みのるの「野球日記」
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2002年06月23日(日) 今更ながら大学選手権◆〜衞詫ゾ.瓮鵐弌

 東海大のスタメンに、2000年センバツで優勝を飾った東海大相模(以下相模)出身の選手が3人、名を連ねていた。5番セカンド、村山修次。8番キャッチャー、菊地一也。9番ショート、瀬戸康彦。
 優勝投手に輝いた筑川利希也は故障のため、今大会は登板予定なし。それがちょっと寂しかったが、それでもリーグ戦で筑川が投げたときは、投手を合わせた6人中4人の内野手を、相模の優勝メンバーが占めていたこともあった。彼らの高校時代の最後の夏を、ずっと見ていた私にとっては非常に嬉しいことだった。「順調に成長しているなぁ」と、知り合いの子を見守る近所の父親のような気持ちと言えるかな(笑)。

 今大会、連覇を狙った東海大は、初戦で九州共立大に惜敗し、早々と姿を消した。試合終了後、球場の外に出てみると、筑川と同期の相模の選手たちを見つけた。同期の応援に来たようだ。以前、日記にも登場した井上茂樹くんと、野原慎太郎くんだ。井上くんはマネージャーとしてチームを支え、センバツ優勝に貢献。現在は東海大の準硬式野球部に所属している。「ピッチャーでちょっと投げてます」と控えめな笑顔を浮かべながら、話してくれた。昨年の秋よりも、ますます精悍な顔つきになっていた。

 野原くんは、筑川の控え投手として、センバツ甲子園では背番号10でベンチ入りを果たした。筑川を温存した、センバツ終了後の春季県大会ではほぼ毎試合登板。いつもハラハラドキドキのピッチングを見せてくれた(笑)。野原くんは右のアンダースロー投手。変化球で交わす投球スタイルなのだが、制球に難があり、相模時代は思ったような活躍ができなかった。そのせいか、最後の夏は、一度も出番がなく終わった。

 そんな野原くんだが、大学進学後は貴重な中継ぎ投手として活躍を見せている。進学した先は、国立の超難関校、横浜国立大学だ。野原くんは、相模の野球部で一番と言われるほどの秀才だった。

 横浜国大は現在、神奈川大学リーグ1部に所属しており、今春は6チーム中5位に終わった。2年前にはオリックスに在籍している北川智規投手を擁し、2位になったこともある。けれど、北川投手が抜けた今は、横浜市大との最下位争いが定位置になってしまった。

 でも、当然ながら上を目指したいという気持ちは持っている。「うちらの代で何とかしようと思っているんですよ」と野原くんも力強く話してくれた。それなりの自信もあるようだ。自信の訳は・・・。野原くんが一緒に観戦に来ていた、横浜国大の選手を紹介してくれた。2年生ながら横浜国大のエースとなった渡邉裕文投手だ。岐阜北高校出身で、県のベスト8に入ったこともある。野原くんの言葉を借りれば、渡邉投手は「スケールダウンした潮崎(西武)」。それでも「北川さんに続く、プロ野球選手になるかもしれませんよ」とも話していた。

 話が終わった後、「じゃあ、国大の将来を担うふたりの投手ということで、写真を撮ろう」と持ちかけると、「それなら、神宮球場をバックに撮ってくださいよ」と野原くん。正面入り口の上に書かれている『神宮球場』という文字をバックに、撮影した。撮り終わると、「いつか神宮に来たいな」とふたりがしみじみと話していたのが印象的だった・・・。

 ふたりは、球場に戻ると、龍谷大の2番手として登板したサイドハンドの投手を真剣な眼差しで見つめていた。「良い投手だな」とお互いの言葉。「ああいう投手を生で見ると勉強になるでしょう?」と訊くと、「いや、すごいなぁと圧倒されるだけです」と苦笑いを浮かべていた。

 また、この日の第4試合に登場した国際武道大には、一時隠れた逸材としてドラフト候補にも挙げられた山本淳投手がベンチ入りを果たしていた。センバツでは1イニングだけリリーフ登板。188cmの恵まれた身体からストレートを投げ込み、140kmもマークした。でも、山本も野原くん同様、制球に難があった。最後まで筑川の控えという立場を抜けられなかった。大学に入り、素材の良さを発揮することができるか。

 系列の東海大や国際武道大で、野球に没頭し、さらなるレベルアップをはかる筑川や山本。勉強の道を選び、勉学に励みながら野球を続ける野原。それぞれの選んだ道で、それぞれの目標を持ち野球に関わる。
 彼らが4年生になったとき、神宮の大舞台で主力選手となって戦う姿が、今から楽しみでしょうがない。

※敬称略のところと、「くん」付けのところがありますが、それは私が思っている選手それぞれのキャラで、そうなってしまいました・・・。



2002年06月22日(土) 今更ながら大学選手権 ^‖臾邉

 亜大の優勝で幕を閉じた大学野球選手権。今更という感じですが、数回に分けて、私が感じたこと見たことを書いていきます。第1回は優勝した亜大について。

 私は恥ずかしながら、東都大学リーグを生で観戦したことがない。春の大学選手権や秋の神宮大会で、東都リーグ代表の試合は見たことあるが、さほど印象に残っていない。昨年の春は日大、秋は駒大を見た。目立った選手はいたが、それは個人の話。チームとしてはあまり印象には残らなかった。しかし、今大会の亜大は、私に強烈な印象を残してくれた。

 初戦(亜大はシードのため2回戦)が終わったあと、1年生ながら3番打者として活躍した松田選手に話を聞いた。会話の中に幾度となく「全力」「思い切って」という言葉が出てきた。「どんな選手を目指している?」と訊けば、「常に全力でプレーできる選手」。「打席では何に注意している?」と問えば、「来た球を思い切り打つだけです」と、こんな具合だ。
 私は話を聞きながら、もっと面白いこと喋ってよと思っていた。けれど、次の3回戦で松田のプレーぶりに注目していると、彼が話した言葉に深い意味があることが分かった。そして、松田のプレーを見ながら、これが亜大の野球なのかと感じていた。

 亜大の選手は攻守交替のとき、必ず全力疾走をする。といっても、あの土佐高校のように、ガムシャラに走るわけではない。見ているものに、心地良さを与えるスピードで、攻守交替を行う。じつは初戦では、この全力疾走に全く気づかなかった。「全力でプレー」と口にした松田の言葉を頭に入れて、3回戦を見ていたときに、気づいたことだった。
 三塁を守る松田は、自軍のベンチが三塁側だったとしても、そのほんのちょっとのわずかな距離でも、全力疾走で自分の守備位置につく。でも、私が一番驚いたのは捕手の小山だ。三塁よりも近い、捕手の守備位置まで全力で走るのだ。今まで何試合も野球を見てきたが、全力疾走で守備位置につく捕手はこのとき初めて見た。

 小山以上に驚かされたのが、1年生の大河原だ。これは攻守交替の話ではない。ネクストバッターズサークルでの大河原の動きに、私は衝撃を受けた。
 19日の早大との決勝戦。1−1で迎えた7回裏。2死二塁の場面だった。打席には7番近藤。8番を打つ大河原はネクストで近藤の打席を見つめていた。いや、私には睨んでいるように見えた。大河原は、今から1500m走でも始まるかのようなスタート体勢で、近藤を睨みつけていた。左足を右足よりも1歩前に出し、いつでもスタートを切れる体勢を取っていた。
 近藤が3球目にファウルを打つと、大河原はボールがバットに当たった瞬間にネクストを飛び出し、数歩、バッターボックスに近づいた。彼は、近藤が安打を打ったとき、近藤のバットを二塁走者に邪魔にならないようにどけること。二塁走者が本塁に走るときに、どちらにスライディングをすればよいのか、一塁側なのか三塁側なのか、返球がどちら側にそれるのか。ネクストにいる打者が指示しなければいけないことを、素早く的確にやる準備をしていたのだ。

 だいたいネクストにいる打者は、次に回ってくる自分の打席のことで頭がいっぱいで、二塁走者への指示など忘れていることが多い。前の打者がヒットを打ってから、ようやく自分のすべき仕事に気づくのだ。けれど、大河原は違った。ネクストにいる段階から、打者が打席にいる段階から、すでに走者への指示が自分の仕事だと認識していた。

 奇しくも、この大河原も松田と同じ言葉を口にしていた。「全力でプレーすることしか考えていません」。彼らふたりは、「打つ守る」というプレー以外のところでも、自分の言葉を実践していた。
 
 私は決勝戦の最後になって、ネクストの大河原の動きに目がいったのだが、おそらく大河原に限らず、亜大の選手全員が同じような動きをしていたのだと思う。

 というのも、3回戦で当たった九州共立大の新垣投手に対し、選手全員で新垣を揺さぶっていたからだ。ランナーに出れば、リードを広く取り、早い牽制を必ずさせる。盗塁のサインが出ていなくても、走るフリ、いわゆる「第二リード」を全員が行っていた。見るからに足の遅そうな小山までもが、「第二リード」をしっかりととり、新垣にプレッシャーをかけていたのが驚きだった。
 選手全員で意識を高め、同じ目的を持ち、そのためにやるべきことを実践する。だから、ネクストでの大河原の動きは、彼特別のものではなく、亜大の選手全員が行っていたことだと思うのだ。

 6大学でプレーしているある選手が、「亜大の野球部は大学野球の中で一番厳しい」と言っていたことがある。それは練習だけでなく、寮生活や規律など、色々な面を含んでの言葉だと思う。
 九州共立大との試合後、「足で新垣を揺さぶりましたね」という記者の言葉に、亜大の内田監督は「うちは大きいのは打てないですから、ああいうやり方でしか勝てないんですよ」と話していた。試合に臨む前から、新垣攻略法は「足を絡めて、投球のリズムを崩すこと」と考えていた。選手はその考えを、頭だけに終わらせず、しっかりと実践して見せた。

 監督の考えを、グラウンドで忠実に表現できる亜大の選手たち。日頃の練習でどれだけ高い目的意識を持ち、どれほど厳しい練習をこなしているのだろうか。「大学野球の中で一番厳しい」と言ったある選手の言葉が、大学選手権での亜大の野球を見て、私なりに理解ができた。
 亜大は非常にレベルの高い、緻密な野球で、2年ぶりの優勝を飾った。



2002年06月21日(金) 夢はいつ叶うの?

数ヶ月前、当時付き合っていた彼女に訊かれた。
「みのるの夢はいつ叶うの?」
 彼女は真顔だった。真剣な眼差しで私を見ていた。私にとって25年間の人生の中で、もっとも衝撃を受けた言葉だった。
 
 5分ほどの沈黙。
 夢って何だよ? おれの夢って何だ? 
 さまざまな考えが頭の中を巡っていた。

「夢はスポーツライターになること」
 1年ほど前まではそう思っていた。周囲にも話していた。もちろん彼女にも。彼女は夢を応援してくれていたし、後押しもしてくれた。1ヶ月の収入が、同年代の男性に比べ、半分程度にも関わらず、文句は言わなかった。でも、「夢はいつ叶うの?」と問い掛けられたときから、歯車は狂い始めた。

 沈黙のあと、「夢なんて、そう簡単に叶うか!」と私は半ばキレ気味で言った。キレ気味だったのは、「今更、そんなこと訊かないでくれよ」という思いも若干含まれていた。

 私の中で「夢」という言葉は、「ほとんど叶えられないもの」というイメージがある。小学生の頃、野球少年なら誰もが書いた「夢はプロ野球選手」と同じぐらい、叶う確率の低いものだと思う。

 今の夢は「スポーツライターになること」ではない。「スポーツライターとして飯が食べられるようになり、自分が書きたいと思うことを書ける場があり、その作品を多くの人に読んでもらうこと」だ。簡単に言ってしまえば、「スポーツライターとしての地位を作り、成功すること」だ。
 
 だからこそ、そう簡単に叶うことではないと分かっている。飯が食べられるようになっても、自分が書きたいことを全く書けていなければ、それは夢が叶ったとは言えない。現在活躍しているライターの方でも、自分が書きたいことを書けている人など、ごくごく僅かだと思う。私の夢は、究極の夢だと思う。

 今、私はスポーツのことを書き、少ないながらも収入を得ている。もちろん書くだけではなく、他の仕事もこなして、お金をもらっている。

 というのもあり、ある人の前で「スポーツライターを目指しています」と口にしたら、「お前はもうスポーツライターなんだよ!」とひどく怒られたことがあった。文章を書いて、世の中の人に読んでもらって、お金をもらっている。れっきとした、プロのスポーツライターだ、自覚を持て、と言われた。収入の大きさは関係ない。

 それならば、1年前の夢はもう叶ってしまったことになる。けれど、自分の中でスポーツライターという意識は全くない。恥ずかしくて、口にも出せない。名刺に「スポーツライター」と肩書きを記す勇気もない。しかし、見る人によっては、「お前はスポーツライターなんだよ」となる。
 
 有り得ない……。名前も売れていない自分が、スポーツライターと名乗ることなんて……。まだまだ、自分の中では当然のことながら、「目指している」段階だ。

 そう、スポーツライターになることは夢ではない。目指せるものだ。夢というとあまりにも遠く離れたものになるが、目指せるもの、目標と捉えれば、非常に身近に感じる。目標は努力すれば、叶うものだ。

 でも、「夢」はそう簡単ではない。だからこそ、彼女の問い掛けに、沈黙した。私がお世話になっているライターは、40歳を過ぎて、ようやく自分のやりたいことが叶いつつあると言っていた。私はまだ25歳。これから夢を掴むために、いかに自分を磨いていくか。

 スポーツライターは夢だった。それが、今は目標になった。今度は「スポーツライターとして生活ができ、書きたいことを書ける」という今の夢。いつの日か、それを夢ではなく、目標と思えるようになりたい。夢との距離を、少しずつ縮めていきたい。



2002年06月10日(月) 日本は日本

 もう1週間ほど前のことになるが、国立競技場で行われた「パブリック・ビューイング」に行ってきた。6月4日、W杯の日本対ベルギー戦だ。試合は周知の通り、2−2の引き分け。W杯史上初の勝ち点を挙げた。

 試合開始前、ベルギー選手の紹介が始まると、会場のあちらこちらでチラホラとではあるが、ブーイングが始まった。国歌斉唱のときは、さすがにブーイングはなかったが、「相手国の選手紹介でブーイングが必要なのか?」と疑問に感じた。9日のロシア戦を国立で見た友人によれば、その日も相手国の選手紹介でブーイングが起こったという。

 サッカー通の友人によれば、「海外では選手紹介時にブーイングが起こるのは日常茶飯事」とのこと。過激なサポーターで知られるトルコでは、「相手国の国歌斉唱で必ずブーイングが起きる」。でも、友人によれば、それはその国で生まれてきた文化だという。

 W杯初勝利を挙げた夜。渋谷のスクランブル交差点は、「ここは日本?」と思うぐらい異常な状態になっていた。勝利に酔い、騒ぎまくるサポーター集団が、交差点を占拠。挙句の果てにタクシーを取り囲み、屋根に飛び乗るなど、大暴走を起こしていた。このニュースを伝えるTV画面を見ながら、「初勝利が嬉しいんじゃなくて、ただ騒ぎたいだけじゃないの?」と思った。「サポーター集団」とは書いたが、その行動は到底、サポーターと呼べるものではなかった。「外国のフーリガンよりも危ない存在が、じつは一番近くにいたのでは」とも思った。

 Jリーグが日本に誕生してから、はや10年。CSでは海外のリーグ戦が見られるようになり、海外のサッカーを見るために外国へ旅行するファンも増えた。中田や小野が海を渡り、海外のリーグを身近に感じるようにもなった。ある国では発炎筒やら爆竹やら、過激な応援スタイルが当たり前。ときには相手チーム、あるいは国の旗を燃やしたりもする。代表選手の選出を巡って、国民が騒ぎ、国家の一大問題になることもある。それは、俊輔落選の比ではない。


 私は日本の野球の応援スタイルが好きだ。トランペットの音色に合わせ、メガホンを叩き、みんなで声を上げて応援する。タイガースの応援はTVで見てても、鳥肌が立つ。マリーンズの応援は、どこのチームにもどこの国にもない、マリーンズだけの素晴らしい応援スタイルだ。
 
「アメリカがこうだから」「大リーグがそうしてるから」と良く耳にする。大リーグがトランペットの応援がないのは、それはそれで素晴らしい。観客は選手を乗せる、盛り上げ方を知っているのだから。でも、日本は日本だ。メガホン持って応援したって良い。1回表、無死1塁から2番バッターが送りバントしたって良い。それが日本の野球なんだから。

 
 ロシアが日本に敗れると、モスクワの街は荒れに荒れた。集団で邦人を襲ったり、車を破壊してみたり。TVを見ながら「ロシア人って怖いな」と思いながらも、渋谷でのバカ騒ぎを見ていると、「何年後か日本でもモスクワと同じ事態が起こっても、不思議ではないな」と真面目に思った。

 日本代表は今後、間違いなく強くなる。Jリーグが設立して、まだ10年だ。それでここまで来た。私は正直、このW杯で1勝できるなど思ってもいなかった。あまりにも早く階段を駆け上ってきた気がする。

 昨日のロシア戦。後半の中頃に、ロシアDF陣が自陣でのんびりとパスを繰り返していると、日本サポーターからブーイングが起こった。1−0で応援しているチームがリードしているというのに、なぜブーイングなんだろう? 「早く攻めろ!」という意味か? ロシアがせっかく時間を潰してくれているのに……。

 ほんとにもの凄いスピードで、日本サッカーはレベルアップしてきた。海外の指導者を招き、一流選手を獲得し、彼らからあらゆることを吸収し、ステップアップしてきた。サポーターもそうだ。海外サッカーから、応援スタイルを学び、ここまでやってきた。でも、良い事もあれば悪い事も吸収してきたように思う。

 今後の日本サッカーはどこへ向かうのか。まだまだサッカー文化が根付いていない中で、日本中がW杯にこれだけの熱狂を見せている。だからこそ、心配になる。

 選手紹介時にブーイングも良いけど、自分の国のスタイルにもっと自信を持ってもいい。国立のパブリック・ビューイングはほんとに鳥肌が立った。ただその場にいて、サポーターの声援を聴いているだけで、鳥肌が立った。手拍子と声。たったそれだけ。でも、素晴らしい応援だった。
 
「グローバル・スタンダード」という言葉が一時期流行ったけど、「ジャパン・スタンダード」を世界に発信すれば良い。日本は日本。海外を見るのもいいけど、自分の国のスタイルを築く方がもっと大事だと思う。



2002年06月01日(土) 早慶戦の熱

 早慶戦、第1戦。試合開始は13時。私は12時20分に銀座線の外苑前駅に着いた。地下通路を抜けて、地上に出る。神宮までは徒歩約10分。途中、秩父宮ラグビー場があるため、ラグビーの試合が重なるときは、ラグビーファンと野球ファンが同じ道を歩くことになる。でも、その中の多くはラグビーファンだ。秩父宮を過ぎれば、歩くことに何の苦もなくなる。神宮を目指す人は少ない。
 
 今日は違った。「あれ? 今日ラグビーあったっけ?」と思うぐらい、外苑前駅から神宮球場に行く道がごったがえしていた。通り道のコンビニは大入り満員。大学生、年配の方、老若男女問わず、全ての人の足が神宮に向かっていた。神宮のチケット売り場には長蛇の列。4つある窓口全てが埋まっていた。

 私にとって生まれて2度目の早慶戦。昨秋は両校応援団のエールの交換に感動したものの、お客さんから感じる熱気は今日ほどではなかった。
 
 球場内の階段を上り、内野スタンドに出る。私には信じられない光景が、目の前に広がっていた。試合開始30分前だというのに、外野に目をやると、立ち見が出るほどの超満員。内野席もぎっしりと詰まり、応援席はもはや一睡の余地もないまでに膨れ上がっていた。「これが伝統の早慶戦か」と思った。

 今日の試合を迎えるまで、早大が勝ち点3(7勝2敗1分)で首位。対する慶大は勝ち点2(5勝4敗1分)で5位。順位だけを見れば離れているが、今日からの早慶2連戦に慶大が連勝すれば、早大と勝ち点で並び、勝ち数負け数も並ぶことになる。6大学連盟は「慶大が連勝した場合は6月3日に早大ー慶大の優勝決定戦を行います」と早々と発表していた。最後の最後の早慶戦で、6大学の優勝が決まる。

 試合開始前、球場は異様な盛り上がりを見せていた。学生応援団は内野の応援席だけでは入りきれず、外野席にも陣取っていた。1塁側〜ライトまでが早大、3塁側〜レフトまでが慶大。いつもなら応援席だけで歌われる校歌が、内外野スタンド一体となって歌われていた。スタンドでは何度も何度もウェーブが起こっていた。

 試合は1球のストライク、ひとつの安打に大歓声が起こった。プロ野球とは全く違う盛り上がり方。ビールを飲んで騒ぎまくる学生もいれば、サークルの行事のひとつなのか、おにぎりやおつまみ持参で球場に足を運んでいる学生もいた。もちろん、両校OB・OG、私みたいなイチ野球ファンもいる。それぞれの観戦スタイルで早慶戦を見た。

 帰宅後、連盟のHPを覗くと、何と今日の観衆は4万2千人と書かれていた。ヤクルトー巨人よりも、間違いなく入っていた。

 早慶戦。両校のスターティングメンバーを見ると、慶大で関東出身なのは3番の小野(慶応義塾)と先発の長田(鎌倉学園)だけ。早大は3番鳥谷(聖望学園)、7番由田、8番島原(ともに桐蔭学園)の3人。両校合わせて18人中、関東出身は5人しかいない。それに対し、関西より西出身の選手が10人もいる。特に、智弁和歌山の00年夏の優勝メンバーが3人もスタメンに名を連ねていたのが印象的だった。

 あれだけの大観衆の前で、あれだけの熱気の中で、野球をやれることが羨ましい。大学野球界では早慶の選手だけに与えられる名誉と言える。もっと言えば、プロ野球には早慶戦のような熱気は存在しない。

 生まれ変われるのなら、早慶戦の熱気を選手として味わいたいと思った。


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