大きいと思う。何の根拠もないんだけど。スーツを着る機会は1年に1〜2回ほどで、未だに着心地が悪い。鏡に映った自分を見ると、スーツを着慣れていない新入社員に見える。26歳なんだから、もっとちゃんと着こなせよ、と思うのだが…。
 
 ごくたまに思う。大学4年時の就職活動で某外食産業から内定をもらい、10月1日の入社式の案内まで頂いていた。そもそも全く行く気はなかったが、あの会社に入っていれば、人生全く別のものになっていただろう、間違いなく。それがいい方向か悪い方向かは分からないけど…。ほんと、人生はどこでどう転がっていくか分からないです。

 全然関係ないですが、3月に筑川を取材して以来、毎日腹筋100回やってます。腹筋が割れることを大目標に。筑川が「毎日最低1000回やってます」と言っていたので、それに勝手に刺激を受けました。1000回はさすがにやらないけどね…。

 というわけで、世の26歳に負けずに頑張ります。ちなみにプロで言えば、福留、斉藤和己、藤本らです。かなり負けてるし…。 


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