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2005年04月30日(土)
映画「夏の庭」について(3)

おじいさん(名優三国連太郎)の監視が始まった。おじいさんの家は本当にぼろ屋だ。庭は草でほとんどジャングルのようだ。窓の隙間からおじいさんを見る。夏なのにコタツに入っている。寝ているのか死んでいるのか分からない。部屋はごみだらけ。
山下「死んでいるのかなあ」
そのときごそごそと動き出した。外に出るようだ。あとをつけていく。子供としてはものすごい緊張感。結局おじいさんが買ったのは、近くのスーパーでお弁当だった。お弁当を二個かって、元きた道を戻っていくおじいさん。
河辺「どうして二個買っていくか分かった。おじいさんはあれを夜食べて、明日の朝もう一個食べるんだ。」
おじいさんの監視はずーと続く。同級生のいたずらっ子にとがめられる。ひとりは、いつもお父さんに買ってもらった最新鋭のビデオカメラを撮っているイソギンチャクだ。「へんなことをして、先生に言いつけてやる。」三人組みは少し不安になる。でもやめなかった。
ついに木山君が見つかってしまった。どう言い訳したのか覚えていないのだが、それをきっかけに、三人組とおじいさんは仲良しになる。おじいさんはある日、3人組に言うのだ。「庭の草を刈れ」三人組みは「どうして僕たちがこんなことをしなくちゃいけないんだよお」といいながら草を刈り始める。それは本当に重労働であった。

いやあ、おじいさんの境遇、ちょっと他人事じゃあないです。支障があるので、詳細な描写はしませんが(^^;)今の私の境遇も同じようなものです。この前、家に閉じこもってばかりじゃだめだと、車をとりに一時間半ばかし歩きました。一週間前にはちょうど若葉が芽吹きだしたばかりだったはずだというのに、色こそまだ明るいものの、葉の大きさはもうすっかり成人です。ナガミヒナゲシはあちこちに咲いて橙色の点描を作り、教習所の八重桜は満開でした。もっと外に出なくちゃ、と思ったものでした。

おじいさんのすんでいるところの撮影は、神戸須磨区で行われたそうです。今年の冬、ちょっと思い立つことがあり、神戸須磨区舞の五色台古墳を見てきました。あの周りを歩いていると、この40年間ぐらいに建てられた、住宅地みたいで、閑静なたたずまいです。坂が多くて、路地が入り組んで、もしかしたら私は映画のロケ地を歩いていたのかもしれません。94年公開ですから、もちろん神戸大震災がある少し前の時期の撮影でした。

以下次号。



2005年04月29日(金)
映画「夏の庭」について(2)

最近の「連載」を読み返してみて、
改めて、誤字・脱字、間違いの多いのを知りました。
すみませんでした。
一つ一つの訂正はしませんが、
大きな間違いをひとつだけ。
四国の巡礼は「48」の寺を歩くわけではなく、「88」でした。
その他、いろいろ間違えている気もします(^^;)
支障のある間違いは直していく所存ですので、
ご指摘をいただくとありがたいです。

ところで、
「夏の庭」はたった一回のみ見ただけなので、
私の記憶は間違いだらけかもしれませんが、
比較的良く覚えているほうなので、
あらすじ(ピンク)を載せていきます。
地の部分は私の感想です。
相当脱線する予定です(^^;)

夏の始まり、いつもの小学生(5年くらい)の三人組が
塀の前で話し合っている。
木山(主人公各、かわいい)、河辺(チビでメガネ)、山下(でぶっちょ)
山下が葬式にいった話をする。興奮している。
でも死体をきちんと見たわけではない。
木山「なあ、人は死んだらどうなるんだろう」
河辺「僕時々想像してみて、怖くて仕方なくなることがある。」
といいながら、河辺は塀の上に登る。落っこちたら死ぬかもしれない。
本当に落っこちそうになる。
川辺「人が死ぬところを見てみたくないか。」
彼が言うにはこうである。近所のあばら家に、今にも死にそうな老人が住んでいる。彼を見張っていれば、彼は必ずもうすぐ死ぬだろう。そのとき僕たちは人が死ぬところを見ることが出来る。相談はまとまった。


私も小学生のころ、
突然「僕も死ぬのだ」と気がついて怖くて仕方なかった。
死ぬのはあと何十年も先のことだとは分かるのだが、
(事故や病気で死ぬなんて事は少しも考えなかった)
それでも怖かった。何十年なんてあっという間に過ぎ去る気がしていた。
そんなこと考えるのはたいてい学校からの帰り道だ。一人。
私はなんかの結論が付いただろうか。
付かなかった。ただ、「怖い感情」が通り過ぎていくのを待つしかなかった。
当たり前だ。これは哲学の大問題なのだから。
これが解決したら宗教はいらなくなる。それはともかく、
親にもいえない。(言っても仕方なかっただろう)
言える友達はたぶんいなかった。
この映画の場合、3人組というのが良かったのだ。
中学生なら一人の親友に打ち明けて、
そこから違う物語が発展していっただろう。
小学生だとその他大勢の友達に言うしかない。
あはは、といって終わりだ。
3人組だから話を煮詰めることが出来たのである。

以下次号。



2005年04月28日(木)
新連載 映画「夏の庭」について

一日お休みしました。
現在、おそろしく暇があるはずなのですが、
だから更新が必ず出来るというわけではないのですね。
今度こそ30分以上かけまいと決心しながら、
PCの前に座ったのに、
書き出すまでに一時間以上かけてしまいました。(^^;)
映画夏の庭について調べていたのです。

夏の庭  1994年作品
毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
キネマ旬報ベストテン第5位
監督 ................ 相米慎二 
脚本 ................  田中陽造
原作 ................  湯本香樹実

傳法喜八 ................  三國連太郎
木山諄 ................  坂田直樹
河辺 ................  王泰貴
山下勇志 ................  牧野憲一

実はまだほとかんど「ストック」が出来ていません。
よってしばらく「時間稼ぎ」が必要なのですが、
次に何をしようかと思ったとき、
「堅い話」が続いたので映画にしようと思ったのです。
昔の映画がいいな、出来たらみんなが知らないような映画なら、
あらすじを載せるだけでも、時間稼ぎできるな(^^;)
心に残った映画はたくさんあるけど、
なぜかビデオが出回っていない映画というのはそうはない。
この作品、レンタルで見たことないので、
ビデオ化されていないのだと思っていました。
ところがネットで調べたらビデオ化されているんですね。
相米慎二監督(故人)のほかの作品「セーラー服と機関銃」「お引越し」「あゝ春」「風花」などと比べて、 目立ってはいないのですが、まがう事なき、(私の中では)代表作とも言っていいほど大傑作です。
出来たら皆さん、レンタル屋で探してみてください。
もしあったなら、私にメールください。
私の住んでる近くなら、ぜひもう一度見たいと真剣に思っています。

この作品は、私の記憶では、自治労の毎年行っている
「市制を考える会」の第一回の集会で、
オープニングイベントとして特別上映された作品でした。
よって私の周りでも見ている人はほとんどいません。
でも私は毎年の映画上映の中でこの作品がベストだと思っています。
(毎年山田洋次を迎えるなどして「たそがれ清兵衛」などいいチョイスをしているのですが)
この作品は「死ぬということはどういうことなんだろう」ということを
扱った作品です。
といったところで書き出してから30分経ちました。

以下次号。



2005年04月26日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(21)

大学教授会が、生協設立に賛意を表し、運動に参加したのである。
今思えば、
ここが分岐点だった。

と、昨日書いたわけですが、
なんか締め切りに追われる漫画家の気持ちが分かってきました。
確かに分岐点だったのでしょうが、
じゃあ何が出来たのか、
お前(<わたし)は何をしたのか、
それより、今現在、当初の予定をしないで
これを書いているお前はどうなんだ、
と、なんだか落ち込むようなことばかりが浮かんできて、
吾妻ひでお「失踪日記」じゃないですが、
失踪したくなるようなことばかりです。
今日はいい天気です。しっかり運動しなくちゃ(^^;)

それはともかく、

教授会は味方であると同時に冷ややかな観察者であった。
学館の出来るぎりぎりの時期に生協に賛意を表わしたのは
彼らの大人としての判断だったのだろう。
学生としてはそれを最大限宣伝すべきだった。
ともかく圧倒的多数の学生を巻き込み、
学生の過半数を出席させて、生協設立準備大会を成功させるか、
圧倒的多数の生協出資予定者の名簿を約半年で作るべきであった。
そういうことさえも思いつかないか、考えても実行できないでいた
学生の見識というのは
あまり「自主管理・自主運営」を言っている人たちを笑えないのであった。
新聞会としては、
そういう「主張」さえ書かなかった。
教授たちを巻き込んでのインタビュー特集、
今が正念場だという学生への煽り、
そんな企画をどうして立ち上げなかったのか。

結局当局が勝手に学館に生協を想定していない青写真を作り、
生協設立の運動は潰えてしまう。

「昔は大学新聞を作っている人たちといえば、
その大学の最も理論派といわれるような人たちだったんだけど、
君たちを見ているとなんだか悲しくなってくるよ」
ある教授からそんなことを言われたことがある。
そんなことを言っても、
われわれとしては新聞つくりになんかの憧れを持って集まった
素人の集まりなのだから困る、というのがそのときの感想なのであったが、
やはりその言葉は忘れることがいまだに出来ていない。

あのときの反省を私はこの22年間活かすことが出来たのだろうか。
恥ずかしい限りである。
仕事をしている一日の約12時間(以上)は、
そのことを全く忘れなくてはいけないような状況がずっと続いてきた。
別にだからといってしっかり仕事をすることは
人間として恥ずべき事ではないけど
(むしろそれを全うするのは素晴らしきことだけど)
もういいやと思う。
「昔の初心を思い出したい」
今はしきりとそういうことを思っている。、


振り返って現代、
ただの経済部記者だった斉藤貴男が「不偏不党」「客観報道」から離れ、
旺盛なルポ活動をしている。
小田実、鶴見俊輔以外は対外的な活動をほとんどしてこなかった
9人の知識人たちが「9条の会」を作り、
その想いは燎原の火のように広がっている。
こんな人も出てくるほど、現代はいよいよ、
時を逸してしまっては、「あとで後悔する」というよな時代になってきた。
いや、突然変わってはいない。
加藤周一の言葉を借りれば、
「なし崩し的に」これからも変わっていくのだろう。
しかし、22年前と比べるとぜんぜん状況が違うというは、
その通りなのだ。(この場では到底展開することが出来ない)

本多勝一の「事実とは何か」は
私の大学時代に大きな影響を与えた。
しかし、すべてを与えたわけではもちろんない。
どんな影響を与えたのかを、
私はこの拙文でやっと書けたような気がしている。

以上。



2005年04月25日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(20)

大学の生協設立運動は分裂していた。

例によって、文化会、大学祭実行委員会、女子学生の会は
生協施設を含めて、作る予定の学生会館を
学生の「自主管理・自主運営」にすべきだと主張していた。
すでに東大安田講堂のそういう闘争が破綻してから10年以上経ったあとなのではあるが、彼らはそういう意味では「保守的」であった。
しかし、自主運営はいいとして、自主管理の中身はといえば、
鍵は学生が持つのだ、というぐらいのイメージしか持っていないのであった。
大きな建物の管理には専門家が必要であるし、
窓ガラスが割れたときはどのように保障するのか
ということ自体も答えられないのではある。
しかし彼らには一定の力があった。

新聞会を含めてわたしたち有志が集まった「作る会」のメンバーは、
大学生協連合会自体の援助を得て、
「現実的な」青写真を用意していた。
しかしわれわれ有志の数は少なく、
勢力は二分していたか、もしくはわれわれのほうが不利であった。

そして圧倒的多数の学生の中では、
「そういう運動には関わりたくない」という雰囲気が蔓延していた。
当時は(今は知らない)学生運動の残滓が残っていて、
親や知り合いから言われていたのだろうか、
「運動」にだけは関わるなよ、といわれて、
そういう親に反発するような学生はほとんどいなかった。
いわゆる「学生運動」は良くも悪くも「輝き」が失せていたのではある。

そういう中で何度か、二つの勢力と当局が学生会館の構想について話し合いを持つ。
わたしたちは、青写真決定まで一年を数えるような状況になっても
何の打開策ももてないでいた。
そこに大きな味方が現れる。
大学教授会が、生協設立に賛意を表し、運動に参加したのである。
大学の先生たちはいわば、生協とは何か、身をもって知っている人たちである。
学生時代、そしてほかの大学にいたころ、その恩恵にあずかっていたのだから。
今思えば、
ここが分岐点だった。

以下次号。



2005年04月24日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(19)

生協(大学生協)とはなんだろうか。
というところからわたしたちは何度も記事にした。
そうでないと、
ほかの大学では当たり前のことが、
ほかの大学を経験していない、当大学の学生にとっては
何も分からないからである。

生協の原則は出資、運営、消費が
同じ大学の学生、ならびに教職員であるということ、
よって、学食でこういうメニューがほしい、
こんな値段で作ってほしい、というようなことも、
各学部の代表委員たちが集まる代表委員会で話し合うことが出来る。
書店や購買部も今よりは充実することが出来るし、
何より本を割引で買える。

また、学生教職員の生活を守ることを目的としているので、
その時々の大学問題(学費値上げ闘争)などにも
心強い団体が現れることを意味しているだろう。
何しろ、生協は財政基盤がしっかりしている。
そして、自治会よりもシビアに方針を作っていくので、
「生協は民主主義の学校である」という期待もあった。

わたしたちは全国の生協の情報をしっかりと伝えていき、
場合によってはほかの大学に行き生協ルポを行った。

問題が二つあった。
生協設立には学生の全体が生協を強く望む必要があった。
各教室には必ず生協の代表委員を持たなくてはならない。
そのためには学生の生協理解と支持が最低必要条件であった。
もうひとつ、どういう生協を作っていくのか、
学生会館の青写真に生協を入れる場合、
その方針を一本化する必要があった。

そこで大きな問題があった。
学生の生協設立運動が分裂していたのである。




2005年04月23日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(18)

「事実とは何か」という本は、
私の大学時代を決定したといってもいいのですが、
今になってこれらの出来事を書くのは、
とどのつまり、私に今人生の転機が来ていて、
昔を振り返って、
自分の出発点を確かめたかったからに他ならない。
のだろうな。と、書いてみてそう思います。

わたし昨日をもって22年間勤めていた職場を辞めました。
22年間の仕事のことについては、
またいつか書くことがあるのかもしれませんが、
とりあえず、
今はフリーで、これからの生活を模索している状態です。

人によったら、
「あなたの考え方はあまりにも青臭い」といわれるかもしれません。
それに対してわたしは
「ほめ言葉として受け取っておきましょう。」と応えるでしょう。
うん、それはほめ言葉です。
「まだ青春だね」と(意識すると)聞こえます、

過去を振り返って何か見つかるものがあるのだろか。
自分の「青臭さ」を再確認しながら、
見つけていきたい。

さて、生協設立運動である。
これは私が大学に入る一年前から始まり、
私が四回生の時に決着が付くという、
まさに大学時代、を代表する、大きな「大学問題」で、
もっとも記事化された事柄であった。

私の大学は国立大学なのに生協がなかった。
学食には業者が入り、書店は存在しなかった。
学生のことを思えば、生協を設立するのが一番理想的に姿ではあった。
そういうときに学生会館設立構想が持ち上がる。
箱が出来る。
このとき青写真に生協を入れるかどうかが決定的であった。




2005年04月19日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(17)

「美人コンクール発言事件」はいまや全学生の知るところとなる。
その後何回か大学祭実行委員会が開かれたが、某サークルは欠席したまま。
それがまた「糾弾」の対象となるであった。

わが大学新聞は沈黙を守っていた。
わたしは女性問題に疎く、
付け焼刃の学習では到底歯が立たないことを感じていた。
安易に記事にすると、われわれも「糾弾」の対象になってしまう。
一回だけ、先輩がエッセイの装いを持って、この「現象」にコメントしてくれた。
たぶんそのことを免罪符にして、
わたしは編集長の仕事を果たした、と思ったのかもしれない。

わたしはこの糾弾会がどのような決着を持ったのかを覚えていない。
(おそらく某サークルは女子学生の会が望む総括文を
嫌々ながら書かされたのだと思う)
ということは、わたしは最後まで「関わらなかった」ということなのだろう。
「それは賢明な判断だった」と誰かは言うかもしれない。
しかし、今だから言うが、あれは間違っていた。

新聞会は何の立場に立って書くのだろうか。
自分たちの思想を広げるためか。違う。(広げる思想もないが)
「当局」(大学経営者=文部省)か。もちろん違う。
自治会である以上、大学の全学生のために、
学生の立場に立った新聞つくりをしていかなければならなかった。
今起こっている糾弾会は本当はどういうことなのか、
学生たちは関心を持っていただろうし、
新聞会はそのことに応える義務があっただろう。

編集部に、編集長たる私に「勇気」と「覚悟」が足りなかった。

理論的な未熟はあったかもしれないが、
「足で書け」ば、
少なくとも事実関係で後ろ指差されることはなかっただろう、
と今になれば思う。
そうはいっても、あらゆる記事には「主張」(事実を選択するものさし)が
あるのだから、そこを突かれたら、後は理論対決になる。

あれは「糾弾」に値する発言ではなかった、
と、誠実にいっただろう。
それはおそらく全学生の支持するところだっただろうと思う。
理論の泥沼に入ることを避けて、世論対決にもっていくという戦略をとれば、
何とかなったかもしれない。

新聞会の「故意の無作為」に
あのときの某サークルに対し、
あのときの全学生に対し、
いまさらながら「ごめんなさい」とわたしは謝るだろう。

時機を逸せず、勇気をもって判断を下す、
それは本当に難しい。
そのとき大事なのは、やはり
われわれはどういう立場に立つか、ということなのだろう。
もうひとつそのいい例がある。
生協設立運動である。

以下次号。
(さすがになんか「総括文書」を書いたような疲れが(^^;)
次号更新は23日にさせてください。)



2005年04月18日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(16)

昨日の取材は今日の記事になっていました。
やはり予想とおりの記事になっていました。

それはともかく、

わたしはあの時やはり3回生だったみたいです。
しかも新聞会の編集長になっていました。
優秀だったからではなくて、
三回生で残っていたのが私とあと数えるくらいだったから(^^;)
編集長としてこの事態に判断を下さなくてはならなかったが、
わたしは迷っていました。

よって相談役になっていた、四回生の先輩に聞くと、
彼もことは慎重に対処すべきだということでした。
問題は三つ。
体育系サークルの「美人コンクール」発言は、
女性を外見だけで評価し、
それを商品的価値にまで定着させてきた現代の女性差別構造に
「つながる発言」として「感心できたものではない。」こと。
しかしながら、
大学祭を盛り上げようという善意から発言されたことで、
「罵声を浴びるほどのことではない」ということ。
しかしながら、新聞会として下手に反対などすると、
今まで敵対関係にある大学祭実行委員会や女子学生の会から、
「いちゃもん」をつけられる可能性が高いこと。

わたしの態度は結局「事態を見守ろう」ということでした。

しかし、事態は非常に大きくなっていきました。
次の大学祭実行委員会は
体育系サークルの「糾弾会」に性格が一変し、
きちんとした「文書」で「総括文」を提出せよ、となり
体育系サークルは多勢に無勢
前回の発言は撤回したにもかかわらず、許してもらえず、
何も言えず帰っていったのである。

次の日からは、ほぼ連日
女子学生の会からのアジビラ、アジ演説、で
この某サークルはずーと「糾弾」されていったのです。

わたしはこの事態を記事に出来ませんでした。
はたしてそれでよかったのだろうか。
以下次号。



2005年04月17日(日)
閑話休題「本物の記者の取材にあう」

今日は地元記者の取材にたまたま出遭ったのでそのことを書く。

とはいっても地元の商店街の活性化企画、朝市でぼんやりしていたら、インタビューを受けただけなのだが。

記者「○○新聞のものですが、ちょっと取材させてもらっていいですか。」
わたし「いいですよ」(わざとそっけなく応える)
記者はまず住所(町名地名まで聞いてきた)名前のフルネーム、年齢、職業を聞く。(私はさすがプロだなあ、と感心する。確かに新聞の声としてはこれは必要なのだが、インタビューのあとではそのあたりに答えるのは尻込みしてしまうものなのである。)
記者「今回は何度目ですか。」
わたし「初めてです。」
記者「なぜここに来ようと思ったのですか。」
わたし「盛況だという評判を聞いて。FMラジオでしていたものですから。」
記者「来てみてどうでした。」
わたし「人多いですね。」
(もっと突っ込んだ質問をしろ、と心の中で思う。)
記者「この商店街は久しぶりに来られたんですか。」
わたし「(確かにめったに来ないので)そうです。」
記者「久しぶりの商店街歩いてみてどうでしたか。」
わたし「まだ充分歩いていないので分かりません。」
記者「商店街を活性化させようというこういう催しは続いてほしいですか。」
わたし「(そりゃあ商店街が寂れるのを賛成するはずがないでしょうが)もちろんです。毎月してほしいですね。」
記者「ありがとうございました。」

この間約五分もかからなかっただろうか。
明らかな誘導尋問である。
アンケートでもないんだけから、暇そうにしている男を捕まえて、もっと聞くことがあっただろうに。商店街での思い出とか引き出せば、もっといいインタビューになったはずだ。はじめからほしい答えを引き出すため、機械的にしたインタビューである。おそらく取材などしなくてもあらかじめ彼の頭には記事が出来ていたのだろう。そしてそれは商工会議所を喜ばすための記事である。庶民のための記事ではない。

この新聞社はわたしが就職活動のときに「振られた」ところである。しかしその「エリート」がこういう取材をするのである。わたしはげんなりした。




2005年04月16日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(15)

今女子学生の会がどのようなことをいったのかを思い出すことが出来ない。
おそらく当時の私は女性差別のことについて、
ほとんど知識を持ち合わせていなかったし、
女子学生の会自体に対する反発もあったのだろう、
彼女のいうことが心の中を素通りしていった。
ただ最後のほうになって、
彼女が泣き出したのだけはびっくりしたのを覚えている。
自らの発言に感極まり、泣くとは。

私は、理屈でなく、感情が会議を支配しだしたことに気がついた。

「君たち○○サークルの発言は明白な差別発言である。
きちんとした反省の言葉がない以上、この会議はこれ以上続けることが出来ない。
これ以上の議題は次回に持ち越す。」
P議長はそのように会議を打ち切った。
私はその間、ずっと貝のように押し黙っていた。
私は「たかだか」美人コンテストをしたいといっただけで、
ここまで罵声を浴びるこの体育会系のサークルに同情をしていた。
はたして私は援護の発言をしなくて良かったのだろうか。
ただ、大学祭の教室が決まっていなかった。
私は次の会議にも出席しなくてはならないことを知っていた。

以下次号。



2005年04月15日(金)
本多勝一「事実とは何か」について(14)

ついに一日休んでしまいました。
そもそもこのコーナーは新しいネタを仕入れるまでの「時間稼ぎ」なので、
毎日30分書いたら、途中でも何でも書くのをやめようと思っていたのですが、
やはり悲しい性、ひと通りのまとまりにならないと止めれないですね。
なんやかんや言っても、誤字脱字多くても(^^;)私筆不精のため、
書くのに時間かかるんです。
でもこのテーマ、今勢いに任せて書かないと、書けないような気がするので、
がんばって書きます。

構想としては、
この「美人コンクール糾弾事件」のあとは
閑話休題をして、
「生協設立運動」を語って終わろうかと思っています。
もちろんすべて「事実とは何か」に関連した話です。

と、いうわけで

事件は、
祭り全体を象徴する企画について、
何かないか、と実行委員会の議長が言ったときに起こった。

ところで、この議長P氏は、
どんぶり太って外見はどこかの土建屋のおっさんみたいではあるが、
弁は立つ。5回生だとか、7回生だとかのうわさ。
あるときは実行委員会の議長、ある時は三里塚の集会に行っていたといううわさもある、いわば、大学の主(ぬし)である。

その議長の提案に対して、
体育会系のどこかのスポーツサークルの男が、
全く軽い調子で、
「この大学祭はなんか暗いんだよね。もっと一般受けする企画が必要なんではないの。
たとえば美人コンクールなんていいと思うけど。
ミス早稲だとかよく話題になるじゃない。あれと同じように、
優勝者は話題になるんじゃないかな。」
と提案した。

最初に発言したのは議長P氏だったと思う。
「つまり君は女性の外見を大学祭の宣伝媒体にしようというんだね。」
体育会系の男は真面目な提案をまぜっかえされたと思ったのか、
むきになって反論する。
「難しいことは分かんないけど、そういう風に暗く考えるから池なんじゃないのかな。」
そのとき女性が発言を始めた。
女子学生の会からの発言だった。
以下次号。




2005年04月13日(水)
本多勝一「事実とは何か」について(13)

昨日は、どういう立場に立つのか「選択」するのは、
「決意」であると書いた。
少しかっこをつけすぎていたと一日経って反省。
決意というほど決意していなかったと思う。
「感性」という言い方もあったかもしれない。
要はこういう選択の場合、
しばしば理屈では決めれないということを言いたかったのだ。
最も適切な言い方をすると(分かりにくいが)
その人個人の「倫理観」によって、選択するのである。

どういう立場に立つのか、
非常に難しい例がある。
というか、人生ではそういうことのほうが多いのでは、
とその後20年以上たってみて思う。

そういう例の一つ
「美人コンクール糾弾事件」について
書こうと思う。

私は二回生だったのか、三回生だったのか、
どうも思い出せない。
ただいえるのは、事件が起きたとき、
私はその場に居合わせたこと、
まだ相談できる先輩がいたこと、である。

時は秋のは入り口、
教養学部○○番教室において、
例年のごとく、大学祭実行委員会が開かれていた。
各サークルが大学祭での企画を持ち寄り、
使える教室などを調整したり、
補助が必要なサークルはその申請をしたり、
大学祭全体を象徴する企画を立てたりする会議なのである。

私たち新聞会は過去において大学祭実行委員会やその他の組織に
学外に追い出された経緯があるので、
出来ることなら参加したくない会議なのではあるが、
毎年、大学祭には記念講演をしているので大きな教室はぜひ確保しなければならない。
お金はあるから補助の申請はしない、また立場上できない。
まあとにかくしぶしぶ出て、早く終わればいいなという会議なのではあった。

事件は、
祭り全体を象徴する企画について、
何かないか、と実行委員会の議長が言ったときに起こった。

以下次号。



2005年04月12日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(12)

私は初めての記事を書いた。
私の大学では1960年の5月から6月にかけて、
学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、
説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。
つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。

私は何度も書き直しを命じられたはずだ。
しかしすでにインタビューは終わっている。
新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、
文章的な誤りは直しが何回も出たが、
文化部のOKは出た。
しかし、編集会議でのOKが必要である。

編集長や次期編集長はやはり根本的なところを突いてきた。
「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない。」
書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。
しかし、それを地の文で説明しようとすると、
半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、
私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、
結局、強行採決をした政府に対し、
「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、
安保反対のデモの波が広がった、
というような「歴史発掘」になったのである。

私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。
しかし「本質」はそれだけではなかったろう、
安保自体が持つ危険性に対して、
戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、
それは歴史的な瞬間だったのではある。

事実でもって本質を描く、それは
取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、
描き得ないものなのである。
私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。

この場合、「支配する側」に立つのか、
「支配される側」に立つのか、
それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。
もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。
そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、
新入生には「難しい例」ではあったが、
自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、
後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。
しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。
決意、によってなされるのである。

以下次号。



2005年04月11日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(11)

「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」
などというような口答えはしなかった。
私は素直な新入生だった。

私は県庁に赴いた。
そのころ、○○県の県庁はまだ全体が木造の平屋、ぼろくて広い建物
反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。
一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、
この県はなぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。、
歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。

複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、
うけつけでB氏を呼んでもらったのであるが、
電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、
今忙しいので後で連絡するといって、
私たちの連絡先を聞いてあってくれなかった。
(今から考えると当然といえば当然であろう。)
私はすごすごと戻っていったのであるが、
やがて会ってもいいという連絡が来る。
もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと
聞いたのかかも知れない。

20年前の学生は当然ながら、スーツを着た中年のおじさんであった。
私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。
中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、
今ではほとんど覚えていない。
ただ、なぜ60年安保闘争を始めたのかと聞いたとき、
次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、
生涯忘れることの出来ないものでもあった。
「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。
けれどもあの国会の強行採決を知って、
このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。
ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、
デモもやっていったんだと思う。」
突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。

それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。
そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)
失われつつある言葉だったろう。
私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。

全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、
そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、
聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。
私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問も
してみるべきだったかもしれない。
「あの当時のことを思い出してみて、
現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」
過去の歴史から現代を照射する、
そういう試みも面白かったかもしれない。

しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。
次は私の「初めての記事」である。

以下次号。



2005年04月10日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(10)

最初の取材だけはOさんがついて来てくれた。

60年安保のころのことを知っている人でまだ大学に残っている人は限られている。私たちは経済学部の名物教授、A氏のところに赴いた。

その取材の前に私は60年安保のことを少しは学習して行ったのであろうか。今思い出して、どうしても何か本を読んだという記憶がない。高校生のときに松本清張のノンフィクションを読んだ記憶があった。その本の中では、安保条約を強行採決する国会議事録が採録してあった。それを読むと採決の瞬間は議場が騒然として、議事録にも載っていないのであった。果たしてこれで採決といえるのか、高校生の私は日本の最高議決機関である国会というものに初めて不信感を覚えたのではあった。しかしそれ以上のことを私は知らない。

A氏はマルクス経済学の雄であった。
A氏は、珍しくも60年安保を取材しに来た大学新聞の記者に対して、今から思うとアポなしの突撃取材だったのにもかかわらず、非常に丁寧に応じてくれた。おそらく、当時どれだけ学習会がどのくらいの頻度で開かれたか、デモ行進がどれくらい行われたか、特に強行採決のあとでは、学生と労働者が共同でデモを行って画期的であった、というようなことを話されたのだと思う。安保自体の危険性の説明もあったかもしれないが、私の頭を素通りしていっただろう。

私は安保反対のデモ行進は国会周辺だけで行われていたと思っていた。こんな田舎(失礼)でも、そんな動きがあり、学生と大人が共同してそういうことをしていたということにまず驚いた。当時はまだ、浅間山荘事件や、内ゲバの記憶が生々しいときであった。学生運動というのは「怖く、世間から孤立している」というイメージが一般的であった。「当時の安保闘争は、本当に国民的な大闘争だった。」とA氏は言った。

Oさんは、当時学生だった人で今もこの町に住んでいる人はいないか、教授に聞いた。今から思うと最も適切な人にその質問をしたのだろうと思う。A氏は明らかに当時の反対闘争にかかわっていた人なので、反対闘争の学生の中心人物の動向をちゃんと把握していた。「今県庁に勤めているB君は当時の学生自治会の委員長だった人で、当時のことを話せると思うよ。」

私たちは教授に感謝して、研究室を離れた。O先輩は次は私だけで取材を命じた。
以下次号。



2005年04月09日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(9)

初めての取材、そして記事を書いたときのことを書こうと思う。

私は新聞会では最初文化部に所属した。
文化部の企画会議でのこと。大学から五分ほど離れたところにあるアパートの部室での会議である。先輩は二人。新入生は私とあともう一人ほどいたか。

先輩Оさん(♂)はは国文学二回生で、文学青年で、文章を書きたいということだけで、新聞会に入ってきていた。「透徹」という言葉があることをこの先輩から初めて教わった(後に大学講師に)。先輩Sさん(♀)は国史三回生。非常にかわいらしい人で、この女性の存在がなかったら、私がこの妖しげな部屋に入っていったかどうか心許無い。「○○くぅん」と泣きそうな感じで人の名前をよぶのが特徴的であった。もっとも最初の新歓コンパの中で、すでに彼氏がいることが判明するのではあったが。(後にその人と結婚)

S「くまくぅん、何かやりたい企画ある?」
私「別にないです。」
O「じゃあ、この前から始まった新企画「歴史発掘」をすればいい。」
私「……」
S「それがいいわ。くまくぅん、歴史好きだといっていたし。」
O「次はわが大学の60年安保をするのでよろしく。」
私「はあ。60年安保で何を取材するんですか。」
O「60年安保で、うちの大学ではどういう動きがあったか、当時の関係者から話を聞くんだよ。」
私「……」
O「大丈夫。足で書けば何とかなるって。」

まあ、だいたい企画会議というのはこんな風に強権的に決まっていくものなのであった。
しかし、大学入りたての私にいくら文化的な記事とはいえ、「60年安保」とは。

「足で書く」とはジャーナリズム用語である。今でもそうであるが、記者クラブで発表された情報をそのまま記事にする記者が多い。それに対して、真のジャーナリストは、自ら足を運び、たくさん事実を掴んで、その中からどれだけ本質に関係することを選び取って記事にするのかが「よい記事」の基準なのだと、私は一応「学習会」で学んでいたのではあった。記事は机の上で生まれるのではない。現場をどれだけ歩くか、にかかっている。

しかし、はたして60年安保とは何か、その本質も知らないような男に、「よい記事」は書けるのであろうか。

以下次号。



2005年04月08日(金)
本多勝一「事実とは何か」について(8)

大学の授業の内容など、今では覚えているはずもないが、いくつかは鮮明に覚えている言葉があるものだ。

教養学部、日本史の授業だったと思う。
「私は漫画はあまり読まないが、白土三平の「カムイ伝」だけは面白いと思う。この漫画は江戸時代初期の身分の構造が非常によく描かれている。物事というのは上から見るよりも下から見たほうが、その全体像が良く分かるものだ。武士の側から見た歴史は型にはまって、整然としているように見えるけど、これを支配されている側から見ると、その悲惨さやダイナミックな動きが良くつかめる。白土三平は、それを百姓から見るのではなく、それよりも更に差別されている「えた・非人」から見たところに独創性があった。
支配されている側から物事を見ると、その世界の本質がつかめる、ということはジャーナリストの本多勝一も言っている。」

ここの話には本多勝一だけでなく、私の大好きな白土三平の「カムイ伝」まで出てくる。だからいまだにこの話を覚えているのである。当時大学生になって初めてカムイ伝に出会った。あの二十一巻の大長編を何度読んだか覚えていない。

非人の身分から実力による飛躍を求めて忍者になり、そこでも絶望して抜け人になったカムイと、百姓の身分からよりよき生活を求めて苦戦を強いられる庄助と、武士同士の権力争いから剣の道を学び、やがて庄助たちに共感して城の城主までなるが、江戸幕府という大きな政府に敗北してしまう竜の進と、商売の才覚によって身分を越えた力をもとうとする夢屋と、その他女性、子供、動物さまざまな人間たちが入り乱れる大河ドラマである。
大学の講師がこの漫画の魅力をアカデミズムの面から証明してくれたような気がして大変嬉しかった覚えがある。そして本多勝一の説も歴史家が評価してくれていた、と嬉しかった。

そうなのだ。だから「支配される側に立つ」ということは、「本質を掴む」ということなのだ。

しかし「現場」では、そうそう理屈通りにはいかない。

以下次号。



2005年04月07日(木)
本多勝一「事実とは何か」について(7)

「真実」という言葉で思い出すもの。
いまや、だいたいのあらすじも、作者の名前すら覚えていないのだが、その小説の冒頭に掲げられたこの詩だけは、いつでも諳んじる事が出来る。

「巡礼」北原白秋作
真実一路の道なれど
真実
鈴をふり思い出す

小説「真実一路」である。

私の人生において、何度となくこの詩がふと沸いて出てきた。
あるときは共感を持って。あるときは疑問を持って。
共感は「鈴をふり思い出す」点で。
疑問は「巡礼」がなぜ「真実一路の道」なのか。
この場合の巡礼は言うまでもなく、四国48寺を巡り、自分の足で歩きとおしているお遍路さんを言うのであろう。(車で寺参りをする観光客のことではない)この巡礼の場合、たとえ毎日歩きとおしても、たいていは半年から一年はかかるという。彼らの道の何が真実一路なのか、実は私はずっと分からないでいた。小説の中身も、巡礼とはまるで関係のない、悩み通しの「成長物語」であり、私の好きな「次郎物語」や「しろばんば」みたいな成長小説のすっきりしたところがなく、私は好きになれなかった。

ただいえるのはこの場合の「真実」は「事実」でもなければ、「真理」でもない。あえて言うとすれば、「誠実」ということであろうか。

「真実」という言葉は「情緒に訴えるもの」というのは、確かにいえていると思う。論文などでは使うべきではないし、ルポルタージュでは確かに使うべき言葉ではない。肝に銘じておこう。



2005年04月06日(水)
本多勝一「事実とは何か」について(6)

学習会のレポートの二編目のことを書いておきたいと思う。

「事実と『真実』と心理と本質」
真実とは何か。
ベトナム戦争での例。取材中に記者が殺された。生き残った記者は解放戦線(北ベトナム)がやったのだという。ハノイ放送は「サイゴン政府軍(南ベトナム)がやった」のだという。こういうとき「真実はどちらか」という表現がとられることが多い。
真実とは「正確な事実」に過ぎないのではないか。
以下、いろんな辞典を調べてみて、真実は他国の言葉には存在しない。真理ならある。哲学辞典によると真理はそれぞれの立場により違う。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……。
そうか!「真実」は必ず「事実」または「真理」に分解してしまうのだ。
ただ、どういうときに真実を使うのだろうか。
「真実」とは、事実または真理を、より情緒的に訴えるときに有効な単語なのである。
ベトナムの事件はある記者が「正確な事実」を調べ上げた結果、解放戦線が記者を誤って(米兵と思って)攻撃したと分かったとする。この事実を、記者が「ベトコンの無差別攻撃」と書いた場合、この記者は「事実」を書いたとしても、大きな過ちを犯していることになる。一方で米軍が意図的な無差別攻撃を連日限りなく続けている事実との比重から考えても誤っているが、それ以上に、ベトナムの国土を米軍が侵略しているという「本質」の上に立った記事ではないから。
真実という日本語はルポから避けたほうが良い。
ルポに関しては次のように言うことができます。
「事実によって本質を描く。」

この文章は1969年のものですが、「ベトナム」を「イラク」に置き換えたら、あたかも現在のことを言っているような気がします。
日本のジャーナリストは、日本の青年やジャーナリストがイラクで殺されたとき、果たして「事実によって本質を描いた」でしょうか。


私は先に大学に「真実みたいなもの」を求めて入ってきたといいました。されは「真理」と言い換えたほうがよかっのでしょう。まっこと、まだまだ私も修行が足りない(^^;)

もっとも、本多勝一はベトナム戦争という究極の現場に立って自分の立場を不動のものとしました。しかし、しがない大学生の新聞つくりはいろいろと悩むことになります。



2005年04月05日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(5)

昨日は興が入ってずいぶん長い文章を書いてしまった。この文章の目的の第一は、映画評書評が溜まるまでの「時間稼ぎ」である。第二はあくまで「事実とは何か」をめぐっての私の感想である。読者にも、私自身にもそのことを再確認しておきたいと思う。

「客観的事実などは意味がない」のは間違いなくそうだと思うのだが、事実そのものの検証は記者の最低限の仕事ではある。私は記者ではないし、この文章はルポでもないのではあるが、だんだんと私が書いた文章にウソがないか、気になりだした。私自身は覚えていることを正直に書いているつもりなのではあるが、たとえば当時文化会サークル棟に「白ヘル」がいたかどうかはっきり覚えていないし、ましてやあの建物の中に(怖くて)一度しか入ったことがないので、この事柄は非常にあいまいであることを断らなくてはいけない。本当は、今あの大学に戻って関係者の話を聞いて「裏を取る」のが記者としての勤めだと思うのではあるが、もちろんそんなことはできはし

結局、この文章は回想録の域を出ないものなのだ。えっ、そんなことは分かっていた?
私は「事実」をめぐる話なのでできるだけ正確に書きたかったのではあるが、仕方ない。私の大学名は伏せておきたいと思いますし、一部団体名が出てきますが、これら団体名はフィクションであると一応思っておいてください。

私の大学生活四年間は「新聞」にどっぷり使った四年間でした。私がこの大学に入学したのは大学移転のすぐあとで、周りは田んぼだらけでした。私の交通手段は最初の一年間は自転車。その後はカブでした。カブで10分くらい走らせた更に田舎に私の下宿(下宿代一万円)はあり、その下宿と大学構内と新聞会部室と活版印刷所。それと時々本屋と喫茶店。それの往復が私の四年間でした。

しかし私はその中で、何かを選択し、何かを表現し、そして失敗していったのです。ジャーナリストとして、そして社会に生きるものとして大切なことは、その閉じられた世界でも充分に学んだはずです。そのことをもしかしたら振り返ることができるかもしれない。

さて、この調子だとこの本についての話題はいつ終わるか分からない様相を呈してきました。




2005年04月04日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(4)

なぜ新聞会の部室が大学の構外にあったのでしょうか。それこそ、世の中の「対立」のひとつの例がそこにありました。

私は本多勝一の言葉に感動したのですが、大学の中では「支配される側に立つ」というような抽象的な言葉では片が付かない様な事が山ほどありました。

私はどういう立場に立てばいいのか。
そのことが私の前に立ちはだかっていました。

その前に新聞会とは自治組織だったといいました。このあたりの事情を説明するのは大変なのですが、これからの展開に必要みたいなので説明します。そのころ私の大学には教養学部などの学部自治会のほかに、五大自治会というものがありました。文化会と体育会。(役割は分かりますね。文科系サークル、体育系サークルを統括する役割です。)そして我らが新聞会。そして、大学祭実行委員会と女子学生の会です。新聞会は大学新聞を発行します。大学祭実行委員会は、年一回の大学祭を統括し、補助金を与えます。女子学生の会は……うーむ、どうしてこれが全学生に責任を持つ自治組織になったのか私にはわかりません。今で言うジェンダーをテーマにやっていたとは思うのですが……。これらの運営はすべて学生が行います。これは学生が当局から勝ち取った成果なのでしょう。それはそれでいいのです。自治組織という錦の御旗があるとどういうことができるか。新入生が入学する前に、自治会の会費を請求する手紙を送ることができるのです。つまりこれらの自治会は新入生たちが何やなんやら分からんうちに金をふんだくり、財政基盤を持った団体なのです。よって新聞会は新聞を作って「売りつけ」なくても良かったのです。新聞ができたら教養学部の前で配りまくっていました。年間100万近くはお金が入ってきていたような気がします。年11回ほど発行し、アパートの部屋代を払うとそれは飛んでいく金ではありました。不思議なことに誰も、金を横領しようなどとは考えなかったし、疑われたこともなかったのです。それは他団体に対しても同じでした。そういう意味ではあのころどの学生も清らかでした。もちろん私たちは新聞上で、会計報告はしましたし、年間方針も出しました。しかし非常にいい加減だったのは、私がいた四年間のうち、一度も外部監査は導入しませんでしたし、やろうやろうといいながら、大会を開くことができませんでした。あれで果たして自治組織だといえたのかどうかは今でも大きな疑問です。そのあたりの事情は他の五大自治会も同じでした。

そんな「自治組織」だったのです。学生らしい自主性と潔癖さ、そしていい加減なところが混じった組織でした。

新聞会は当初文化サークル棟の中に部室があったそうです。しかし、先輩の言うにはそこを暴力でもって追われたとのことでした。当時文化会の中には大学祭実行委員会の部室もあり、女子学生の会の部屋もあり、彼らが白ヘルたちの影響を受けていく中で、新聞会は独自の財政基盤もあることだし、「イデオロギー的に対立」していたのです。そういう意味では新聞会が追われるのは必然だったのでしょう。構外のアパートに部室を構えたのはそういうことです。

今から考えるとそういう「対立」の中に自分を置くというのは非常にしんどいことだったはずです。そういう事情がはっきり分からなくても、空気を察して、だんだんと敬遠していく手もあったのではないか。今になって思うとそんなことも思うのですが、どうも当時はそういうことはぜんぜん考えなかったみたいです。

これを書いて初めて分かったのですが、
私はいろいろ悩みながら新聞会に残ることをその一年後二年後に決めたと思っていたのですが、どうやら

最初の日にすでに「選択」していたみたいです

本多勝一の言う「支配される側に立つ」ということが「真実」なのかどうか私には今も分かりません。明日以降検証してみたいと思います。ただ、私は明らかに1979年4月のこの日、「ある立場」を選んだのです。





2005年04月03日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(3)

新聞会の部室は大学の中にはありませんでした。(もう20年以上前の話です。今はどうなっているのかぜんぜん知りません。そのことをまず断っておきます。)
大学から五分くらい歩いたところの普通のアパートの一室に部室はあったのです。私は「新歓説明会」のあと、数人の新入生とともにそこに連れて行かれました。あまり違和感を覚えなかったはずです。それまでにすでに「大学とは変なところだ」というカルチャーショックを充分受けていたせいかもしれません。入るとそこは「部室」そのものでした。一部屋六畳の空間の中、左脇には本棚があり、いろんな本とともに、「78年総括」やら、「文化部」やら背表紙のあるファイルがはみ出しながら雑然と並べてあり、長机をはさんで、先輩の編集部員たち6人ほどがニコニコしながら座っていた。そいう雰囲気の中でおもむろに「定例の学習会」が始まり、その日はジャーナリズム論のバイブルというべき(私はもちろん知らなかった)本多勝一の本を読んでいたというわけです。

「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」

その意見に私は「反論する余地」を持ちませんでした。彼の文章のどこに反論できるというのでしょう。そうやって見ると初めて、そのころ起こっていた中越紛争、あるいは世の中の対立の「謎解き」ができるような気がしたのです。私は大学に「何か真実みたいなもの」を求めて入っていったのだろうと思います。研究室は「国史」にはいるつもりでした。歴史が好きでしたし、歴史的事実を探し出すことで真実に近づける、そんな期待を抱いていたのかもしれません。しかし、私はこの学習会でそういうものは幻想であることを突きつけられたのです。

ここにあるのは「偏見のすすめ」です。でもそういう風に世界を見ることで初めて私は「世界」を見る目を「開いた」ような気がしていました。「客観的事実というのはないんだ」。「支配される側に立つ」とはどういうことなのか。私は「ワクワク」していました。



2005年04月02日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(2)

昨日の続きです。

この本はジャーナリスト論の短文を集めたものである。私が最初にせっしたのは未来社刊の単行本であった。しかし、学習会のレポートに出てきたのはそのうちの二編だったと思う。この本と同名の「事実とは何か」(「読書の友」1968)と「事実と『真実』と心理と本質」(日本機関紙協会『機関紙と宣伝』1969)である。よって主にこの二編の内容をまず紹介したいと思う。

「事実とは何か」
新聞社に就職して教えられたことに「報道に主観を入れるな」「客観的事実だけを報道せよ」がある。そのことは「その通り」ではあるが、本多勝一はベトナム戦争の取材で、そのことに違和感を抱くようになる。「客観的事実などというものは仮にあったとしても無意味な存在である。」「主観的事実こそ本当の事実である」。
つまり戦場には、無限の事実がある。砲弾の飛ぶ様子、兵士の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木の土の色、土の粒子の大きさや層の様子、昆虫がいればその形態や生態、……私たちはこの中から選択をしなければならない。選択をすればすでに客観性は失われてしまいます。
そして、そうした主観的選択はより大きな主観を出すために、狭い主観を越えてなされるべきです。米兵が何か「良いこと」をしたとする。それは書いてもいい。それは巨大な悪の中の小善に過ぎないこと。小善のばからしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは無意味な事実」を並べることです。戦場で自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方よりも、嘆き叫ぶ民衆の声を記録するほうが意味ある事実の選択だと思う。
そしてその主観的事実を選ぶ目を支えるものは、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観である。
「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」


この最後の言葉にジャーナリスト論の「ジ」の字もかじったこのない私は痺れましたね。以下次号。



2005年04月01日(金)
本多勝一「事実とは何か」について(1)

ついに私のレビューのストックが切れてしまった。昨年の九月半ばにPCがクラッシュして11月より再開して五ヶ月。いやはやよく持ったと思う。読者の皆さんはご承知だと思うが、この日記毎日更新しているからといって、当然ながら私が毎日本を一冊読んでいるとか、毎日映画を見ているとしているわけではない。だいたい週映画2〜3本、本二冊くらいのペースであった。つい最近映画を見る本数、読了数とも一挙に少なくなったこともあり、しばらくは毎日アップができないような状態である。

ただ、最近になり、この日記に対して何人か読者を獲得したようなところもあって、しばらく「時間稼ぎのため」昔私が読んだ本や、映画について、取り留めもなく語っていこうと思う。とりとめのない文章ではあるが、普通の映画評や書評では書ききれないこもも、こういう形式なら書けるのではないかと期待している。

(なかなか本題に入りませんね。(^^;)それと、女性の日記にはその日その日の「気持ち」を赤裸々に書いているものが多いのだが、男性の日記にはそういうのは少ない。なぜかというと男は「テレ屋」が多いのである。少なくとも私はそうだ。自分を出したいのではあるが、照れくさくて出せない。だから評論という形で実は自分の気持ちを出しているのである。こういう形なら、もっと自分の気持ちをストレートに出すかもしれない。ご期待を。

ということでやっと本題です

本多勝一著「事実とは何か」
今手元にあるのは朝日文庫ではあるが、私が初めてこの本を手にしたのは、1979年4月某大学新聞会の部室の中でした。新入生として新聞会という「サークル」(と当時は思っていた。実際は自治組織)に入っての最初の学習会の本がこれだったのです。この本の内容が私の運命の約三分の一を決定付けたような気がしています。ここにはジャーナリストとしては「当然」にことが書かれてあるのですが、なぜかいまだに日本全体の「常識」にはなっていません。……というようなことを書き出すとものすごく長くなるので、今日はこの辺で。(^^;)また明日。