sakuraの日記
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たった今、母と大喧嘩。
なにかっつーと、「エホバはそんな事教えてるんかーー」って。
そんなん、関係ないでしょ。
口の悪いのも、減らないのも、長年あなたと暮らして、
あなたに似ているからでしょ。
なんでも、自分の気に入らない事をエホバのせいにするなんて!! 卑怯者!
そう言うたら、私がひるむと思ってるんでしょ。それはずるいよ。
責任転嫁はオカアチャンの得意技。
自分の言った事もいつの間にか私が言った事にされてる。
それ、逆さまやん。
おかあちゃんが言うたから、「うん、そやね」って答えただけやのに、
いつの間にか「sakuraがこう言うから、私もそうかなーって。」人に話してる。
そら、どういうこっちゃ!!!!!
なかなか、災いを見て鋭敏に身を隠すのは、難しい(ーー;)
私っておしゃべり好きで、人好きなんやけど、時々、人のたくさんいるところに行くのが無性に嫌になる事がある。
なんでかなー
無愛想に人前で振舞えないせいか、気乗りがしない時は人前に出たくない気持ちが 涌いて来て、集会でも行きたくなくなる。
こういうこと言うと不謹慎かもしれないけど、そうなんだなー
そんな時、休むと心配してくれる人たちには、申し訳ないなぁと思う。
「どうしてたん?」「しんどかったん?」「風邪でもひいてたん?」って
聞かれると、心配してくれてただけに、
「ちょっと、行く気になれなくて…」 とは言えないし、困ってしまうんですよね。
私のわがままなんやけど、無理を通して、気持ちをごまかすと、 もたへんようになるんよねー
だから、傍目にはどう見えるかわからへんし、もしかしたら、不真面目なSって事になるのかもしれへんけど、(命の道の)長距離選手にはむかへん体をもたすための私なりの努力なんやけどな。
2001年11月28日(水) |
新しいビデオ・デッキ |
今日、新しいビデオ・デッキが届いた。
10年ほど使っていたが潰れてしまったのだ。
修理するより買う方がお得だなんて、変なの。
しばらくビデオを使えない日々が続いていたので、
久々に好きな映画でも見たいな。
しっかし、10年位で潰れるなんてええ加減なもん作ってるやなぁ。ほんまに。
でも、新しいデッキは小型で軽量で、デザインもすっきりしている。
電気製品って随分進んでるんやね。
次は、15年前に買ったオーディオ製品の買い替えをしなくては…
スピーカーが潰れてから長いことステレオで音楽聞いてへんしなー
でも、話しによるとスピーカーの買い替えだけでは済まへんらしい。
アンプも潰れかけてるに決まってるそうな。
そうなると、えらい出費やなぁ。
まっ、気ぃ取り直して、考えまひょ(~o~)
私は体のどこかが動いてないとすぐ眠くなってしまう。
ゆえに、一番苦手なのは じっと座って、人の話しを聞くだけ。とか
じっと座って、活字を読むだけ。という作業。
そう、これは正に集会で行われる事。
一番元気なのは、賛美の歌を歌う時。
これは、全員参加だから、眠気も吹っ飛ぶよね。
次は聖書の朗読とか注解。
次は割り当てや実演(これはあんまり回って来ないけどね)。
公開講演とか大会はとっても大変。
あの優しいまろやかな声でなされる講演は私には子守唄になってしまい、
なかなか、話しを全部聞く事が出来ない。
どんなに睡眠をよく摂った後でも睡魔からは逃れられない。
JWの皆さん、どうしたら、居眠りせずにすべてのプログラムに耳を傾ける事ができ
るのでしょうか?
何か、良い方法があったら、教えて下さいm(__)m
もうそろそろ、賑やかなクリスマスの音楽が流れる頃ですね。
私にとってはもう たいへん!!
どの曲もこの曲も18年間 歌ったり演奏してきた曲で、
反射的に歌詞が全部 頭の中に浮かぶようになっている。
これが困るんですよね〜
いつの間にか 鼻歌交じりに出て来るもんだから
気付いては いかんいかんと 別の歌を口ずさむ事に。
でも、ほんとは 名曲揃いで結構 好きだったんですよね。
JWになって、?年になるけど、
未だに JWの賛美の歌で歌詞を覚えてて、
そらで歌えるのって 無いんです。
それに引き換え、教会の賛美歌は 未だに そらで歌えるのが あるんです。
でも、信仰の薄い者よ って、言わないで下さいネ。
わざとじゃないので…
2001年11月25日(日) |
あーギャングスターズ負けたー |
関西学生フットボールリーグ最終戦。
ギャングスターズ対ファイターズ 13対34 の惨敗。
3年連続ファイターズの優勝では、リーグ戦面白くないやん。
あー昔は良かったよね。(あ、それ程昔でもないか。)
研究生時代と研究生時代のはざま、ちょこっと重なってたかも知れんけど、 ギャングスターズのF君はバイト先の名曲喫茶Rの常連客だった。 それがきっかけで、バイト先のみんなで観戦に行くようになった。
もともと勝敗を決めるスポーツはあまり好きではなかったが、知ってる人が出ると言う事で初めてのスポーツ観戦だった。
最初はルールがわからず、どちらが攻撃か優勢かもわからない程だったが、だんだんわかってくるとなかなか面白い。
まして、知ってる人が活躍する試合はなおさら面白かった。
当時のギャングスターズは全盛期で選手もスター揃い。 毎試合の圧勝にこちらも俄然調子が出て来る。
あーあの頃の関西学生リーグ戦は面白かったよねーとつい懐かしく思い出してしまう。
かつてのスター選手たちはすっかりおじさんになってしまい、今は普通のサラリーマンとか海外赴任中の人とか学生フットボールチームのコーチになっている。
でも、時々、昔の様に出来る錯覚に陥り、学生相手に練習代になっては、 「ひざががくがくやー」とか「腰がぁぁぁ」とか言いながらやっているそうな。
気分直しに昔のビデオでも見ようっと。
2001年11月24日(土) |
排斥された人への思い |
以前、巡回大会でいつも声を掛けてくれた隣りの会衆のMちゃん。
ふと、最近の大会では会わないなぁと思っていた。
私が研究生として交わっていた会衆で少しの間いっしょだったが、分会によって、分かれた会衆の方になってしまった。
それでも彼女は人懐っこい笑顔で、大会で会うと必ず明るく話し掛けてくれた。 それは私にとって嬉しく、微笑ましいひと時だった。
初めて会った時の彼女は高校生で、自転車での通学途中でよく出会ったりしたものだった。霊的にも活発で補助開拓も何度も捉えていた。
「将来の夢は?」と聞くと
「巡回監督の妻になりたいの。そして、いろんな会衆の仲間を励ましたいの(^^)」
と屈託なく語ってくれたものだった。
その時の私はと言えば、巡回監督がどれほどのものかもあまり理解してなかったせいか、それを聞いてももうひとつピンときてなかった様に思う。
そのMちゃんも高校を卒業し、開拓者になり、それから数年後には、パートナー生活をしていたある姉妹たちの一方が結婚する事になったのを機にその後釜として、近隣の会衆でのパートナー生活をスタートさせた。
着々と夢を叶えて行くMちゃんがまぶしかったっけ。
それから、きっと大会で何度か会ったと思うがどれ位経ってからか、 Mちゃんにしばらく会ってない気がして、何気なく、元の会衆の姉妹に尋ねてみた。
「そう言えば、最近Mちゃんってどうしてるんやったっけ?」
「えー もうっ あんな人の事なんて知らんわっ」
「・・・・・ なんでそんな言い方するのん???」
「ん??あれっ sakura姉妹もしかして知らんのぉぉぉ??」
「えっ なんのこと?」
「Mちゃん排斥になったんよ。結構前の話しよ。」
「・・・・・」(-_-)
「もう、あんな人の事忘れたわっ。こんな話し、止めとこ、止めとこ」
「・・・・・ 」
あー、ショックだった。頭の中が真っ白になった。 その時の大会ほど話が素通りしてしまった事はないくらいショックで、自分の気持ちをどうしていいのか戸惑った。
その話しを初めて聞いて動揺していた私の周りにはとっくに事実を知っていた人が何人かいたが、
Mちゃんの事を「あんな人、もう知らんわっ」と言った長老の妻姉妹の言葉に対してフォローを入れる者は誰もいなかった。
私は泣きそうになった。
あんなに可愛くて、みんなから愛されて、パッと花が咲いたように周りの雰囲気を明るくしてくれた彼女の排斥を悲しむ様子はなく、むしろ、排斥に至るような行いをしてしまった彼女を汚らわしく感じているようなあからさまな態度に。
どうして、
「残念な事だけど…」とか「ほんとに寂しいね…」とか「早く、復帰してくるといいのにね」とか言えないんだろう。
ほんとに、二倍がっかりした出来事だった。
今、私はその長老の妻姉妹のO姉妹とは同じ会衆に属しているが、その時の事があって以来、心に何かしらわだかまりがある。
もちろん、O姉妹はそんな会話をした事さえ忘れているんだろうけど。
これもやっぱり「根に持ってる」ことになるんやろなー
あー「愛」の実践は難しい(ーー;)
新聞に面白い記事が載っていた。
2〜7歳の子どもの半数以上に胎児の時の記憶が、
4割の子どもに出産時の記憶が残っているらしい。
身近にそれ位の子がいるなら、質問してみると面白いかも(^^)
愛はすべての罪をほんとに覆う??
なんだか、最近、自信が無くなってきた。
私は愛の足りない人間なんじゃないかって。
「傷付けられても根に持たない」って?
そう、私は根に持つ人、執念深いのが大嫌い(>_<)
だから、私は根に持たないように努力してるつもり。
でも、傷付けられると、悲しいし、辛いね。
「辛抱強く」って?
辛抱し過ぎて、壊れそうになってしまったよ。
何でもいいから、叫びたくなってきたよ。
あーもう叫んでしもたけどー
聴いてくれた人ありがとう(^^)
それで、愛という名のもとに辛抱し過ぎて、壊れてしまった人は
だれが助けてくれるというのだろう???
今週の聖書朗読の範囲 詩編126:6
「一袋の種を携え、しかも泣きながら出て行かなければならない者は、
穀物の束を携え、必ず歓呼の声を上げながら入って来るであろう。」
の「一袋の種」って、野外宣教で用いる「も」や「め」や他の聖書文書になぞらえ られていたけど、そうなのかなぁ。
なんか私的には、ちょっとずれてるように思うんだけど、皆さんはどう思うのかなぁ?
naoさん> 研究生シリーズのおおまかないきさつはあんなとこですが、また、ぼちぼち、いろいろと感じてた事、ぶつかった事など書いていこうと思ってます。 日記を読んで頂いて、ありがとうございますm(__)m
今日から新しい巡回監督の訪問。
なんか埼玉から来たそうな。
どんな方々が楽しみです。
私は朝食の係りが当たってます。
美味しいもの作らなあかんね(^_^)
最後に研究生になったのは、大学卒業後の4月。
以前に研究生だった頃に司会者に紹介されて以来の知り合いだったE姉妹に司会を頼んでの再開だった。
前の司会者とは、ある意味馴れ合い状態で、また、同じ司会者との研究はいい結果にならない気がして、思い切ってそうしてみた。
自分としては、大学卒業後は必ず研究を再開するつもりだったが、それまでは、普通の学生生活を送っていた。
4回生になったある日、同級生が「も」誌と「め」誌をやりとりしているのをめにした。
「あれっ、これどうしたん?」
「あぁ、これ?Dちゃんがええ事書いてあるから読みって貸してくれてん。」
「へぇ〜Dちゃんが・・・」
この時、私はDちゃんとそれ程接点がなくて、彼女の事をあまり知らなかったが、 この事から、彼女に興味がわいて、話し掛けてみた。
「DちゃんにMちゃんとMyちゃんが「も」と「め」を借りたって言ってたけど、 聖書研究とかしてるの??」
「あれーsakuraちゃんも知ってるの?そうなんよ。大家さんの娘さんが司会者やねん。」
「へぇ〜わたしも前研究してたんやけど、今はお休みしてんねん。で、卒業したら始めようと思てんねん。」
「そうなん。ほな、いっぺん研究参加においでよ。今、週二回研究してるから。卒業して、実家に帰っても続けられるように、頑張っとこうと思って…」
それがきっかけで、比較的良く話すようになって、夏休みも実家で大会に参加した事をハガキで伝えてくれたりと何かと彼女からはいい刺激を受けて、ますます卒業後の研究再開を堅く思うのでした。
そして、卒業間際に彼女の下宿で研究参加をする事が出来て、お互いがんばろうと言う事になり、彼女は実家のあるG県へ。私は、4月から研究再開へ。
Dちゃんは家族から反対があったようだけど、がっばってるかな?となんどか便りを出してみてもあまり返事がなく、月日が流れ、8月。
同級生から「Dちゃんが来るから会わない?」と連絡が。
喜んでそれに同意し、約束の店に。
5ヶ月ぶりの再開を喜んだが、少し様子が変だった。 ひとしきり3人で話が弾んだ後、
「sakuraちゃんに会ったら、きっとこの話が出ると思ってたけど、実はわたし、研究やめたんだ。」
「えっ、ほんま?」
「それで、便りの返事が書けなかったんや。」
「そ、そうやったん。」
かなりショックだった。霊に燃えてる彼女に触発されて、その勢いで研究を再開した私にとって、彼女は恩人みたいなものだったから・・・
そして、その研究生時代の2年半後私はバプテスマを受けた。 はなはだ、未熟な私の背中を押してくれたのは、司会者のE姉妹だった。
そして、未だにその未熟さは解消されていないとは情けない限りです(^^ゞ
さっきまで、見に行こうと頑張って、昼寝ならぬ夜寝をしていたが、
母がドタキャンするので、「なんや、そらー」ということで、
明日はと言うか、もう今日やけど、朝が5時40分起きなので、わたしはもう寝ま
す。
「見に行かれる皆さん、私の分まで、見といてね。」
ちょっと、残念な気もするけど、こんな夜中に一人で出掛けるのも怖いしね。
素敵なナイトがいてくれたらいいんやけど…(-_-)
まっ、そういう方もおられないので、寝ます。
高1の時、クラスメイトが熱心な研究生で、少し学校で研究をしてみたが、学校での研究に限界を感じて、やめてしまった。
次は高2の時、受験科目のある教科に苦手なものがあったので、家庭教師を探す事になった。 それで、JWの人なら安心だと言う事で、母が紹介してもらってある一人の女性がやって来た。
私は、勉強そっちのけで、私はいろんな質問をしていました。 それから、母の目を盗んで、研究をする事が出来るようになりました。
でも、その苦手な教科の成績は上がらず、家庭教師はもうやめる事になりました。 その頃、もうこれは真理だなぁと漠然と認識するようになっていたので、とりあえず、受験が済むまで、研究はおあずけにしたんやったかな?
ちょっと、その辺は忘れてしまったけど、で、力及ばずというか、ろ−にん生になって、これ幸いというか大手を振って研究生に。
そこから、大学1年の終わりまで研究を続けました。 家から学校への通学には2時間を要し、学業も忙しくなり、姉が結婚して、父もなくなって以来家族が減る事に動揺した母が、情緒的に不安定に。
私が研究を続けている事が母の非難の的になった事から、研究を一時期中断する事に。
とにかく、精神的につらい時期だったなぁ。 でも、その時、卒業したら、必ず研究を再開する決意だけはしていました。
柿田川と言えば、私の行きたい所のひとつ。
以前、テレビで見た時、川の中に白い花が揺れている美しい流れが映っていた。
「うわぁ〜こんな美しい川を見てみたいなぁ〜」と思ったきり、随分月日がながれてしまったなー。 でも、見た目は美しくても製紙工場などの有機溶剤が水に含まれているとか。 美しい自然を守るのは容易ではなさそうです。
行きたい所はまだいっぱいある。 ・屋久島 ・ブナの原生林 ・マングローブの林 ・曽爾高原 などなど、水のきれいな所とか木がいっぱいある所、高原みたいな所に憧れがあるんですよねー。
私は、家族で一人だけのJWなので、家族研究というのをした事がありません。
家族で真面目な事一緒にするのってなんかいいなーって思うのですが、
実際に経験のある人にとってはどんなんかな〜とふと思いました。
今度、初めてJWの友人たちと旅行の話がでているのですが、その地の会衆に交わる
予定なので、前日の夜にでも宿泊先でみんなと家族研究の雰囲気を味わいたいと
リクエストしました。
そしたら、私以外はみんな二世だったので、
「そうなんや、sakuraちゃんした事無いんや〜家族研究したいなんて、えらいっ」
て褒められました。
でも、ほんとに家族研究って私の憧れなんですけどね(^^)
2001年11月14日(水) |
メモリの増設出来ました(^O^) |
先日、家族が一同に集まった際、兄が手伝ってくれて、無事メモリの増設できました。
カツヲくん、ご心配下さって、ありがとうございました。
なんとか、解決致しました。
次は、もう少し、パソコンを使いこなせるようになって、いろいろと楽しみたいですね。 皆さんの使っておられるパソコンに関する専門用語は私にはチンプンカンプンなので、話題についていけなくて寂しいです。
他にしなあかん事がいっぱいあるので、なかなかままならない状態ですが、ぼちぼちやっていこうと思います。
明日は神権学校のお相手です。
やっと、3日間のお役目が終了(^O^)
これで、日常に戻れます。ヤッター(^^)
来週は巡回訪問、私は昼食のお弁当と朝食の担当。
さてさて、どう母をなだめて作らせてもらうか(-.-)
なんとかなるさって気でやるべ。
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ところで、新快速って関西だけだったの??
知らんかった。
東海道本線には走ってますけど、運賃は普通列車と同じで、停車駅が少なめです。
快速より停車駅が少ないですね。私鉄で言うところの急行とか区間急行みたいなも
のかな?
カツヲくん> いっぺん、JRの時刻表見てみて下さい。
今日は、8人でグルメツアーに出掛けました。 昼はA市で、新鮮な海の幸を和食で。 メイタガレイのから揚げやあなごの天ぷら、鯛のあら煮、蛸飯、蛸ぶつ。 どれも、とても美味しく、大満足。
駅まで歩く途中にU市場があり、そこで、甘栗を買ったり、蛸買ったり、ほかの海の幸もいっぱい買って、近くのA公園で、ちびっこを遊ばせて、休憩。
次はK市にJRの新快速で移動。 そこで、R叔父さん夫婦と合流して、G飯店へ。
今度は、10人で、くるくる回るテーブルで楽しく食事。 土、日、月とご馳走三昧の三日間の締めくくりは、 K市で買った母と私の大好きなFのケーキを家で美味しい紅茶を入れて、食べる事。
今が旬の栗のケーキはまた、魅惑的。 う〜ん、こんなに食べて大丈夫???
明日からは粗食にして、均等を図らねば…
家族との付き合いとは言え、なかなかの出費で後の20日間どうして生きていきましょうか?
ますます増えて18人。
賑やかを通り越して、うるさいほど。
早くこの予定を消化して、平穏な日常に戻らなければ…
あと3日。
只今、我が家に12人滞在中。 何をするにもてんやわんやの大賑わいです。 楽しいというかややこしいと言うか。
めったに無い事ですが、やっぱり疲れます。 すべてが終了するのは13日。
それまでは、日記が手抜きになってしまいそう。
姉とその子ども3人の怪獣たちの来襲に時を忘れ、気が付けば眠気が…
しばらくは、こんな調子で時が過ぎそうです。
では、また(-_-;)
高校一年の時、その子は私の隣りに座っていた。
通っていた学校はカトリック系だったから、授業の中に宗教の時間が週に一時間だけあった。
中1の時からあった訳だけど、聖書の内容にはそれ程深く触れることは無かったと思う。
それで、ある宗教の時間テストが返された。 自分の点数は忘れたが、それ程良くなかったことだけは覚えている。 その時隣りの席のIちゃんの方に目をやると答案用紙の点数が目に飛び込んできた。100点だった。
私は思わずIちゃんに言った。
「なんで、あんな訳のわからん授業で、100点が取れんのー?」
彼女は笑いながら、家族でJWと聖書研究している事を話してくれた。 その時、Iちゃんの家族で学生だったのは彼女だけで、他の家族の中にはバプテスマを受けた人ももういたのかも知れなかった。
それを聞いた時、びっくりした。 まさかそんな身近にJWと研究している人がいるなんて。 それで、私が自分とJWについて話すととても喜んでくれて、図書室で研究が始まった。たしか、「地上の楽園」だったと思う。
どれほどの期間か忘れたが、学校でするのにはいろいろと不便な事もあり、長続きはしなかったが、この同級生との研究が次へのステップへと繋がっていたのも確かだった。
そして、初めて大会に行ったのもこの頃だった。 夏休み中で、たまたま、両親が親戚の家に泊りがけで行っていて、留守だったので出掛けやすく、行けたのだと思う。
場所は大阪城ホール。
汗をかきかき、大会がどんなものかも全く知らず、白い綿パンにチェックのシャツに運動靴と言ったラフな格好で、その上遅れて行ったのだった。
待っててくれたIちゃんは花柄のワンピースでとてもおしゃれをしていた。
私は周りを見回して、ホールいっぱいの人々にも驚いたし、自分が場違いな格好をしている事にも気付いて、とても恥ずかしかったのを覚えている。
とにかく、座ってただけで、しんどかったので、大会の感想も何も覚えてはいない。ただ、大会に行った。それだけ。
でも、JWの皆さんが初めて人を集会や大会に誘う時、服装の事って話しますか? 私は、何も聞いてなかったものだからえらい恥をかきました。
もちろん、その場にいたJWの人は私を初めて来た人だとわかって、何とも思われなかったでしょうけど、場違いな格好をして行ってしまった私としては目立つような気がして、とても居心地悪かった。
皆が私と同じように思うわけではないと思うけど、自分にとって当たり前の事も他の人にとってはそうでもない事ってありますよね。 だから、そういう配慮をして欲しかったなとちょっと思いました。
でも、その友人に対して悪感情を持ってるってわけではありません。 念のため。
初めてJWと研究というようなことをしたのは中学2年生。
聡明そうなキリッとした感じの私の好きな感じの中年の女性がやって来た。 いろいろ話して、きっと、再訪問の約束になったんだと思う、忘れたけど・・・
研究は日曜の3時頃、玄関先で、縦書きの小さい「見よ」の冊子だったような気がする。
もともと、JWの聖書研究には関心があったので、願ってもなかったが、中学生でもあり、知らない人を家に上げる事は親も望まないだろうし、気を遣いながらの研究だったと思う。どの位の期間来てもらっていたのかは忘れたが、春頃、引っ越す事になったとかで、別の20歳代の若い女性が次から来るからと、初めて研究をしてもらった姉妹とはお別れとなった。
私は、その人の人柄に惹かれて研究を始めたこともあって、 ・次に訪問してくれた若い姉妹は私の好みじゃ無かった事 ・親から知らない人を家に入れる事を快く思われなかった事 ・いつもの時間におけいこが入ってしまった事
があって、断ってしまった。
後に、私がJWになってから、「私、以前sakuraさんとこに訪問して断られた事あるわ」と一人の姉妹から言われた事があって、冷や汗ものだった。
今、とても親しくしているYmちゃんのお姉さんでした。(-_-;)
A先生は私の中・高の図書館の司書教諭だった。
A先生はとても上品で清らかな雰囲気の漂うやさしい先生だった。 私は特別読書家では無かったが、女子校で、あまり友人関係が良くなかった事もあって、よくひとり、図書室に出掛けた。
ある時、推薦図書として、棚に置かれていた本の中に、星野 富広さんの詩画集「風の旅」があった。
星野さんは体育教師だった時に、模範演技のバック転に失敗し、首から下が完全に麻痺し、口でくわえた絵筆で絵を描き、詩を綴る事から生きる希望を見出した人だった。
その星野さんには前から関心があったので、その美しい詩画集を手に取って見ているとA先生が優しい声で話し掛けて来てくれた。 そして、一所懸命自分の感想を話してくれて、私も借りる事にした。
読書の苦手な私にもその詩画集は抵抗なく一気に読みとおせるもので、内容もとても気に入ったので、先生と共通の話題が出来たようで嬉しかったのを覚えている。
たった、そんなささやかな接点しかなかった私にも親しげに優しく話し掛けてくれるA先生は私の憧れだった。
でも、相変わらず、読書好きでも無かった私には先生と共通の土台を持つ事はそうそうなかった。
それは中学3年生の時だったが、高校1年生になってクラス替え(中・高一貫の学校だったので)になって、委員会の改選があった時、友人から一緒に図書委員をやらないかと誘われた。読書家でも無いのにと一瞬躊躇したが、憧れのA先生と身近に接しられる魅力に引かれて、図書委員をする事に同意した。
委員会活動を通して、A先生に名前を覚えてもらえる立場になってそれだけで嬉しかった。しかし、学年途中で、先生は出産準備のため退職される事に・・・
とても残念に思ったが、仕方が無い。 退職後も何かと図書委員に便りを下さったり、文化祭の時には差し入れを下さったりと気遣いは絶えなかった。
出産後もお子さんの写真や季節の便りを欠かさず下さり、お子さんをだっこして、文化祭にも顔を出して下さった。
私は、たまたま先生と家が近く、1度だけ後輩と二人で赤ちゃんを見に寄せてもらった。
まさに白亜のおうちで、カトリックの信者だった先生のお宅の玄関にはマリア像があったりして、庭には子ども用のブランコなんかもあって、幸せを絵に描いたような様子に、まだ十代の私たちは結婚するとこんな夢みたいなおうちに住めるのか〜なんて呑気に思ったものだった。
A先生はほんとに幸せそうで、ますますまぶしさを増したようにも見えていた。
でも、そんなA先生はもういない。昨年11月に亡くなったのです。
私が先生のお宅に遊びに行って、2年後第2子を出産後に多発性硬化症という難病を発病されたのです。
ながい闘病生活の末の死だった。
私は先生の病気をずっと前から知っていた。 闘病の様子をまとめた自費出版の本を通して、そして、ある月刊誌に連載されていた先生の“神様への手紙”という口述筆記で書かれた言葉を通して様子を知る事が出来ていた。
家も近く気に掛けながら、私は訪ねる事が出来なかった。 目も見えず、首から下は完全に麻痺していて、声もつぶやく程度にしか出ず、ステロイドの副作用で、以前の面影を失った先生に会うのが怖かった。
先生はカトリックの信者で私はJW。 そのことが尚更、私の気を重くした。
「なんて話せばいいんだろう」
周りは恐らく、カトリック関係者のボランティアがほとんどだろうし・・・
でも、そんなの言い訳だった。
私は現実から目を背け逃げていただけだった。
A先生は闘っていたのに。
意気地の無いわたし、最低。
11月8日から先生の残した足跡の展覧会が始まる。それには是非行きたいと思っている。
きっと、先生は復活してくる。その時、熱心なカトリックの信者だった先生もJehovaの事を知るんだろうな。 その時、私も笑って話せるようにしっかりこの道を歩まなくちゃ、ね。
「塔」誌と「目」誌の整理をした。 今まで、在庫している分を全部残してきたけど、 あまりの量に頭痛がした。
何事においてもなのだが、“捨てること”“処分する事”“手放す事”が苦手。 どんどん物が増える一方で、なかなか減らすことが出来ない。
どんなにつまらない物も捨てる事が出来ない。
でも、ちらかってくると一応整頓しようかな〜と思って始めるのはいいが、 出て来る懐かしく面白い物についつい気が取られて、見ているうちに、前よりさらにちらかった状態になって、慌てて積み上げる。
どうも、この繰り返しのようだ。
なかなか物が減らせられないから、やっぱり、片付かない。
う〜ん(ーー;)どうすれば、上手に整理整頓出来るのか? だれか〜いい方法教えてくださ〜〜〜い。
ただ今、衣替え中。 あいものの季節が短かったので、あっという間に冬になった感じ。 さすがに今日はオーバーコートを着たくなった。
とうとう、冬支度か。 ストーブも出さなくちゃ。 セーターも。
まだ、秋気分なので、厚着をしていいものかと思ってしまい、寒い思いをする事もしばしば。
もういいね。冬気分で。
冬来たりなば、春遠からじ。ってか。
今日は久しぶりに晩酌をした。 長野のお酒を熱燗にして、母と二人で2合ほど。
ちょっと、辛口だけど、熱燗もなかなか良し。 そんなにお酒好きってわけでもないけど、少し位飲むと食事が進んで楽しいものです。あーでもあんまり食が進み過ぎると、大変な事になりそうで、怖いんですけどね。
ただでさえ、食欲の秋という位だから・・・ お酒に新米にお漬物と食欲増進にまつわるものばかりで、私にとってはちょっと、どくになってしまいそう。
もってる洋服が着られ無くならないように気を付けなくちゃね(・o・)
2001年11月02日(金) |
ねこが取り持つ縁 2 |
ノラ猫アイちゃん親子3匹との共同生活が始まった。
子猫はアイちゃんには似ても似つかない柄だった。 1匹はボス猫と同じ配色の茶トラのオス。 もう1匹はこれまた何とも言えない変な柄で、黒地のなかに茶トラが所々見えるようなさびトラ?って柄?器量の悪いメスだった。
オス猫は見たまんまトラと名付け、 メス猫はあまりにみすぼらしい風貌だったので、少しでもべっぴんになってくれるようにシルクと呼んだ。
トラとシルクはいつも一緒で成長すると、だ===っと母屋の方まで運動会。 疲れると棚の上で昼寝、という生活が続いていた。
一方、ノラ猫アイちゃんは家の中ばかりいる事に慣れていないせいかじっとしていられず、外の世界に飛び出す機会を常に伺っていて、ある時、傾いた離れ屋の戸を無理矢理開けて出て行ってしまった。
やっぱり、外がいいみたい。 でも、子猫がいるから、きちんと帰って来てはくれたけど・・・
次に考えるのは、子猫の行く末。 かわいい子猫のうちに貰い手を探さなぁ。と言う事で、何枚か写真を撮り、玄関の格子戸に張り出した。
なかなか、申し出てくれる人が無く、半ば、あきらめていた頃、一人の可愛らしい娘さんが尋ねて来てくれた。
大学生だと言う彼女は、「お母さんが可愛がってた猫が居なくなって、寂しがっているから、猫を見せて欲しい。」と言った。
2匹を見せると、器量が悪いと思っていたシルクの方を気に入ってくれたようで、 「また、お母さんと一緒に来ます。」と言って帰って行った。 あてにしないで待っていると、約束通り彼女とお母さんは猫を連れ帰るため、車に乗ってやって来た。
とても気さくで感じの良いお母さんは、「この子を貰ってもいいんですか?」と言うように、大して愛想のいい方でも、器量がいいわけでもないシルクを抱いてくれた。
そうして、もったいなような良家にシルクは貰われて行き、母猫(アイちゃん)がシャム猫みたいな柄やからともじって、ジャムと名付けられた。
そうして、S家に貰われたジャムの事を気に掛けているだろうと、事あるごとに、近況を知らせに寄って下さったり、手土産を下さったり、わたしも母と共にS家に伺ったりと、交流が始まった。
人との交流って何をきっかけに始まるか分からないものだなっと思う。 Sさんは障害のあるお兄さんと、お父さん、お母さん、ご主人と2人の娘さん、ゴールデンレトリバー犬1匹という大家族で大らかに明るく暮らしていらっしゃる。
さわやかで、優しい人柄にこちらもふわぁっとした気持ちになる。 「あーこんないい家庭に貰われて、可愛がられて良かったな。」とつくづく思う。
残されたアイちゃんとトラちゃんは今はもう、うちにはいない。 どこに行ったのかも分からない。
この事を書き始めるときりがないので、このへんで止めておくとする。
とにかく、1匹でも幸せになってくれて良かった。
久しぶりにうちで産まれた子猫を飼って下さってるSさんに出会った。
ジャムと名付けられたその子はS家でとても大切に飼われていて、今も元気にしているとの事。 嬉しかった。愛されて、可愛がられて、良かった、良かった。
もともと、このジャムを生んだお母さん猫のアイちゃんはノラ猫だった。 アイちゃんのお母さんの黒猫母さんは、とても気が強く、我が家のある界隈を縄張りとする、最強のメス猫だった。
最強と言っても体はきゃしゃで、それ程、強そうには見えないが、毎年、春と秋に3〜5匹の子猫を産み、時に応じて、子猫を移動させながら、上手に餌を貰って、子育てしていたようだった。
その子育て期間中の一時期を我が家の庭で過ごしていた。 ちょっとでも庭で憩う子猫にちょっかいをかけようものなら、凄い勢いでどこからともなく現れ出て、“ふうううぅ〜〜っ”と威嚇され、怖くてとても子猫には近づくことは出来なかった。
或年の春、またも4匹の子猫を連れてやって来た所を目と目が合ってしまい、あっけなく引っ越されて、がっかりしていたら、しばらくしたら、また、子猫が庭を走っていた。今度は、一匹減っていて、3匹になっていた。
黒が一匹とシャムのようなベージュと褐色の配色のが2匹いた。 最初は庭でも縁側から離れたところを走っていたが、だんだん、好奇心から縁側の傍までやって来て、靴脱ぎ石の上で遊ぶまでになっていた。
母猫の留守中にはかなり大胆に人間のいる縁側に近づくようになった子猫たちの気を引こうと時にかつおぶしを降らせたり、ちくわやハムをやってみたりして、手なずけようと試みた。 威嚇しながらも、餌をねだるようになって来て、可愛さは増して来ても母猫のノラ猫教育が行き届いているせいか、それ以上はなかなか懐いてくれなかった。
シャムがらの一匹は一際小柄で、目がブルーに輝いていたので、アイちゃん、黒ちゃん、シャム柄の大きい子は耳が特に大きいので、ミミちゃんと呼ぶ事にした。 名を呼びながら、餌をやると、ちゃんと反応してくれて、それなりに楽しく付き合っていた。
その中で、メス猫のアイちゃんだけが、私たちに興味津々で、窓から覗いたり、鳴いて呼んだり、手から直接餌を食べるようになっていった。 ある程度成長して、一人で木登りしたり、塀を攀じ登れるようになった頃、またも母猫に連れられて、去って行ってしまった。
それから、暫くして、あのアイちゃんが母猫と時々やってくるようになった。 どうやら、私たちが恋しくて、母猫にねだって、付き添ってもらって、家にきている様な様子だった。相変わらず母猫は凄い形相で、威嚇していた。
そうこうする内に、きっと、母猫の妊娠の時期が来たのか、母猫から独立した中猫になった子猫たちは、3匹とも庭に戻って来た。 また、餌付けの日々がやって来た。
一番懐いたのはアイちゃんだった。 ミミちゃんは食い気だけのぶっきらぼうなオス猫だった。 黒ちゃんは臆病で小心者だけど、心根の優しいオス猫だった。
アイちゃんは私に抱かれるまでに慣れて、家の中にも少しずつ入るようになっていった。 最初は縁側だけ。そして次にそこから障子で仕切られた居間へ、そして、台所と、入るようになった。
怖い顔で威嚇する事も無くなって、実に愛らしい猫に成長していった。 そのうち、ミミちゃんはどこかへ放浪に出掛けて、帰らなくなった。 黒ちゃんは相変わらず、びくびくしながら餌だけは貰いにやって来ていた。
朝、ガラッと戸を開けると日当たりのいい南向きの屋根の上で寝ていたアイちゃんが鳴きながらたーーっと走ってやって来る。そして、ごはんを縁側で食べる。 キャットフードのかりかりしかないと黙って、座る。他にもっと美味しいのないのとでも言うように。それに負けて、鶏ミンチとか牛ミンチを少し煮てやるとそうこなくちゃとばかりに勢い込んで食べる。それを傍で見ていた黒ちゃんはアイちゃんが食べ終わるのを待って、食べ始めるという控え目なオス猫だった。
アイちゃんは家に入りたいときは自分のお気に入りの椅子やコタツでくつろぐが、帰りたくなったら、ちょこんと無言で、障子戸の前に座って、おもむろにこちらを見る。「もう、アイちゃん帰りたいのん?」と言って、障子を開けると縁側へ。 そして、窓を開けるとたーーっとまた去って行く。決して、お泊りはしない利口なポリシーのある猫だった。どんなに冬の寒い日でも必ず外に帰って行くのが不思議だった。
そんなアイちゃんも成長し恋の季節を迎えていた。 見た事も無いようなオス猫がやって来ていた。 でも、おそらくアイちゃんのお相手はこの辺りを牛耳っているぶた猫こと茶トラのボス猫のようだった。
小柄なアイちゃんのお腹がだんだん大きくなって来て、妊娠は確実だった。 「わぁ〜どこで産むんかなぁ〜。まさか、うちかなぁ〜。」 お腹をさすりながら、期待と不安でいっぱいになった。
大きくなったお腹を抱えたアイちゃんはしんどそうだった。 遊びに来ても必ず、夜には帰っていたアイちゃんがどんなに促しても帰ろうとしない。 「あれっ、出産が近いのかな?」 とはいっても、家の中には猫のトイレがないので、仕方なく、居間のコタツで私がアイちゃんと一夜を共にすることになった。 トイレをしたくなったら、戸を開けてあげられるように。
一夜明けてもいっこうに帰る気配が無い。 仕方なく翌日もずっと滞在するアイちゃんを見守る事になった。
夕食を済ませ、後片付けをしていると、アイちゃんがコタツ布団の中にもぐりこむのが見えた。もう、真冬ではないので、電気は入ってなかったが、寝るのかなぁとしか思ってなかったら、何やら泣き声が。 「えーっ、まさか産んでんのー。」 懐中電灯でコタツ布団の中を照らすと、一匹が産まれていて、もう一匹を出産中。 大変なものを見てしまった。
その後、無事に分娩は終わり、本に書いてある通りの、猫の親子用のお家を段ボール箱で作り、そこに親子を移した。 そして、猫トイレも。
かくして、ノラ猫アイちゃんがうち猫となった。 しばらくして、棟続きの離れ屋が使われずにいるとこへ、子猫を連れての移動が始まった。そこはホコリまみれだったけど、猫には住み心地がいいのか、奇妙な猫一家との共同生活が始まったのでした。
つづく
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