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2005年03月31日(木)
DVD「24」第3シーズンは70点

第3シーズンは細菌兵器のテロをめぐるCTU(テロ対策室)とテロ組織と、大統領たちとの24時間の物語。やっと見終えることができました。

実にアメリカらしい作品。決してヨーロッパやましてや日本では作りえない作品。なぜなら、ここにはアメリカの世界でも特異な家族観、正義観、仕事観が現れているからである。

80年代から、アメリカ映画に、何かにせよ家族を大切にする場面が増えてくる。詳しくはアメリカ社会学を研究している学者に聞くしかないが、アメリカのグローバリゼーション戦略が始まったころに機を同一してるような気がする。つまり個人がグローバリズムの中で、会社からも社会からもどんどん切り離されていく中で、唯一アメリカ人がアイデンテティを求められるところが「家族」になったのである。よって、家族は仕事よりも優先される。例外はあるが、そのとき主人公には必ず悲劇が訪れる。しかし日本ではまだ事情が違う。「ぽっぽや」を見よ。彼の死は幸せだったのではないか。ところでアメリカでは、その「家族」と拮抗関係にあるのが「正義」である。第3シーズンでは、アメリカ人は家族を選ぶのか、正義を選ぶのか、鋭く問われる作品になった。詳しく書くとネタバレになるので書けないが、第3シーズン最後にジャックが初めて見せるむせび泣きは、いろんな解釈ができるだろうと思う。思うにこのシリーズはこれで最後にすべきであった。次のシリーズが始まっているらしいが、蛇足でないことを祈るしかない。



2005年03月30日(水)
「理由」は80点

まず最初に宮部みゆきの原作を読んだときの私の感想です。(02年記す)

宮部みゆきは常に実験精神に溢れた作品を発表する。今回はルポルタージュ文学の体裁を借りて、高級マンション一家4人殺人事件の全貌を描こうとしている。いわば『証言』だけでひとつの物語を綴ろうというのである。その意図は成功したのだろうか。

ここには約7つの家族が映し出される。全て犯罪や殺人事件とは縁の無さそうな『普通』の家族であるが、全てそれでも何らかの鬱積、すれ違い、将来への危険な種を抱え込んだ家族達である。それらの家族の中にいる人々が少しずつ事件に絡んでくる。少し考えればあたりまえなのだが、『事件』にはありとあらゆる人々がいろいろな形で絡んでいる。被害者と容疑者だけではなく、事件の目撃者、間接的な容疑者、間接的な被害者、それらの人の家族、事件は完結し!もそれらの人々はずっとそのあとも生きていく。事件の前に長い歴史があり、事件の後こそ家族は闘いを始める。或いは何も変わらない。そういう小説は今まであまりなかった。その意味で宮部みゆきの実験は意味が有るだろう。

ただ『占有屋』の仕組みの説明は少しくどすぎたきらいがあるし、そのほかにも重複する場面があったりして分かりにくい。あと二割がたスリムにすればよかったかもしれない。

以上が原作の感想です。次に映画の感想。

「理由」大林宣彦監督
荒川一家四人殺人事件。その事件の関係者の証言と回想を連ね、紡ぐことによって事件の内容を追っていく。

宮部みゆきの原作を読んだときは、彼女には珍しく失敗作だと思っていた。ルポルタージュの体裁を持っていて、証言だけで長編小説を作っていくと言う「仕掛け」(彼女の長編小説は必ず仕掛けがある。そこが彼女のエンターテイメント性を保障している。)はいいのだが、「占有屋」の説明で、くどくなりすぎて肝心の犯人像に行き着く前で疲れてしまうのである。

私は勘違いしていた。この作品は、現代の象徴とも言える犯人を描くことが主眼なのではなかったのだ。映画を見てはっきり分かった。どうしてあんなにたくさんの人物を登場させる必要があったのか。単に犯人を一時かくまっただけの宿屋のことが主要登場人物になるのはなぜか。容疑者の石田さんの親の歴史まで「ルポ」されるのはなぜか。そのことが分からなかったのは、私の原作の「読み」が足りなかったのかもしれない。しかしそれ以上に映画の出来が良かったのだ。原作の冗長さをうまいこと切り捨て、100人以上にも及ぶ登場人物をほぼ原作通りに登場させてなお、作品は分散しないで見事にまとまっているように私には思えた。なぜか。

この映画の主人公はたびたび登場するマンションの管理者岸部一徳でもなければ、犯人や容疑者でもない。冒頭荒川地域の歴史を写真でつづっているが、主人公はだんだん都市化していく中でついに出来上がったツインタワーみたいな地上高くそびえるマンションという「隣が誰が住んでいるか、分からない地域」であり、何度も何度も登場する宿屋や容疑者の住んでいる「これから失われる下町」なのだ。そしてその中での「人のつながり」というあいまいな何かなのである。そういう意味で主人公はすべて普通の「人たち」になるのかもしれない。ほとんどの役者がスッピンで登場しているのも「客寄せ」のためではない。

普通の人たちを緊張感をもって描くというのは山田洋次が得意とするところではあるが、山田洋次はあくまで普通の人たちの個別のドラマに関心があった。しかし、この作品は「時代」そのものに関心がある。その中の普遍的な人のつながりに関心があるのだろう。印象的な場面はいくつかある。弟が姉とその赤ちゃんと「深刻な相談」をしながら散歩している。そこへ大山のぶよ演じる近所のおばちゃんがやってきて「まあ、若い夫婦ねえ。お散歩?」と聞いてくる。「ええ、赤ちゃんにあせもがあるので医者に見せに行くところなんです。」と弟が応えるのである。この二人は「リリィシュシュのすべて」で共演をした細山田隆人と伊藤歩である。あるいは宿屋の姑(菅井きん)がいつの間にか家出から帰ってきた嫁がギョーザをつくっているのを見て、「いやだいやだ。わたしゃ脂っこいものは苦手なんだよ」とこぼす。やがて「深刻な場面」のとき姑は孫から「口の端にギョーザの皮がついているよ」と指摘される。場内が爆笑した瞬間である。犯人に殺されたおばあちゃんは「介護施設」で葬式を終える。そのときは涙が出てきて困った。印象的な場面は人それぞれで違うだろう。エンディングの歌は、この作品のテーマをそのまま歌詞にしたもの。蛇足であった。

この作品は確かに筋を追おうとしたら分かりにくいのかもしれない。主要登場人物がいないからだけでなく、時制が行ったりきたりするからである。私は原作を読んでいたので全く違和感なく、しかも原作になかった犯人が殺人を犯す直接の動機まで台詞の中で言っているので実に分かりやすかった。しかし、あれはあくまで直接の動機である。人はいろんな解釈ができるだろう。分からなかった人はもう一度見てもらいたい。まだ見ていない人はぜひそのことを踏まえた上で見てもらいたい。見ごたえがありました。





2005年03月29日(火)
「闇の歯車」 藤沢周平

「闇の歯車」講談社文庫 藤沢周平
藤沢周平氏は28歳の愛妻をガンで看取ったとき、自分の人生もいっしょに終わったと思ったのだという。しかし乳児がいたので死ぬことも出来ず、屈折した想いを小説にぶつけていった。氏は優しいので、自分の思いをストレートに出すことはせず、エンターテイメント小説として読ませる工夫を怠らなかった。氏の初期の作品群には、闇の中に自ら落ちていきたい想いと、市井の人々が希望や小さな幸せを抱えながら必死に生きていく様と、読ませる工夫に満ちたサスペンスや仕掛けが、いつも緊張感をもって同居していた。その時々でどちらかに比重は傾くのだけど。

この作品は、自らの想いを闇の歯車として動く四人に投影している。藤沢作品の中でも『重たさ』は際立っているだろう。特に武士の伊黒がいっしょにかけ落ちをした妻を見取る場面に私は胸が潰れた。「四半刻ほど、伊黒は凝然と死者の顔を見まもった。心の中に、私は悔やんではおりません、という静江の声が鳴りひびいた。そして伊黒は、その声とひびきあう自分の歔欷の声を聞いていた。」声無き声で啜り泣く伊黒の姿が氏の姿に重なる。



2005年03月28日(月)
「高原好日」 加藤周一

「高原好日」信濃毎日新聞社 加藤周一
加藤周一氏は少年の頃、すなわち日中戦争前から現在に至るまで、ずーと夏は信州浅間山麓の追分村で夏を過ごしている。そこであった友人との語らいの日々、それをいくらか記録することは、戦前戦後の良心的な知識人の側面史にもなるだろうし、未完に終わっている氏の『羊の歌』の続編にもなるだろうと思う。

場所を信州に限定しているため、氏にとって重要なサルトル、渡辺一夫は登場してこない。しかし、意外にも氏と丸山真男は若い頃から親交があり、ともに信州奥の秘湯まで旅をしていることも初めてこの本で知った。ここに出てくる人物は歴史上の人物も含めて60数人。信州では家族的な付き合いをしていることが多かったから、堀辰雄についての一章があるのは当然としても堀多恵子夫人についても一章が設けられており、「私はそこに静かに充実した密度の濃い人生を想像する」のである。この本はほかにも中村真一郎夫人佐岐えりぬ、朝吹登水子、立石芳枝、野上弥生子、辻邦生夫人辻佐保子、等々女性の登場が多い。フェミニストたる氏の面目躍如であろう。

しかし、一人だけ信州での生活での最も重要な人物についての記述がほとんど無い。(名前だけは出てくる)矢島翠である。彼女との出会いについて語られる日は、いったいやって来るのだろうか。



2005年03月27日(日)
「チェ・ゲバラモーターサイクル南米旅行日記」

「チェ・ゲバラモーターサイクル南米旅行日記」現代企画室 エルネスト・チェ・ゲバラ 棚橋加奈江訳
ラテンアメリカの革命家チェ・ゲバラが青年期1951年から52年にかけ、友人とともに故郷アルゼンチンを出発してチリ、ペルー、コロンビアを横断、超貧乏旅行をした記録である。この本を原作とした映画『モーターサイクルダイアリー』を見て、私は大いに感動した。有名革命家の前史というより、ある青年の素敵な破天慌の旅を記録してあり、社会に目覚める青年の一瞬が描かれており、今も昔も変わらないだろうラテンアメリカの素晴らしい自然が描かれてあったからである。私は早速この本を捜し求めて読んだ。

二人の医師の卵がほとんど無一文で旅をしたこと、それぞれの国で、庶民の善意やしたたかな話術でもって口糊をしのいだこと、チリを通る辺りから次第と社会の底辺に向けて、ラテンアメリカの歴史についての感想が多くなったこと、彼の学問の専門であるハンセン病施設の訪問を実行していること、などは映画と同じ。細部はいろいろと違ってはいるが、あの映画に流れる精神は同じであった。それは同時にあの旅が本物であった証でもある。私は改めて「貧乏旅行」への意欲がふつふつと沸いてきた。

同時に私はこの本で初めてチェ・ゲバラという人物を知り興味を覚えた。映画にもあったが、彼はハンセン病施設で誕生日を祝ってもらったときこのような挨拶をしている。「はっきりしない見せかけの国籍によってアメリカ(ラテンアメリカ諸国)が分けられているのは、全くうわべだけのことだと、この旅のあとでは前よりももっとはっきりと、考えています。」彼の演説に大きな拍手が起こったと彼は日記に書いてある。ラテンアメリカの統一。彼はキューバ革命だけの革命家ではなかったのだ。



2005年03月26日(土)
『パーフェクト・プラン』 柳原慧

『パーフェクト・プラン』宝島社文庫 柳原慧
なるほど確かに「身代金ゼロ!せしめる金は五億円」という誘拐の「パーフェクトプラン」に誘われてこのエンターテイメント小説を読みはじめたのではあるが、実はプランの顛末はこの小説の半分も行かないうちに決着がついてしまう。そしてその仕掛け自体も、よく考えればたいしたものではない。しかしこの小説の面白さは、半分まで読んだら最後まで読まないと収まりがつかない、話口の巧みさにあるのだろう。つまり久しぶりに「完徹」をしてしまったのである。(次の日が大変でした。歳だから気をつけないと。<私)



2005年03月25日(金)
「環境考古学への招待」 松井章

「環境考古学への招待」岩波新書 松井章
広島県中世の港町、草戸千軒遺跡から完全なサケの椎骨が出土した。「ああ、サケも食べていたんだ」と分かるだけなら私でもできる。著者は推理する。「このサケは地元からは獲れない。椎骨の大きさからすると、東北か北海道の一メートルクラスのものだ。縄文時代の加工方法(燻製・乾燥・冷凍)で山陰から来たものだろうか。しかしその加工法では硬くなった身を食べるために、石皿などで骨ごと叩いて柔らかくしないといけない。椎骨は残らない。このサケは瀬戸内海ルートで塩蔵によって保存されやってきたものである。柔らかい切り身として食卓にのったのだ。」ひとつの骨から、当時の交易ルート、保存方法まで推理するのである。

骨の推理は魚だけではない。動物・人間さまざまなものが対象になる。骨の切り口から当時の魚の料理方法を。馬の骨の葬り方から、殉死があったのではないか。骨の傷跡から当時の人々の『死』に対する思いを推理していく。あるいはトイレからさまざまな情報を手に入れる。垣間見える当時の庶民の暮らし。推理小説のようにわくわくするような『発見』の喜び。私が考古学が好きなのはこう言う一瞬の喜びに出会えるからなのである。この本は珍しくそういう『センス・オブ・ワンダー』に溢れた学術書になっている。



2005年03月24日(木)
「前夜創刊号」影書房

「前夜創刊号」影書房
「私たちは、戦争体制へと頽落していく日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗の新たな拠点を築く。」その志や、良し。本格的な思想雑誌の登場か。如かして、その内容は如何。残念ながら、これでどれほどの知識人を取り込むことが出来るのか、非常に心許無い。(この雑誌は明らかに知識人『のみ』を対象にしている)この雑誌の中心的論客である高橋哲哉氏のロングインタビューに『切れ』が無いからである。ロングインタビューという以上、高橋氏には現在の状況の大本になっている「地金」(高橋氏が何度も使用する氏の造語)についてこの際全面的に語って欲しかった。ここで語らないといったい何時語るというのだろうか。後編にわずかな望みをつなげたい。
唯一読み応えがあったのは、巻末の協力知識人総出演による『読書アンケート』である。



2005年03月23日(水)
「韓国人は、こう考えている」 小針進

「韓国人は、こう考えている」新潮新書 小針進
この新書の賞味期限はあと2年ほどであろう。お早めの御賞味を薦める。それというのも、韓国人の世代交代のスピードが速まって来ていると思えるからである。

ここには確かに、元外務省調査員らしく、さまざまなデータベースを基に最新情報を載せてある。その意味では今まで読んだ本の中で一番韓国の対日感、対米感、対北感を分かりやすく分析していると思う。ただ、この本の中でも書かれてあるが、韓国の世代は10年の間隔ぐらいで次々と考え方が変わってきている。この前韓国に行った時に30台の女性に聞いたのだが、「最近韓国でのイケメン俳優の台頭は、韓国の人たちの顔の好みが変わったということなのでしょうか。」彼女はまだハン・ソッキュやチェ・ミンスクが好みなのだろう、「変わったのです。私は違いますが」といったものである。本の性格上、一つ一つの世代の感情については踏み込んだ著者の意見は入っていない。あとは自分で体験して考えなさい、ということなのだろう。

ただ、この本は分かりやすい。これから韓国の人たちを見ていく上で、不易と流行、両者を見極める上で、ひとつの指針となるだろうと思う。

参考になったところ。

韓国のドラマは『デジタル世代』の主人公たちが強烈な『異議申し立て』を行うことによって、ストーリーが展開されている。

日韓関係の三つのアキレス腱。竹島問題、歴史教科書問題、従軍慰安婦問題。
日本のメディアは単発なこととしてしか見ないことでも、韓国のマスメディアは歴史的にとらえる。
日本大衆文化解放後は、「どらえもん」「クレヨンしんちゃん」「ポケットモンスター」「とっとこハム太郎」などは日本の作者名と製作会社が明記されており、子供たちも日本製だと認識しながら見ている。これは対日感に肯定的な影響があるだろう。



2005年03月22日(火)
「山背郷」 熊谷達也

「山背郷」集英社文庫 熊谷達也
一人の得がたい作家が誕生した。解説で池上冬樹氏がこの魅力的な短編群が生まれた経緯をるる述べているが、今回は氏の説に全面的に賛成する。熊谷達也はこの短編群でひと皮剥けたのだ。

熊谷達也のデビュー作「ウエンカムイの爪」は、フレッシュな面もあったが、中盤のたるみ等、まだまだという感じがあった。しかしこれは違った。描写の緻密さ、浮き上がる人物像、「失われた、自然と人間との関係・闘い」というテーマの普遍性、唸る事しばしば。たった四年ほどで作家というものはこれほどまでに成長するのだ、と嫉妬さえ覚えた。

特に私は『潜りさま』『メリィ』『川崎船』がお気に入り。




2005年03月21日(月)
「流星ワゴン」 重松清

「流星ワゴン」講談社文庫 重松清
男はいま「死んでもいいや」と思っている。息子は中学高受験に失敗、公立校に入ったとたん家庭内暴力を振るうようになる。妻は家に寄り付かなくなり、離婚届を突きつける。ずっと仲の悪かった父親はいま危篤状態だ。その彼のところにするするとワゴン車が寄ってきた。「遅かったね。早く乗ってよ。ずっと待っていたんだから。」

人に『やり直し』は効くのだろうか。昔は気がつかなった「人生の分岐点」に行くことができたら。あるいは父親と仲直りはできるのだろうか、もしも今自分と同じ年の父親が現れ、対等に口がきけるのだとしたら。

小説なので、その『もし』を実現してみせる。しかし、現実は厳しいことも良く知っているので、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいに簡単に過去を変えたりはしない。そして重松清が選んだ過去とは、本当に一見なんでも無いようなある一日が三回であった。「ああ、そうなんだろうなあ」と思う。人生に『やり直し』は効かない。でも人間は『やり直し』をすることが出来るのである。



2005年03月20日(日)
「旬のスケッチブック」俵万智

「旬のスケッチブック」角川文庫 俵万智
92年発行。やがて97年に「優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる」と詠んで『チョコレート革命』を宣言する以前の万智さんがここに居る。旬の食材をもとに月イチのエッセイを書き、その原稿を最初に読ませるのはまだ両親だそうだ。嫁入り前の感受性豊かな娘がここに居る。

でも私、優等生の万智さん好きです。特にこの頃の万智さんは、教師の仕事を辞めて文筆活動一本に絞った頃。自分と、自分の周りの日常と、短歌と、永遠とも見える一瞬について、真摯に人生を賭けて取り組んでいる様がまぶしい。この読みものはあくまで軽いのですが、でも一時の彼女を記録する貴重なオリジナル文庫です。



2005年03月19日(土)
「夕凪の街桜の国」こうの史代

「夕凪の街桜の国」双葉社 こうの史代
一度読み通したあと、知らず知らずのうちにもう一度読み返していた。それで終わらずに、次には好きな場面をじっくり何度もながめていた。ーーいつのまにか時間が過ぎていた。

原爆は体だけではなく、心の中にまで入って苦しめていく。それを昭和20年代の話だけでなく、現代の東京に住む若者にまで続く話として描いたことで画期的である。未来に続く話、広島に限定されない広がり。しかし、それだけではない。

「原爆スラム」の建物群が懐かしく感じるのはなぜなんだろう。銭湯の女性の背中に残る傷跡、絶対に「あの時」の話をしない町の人々、それらが痛ましくも懐かしく感じるのはなぜなんだろう。告発型の原爆漫画とは違い生活の臭いの漂う漫画が静かに私の胸にしみていく。

大切な、大切な物語に出会わせてくれてありがとう。



2005年03月18日(金)
「柔らかな頬(下)」桐野夏生

人生はさまざまな可能性に満ちている。多くのものを失いながら、幾つかのものを得ていくしかないのだろう。

桐野夏生の描く女性は『OUT』にしても、なぜこうも孤独で強いのだろう。カスミの娘を探す旅は必然的に自分を探す旅になる。カスミは捨てたはずの故郷に帰っていく。捨てられた親はいったいどのような人生を送ったのだろうか。そのことを知ることは、おそらくカスミのこれからの人生を予言することにもなるのだろう。

石山の人生は私には最も共感できるものであった。ヒモになるような才能は何一つ無い私なのではあるが。

内海の最期に見る夢(真実?)が鮮烈である。『だも私を救えない』文庫の帯を飾るこの叫びは、カスミのものであると同時に内海のものでもあるだろう。でも私は思う。内海は最後の最後で自分で自分を救ったのだ。いや、ごめんなさい。救ってはいない。救ってなどはいない。ただ内海は初めて『人生の意味』を見出したのだ。



2005年03月17日(木)
「柔らかな頬(上)」桐野夏生

「柔らかな頬(上)」文春文庫 桐野夏生
北海道の故郷をカスミは捨てた。東京に出たきり、親には何一つ連絡していない。

「右の頬には真っ暗な海が発する大量の水の気配、左の頬からはこれも暗い原野の大いなる荒涼が感じられた。カスミはその両方から逃げなくてはならない、と必死に走った。」カスミは何から逃げたのだろうか。果たして逃げおおせたのだろうか。

カスミのデザイナーになる夢は奇妙に歪められ、版下工場の経営者と結婚し、二児を設け、生活に追われる。やがて愛人の北海道の別荘で娘が行方不明になる。事件は解決しない。娘の捜索がカスミの全てになる。

カスミは東京で何を得て、何を失ったのか。愛人との逢瀬で何を得ようとしたのか。娘の捜索の中で何か得るものはあるのだろうか。

並行してあと二人の男の人生が描かれる。カスミの愛人だった石川がヒモになっていく人生と、ガンで余命いくばくも無い元刑事の内海の人生である。この二人の名前は果たして偶然なのだろうか。内海の中にある「水」、石川の中にある「原野」の意味。カスミはこの二つから逃れようとして、逆にこの二人に近づいていってしまっている。のだろうか

物語はミステリーというよりか、『人生の意味』というひとつの暗い森の中に分け入って行っているように思える。森の出口は当然示されてはいない。



2005年03月16日(水)
「暮らしてわかった!年収100万円生活術」横田濱夫

「暮らしてわかった!年収100万円生活術」講談社+α文庫 横田濱夫
会社なんか辞めてしまえっ!たとえ年収100万の生活になったとしても俺は生きてけるぜっ、きっと、たぶん、おそらく……。果たして生きていけるかどうか、この本を紐解いてみた。

なるほど、体験者ならではの実感や生活の知恵は溢れている。しかしこの本の一番の売りは第四章にある『年収100万一人暮らしの支出内訳』案であろう。月83000円で済ませるために、住宅費35000円、公共料金10000万円、保険2000円、食費24000円、こずかい6000円、貯蓄6000円、で計算している。一つ一つの数字は確かに根拠があるだろう。しかし年金の重要性を言っている割にはこの中に入っていなかったり、車は持たないという設定にしては交通費を計上していなかったりしていて、この試案は穴だらけであるとしか思えない。

私は100万は無理だ。しかし120万なら何とかなるかなと思った。



2005年03月15日(火)
「きみに読む物語」は80点

「きみに読む物語」ニック・カサヴェデス監督
一目惚れ、恋に落ちるときの駆け引き、なんらかの障害に傷つく恋人たち、再会燃え上がる情熱、この人に決めるかどうかという時の逡巡と決意、老いた後の「恋の継続」はありえるかということの課題、……。いわゆる「恋」に関するたいていのテーマをごっちゃ煮にしてるのだけど、あまりにもうまく処理されているので、素直にのめりこむことができる。いろんなところで共感する自分がいる。
撮影があまりにも美しい。特に雨の使い方。冒頭の鳥と後半の鳥の使い方。本来スペクタルの戦争場面をあっさり終わらせた処理。編集も脚本もすばらしい。見事に騙される映画ではある。
今回の邦題は久しぶりに良い邦題であった。



2005年03月14日(月)
「オペラ座の怪人」は60点

「オペラ座の怪人」
映像も、美術も、凝っていてすばらしいと思う。役者も吹き替えなしですばらしい声量を持っておりよく揃えたものだと思う。しかし、何の感慨も沸かない。ファントムの嘆きもクリスティーヌの葛藤も、何の共感も覚えない。
おそらく、舞台で見るのと映画で見るのとは同じものを見ても違うのだと思う。舞台では生の役者が生の声を聞かせるのだから、「音楽の天使」といわれてもすんなり受け入れることができるのだろう。映画では単なるわがまま男に主体性のない女にしか見えない。



2005年03月13日(日)
DVD「ヘブンアンドアース天地英雄」は75点

「ヘブンアンドアース天地英雄」
フー・ピン監督 チアン・ウエン 中井貴一 ジャッキー・チャオ
一般的に中国韓国の歴史映画で日本人が出てくるときはたいてい悪役である。しかもこの映画のような娯楽大作のときは間違いなく悪役である。しかし、この作品は違った。主演は確かに中井貴一ではなく、チアンであろうが、中井貴一は最後まで、主演と見まがうほどに「いい役」で出ている。時は中国唐の時代、確かに最近発掘された「井真成」の例もあるように、時の遣隋使、遣唐使は中国政府の中では重用されたものも多かったのであろう。外国の「客」「臣?」として一定の尊敬も集めたのだろうと思う。しかし、娯楽映画でこの日本人の扱いはやはり感動ものである。

さて、作品自体は、最後はSFでチャンチャンとなるのであるが、それがなかったらよくできた歴史活劇であった。演技者もなかなか魅力あった。しかし、なぜ将軍の娘があんなに危険な旅に就いて行かなければならないのか、そこのところの説得力はいまいち。

中井貴一は結局武官の道を選んだのね。文官の道ならあんな死に方をしなくてすんだのに。



2005年03月12日(土)
『ローレライ』は60点

『ローレライ』樋口真祠監督 福井春敏原作

物語の鍵を握るのは堤真一が演じる上級将校なのだが、この人の行動が私には理解不能だったため、結局私は何の感慨も起こらなかった。

その他の役者は良くがんばっていると思う。役所広司は当然として、ヒロインにしても日本語ができる外国人をよくもってこれたなあ、と騙されたし、脇役の石黒賢、ピエール瀧が案外存在感あり。妻夫木に関しては、演出が悪いのだが、あまりにも現代の若者という感じがする。

登場人物たちは何の疑問も感じず「原子爆弾」という言葉を使っているが、あの時、その言葉を正確に理解できた人間は大本営ぐらいではなかったのか。

一応潜水艦映画としての定石は守っているのではあるが、あまりにもテンポよく進みすぎるので、緊張感は削がれる。

余談ではあるが、冒頭、堤真一が「罪と罰」に言及して、「ラスコーリニコフは老婆を殺した直後から罪の意識にさいなまれ……」といっていたと思うが、私の解釈は違う。彼は物語の中一貫して殺人を犯すに至った自分の理論を捨ててはいない。だからそのあと「本当に殺したかったのは自分なんだ」と言ったとしても、それは自殺を意味しない。物語の最後、ラスコーリニコフはその理論を捨てず、同時にソーニャと愛の生活を始めると言う困難な道を選ぶのである。原作者が「罪と罰」を引き合いに出したのは間違っていると私は思う。もっといえば、ラスコーリニコフが殺人のあと、後悔したのは、老婆を殺したからではなく、弾みでもう一人、老婆の親類の娘を殺したからである。しかもその娘がソーニャに面影が似ていた。よってラスコーリニコフがソーニャを愛すると言うのは、複雑で、もしかしたらあの娘への贖罪の気持ちがあったのかもしれない。堤真一は確かにラスコーリニコフの理論をそのまま援用して行動を起こしたのではあるが、作戦に齟齬をきたしたからといってすぐ自殺するようでは、「罪と罰」を読みきったとはいえないだろう。それが、「大本営切手の秀才」だと?そういう設定自体ですでに私の気持ちはさめていた。もちろんこんな見方をする人はほとんどいないだろうなあ(^^;)



2005年03月11日(金)
DVD「太陽を盗んだ男」は75点

太陽を盗んだ男」長谷川和彦監督 沢田研二 菅原文太 79年作品

一部ファンから熱狂的な評価がある作品。ビデオがなくて幻の作品だったが、いつの間にかDVDが出ていた。(2004年版)私この作品、リアルタイムで映画館で見ています。見ているはずでした。でも再見してみて、筋も細部もあまり覚えていないことに気がついた。特に後半部分はほとんど忘れていた。

中学の理科教師・城戸は原爆を手作りすることを決意。サラ金からの借入金と東海村から強奪したプルトニウムとを用いて、自宅安アパートの台所で原爆を作りあげる。そして、完成した原爆で城戸が国家に要求したことは…。
前半部分は緊迫感に満ちていて、非常に良い。ところが、菅原文太を交渉相手にして、「ナイター中継を続けさせろ」と言い出したあたりで、当時大学に入りたてだった私は「なんだこれは。しょぼい。」と思い、たぶん寝てしまったのだと思う。今から考えると、冒頭の天皇接見を求めるバスジャック犯の失敗と、何も要求するものが見つけられない若者が「太陽」をもってしまう構成はなかなかのものなのだが、あの当時はふがいないと思ったんでしょうね。作品公開から16年後、現実は映画を超えることになる。オウムの一連の事件は、原爆がサリンに変わってはいるが、非常によく似ている。ただし、長谷川監督の一個人の想像力では、単なる科学おたくの若者が、無差別殺人の一線を超えれるとは想像できなかったのだろうが、現実は、「集団の狂気」という力により、その一線をやすやすと越えてしまう。もう少し詳細にこの両者を比べてみたら面白いかもしれない。

さて、映画自体で見ると、沢田研二があまりにもかっこよい。教師、科学者、テロリスト、女装、敗残者、あらゆる姿がかっこよい。そういう意味では見事なエンターテイメント映画ではある。東京未明でのカーチェイスは、日本におけるぎりぎりの表現として、今見るとなかなか迫力があった。(CGを使わず、パトカーが次々と横転するのは、今ではもう見ることができないだろう)




2005年03月10日(木)
DVD「スパニッシュ・アパートメント」は70点

「スパニッシュ・アパートメント」
フランス人がスペインへ、一年の留学生活。フランスに残してきた恋人との逢瀬。人妻への誘惑。レズ。愛すべきアパート仲間。混沌から青年が受け取ったものとは。というような映画。

決まりきった一流会社への就職が待っているのに、彼は昔からの夢だった作家への道にすすむのである。学生時代の「混沌」とはそれだけの力があるのだろう。彼の人生に幸いあれ。



2005年03月09日(水)
「セルラー」は80点

「セルラー」デヴィッド・R・エリス監督 ラリー・コーエン原作
突然の誘拐。頼みは壊された電話。つながったのは、恋人から「あなたって自己チュウーで最低」と振られたばかしの若者。さて、彼はどうするのか。

とまあ、話は単純なんですが、これがまた面白い。性格設定、飽きさせない脚本、そして出演者たちの見事な演技。キム・ベイシンガーの泣き顔がすばらしい。クリス・エバンスが勢いに任せて無茶な行動をするけど、これが結果オーライになって、いい味出している。今回ジェイソン・ステイサムは悪役。でも役には見事にはまっている。そしてウィリアム・H・メイシーが儲け役。
「男ってのはやるときゃ、やるんだ」てか。という作品。短期間上映。お急ぎを。



2005年03月08日(火)
「レイ」は75点

「レイ」監督製作脚本テイラー・ハックフォード ジェイミー・フォックス ケリー・ワシントン

なるほど音楽と演技はすばらしい。ジェイミーフォックスのアカデミー主演男優賞を私は確信しました。また話もテンポよくすすみ、音楽の使われ方もなんとなく話とあっているので退屈することがなかった。それだけでもたいしたものなのだが、でもそれだけ。少年時代の音楽に対する想い、それがないから、最終版妻の鋭い一言へのドラマが分からない。  

つまりこれは、一人の盲目の天才音楽家が、幼少時のトラウマや、それによる薬漬け、女癖を克服しながら、「音楽を追い求めた」半生記として描かれている。しかし、レイの内心は結局音楽を通してしかわからないようになっており、描き不足としか思えない。



2005年03月07日(月)
「ボーン・スプレマシー」は70点

「ボーン・スプレマシー」ポール・グリーングラス監督 マット・ディモン フランカ・ポテンテ
正統なCIA映画。今回彼は追われる身から追う身へ。最高レベルのスパイの技術と体力と知識でもって、先手先手を打っていくボーンがかっこいい。退屈しなかった。
しかも今回彼は正当防衛で一人しか殺さなかった。これもスマートでよい。結局死んだ恋人マリーの「良心」が殺人マシーンになっていた彼の心を癒したということなのだろう。最後のロシアの娘への告白が胸を打つ。



2005年03月06日(日)
ビデオ「ハッピー・エンド」は75点

「ハッピー・エンド」チョン・ジウ監督 チェ・ミンスク チョン・ドヨン チュ・ジンモ
妻の不倫によるぞっとする異常な進行を描いた痴情劇。チョン・ドヨンの果敢なベッドシーンで注目され,興行的にも成功した作品らしい。99年作品。

チェ・ミンスクはいわずと知れた名優。今回はリストラされ、英語学院長の妻の稼ぎに頼って主夫したりのんびりしたりしている役。なんと今回彼は一度も無精ひげを生やさず、わりとふくよかな顔で、「オールドボーイ」の冒頭のサラリーマンの泥酔していないときの顔のまま通す。しかし、やはり彼でなくてはできない役ではあったろうと思う。妻の不倫相手の優男は「武士ムサ」で李王朝の将軍役を務めたチュ・ジンモ。昔の恋人であった妻と不倫を重ね、やがて自分を見失っていく。そしてチョン・ドヨン。「私にも妻がいたらいいのに」とは全く印象が違う役。責任ある仕事をバリバリこなし、夫がリストラされる前までは家事も完璧にこなし、赤ん坊も生まれたばかし、あまりにも忙しい生活の中でふと昔の恋人と逢瀬を楽しむ妻の役を見事にこなしている。冒頭、延々五分ばかしの大胆なベッドシーンがあり、これが当時相当衝撃的だったらしい。しかし、これがあるからこそ、チョン・ドヨンは満たされぬ妻の役を見事に現したのだろうと思う。この作品で妻は異常に不倫がばれるのを恐れるのですが、これは韓国特有の事情があります。韓国では実は(有名無実化しているみたいですが)まだ姦通罪という法律が活きているのです。だから不倫が公になることは彼女の社会的生命が絶たれることを意味していたのでしょう。韓国題名もそのまま邦題。皮肉な題名ではある。私、今まで韓国の女優でファンはいなかったのですが、この作品でチョン・ドヨンのファンになりました。ヨンさまが出ているので「スキャンダル」は未見なのですが、彼女が出演しているのでこの作品も見るつもりです。



2005年03月05日(土)
DVD「私にも妻がいたらいいのに」は80点

「私にも妻がいたらいいのに」パク・フンシク監督 ソル・ギョング チョン・ドヨン
アパート団地内の小さな銀行員と、銀行の真向かいにある補習塾の講師の、すれ違いの恋の行方。

韓国映画にありがちな大どんでん返しや、衝撃的な設定があるわけではなく、純情な二人の平凡な恋を描いている。この映画の面白みは、その二人が両者とも曲者俳優が演じているというところだろう。銀行員は今や韓国隋一の「演技派」になったソル・ギョング。大人しく真面目でとてつもなく優しい29歳の青年を演じていて、私はソル・ギョング主演「ペパーミントキャンデー」で最後に登場する光州事件以前の青年が悲劇に遭遇しなかったらこういう青年になったのではないかと想い、それだけで愛おしくなった。塾の講師も優しく不器用な可愛い女性である。ところがそれを演じているチョン・ドヨンのそれまでの作品は「ハッピィ・エンド」「スキャンダル」で、ともに濡れ場を演じている大人の女性らしい。特に「ハッピィ・エンド」では不倫妻を大胆に演じていて、その年の各女優賞を受賞している。この作品では賞をとらなかったみたいだが、私はこの作品の彼女も充分魅力的であった。ひとつ韓国映画らしいのは小道具の使い方が非常にうまいというところである。飴、銀行の監視カメラ、手品、等々、だから一つ一つのエピソードが活きている。思いがけずいい作品に出会った。ツタヤの「韓流」コーナーにあるかもしれない。機会があればお勧めします。



2005年03月04日(金)
「ビビンバの国の女性たち」伊藤順子

「ビビンバの国の女性たち」講談社文庫 伊藤順子
世はまだ『韓流ブーム』である。そもそも日本人はたった一時間半(飛行時間)でいけるお隣の国のことを知らな過ぎた。韓国の民主化が成功して約20年、ソウルオリンピック、02年W杯を経て、もはや韓国を知るということは本格的なキムチやビビンバを食べることのみを意味しないという状態にここ至ったのである。今はきっと『知恵熱』状態。成熟した関係はこれから始まる。

さて、この本はそう言う時代の軽い読み物である。日本の週刊誌で言えば「週刊新潮」あたりの《街角風俗最前線レポート》といったところであろうか。例えば、韓国のキャバレーは中年男女の合コンの場所、この国では姦通罪がまだ生きている、平均セックス時間は19分、しかし質より量を求める傾向、etc。まだ日本に届いていない下世話な話が満載で、トータル的に韓国のことを知る上で読んでおいてもいいだろうという程度の本である。ただ、まだまだこの手の記事が少ないので、かんで含めるような丁寧な解説がつく。また、「週刊」ではなく「月刊」の連載をまとめたものだから、古くは5年前のレポートが載っている。そのあたりは気をつけないといけないだろう。

筆者の態度は案外まじめで、冒頭この情報が著者の体験した韓国の一段面であることを断っている。だからこそ、私はこれで韓国の風俗を知ったつもりにはならないが、事実としては信頼するつもりでいる。




2005年03月03日(木)
「映画の英語がわかる本」斎藤兼司 

「映画の英語がわかる本」小学館文庫 斎藤兼司 
映画が大好きで年間100作以上観る私であるが、どうしても字幕にたよってしまう私が居る。これだけ映画を観ているのだから、洋画を観ている間だけでもヒヤリングの練習になれば飛躍的に英語の実力が増すはず。という軽い気持ちで買ったのがこの本である。

結果。半分まで読んで『映画の英語がわかる』には私は10年早い、と思った。ここに書かれてあるのは正論です。ネイティブの話す英語がわかるようになるには、まさにボキャブリーにしても聞き取り力にしても、まさにネイティブと同じくらいの実力を持たなくてはならない。すなわちその道は『映画の英語がわかる』道ではなく、『100%英語がわかる』道である。当然茨の道です。いつかはこのような勉強をしてみたいものだ。ここには金をかけないで英語教材を作る方法をたくさん紹介している。その方法は英語だけではなく、韓国語でも使えるだろう。そう言う意味では参考になった。



2005年03月02日(水)
「中原中也詩集 在りし日の歌」角川文庫

「中原中也詩集 在りし日の歌」角川文庫
二泊三日の韓国旅行をして帰ったその日、一番『日本』を感じたのは、三日ぶりに見る風景でもなければ賑やかしいTVでもなかった。喫茶店で開いた中也の詩集であった。

「森の中では死んだ子が/蛍のようにしゃがんでる」ハングル文字の洪水の中から生還してきて、そういう一見なんでもない口語体の詩句に出逢ったとき「ああ私は日本人だ」と感じた。「日本語として理解するより先に、私には悲しみが見える。」

「とにかく私は苦労して来た。/苦労して来たことであった!」(わが半生)中也独特のリズムが静かに私の心を潤す。



2005年03月01日(火)
金魚屋古書店出納帳上下」芳崎せいむ

金魚屋古書店出納帳上下」小学館 芳崎せいむ
「もう少し早く生まれてくればよかった。そうすれば島村ジョーの時代をすごせたのに…。」と少女は言う。「もう少し早く」とは30年前という意味。同じく「サイボーグ009」のファンである少年はこう応える。「オレにはこれからが009の時代だ。」少女はジョーに恋心を抱くという読み方をしていたのに対して、少年は作品の「世界」が好きだったわけだ。少女は少し驚いて納得する。「そうか。でもそれって…すこし怖いね。」こんな会話はしっかりこの漫画を読みこなしていないと成立しない会話ではある。でも日本のどこかにはそんな「現代」の少年少女もきっといることだろう。

この作品群には、至る所にそんな「昔の漫画」への愛が溢れている。30年前、「少年マガジン」という雑誌の中で流れ星になった002と009にリアルタイムで涙した元少年にとって、この愛情は嬉しいかぎりだ。しかしそれだけではない。作品の創りがしっかりとしていて、一編一編にきちんとした人間ドラマが入っているところが素晴らしい。「あの川べりで」「さらば火星よ」「漫画の神様」が秀逸。