sakuraの日記
DiaryINDEXpastwill


2001年10月31日(水) ぬかずけ

うちがまだ、大家族だった頃、母は大きな木の樽にぬかずけを漬けていました。

なすび、きゅうり、かぶら、どれもとても美味しく、小学生の時は学校から帰って、お腹がすくと冷蔵庫に刻んであるお漬物で、お茶漬けを食べたものです。

今でもそうですが、お腹がすくとお菓子ではだめなんです。
ご飯を食べないと食べた気がしなくて・・・
それで、おかずが無くても、おいしくご飯を食べるためのごはんのともは、
・お漬物
・塩昆布
・梅干
・しそちりめん
などです。

おー、ぬかずけについて書こうとしてたんだった。

でも、家族が減って行くに従って、母のぬかずけも漬かるのに食べる方が追いつかなくなってきて、木の樽も朽ちてきた事もあって、自然消滅してしまっていたのでした。

それでも、時々、母のあの味のぬかづけが食べたくなって、ちょっとだけといって
また漬け始めては自然消滅を繰り返していました。

そして、また今、漬けるのにちょうどいいおいしそうな小ぶりのなすびが売り出されるようになって、母のぬかづけの虫が騒ぎ出したようです。

“ぬかずけ漬けるいれもん買いに行かへん?”と言われ、橋向こうのひなびた荒物屋さんにちょうど良さそうな大きさの漬物用の入れ物をてくてく歩いて買いに行ってきました。

荒物屋さんのおばあさんは愛想がよく、どの入れ物にするか相談する母と私に気長に付き合ってくれました。
そして、しゃがみこんで入れ物を比べて見ている私の頭を撫でながら、

“あんた、ようお母さんのお世話しはるなぁ〜”と言いました。

こんな年になって、まじめに頭を撫でられるなんて思ってなかったので、ちょっと、リアクションに困りましたが、小さい子の頭でも撫でるようにやさしく撫でられて、とても懐かしい気になりました。

こうして、望みの漬物入れを手に入れて、今回のぬかづけはいつまで続くのやら…

でも、また、あの美味しいなすびとかぶらが食べられるのかと思うととてもたのしみ。

食欲の秋でもあり、新米の美味しい季節。
あ〜たいへんな事にならなければいいけど(・o・)


2001年10月30日(火) こころ

こころを読むって難しい。


こちらがいくら自分の気持ちを話しても、

伝わらない事がある。


相手がなんにも言わずに、

去って行こうとするとき、


こころをわしづかみにして、


引き戻せるだけの強さが、

向き合わさせるだけの強さが、


私にあったらいいのに。


2001年10月29日(月) ねむい(-.-)

自分の本業はそれなりにあっても、これだけでは収入として、不十分なので、早朝からのアルバイトを週三日、四日ほどしている。

観光シーズンには多少忙しくなるのだが、契約では7時スタートのところ、シーズン中は6時半スタートになると一方的な通達。

朝の弱い私にとっては辛いものがあるが、職を失う訳にもいかないので、「なんとかがんばりますっ。」と返事をしてしまい、とうとう、今日から6時半スタート。

どうにか、26分にはタイムカードを押せて、まずまずのすべりだしではあるが、
さすがに、5時台に起きると1日中眠たさが付きまとうものですね。
もう、今なんかねむたくてねむたくて、目を開けてるだけでも目が痛い程です。

だから、今日はこれで寝ます。

皆様、おやすみなさい。


2001年10月28日(日) 共感

いつもゆっくり話すチャンスの無かったYMちゃんと思いがけず時間が出来て、
お互いの色んな悩みや気持ちを語り合えた。

彼女も日頃からの色んな心の葛藤や自分の事を話してくれたし、私も今最も気になる事について聞いてもらった。

以前には、YMちゃんとこんなに親しく、お互いの事をここまで話し合える仲になるとは思ってもみなかったが、お互いに共感できる事や分かり合える事が意外にある事に驚いた。

いつもは、集会の帰りなどにちょこちょこ話す事があってもわざわざ時間を取って
二人で話す機会を作るのは、互いの生活スタイルからなかなか難しい事だった。

う〜ん、なんだかすっきりした気分。
お互いに抱えている問題はそう簡単に解決出来そうには無いけど、こうして話しを聞き合って共感し合える友がいるって事に喜びを感じた一日だった。

ありがとね。YMちゃん。


2001年10月27日(土) お見送り

とうとう、今日という日が来てしまった。

親しくしている姉妹たちの引越しの日。

最後の集会の時、姉妹たちは会衆の成員ひとりひとりに手書きの手紙を手渡してくれた。
わたしには、お別れ鍋パーティーの時に写してくれた写真も入れて、分厚い封筒をくれた。
2年間のお付き合いだったけど、心からのいい関係を築く事の出来た親友と呼べる友だった。JWになって、初めての心を開く事の出来る友。

彼女たちに元気付けられ、励まされた人はたくさんいると思う。
今、心を許し合って、付き合えるようになった他の姉妹たちもみんなそうだっただろう。

YちゃんとNちゃんの引越しが決まってからというもの、私たちはうろたえた。
ほんとに、ふたりに励まされ、心癒されて、楽しいJWライフを送っていたから、そのふたりが居なくなったらどうしよう?みたいな不安と寂しさが襲って来て仕方なかった。

でも、ふたりがいないんじゃ、だめになるようなら、それはあまりにも情けないし、そんなこと言うてたらあかん!ってことで、とにかく、ふたりが地元に帰るまで、楽しく、明るく、引越しにまつわる事をなるべく手伝ったり、懸命に過ごして来た。

住んでる所が離れるからって、友情が壊れる訳でなし、今まで通り、互いの事を気遣い、励まし合って、やって行こうって雰囲気が出て来て、こちらに残った姉妹たちとの結束もより固くなったと思います。

それに、自分たちだけで、固まって人間関係を狭くするんじゃなくて、自分を広くして、いろんな兄弟姉妹、研究生の皆さんと良い人間関係を作っていきたいとふたりの人との接し方から、学べました。

身近にYちゃんやNちゃんの励ましは得られなくなるけど、その気になれば、車で3時間、JRで1時間半でいけるんやから、元気出して行きましょ(^o^)

今日は絶好の引越し日和。荷だしも順調に済んで、食事の提供を引越しを手伝った人、見送りに来た人に振舞ってくれた姉妹もいて、ピクニック気分で、楽しい食事が最後に出来たのも嬉しかったな。

涙で見送りを済ませ、寂しいけど、すがすがしい思いが心の中にはあります。

これから、また、新しい日々が始まる。
そんな気がしています。


2001年10月26日(金) しゅうとくぶつ

今までに拾ったことあるもの
・ハンドバック
・財布
・子犬
・子猫
・キジバト
・土鳩
・通帳入りポーチ
・手帳

保護したことあるもの
・病院を抜け出した老婦人
・コリー犬の成犬


2001年10月25日(木) 別人?

今日、久しぶりに、水道管を引いてもらう件でいつも頼んでる水道屋さんのOさんを呼んだ。

家も近所だし、何かあるとすぐに電話をしては飛んできて貰っていたのだが、今回は久々の連絡だった。

ぴんぽーんと鳴って開けに行ってびっくり!!
別人のように痩せこけた頬、不自然に出っ張ったお腹。

これは明らかに尋常ではない様子。
体もとてもしんどそうで、声も力が無く、カタログを開く手も震えている。

こちらには、仕事の事以外にかける言葉も無く、ただただ黙々と必要事項についてだけ話した。
帰り際に、立ち上がるのさえ辛そうで痛々しい。

送り出して、母と二人で深いため息をついた。 ふーっ。

あんな体でもやっぱりすぐに飛んできてくれて、申し訳なさでいっぱいになった。
急な依頼だったが、すぐに職人さんを呼んでくれるとの事。

もう一つの件については、こちらとしてはまだもう少し先でも良かったのだが、Oさんが「はよせな!」と言って、カタログを持ってくるものだから、当惑してしまった。

いつもふっくらとした人の良さそうなおっとりとしたOさんの顔は別人のようだった。
相当、具合が悪そうで、母も私も陰鬱な気分のまま一日を終えた。

馴染みの人が深刻な病気になる事ほど、辛いものは無い。
何とも言えず、気持ちの晴れない日だった。

でも、私はこうして今日も健康を与えて貰って一日を終えられると言う事はなんて幸せなことなんだろう。

いつも、感謝しているつもりだけど、
また、改めて、今ある健康に感謝したい気持ちになった。


2001年10月24日(水) 行き違い

人の気持ちっていろいろあって難しいな。(-.-)
自分の思いや考えが必ずしも相手に正しく伝わってるとは限らないし・・・

相手からなしのつぶてだったりすると、もう、どうしていいか分からなくなる。
こちらは相手から何らかの働きかけを待っているしかないような気持ちになってしまって、ついつい、消極的になっていると、心がどんどん離れていってしまう。

あらゆる消極的な思いが駆け巡る。もう、こうなると悪循環の始まり。

そんな気持ちのまま日だけがどんどん過ぎる。

「なんでこんなことになったんやろう?」

 何度そんな言葉をつぶやいただろう? 

こちらはこちらで、一生懸命気持ちを伝えたつもりだった。良かれと思って、へりくだった思いで、手紙も書いてみた。

「あの手紙の内容がまずかったのかなぁ。」
「わたしがあんな手紙を書いて、行動を促さなかったら?あるいは違った展開になってたのかなぁ?」
「タイミングが悪かったのかなぁ。」
「余計な事、書いてしもたんかなぁ。」

なんて、くよくよと愚痴っぽいわたし。

こんな事なら、もっと早く私が自分のことばで、今まで考えてきた事、思ってる事
遠慮せずに、へりくだったりしないで、ありのまま叫べば良かった。

そしたら、今よりもちょっとましな結果になってたのかも・・・(..)

今からでも間に合うかな?

はぁ〜っ(・o・) とても、出来そうにない。

仕方ないね。もう、前のようにはなれないよね。

ごめんね。大好きなおにいさん。

感謝のことばもきちんと言えないままやけど、ほんとは“ありがとう”って言いたかったんや。

“おにいさんに出会って、やっと、わたしがわたしらしくいられる事ができるようになりました。”

そう、もっと、早く言えたら、良かったのに。

でも、言えそうにないから、日記にしるすことにします。


2001年10月23日(火) 井上 陽水

 陽水の声は子どもの頃からよく聴いた馴染みの声だ。

以前はテレビ嫌いであまりテレビに出演しなかった陽水だったが、最近はコマーシャルにもよく出て来て、私の耳を楽しませてくれる。

私の子どもの頃の音楽体験は、兄たちの聴くビートルズと陽水と上田正樹とかぐや姫など。
殊に、陽水の歌をギターをかき鳴らしながら歌う兄と一緒に「氷の世界」の数々の名曲を歌うのがとっても好きな幼稚園児だった。

そういう体験があるせいか、今でも陽水の声を耳にすると特別の感慨がある。

CMで流れていた「真珠の首飾り」だっけ?、昔、沢田 研二が歌ってた歌のカバー曲だと思うけど、陽水の声はやっぱりいい(^o^)
あのけだる〜い歌い方もなんとも言えずそそられる。

陽水の「帰れない二人」とか「いっそセレナーデ」とか好きやなぁ〜

あーCMから流れる陽水の声を聞いていたら、ふいにそんな事を思い出し、歌いたくなってしまった。

でも、もう夜も更けたので、「Golden Best」でも聴きながら、寝るとしよっか。


2001年10月22日(月) 買い物好き

 今日、山形屋の海苔の切り売り実演販売というのが、百貨店であるというので、
美味しい海苔を求めて、雨の中を出掛けた。

きっと、いつもの場所だろうと、地下食品売り場を見回すがない。

そのうち、各地の物産品が目に入ってくる。
とりわけ、私たちの目を引いたのは、真鶴の干物とみりん付け。
あじ、さば、おこぜ、かれい、ちりめんじゃこ・・・

どれもとても美味しそう)^o^(
最初はあじのみりん付けを4枚、そして、あじの干物4枚、
それだけにしとけばいいのに、かれいの干物3枚も。

「いやっ、あの粕漬けも美味しそう(^。^)」
“やすしておきますよ〜”
「えっ、ほんまに。ほな、それも2切れ買おかー」
“このじゃこも冷凍庫入れとかはったらもちますよ〜まあ、一口どうぞ〜」
「わぁ〜これおいしいわぁ〜ほなこれもこうとこか」
“お会計7,350円です。”
「わぉ〜今日から干物屋さんできそうやねぇ。」

と言う具合に安直に買い物をしてしまう母と私。

次は目的の海苔屋さんへ。
“こちらとこちらを食べ比べて見てください。”
「こっちの方が美味しいね。」
“そうでしょう。こちらの海苔は特選なんですよ〜焼き海苔と言っても比べると全然違うでしょう。”
「そうですね〜ほな、こっちの方二つ下さい。」
で、人に上げる分の小さい缶を二つと。

ほんで、名古屋名物「てんむす」もちょこっと。

まだまだ美味しそうなものはたくさんあったが、手に傘を持たねばならないので、これ位で止めとくことにした。

今日の晩ご飯のおかずはもちろんさかなの粕漬け。
うん、美味しかったよ。

やっぱり、百貨店の地下はええとこやねぇ。と、
またも楽しんでしまったのでした。

処方:百貨店に行かない事。


2001年10月21日(日) もてなし好きのDNA

今日、Y姉妹と自転車で帰りながら、Y姉妹がわたしに言った。

「sakuraちゃんはなんでそんなにサービス精神旺盛なの?」

“えっ、わたし?内の家族みんなこんなんやけど。”という具合に話をしていて思った。

 昔から、私の家には沢山の人が出入りしていた。別にお商売をしていたわけではないが、なんか人の集まる家だった。

 母から聞くと、初めは父の会社の後輩たち、子どもが生まれるとその子どもたちの友達。という用に、時が移り変わっても常に誰かが出入りする賑やかな家。

 私が幼い時、いつも兄の友人たちが入れ替わり立ち替わりやってきた。
で、夕食時になってもいっこうに帰る気配も無く、
「晩ご飯どうする?」ってことになるが、たいていいつも友人の誰かが食卓についていた。
 それを怒る事も、不思議に思う事もなく、育って来たので、訪問者に食事を勧めるのは我が家の慣例となっていた。

 ある時などは、まだ、兄が帰っていないうちにその友人来ていて、兄の分の食事を食べてしまったこともあった。
 「おまえ、帰ってくんの遅いから、俺、代わりに食べといたで。」ってな具合。

これってどっから受け継いでんの?と考えるとそれは母の実家にあった。

母の実家は家で商売をしていて、人の出入りも多いし、母の子どもの頃は、4世代同居の上、お店の従業員の人も一緒に住んでいると言う大家族だったそうで、
母の父親は子どもたちより、仕事をしている従業員をより大切にして、食事の品数も量も多めにして、働き手を大切に扱ったそうです。

そういう、人を大切にする精神を母はそこから自然に学んで行ったようです。
母の実家では、戦時中の食べ物のろくに無い時代でも、母の弟の友人にも食事を分けて食べたそうです。 材料がほとんど無く、芋のつるや、かすかに見えるご飯粒の雑炊をみんなして分け合ったという話を聞きました。

いまだに、母の弟のその友人は、母の事を00ねえちゃんと呼んで慕ってくれていて、お付き合いが続いているのは、微笑ましいことだと思います。
同じ釜の飯を食べた仲と言うのでしょうか。

今からはとても想像できない事ですが、少ない量でも分ける事が出来た母だから人と食事を分けて食べる事はなんの不思議もないことなんでしょうね。
むしろ、食事を共にする事をとても楽しい事と考えているんだと思います。
もちろん、わたしも。

もう、今は母の実家は地震の時に半壊して取り壊し、祖母もその後亡くなったので、何もありませんが、まだ、祖母も大叔母もそこに住んでいた時は、私たちが行くとなったら、大叔母の料亭の味のような繊細な料理でもてなされたものでした。

大叔母の料理は天下一品。その時はまだ子どもで、何も教わっていないのが悔いの残るところです。
いつもそうなのですが、

「あんた来ると思て、たんとごっつぉう作っといたで。たんとお上がりや。」

と言われて、死ぬほど食べても、

「ありゃ、もう終わりかいな。そんな、遠慮せんと食べい。」

とまた言われて、もてなし死にしそうになっていた事を懐かしく思い出します。


この血を受け継いでいるのか。やっぱり私も、人にご馳走したり、笑わせたりするの好きやなぁ〜って思う。

私の姉もやっぱりもてなし好きだし、その子どもたちも人見知りなしのサービス精神旺盛。

もてなし好きのDNAは脈々と受け継がれている事を感じずにはいられないな(^。^)


2001年10月20日(土) 利害関係

同じJWの仲間の人と金銭が絡む利害関係を持つと、何かのトラブルが起こった時、とてもつらいものです。

私の場合は、最近の世の中の風潮を見ていると人を信じる事はとても難しい事と感じて、JWの人に頼めば安心ではないかと、JWではない親も同意のもとで仕事を依頼したのでした。

直接知っている人ではなかったけど人伝に聞いての依頼となりました。
少しの不安もなく決めたのですが、私達の選定理由はJWとして長年過ごしてる事、仕事の実績(本人から聞いた)位で取り立てて調査もせずに決めたのです。

と・こ・ろ・が・です。
今から思えば、最初からトラブル続き。
当初は、ちょっとした考え方の相違かな?とか誤解かな? 勘違い?とかなんとか
善意に理解こそすれ、疑う事などまるで無かった。

私にとって“親”は「肉親」だし、“JW”は「霊的な家族」だし、間に挟まって苦悩の日々が始まった。

私としては、「自分の益ではなく、他の人の益をはかっていく。」と言う事を学んでいるJWは普通以上の注意を払って、仕事をしてくれるものと考えていた。
もちろん私自身も普通以上に気を遣って、休憩時間のおもてなしにも心を砕いて来たつもりだった。個人的には霊的な励ましが得られる事もあって、強められた事には大いに感謝しているのですが、JWでない親からの信頼を失って、金銭的なトラブルに発展(-_-;)

こんなに辛く苦々しい思いをするような事になるとは思っても無かった。
このトラブルについて見ていた人は皆一様に、私達に対して同情的だけど、こちらもその可能性を孕んでいる人であることを読み取れなかった事にも落ち度があると言えばあるし・・・

せっかく、良い人間関係を築けそうな程親しくなれた人と、なにゆえ、金銭トラブルなんか(>_<)

私が甘かったんだ。

JWだからって、
・仕事が出来るという保証にはならない。
・金銭感覚があるとは限らない。 
・喧嘩しないとは限らない。
・礼儀正しい人とは限らない。
・真面目に仕事してくれるとは限らない。
・Jehovaのみ名があしざまに言われるような事をしないとは限らない。
・どんなに長く交わってるベテランJWでも長老でも人格が優れているとは限らない。

って事に、どうしてもっと早く気が付かなかったんだろう(T_T)
そんなあたりまえの事に・・・

私も親もきっと親切に誠実にしてくれる人と考えて疑わなかった。
だって、JWなんだから。

それまで、JWに対して、“正直で誠実で信頼に値する人”と理解してくれていた母のJW評は悪くなる一方です。

この件についての解決はまだもう少しかかりそう。(-_-)
お互いの心にしこりを残したまま・・・(ーー;)


2001年10月19日(金) 晩餐会

今日は地元に帰ってしまう二人の姉妹達を送る晩餐会だった。
いつもの仲良しグループで、キムチ鍋を囲んで、時の経つのも忘れるような楽しい時間でした。

二人を送るために二人の好きな賛美の歌一曲ずつピアノ伴奏付きで二部にして歌おうとそれなりに練習していたのに、Yちゃんが歌いながら途中で泣いてしまったもので、私まで泣けてきて散々な結果になってしまい何とも面目ないという感じだった。

今日は美味しい純米酒を飲んだので、ご機嫌すぎて、口も指も足も危なっかしくなってしまったのも悪かったんですけどね・・・(^^ゞ

んで、後は皆の好きな賛美の歌をほろ酔いかげんで歌いまくってお開きになったんですけど、これって、まずいっすかね??

でもまあ、とっても気持ちよく歌えたから、まあいいっか。(^。^)


2001年10月18日(木) 組織嫌い

私は“組織”という響きがあまり好きではない。

“束縛”“規則”“同化”“埋没”“無私”“集団行動”などなどそんな事を連想してしまうから。

もちろん、小・中・高と学校での集団生活を普通には行ってきたつもりだけど、
中・高の6年間一貫教育のカトリック系の女子校では嫌な思いも随分した。
中・高では生徒の自主性とかなんとか言って、結局、熱血派の一部の生徒にリーダーシップを執らせて管理しているに過ぎなかったと思う。
そう言うやり方はうんざりだった。

少数派の意見は無視される。 
そう言う組織というものに基本的には醒めた感覚をもっていた。

教育実習で研究授業をした時、友人がこんな事を言った。
「OOちゃんは、教師には向いてるかも知れへんけど、組織には向かへんやろなぁ。」
どうして、彼女がそう言ったのかは聞かなかったけど、一応、私は教師志望だったので、「そうなんよね。困るよなぁ〜」と内心思っていた。
教師になりたい夢はあるけど、学校組織なんかに私の居場所がある訳もないしね。
そんな事を考えたが、私はもともと協調性がないと常々言われていたし、自分でも“あほらしい。そんなしょうもない事出来るかっ”てとこがあるし、「なかなか、私の居られる場所ってないやろな〜」って思ってたから、所在のなさに戸惑う事は多かった。

だから、真理を受け入れた時も真理は早くから私の中でO.Kだったけど、組織に入るって事には随分抵抗があった。

一人一人は魅力的で素敵な人も組織として、一つのコマになってしまうと、輝きを失ってしまうんじゃないか。 互いに監視し合うようなそういう関係になってしまって、窮屈になるんじゃないか。
そういう所に自分の身を置けるのか?

それが、私にとっての挑戦だった。
でも、これが真理だと解ってしまった以上、嫌でも「この組織に入らなあかんにゃろなぁ。」と無理矢理納得した事にして、“清水の舞台から飛び降りるつもりで”
バプテスマは受けました。

あれから8年経ったけど、未だに集団行動は苦手でやっぱり人の迷惑省みず(-_-;)
相変わらずのマイペースぶりです。
そんなだから、最初は何気ない圧力を感じたりして気持ちが萎えたりもしていたけど、最近は開き直って、わたしはわたしと割り切って、“そんなこと出来たら、私が私で無くなるぅ〜”という気で居る事にした。

“わたしはわたし” こんな単純な事に気が付くのに随分かかったな。

でも、組織って巨大で簡単な事を見えにくくしてしまう様で、やっぱり苦手だな。


2001年10月17日(水) ショックー

今、書きかけていた日記の佳境の部分で何かのキーに触れて、全部オジャンになってしまった。

ショックでもう書けそうにない(T_T)

今日は傷心を抱いて、もう、寝ます。m(__)m


2001年10月16日(火) お昼の群れ

この9月から、私の集っている会衆でも書籍研究のお昼の群れが発足した。
私もその群れに入れてもらっている。
10人程の小ぢんまりした群れで、毎週和気藹々とした研究がなされています。
研究後の交わりも楽しく、夜の時とは違って、安心して時間が過ごせるのは
私にとっては嬉しい事です。

私の母は心配性で寂しがりやでやきもち焼きなので、夜の集会の後にあんまりゆっくりして帰ると大変なんです。でも、ついつい、楽しい語らいに時間を忘れてしまうものだから、いつも、群れの研究のお宅に電話がかかってきたりして迷惑をかけてしまうんです。
皆さん、理解を示して下さるので、助かってはいたんですけどね。(^。^)

てなわけでお昼の集会は母をそう言う気持ちにさせない時間帯なので、大いに助かってます。きめ細かい配慮に感謝です。m(__)m


2001年10月15日(月) お別れ会

もうすぐ、仲良くしていた姉妹達が家庭の事情で、実家のある会衆に戻ってしまいます。2人は、5年前、必要で今の会衆に入ったのですが、私とは会衆の統廃合で一緒になってから、まる2年です。

二人は、私と同年代で、私がJWになって初めて打ち解けられる友になってくれた人たちなので、とても寂しいです。
個性の違う二人は息がぴったりあっていて、傍で見ている私もほのぼのとするようないい雰囲気を醸しています。

そんな彼女達の人柄に惹かれた、統合前から私と同じ会衆だった他の姉妹達との交友も深まり、本当に心から話し合える友が出来て、それまでのJW生活の中で霊的、精神的に一番恵まれた時間を持つことが出来ました。

それが、もうお別れなんて。(T_T)

今週末、いつもの仲間でお別れ会をする事になっています。
出し物は、二人の好きな賛美の歌一曲ずつをハーモニーにして歌うというものです。まだ、これから、練習に取り掛かるという呑気さゆえにどうなることやら(^^ゞ
技術はともかく、愛を込めて歌いたいと思います。

メニューはリクエストにより「鍋」。しかも、「キムチ鍋」。
どんな晩餐になることやら・・・
楽しみでもあり、恐ろしくも・・・(-_-;)

とにかく、明るく楽しいお別れ会にしたいな。(^o^)


2001年10月14日(日) 平和を作る

今日の研究記事で、「平和を求める」とは、「平和を作る人たち」という意味があって、“積極的に平和を促進する”とか“これまで平和のなかったところに平和をつくる”という聖書的な意味があるってことを学んで、
今の世界にはまさにこれが必要なんよね〜と考えさせられた。

今回のテロに対しては、武力で報復するのではなく、こういう判断をブッシュ大統領にはしてもらいたかったなぁ〜とつくづく思う。

知り合いのパイロットの人も、がらがらの飛行機で飛んでいるし、観光地のハワイでさえかつての賑わいが嘘のような状況と言っている。
「世界が平和でなければ、パイロットの仕事は必要とされない所にあるのだと思い知らされた気がする」とも。
このままでは、日本の有名飛行機会社のN社も潰れるのでは?という不安さえあるような状況だそう。(-_-)

いったん平和が損なわれると悪循環になって、ますます不安は増幅される。
いったいこんな状態がいつまで続くのか?
考え始めると何も手が付かなくなってしまいそうでこわい。


2001年10月13日(土) メモリの増設

そろそろ、パソコンの利用も多くなって来たから、メモリの増設しなあかんなぁ〜と思っていた時、姉から一緒に行った旅行の写真がメールで送られてきた。
“沢山あるから3枚ずつ毎日送るね。”とでっかい画像で送ってきた。
ISDN回線で10分もかかってきたのはいいけど、重いこと重いこと。
この調子で毎日送って来られては大変と思い、今日、メモリを増やすチップみたいなものを買いに行った。
お店で付けてくれるんかな〜と思ってたら、
“付けるのには3000円かかります。”と言う。
「え〜っそんなに大変なん?」
“いえいえ、簡単に付けられますよ。”
「どないして付けるか、教えてもらえますか?」
“あ、いいですよ。 かくかくしかじか”
「なんや、簡単なんですね。ほな、やってみます。」ってなことで、家に持ち帰った。

で、やってみたのはいいけど、なかなかカチッというとこまでチップが入ってくれない。一度ははまったものの、パソコンを起動させて、メモリ量を見るとちっとも増えてない。 失敗(-_-;)

もとい、取り外しにかかるが、これがなかなかとれない。
爪が、がりがりと削れて、ぎざぎざになりながら、なんとか取り外しに成功。ほっ。(^.^)
改めて、チャレンジするも、やっぱり、カチッというところまでうまくささらない。
「なんでやぁ〜どないなってんにゃ〜」
これが、3000円の謂れなのかと納得した。

「潰したらあかん。」と思い、
「今日のとこは、これくらいにしといたらぁ〜」と
未だに増設は出来ていない。


2001年10月12日(金) 母との関係

今日は、とても天気が良く、気持ちのいい秋晴れだったので、
母と二人で、さんぽに出掛けた。

秋の特別公開のあるところに行ってみたが、3時で閉門。
ちょっとの差で入場しそびれてしまった。 残念(>_<)

公開は14日まで。明日こそ間に合うように行かねば。

天気がいいと自然の美しい所に行きたくなる。でも、高齢の母とでは、行ける場所が限られているし、私だけが友人と出掛ける事はなかなか難しい。

それでなくても、週3回、集会のために出掛けるわけで、母にとってはそれだけでも出掛け過ぎと言われる。
で、奉仕も何とかして出るとなると、いやみ、小言、非難を受ける事になる。
その上、大会とか野外集会などがあったりすると、もう収拾がつかない。

もちろん、仕事のために出掛ける事や、時間がとられる事もあるのだが、それも気に入らなかったりする事があるから、よけいにやっかいだ。
年をとると漠然とした不安や寂しさを感じるようになるらしく、常に誰かそばにいないと不機嫌になる。
まだ、外が明るい時間はいいが、雨が降っていて物寂しい時や夜にひとりになるのは特に嫌がる。

だから、夜の集会に出掛けるのは毎度、非難の的となる。
兄は仕事で留守なのは仕方ないが、私は“集会にあそびに行ってる”と思われているから、“わざわざ、夜の暗い時間に娘が出掛けるとはとんでもない!!エホバは年取った母親をひとり残して出掛けるような事許してるなんて薄情な神さんや!”となる。

故に、私が家から出る事には非難が付き物で、いつも攻め立てられているようで、精神的に疲れる事が多い。
私は、内向的な性格ではないが、性格的には母に呑まれているので、打ちひしがれるような事を良く言われているなと思う。

母からはたくさんの愛情を受けて育っているのは確かだが、ただ無視の愛からきているものだけではないようにも感じる。
愛情の押し付け?そんなこと言ったら可哀想かな。
でも、しんどい事もある。

私はお母さん子で、お母さん大好きなんやから、もうちょっと平和的な関係を築きたいなぁ〜と思う。
私がJWで気に入らないこともあるだろうけど、あんまり喧嘩売って欲しくないな。
私の好きな優しくて、世話好きで、もてなす事の好きな気前のいい、そういうお母さんでず〜〜っといてくれたら嬉しいな(^。^)

どんな立場の人であれ、家の中で一人でJWやってる人はそれなりに家族の圧力を感じながら集会に行ってると思うのね。
だから、何の苦もなく飄々としてるように見えても、打ちひしがれてる事があるんよね。そんな時は、自尊心を保つ事が難しく思えたりしてて、でも、ちょっとした褒め言葉や励ましがとても大きな力になる時でもある。

だから、目ざとくあって、打ちひしがれた霊を持った人に慰めの言葉を掛けられるそういう自分でありたいな、とつくづく思う。


2001年10月11日(木) 中学進学

小学生時代は神様の存在や聖書は良い本だと信じてはいたが、それ以上の発展も無く、相変わらず教会に通い続けていた。
6年生になって、思いがけず母と姉から私立中学受験を勧められた。
でも私は近くの公立中学に仲良しの友人と行くんだと思い込んでいたし、
受験するほどの勉強はしていなかったので、ずいぶん当惑した。

母と姉が私立を勧めた理由は、校区の公立の評判が悪くなっていた事と5年生の時から6年生の当時でいう不良少女から目を付けられていた事にあった。

なぜ不良少女に目を付けられたか?
私の髪の毛が栗色だった事が関係していた。
今は、髪の毛の色を変えるのはファッションのひとつと考えるが、当時は、髪の色を茶色や金髪にするのは不良のする事だった。

で、私はヤンキーでも不良でもないのに髪の毛の色が栗色だから、
“あんた、目立って、生意気や〜”となり、ツッパッテるおねえさんたちに追いかけられたり、髪を引っ張られる事もあった。

私にとっては髪の色は生まれつきの色。そんな事言われたって、困るよね〜
でも、姉も中学でやんちゃな女の子達に髪の毛の色の事で囲まれて泣かされた事があったとか。 怖いよね(-_-;)
姉も私と同じ髪の色だったから。

で、そんなこんなで、塾にも行ってないのに受験することに。
まあ、“中学は落ちても行くとこあるから、気楽にいったらええやん。”とそう開き直っての受験だった。

私の条件は「キリスト教系がいい」ということだった。
私の住むK市は、カトリック系2校とプロテスタント系3校あり、私が受かりそうなのは、各1校ずつの中・高一貫の女子校だった。
それで、受験日が重なるので、カトリック系の学校に絞って受験。

そう試験が出来たとも思わなかったが、面接で先生たちを笑わせたのが良かったのか合格した。
そうして、カトリック系の規則の厳しい女子校に入学する事となった。


2001年10月10日(水) キリスト教との出会い

前にも書いたが、私は教会の付属の幼稚園に行った事がきっかけで、聖書と出会い、神の存在を知った。

卒園後も引き続き、教会の日曜学校に通っていた。
そこには、同じ幼稚園の卒園生が集まっていて、小学校とはまた違う趣があって、楽しいものだった。
私は教会が大好きだった。
神様のことを勉強するなんて、すごい事だと子供心に感じていた。
それで、“もっと賢くなるためには、大人の礼拝に出なくては”と思ったりして、子どもの礼拝の後にある大人の礼拝にも出席したものだった。
でも、いずれにしてもそう大した知識は得られなかったが、沢山の賛美歌を歌えるのは私にとって、魅力だった。
その教会には6歳から16歳まで通っていた。
私の家から歩いて5分のところに今もそのM教会はある。

M教会はプロテスタント系だった。
ちょうど小学2年生の時、叔父から、「偉大な教え手に聞き従う」というピンク色の本を貰った。
イエス・キリストの事が書いてあるから、聖書に関係があると思って、教会に持って行き、先生に“これ、叔父ちゃんにもろてん。”と言って見せると、一人の先生は、“OOちゃん、いい本貰って、良かったね。”と言ってくれたけど、もう一人の別の先生は顔を曇らせて、あまりいい反応が無くてがっかりした。

この時、なにか違うと漠然とした印象を持ったのは確かだった。
でも、まだJWがどうとかというまでは分からなかった。

また、ちょうど同じ頃、隣りの家のお手伝いのおばさんがカトリック系の教会に通っている事を聞いて、“おばさんの行ってる教会に行ってみたい。”と言って、1度だけ連れて行って貰った事がある。
でも、これは、あんまり覚えていない。

そんな訳で、小学校低学年までに、既に、プロテスタント、カトリック、JWと違うタイプのキリスト教と接する機会があったのが、私のキリスト教体験の初めかなぁと思う。


2001年10月09日(火) 友達

「世との交友は有益な習慣を損なう。」
大会でも集会でもよく言われるこの言葉には戸惑う事が多い。
特にクリスチャンではない友達との交友を避けるようにと言う警告はとても大袈裟に聞こえてしまう。
 
 自分の霊性を脅かすような友達ってそんなに多いやろか?
組織はJWがどんなに悪い人間と付き合ってると思ってるんやろか?

私はもともとそれ程友達の多い方ではないが、たとえ、霊的な話が出来ない友であっても良い友達はいると思っている。
共通の関心事を持っている友は私にとってはとても大切な存在だ。
成人してから、JWになった私には、むしろ組織内で友を作る方が困難だった。
会衆内で同年代の人は私以外全員2世だったし、異性の仲間との接し方には気を遣ったし、友を得ると言う事においては随分寂しい思いをしたと思う。

JWで信仰において一致していると言ってもプライベートな時間まで共にしたいと思うような人は、限られた会衆内ではなかなか得られなかった。

家に帰れば、自分ひとりJWで、会衆でもひとりのようで、真理を知ったとはいってもなかなか幸福感を味わうのは難しかった。

私はもともとおしゃべりで、ザックバランな方だけど、会衆の人達は礼儀正しく、親切なだけで、打ち解けて話すような人はいなくて、みんなよそ行きの顔をしていた。 そんなだから、コチコチの2世の一つ年下の姉妹にはよく怒られて、なんか築き上げるとか、鼓舞し合うとか無縁だったなぁ〜

でも、大切なのはエホバとの個人関係だもんね。

っと気を取り直してやってたっけ。

今は、会衆の統廃合で、別の会衆になって、いい友も出来たし、遠方の会衆にも
共通の趣味を持つ仲間も出来て、それなりに楽しくJWライフを送っている。
問題が無い訳ではないが、自分らしくあることと無理しないことを心がけて、喜びを失わないようにと気を付けている。

JWの友達も学生時代の友達もかげがえのない存在だと思う。

JWの若者も相手がJWかどうかっていう基準だけで判断しないで、互いに鼓舞し合えて、ときには慰め合えるようなそんな友達を作って欲しいなっと思う。

あっ、一応、神の目から見れば私も若者の内に入るとは思いますけどね(~o~)


2001年10月08日(月) 発表会

今日はクリスチャン仲間との恒例の発表会だった。
今回はA県のN町のホールで、ピアノはベーゼンドルファー。
1年前よりもずっと弾きこまれていて、鍵盤が軽くて慌てた(-_-;)

聴衆は200人程で立ち見も出るほどの盛況ぶりで、出演者も聴衆も一体になって楽しいコンサートになった。

私はと言うと練習不足のわりにはまあまあやったかな?とかなり甘い採点をしているが、辛辣な母は「あんな練習でそんな筈あらへん」と手厳しいお言葉。
まあ、音楽は楽しけりゃいいのよね(^.^)

そんなこんなで無事終了したかと思えば、もう次の話しをして、みんな気が早いんだから・・・
次回はH県あたりで、ゴールデンウィーク中の祝日の月曜ねらいでホール探ししなくっちゃ(^O^)


2001年10月07日(日) 佐渡裕ヤング・ピープルズ・コンサート

今日は大会の次の日と言うこことで、集会の無い日曜日。
ゆっくりした気持ちで、新聞に目を通すとテレビ欄に“佐渡裕”の名が!!
「おっ」と思って、テレビのスイッチを入れた。

“佐渡裕”は今や日本を代表する指揮者のひとりとなっているが、まだ、修行中の頃から並々ならない存在感があった。

私が初めて“佐渡裕”の名を聞いたのは大学時代。
友人の大学オケの定期演奏会の指揮者だった。
友人はフルートのパートリーダーをしていて、曲目はビゼー作曲「カルメン」。
この曲にはフルートソロのとても有名な曲が含まれていて、もちろんソリストは
パートリーダーのS君。彼は大喜びの大緊張。
“佐渡”はもともとフルートの専攻だったから。

その頃から、アマチュアオケや合唱団の指揮をしながら修行中だった“佐渡”は
大学オケに人気があって、引っ張りだこだった。
その情熱あふれる指導には定評があって、S君も最終学年にして、このような好機に恵まれて、一方ならぬ熱意は周りにいる者にも伝わるほどだった。

私もよく一緒に練習に付き合ったなぁ〜と懐かしくなった。

演奏会場は音響の良さには定評のあるザ・シンフォニーホール。
雨の日だったが、アルバイト先の常連さんや仲間たちがみんな、S君のソロを楽しみにして、演奏会に足を運んだ。
もちろん、私も。

演奏会もS君のソロも素晴らしかったけど、何より“佐渡裕”のほとばしる若さと情熱とエネルギーに会場にいた観客もオケ団員もみい〜んなが巻き込まれた瞬間が一番すごかったというよりほかない。

すごい指揮者。 きっと、世界で活躍できる人になる。 誰もが感じたことだろうけど、こんなにインパクトのある人は初めてだった。
程なくして、世界的に有名な指揮者コンクールで優勝。
それ以来、着実に上っていっている人だ。

ヤング・ピープルズ・コンサートは彼の師でもある世界的指揮者で作曲家の
レナード・バーンスタインがもともと始めた事だった。
10代の子どもたちを対象に、音楽の基本的な事(リズムって何?とか旋律って何?などなど)を表題にして一流のオーケストラと楽器の紹介をしながら、聴衆も参加する形で進められる。
子どもたちの目のなんと生き生きしている事か。
これこそ、本当の音楽教育と言えるものだと思う。

今日のテレビで放映されたコンサートもこの型を見習う形で、しかし、“佐渡”の
カラーでジャズトランペットを交えて進められた。

子ども達はとても楽しそうに生き生きと、踊ったり、持参の楽器を自由に演奏しながら、参加してしている。

「あ〜私も子どもになりたい〜」 

最後は、全員参加で舞台に上がって、指揮棒を振ったり、楽器で演奏に加わったりと大感動、大興奮のフィナーレ。

「あの時とおんなじや。」

ず〜っと、そのままのエネルギーをもち続けている“佐渡裕”を見て、私は?
と問うてみる。


2001年10月06日(土) 特別一日大会

今日は特一大会で、久しぶりに会った2世の青年と彼の母親と姉の姉妹といっしょに座った。
彼は、全時間の仕事をしているが、今日はたまたま休みだったので来たのだと言う。

私は恐らく、彼が小学生の頃から知っていると思うが、あまり話した事は無かった。 それは、なにか取っ付きにくそうな雰囲気があったのと寡黙で、人見知りをしそうな感じもあって、話し掛けづらかった事があると思う。(がらにもなく)

今日、朝に顔を見た時、今までとは違うなにか親しみやすい感じがして、2,3の他愛ない話をして、プログラムが始まった。
昼食時には、姉妹たちと3人で屋上で食べて、楽しく話していると、そこにやって来て、仲間に入るでもなく、そばで、楽しそうに笑っていた。
「あれ、なんかふっきれたのかな?肩のちからがぬけたな〜」と感じて嬉しかった。

まだバプテスマは受けていない彼は伝道者もやめて、定期的な集会出席からも遠ざかっていて、それはお母さん姉妹にとっての心痛となっていた。それをお姉さん姉妹はよく支えて、弟の心情も思いやるとても心優しい娘さんに成長していて、私はいつも微笑ましく感じていた。

大会の帰り、家族の車に私も乗せてもらって、大会の模範的な若者の経験を聞いた感想などを話した。「あんな優等生の高校生の経験なんか聞いたら、かえって落ち込むやんなぁ〜」と私が言うと雰囲気が和んで、「ほんまやな〜」って、みんなが応えてくれて、彼も自分の考えを話してくれた。

「自分は2世として育って、引かれたレールの上をそのまま行くのはいやだ。もし、バプテスマを受けるなら、人に言われてとか、周りの圧力で、未熟なまま受けるのではなく、自分で自ら選んで決めたい。周りに干渉を受けたくないから、今は離れていたいんだ!」と気持ちを話してくれました。

外見的には今風の若者に見えるけど、中身はお母さん姉妹が幼い頃から、しっかり躾けてこられただけあって、芯のしっかりした青年に成長していたんだなぁと
改めて感じました。

きっと、今、彼は自分探しをしているんだなと思った。
1世として、自らJWと成る事を選んだ母親と同じように、彼も自分の人生を切り開きたいという強い意志を持っていることが分かって、心強く思った。

“K姉妹、Dちゃんはきっとエホバのもとに帰ってくるよ。彼を信じよう。”って
今度、集会で会ったら、お母さん姉妹に伝えたいと思った。


2001年10月05日(金) 叔父ちゃんが来た!!

今、私の大好きなR叔父ちゃんが来て、いっしょに晩御飯を食べた。
急な来訪だったので、たいしたおかずも出来ひんかったけど、
お好み焼きと肉じゃがで楽しく食事が出来て、すごく喜んでくれて嬉しいなぁ〜

で、食後は母に伝道中。普段、私には質問を投げかけても私が答えている間に他に話題を移してしまうような母だけど、今日は相手が叔父だとちゃんと会話になってるからすごい〜

叔父は聖書から実際に聖句を見せて、イスラエルがどう言ういきさつで神の民になったかという質問に答えています。
いつになく、母も熱心に聞いてくれていて、ちょっとぐらい理解してくれたらなぁ。

話はどんどん発展して、ただいま、絶好調!!
これで、ちょっとでも風当たりがゆるくなったらなぁ〜なんて
淡い期待をいだいたりして(^。^)


2001年10月04日(木) あ〜終わった(^o^)

なんとか、第3の話しが無事終わってほっとした。
いろいろと考えて行くうちに、自分が元気になって行くように感じた。
もともと、元気に見える方の私だけど、本当に、自分の中に自分なりの確信が
出来た事を実感した。

偽預言者なんて言われない様に、神の言葉聖書を正確に伝えて行きたい!!と
心からそう思った。
聖書理解のための手引書に頼りきらないで、聖書から直接語るようにもっと出来ないとね。聖書がなんと述べているか−しごく当たり前のことだけど−その事に注意深くないといけないとつくづく思いました。

今日のお題目ほど、悩んだものは無かったな。
そりゃ、私は偽預言者やないんやから、そんなん答えるのはお茶の子さいさいやろって言われそうやけど、そら、そんなもんやないでー

でも、今日はほんまにええ勉強になった。
感謝、感謝です。


2001年10月03日(水) watasitatiwo,niseyogennsyatoyobuhitoni,kotaeru

あ〜どないしょう。
あと、20時間ほどで、第三の話しの番がまわってくる。
お相手の姉妹ごめんなさい。m(__)m 実はまだ出来てません。
今から、何とか頑張って、作ります。

でも、ほんまにこんなこという人にでおたら、ちゃんと答えられるやろか?

現に、niseyogennsyaとは言われないまでも、母からは嘘つき呼ばわりされる事もあるが、未だに母が納得するような答えが出来ていないだけに、このお題目は私にはちとつらいものがある。

JWになって、嘘つきと言われるとは、何ともトホホな話である。


2001年10月02日(火) アイザック・スターン

 世界的に有名なバイオリニスト、アイザック・スターンが亡くなった。
最近では、後進の指導にも熱心で、日本でも毎年、年若い人への公開レッスンを
行っていた。 その様子をテレビで見た。

レッスンはとても和やかで、友好的な雰囲気から始まり、生徒の考えを引き出そうとする質問。
きっと、正しい答えは判っている筈だけど、すこし躊躇しながら、自信なげにぼそぼそと答える生徒。

この様子を見た時、ふと思った。
私達が何かの教育を受けていて、先生から質問を受ける時、既に答えが用意されていて、その答えを導き出せた時は正解で、それ以外は不正解とされなかっただろうか。そういう経験が抜けないせいか、何かの質問を受ける時、つい、質問者が要求している答えを探してしまわないだろうか。

そんな事を考えながら、テレビを見ていた。

誰かが、質問をしてくる時、必ずしも答えを用意して待っている訳ではないかもしれないけど、ついそう考えてしまう。
10人居れば、皆違った答えがあって当然ではないだろうか。
頭では判っていても、すぐ人を型にはめてしまおうとする傾向を改めるのは容易なことではないだろう。

私は、個人的には、そういう型にはまった見方をされる事に苦痛を感じていた方だけに、他の人の考え方や見方に対して、その多様性を尊重するように努力しているつもり。

でも、依然として、自分自身に関しては、自分が他の人に受け入れられるか?こんな事を言って恥ずかしくないか?他の人をつまづかせやしないか?という事を気に病む事もあった。

今は、いろいろあって、そこのとこは吹っ切れて、のびのびと自分らしく居られるようになったかなっと思う。

「正しい答え」という頑なな考えに縛られることなく、人の個性を受け入れる努力をすると同時に、自分自身の個性も受け入れてもらえる、そういう風になれば
いいなと思う。もちろん、それは、原則を冒さないところで、という事は言うまでもないっか。

なんか、アイザック・スターンから随分話がずれてしまった・・・


2001年10月01日(月) ねこ

私が子どもの頃、10月1日といえば、秋の大運動会の日と決まっていた。
小学3年生の10月1日もそうだった。

その1月程前の9月初旬に兄が新聞配達の帰りに1匹の子猫を拾ってきた。
動物大好きの私は大喜びだが、母はあまりいい顔をしなかった。でも、また捨てに
行く訳にも行かないし、という事で、結局、家で飼う事になった。
家の中にはあげない約束で、門と玄関の間で雨をしのげる屋根付きの小屋を作って
あげる事になった。

始めは、そこを寝床にしていた子猫だったが、だんだん秋も近づいてくるし、大雨が降ることもあるし、外では可愛そうとだんだん夜だけは、玄関の中に入れてあげるようになっていた。子猫はジャンプ力が無かったため、上がり框に上がる事ができなかったので、家の中に上がる心配も無いし、母も許してくれた。

私は、子猫が家の中にいるのが嬉しくて、夜、寝る前にそ〜っと玄関をのぞくのが、楽しみだった。
どこで、どんな格好で寝るのかな?とそ〜っとのぞく。
あれっ、どこにもいない!おかしいな?
ふと、兄の雨用の長靴が片方倒れているのが目に付いて、
おこすと、中からニャ〜と子猫が顔を出す。
うまいこと自分にぴったりの寝床を見つけた事に家族みんなで感心すると同時に
あまりの可愛らしさに笑みがこぼれた。

兄の長靴は、寒い冬用で、中にはあたたかそうなボアが付いていて、きっと、
お母さんに抱かれている気にでもなって、寝ていたんやろなーと思う。
夜遅く、帰ってくる父にも、必ず気付いて、ニャ〜(おかえり)というとても礼儀正しく可愛い子だった。

私はたいてい毎晩、寝る前にはおやすみを言いに、玄関をのぞいていたのに、
9月30日だけは、なぜか忘れて布団の中に入ってしまっていた。
思い出して、「あっ、見に行くの忘れてた。ちょっと、行ってくるわ。」と
母に言うと、「もう今日は布団に入ってしもたし、明日は運動会やし、はよ寝。」と言われて、そうかな、と思って寝ることに。

1日の朝、子猫がいない。「なんで〜玄関で寝てると思てたのにー」
兄達が家の近くを探すと、家のすぐ横の路地で冷たくなっている子猫を見つける事に・・・
30日の夜は、強い雨が降っていた。
きっと、冷たい雨に打たれて、寒くて、寂しかったろうな。

楽しみにしていた運動会の朝は、私にとってとても悲しい朝になった。
学校に行ってからもず〜っと泣いてばかりいた。
そんな、苦い思いのある10月1日です。




sakura |MAIL