江草 乗の言いたい放題
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2014年01月30日(木) オレは「明日ママ」を擁護する        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan

 話題になっているドラマ「明日、ママがいない」を観た。ドラマの設定がありえないとか、児童福祉施設の現場のことをわかっていないとか、さまざまな批判がなされている。しかし、オレはドラマを見ていて面白いと思ったし、そこからこのドラマが発信しているメッセージを受け取った。子どもをコインロッカーに捨てたり赤ちゃんポストに預ける親がいることは厳然たる事実だ。そういう過酷な運命を背負った子どもたちが「ポスト」や「ロッカー」というあだ名で呼ばれながら、その環境の中でたくましく生きようとする物語として、オレはこの作品を受け取った。一方的に批判している大人たちもまずこのドラマを観てみればどうだろうか。そして最後まできちっと観てからドラマが何を訴えたかったのかということを理解すべきだろう。どうしてまだ放送が始まったばかりなのにこんなに批判ばかりするのか。

 日本では親に虐待されて殺される子どもが多数存在する。殺されないまでも心に深く傷を負って成人する者も多い。その一方で里親制度や児童福祉施設の実態についてはあまり知られていない。たとえこのドラマがそうした現実をかなり誇張した形で描いてるとしても、観てる人はそれを「フィクション」として観ているわけである。どうしてそれが「養護施設の子どもや職員への誤解偏見を与え、人権侵害だ」という結びつけられ方をしてしまうのか。「そんな事実は全く存在しない」からなのか。

 学校を舞台にしたドラマ「GTO」「ごくせん」を考えてみよう。この両者にはどちらも型破りの魅力的な先生が登場し、時には悪を力で征圧したりして問題を解決する。学校にはかならず事なかれ主義の教師や、やる気のないダメ教師がのさばっている。ステレオタイプのダメ教師が必ず登場するのである。しかし、学校側がこのドラマに対して抗議したことがあっただろうか。このドラマを観て学校のことに対して偏見が広がるだろうか。否である。それは観ている人がドラマを「面白い作り事」であるとちゃんとわかってるからである。それは他のドラマもそうである。 「家政婦のミタ」「半沢直樹」も同様だ。「半沢直樹」などはあきらかに実在の銀行をモデルにしてるし、オレはそこに描かれている事件を現実の事件と重ね合わせることができる。しかし関係者から抗議を受けることはない。三菱UFJ銀行が厳重に抗議したという話も聞かない。そんな「大人げない行動」をしないのが普通の人間である。テレビドラマという「作り物」のせいで簡単に崩壊してしまう程度の価値しか自分たちが築けていないのならば、その恐怖から抗議するというのもわからないこともない。しかし、熊本の慈恵病院の取り組みのすばらしさや、児童福祉施設の現場の方々が日々奮闘していることは、野島伸司が面白おかしく作ったドラマの脚本一つで簡単にゆらぐようなちゃちなものではない。どうしてそのように開き直って考えられないのか。

野島氏の作ったドラマ「高校教師」には、生徒をレイプする悪徳教師が登場するし、映画にもなった貴志祐介の小説「悪の教典」には大量殺人者の英語教師が出てくる。それが現実の学校教育に大きな影響を与えてるのか。学校現場で年間に100人以上が性犯罪で検挙され処分されていることと、ドラマ「高校教師」になんらかの因果関係があるのか。否である。そうしたドラマがなくても性犯罪は起きたかも知れないし、もちろんあったから起きたのでもない。「こんなむちゃくちゃな教師はいない」から批判しなかったのだとしたらそれは的外れである。現実に性犯罪を起こす教師はいるのだ。だからといって学校現場はこのドラマを否定などしていない。

 児童福祉施設の方々は「明日、ママがいない」を観て、「そんなことありえないだろ!」とテレビの前で番組内容にツッコミを入れながら観ればいいのである。そうして純粋にドラマの面白さを楽しみつつ、そこに込められたメッセージを理解し、もしもそこから学べるような事実があれば参考にすればいいのである。ただそれだけのことだ。どうしてあのドラマを全否定するのか。オレのようなひねくれた人間は「そんなに抗議すると言うことはもしかして何か都合悪いことでもあるからなのか?」と言いたくなるのである。ネット上にある意見を読むと、このドラマを批判してるのは主に児童福祉施設の関係者(職員や経営者)であり、施設出身者はむしろ好意的にとらえてるというのも興味深い。私の憶測はもしかしたらはずれていないのかも知れない。

 生まれてすぐに親の都合で施設に入れられる子どもたちは大勢いる。しかし、施設に入れられずに親の元で虐待されて殺されることと比べてどちらが幸福だろうか。我々は現実の悲劇から目を背けてはならないのだ。ドラマを放送中止にしてしまうことは簡単だ。しかしそれでは目の前の現実に対して何の解決にもならない。どんな誇張された形であれ、このような世界が社会の中に存在し、そこで元気にたくましく暮らす子どもたちがいるということを社会は認知すべきではないのか。

 まともに子どもを育てられない親からは子どもを取り上げるべきだとオレは思っている。子どもは国家の未来を支える宝だ。だからそういう子どもたちは国がきちっと面倒を見て、児童福祉施設の方がしつけもちゃんとできてるし、勉強もできる子が多いというふうに変えていかないとだめだ。児童福祉施設に対してネガティブなイメージでとらえるのではなくて、そこが理想の子どもを育ててくれるパラダイスであり、日本の将来の希望につながる世界だというふうに変えていかないとダメだとオレは思ってるのだ。くだらないダメ親なんか捨てて、よりよい自分を見つけるために子どもたちが率先して施設に入ることを希望するような価値観の転換が起きればいいとオレは思っているのである。

 親がいないことは不幸なんかじゃない。本当の不幸はくだらない親がいるということなんだという強いメッセージを番組が発信するとしたら、それに対して大人たちはどう答えるのか。子どもを炎天下のクルマの中に置き去りにしてパチンコに熱中したり、幼い子どもを部屋に閉じ込めて餓死させて自分は男と遊び歩く母親がこの世には現実に存在する。そうした実際に起きた事件の無残さと比較して、ドラマ「明日、ママがいない」で描かれる施設の子どもたちの日常はオレにはきわめて牧歌的なものと映ったのである。


児童福祉施設出身の方が漫画家になって、施設のことを書いた作品である。

いつか見た青い空 (ウィングス・コミックス)

児童虐待に関するコミック

凍りついた瞳 (YOU漫画文庫)



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2014年01月27日(月) 農薬混入事件について思うこと        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan


 2008年に中国製の冷凍餃子に従業員によって殺虫剤が混入されるという事件があった。その男の動機は待遇に対する不満だったという。日本の食品メーカーの関係者は「日本ではこういう事件は起きない」とその時に語ったが、現実には日本でも起きてしまった。マルハニチロホールディングス(HD)の子会社「アクリフーズ」群馬工場(群馬県大泉町)の冷凍食品から農薬「マラチオン」が検出された問題は、内部関係者が意図的に農薬を混入させた疑いで逮捕されるということになった。中国と同じような事件が日本でも起きてしまったのである。

 マルハの株価は暴落し業績も悪化した。経営トップは辞任することになった。農薬混入という従業員によるテロは、会社に大きな打撃を与えるという当初の目的を達成することができたのである。もう原因ははっきりしている。会社と従業員の雇用関係はここまでひどくなってしまったのだ。これは「マルハ」やその子会社の「アクリフーズ」だけの現象ではない。規制緩和によって非正規雇用が拡大し、製造業の現場で多くのワーキングプアが作られている今は日本中で起きてもおかしくない普遍的現象となったのである。

「こんな安いゼニで働かせやがって!」

という怒りを多くの人たちが共有しているのが今の日本社会なのだ。 かつての日本の企業には「終身雇用」という暗黙のルールがあった。会社というのは家族的な性格を持ち、社内の運動会や旅行なども盛んで、そこではひとつのコミュニティが築かれていたのである。正社員として雇用されれば、定年まで働き続けるのが普通だったのだ。社員というのは自分を雇ってくれた会社に恩義を感じるとともに忠誠心を誓うのが普通のことだった。そうした美風をなぜ日本企業は捨ててしまったのか。どうして「世界標準」という間違った方向に舵を切ってしまったのか。

 49歳の男が時給900円で働かされていて、どうして家族を養うことができるだろうか。どうして将来の展望を持つことができるだろうか。

 安倍晋三は日本の景気を回復させるために企業に賃上げをしてもらいたいらしい。しかし、その賃上げの恩恵を受けるのは労働者全体のごく一部でしかない。今、生活に不安を抱え日々の生活にも困っている層には「賃上げ」どころかただの「インフレによる物価高」が待っているのである。

 CANONの御手洗会長は偽装請負が発覚したときに、「ルールの方が間違ってる」と開き直った。10年間CANONの工場で働いて、CANON製品を作っているという誇りを持っている人たちが実はCANONの社員ではなかった。その方が安い労働力として使えるし、不要になればいつでもクビを切れる。いとも簡単に生産調整できるのである。

 TPPを受け入れることは、世界標準の価値観である「労働者は使い捨ての資源」を受け入れるということだ。そこにはかつての日本的な労働慣行である「会社は大きな家庭のようなものであり、従業員は守るべき大切な家族」という価値観は全く存在しない。いくらでも交換可能なただの生産資源にされてしまったのだ。

 食品に農薬を混入するというのは言語道断な事件である。しかし、このような事件を起こすことで自分を冷遇した企業やその幹部、役員たちに大きなダメージを与えることができるというのもまた明らかになったのである。つまりこのような事件は、従業員が会社に対して起こすことのできるテロみたいなものであり、ストライキのような話し合いの余地のあるものではなくて、問答無用で会社に一方的に打撃を与えることが可能なものである。

 家族に対する愛情が失われて虐待が起きる。愛校心が失われ、愛社精神が失われ、そしてもちろん愛国心だって失われていく。そうして我々の社会は多くの大切なモノをなくしてギスギスしたものになってしまった。おたがいが権利ばかりを主張して、誰かのために・・・なんてことを考えなくなった。そうして今に至るのである。

 利益追求だけが企業の目的だろうか。従業員みんなが日々の生活をいきいきとしたものとできるように、そのためになら多少利益が減ってもかまわないなどという経営者はいないのだろうか。

 秋葉原の無差別殺人にしても、今回の農薬混入にしてもその動機はきわめてよく似ている。もしも彼らの働く職場がもっと従業員を大切にして、働くことで得られる夢や希望を語り合えるような世界だったならば、事件は起きなかったはずである。そして今のように企業が非正規雇用を拡大し続けるような状況が続く限り、こうしたリスクはますます増大していくしかないのである。従業員を監視することによってテロを防ぐなんて対策は、その監視をすり抜ける別の方法を考えつくことでいとも簡単に打ち破られる。

 学生紛争の嵐が吹き荒れ、東京大学の入学試験が流れた1969年、安田講堂には次のような落書きが残されていたという。

「人間が人間であることを主張する」

今回の農薬混入事件を起こした男の行為を正当化する気持ちはオレには全くない。それによって不特定多数を死に至らせる可能性があったことを思えば断じて許せない。しかし、彼を人間として処遇するのではなく、使い捨ての労働資源としか考えてなかった会社側に全く責任がないかと言えば、そうとも言い切れないのである。


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2014年01月25日(土) 偏差値の序列についての私感        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan



 大学に入学した春、同じクラスにスバル360に乗ってる苦労人の変わり者の学生がいた。進学校とは言えない田舎の高校を卒業し、バイトしながら浪人してものすごい努力をしてきた彼はなかなかユニークな方だった。今はどこで何をしているのだろうかと思うのだが、彼が何気なく語った「浪人して経済ではカッコ悪いと思ったので文学部を受けた」という言葉をオレは覚えている。彼の頭の中には京大文>京大経済という序列意識があったのだ。そもそも経済学部と文学部とを偏差値で単純に比較することなどできないし、併願するにしてもたとえば文学部を志望する受験生ならば同志社の文学部と関西学院の文学部という受け方をするだろう。どうしても同志社に入りたい受験生が経済学部と法学部を受験するのはありでも、経済学部と文学部という選択肢はないだろうとオレは勝手に思っていたのである。

 しかし世間にはそうでない受験生がいる。たとえばどうしても東京大学に入りたかったので文気任呂覆て少し入りやすそうな文靴砲靴泙靴燭箸い場合である。もっとも東京大学では入学後に進路振り分けがあるので、入学時に選んだことですべてが決定するわけではないのだが、偏差値の序列では東大では文機篳賢靴箸いΔ海箸蕕靴ぁ

 オレは人生でおそらく百回以上「なぜ東京大学を受験しなかったのですか?」と質問されている。きっと質問者の脳裏には東大>京大という発想があって、共通一次試験で高得点だったのならば東大を受験すれば良かったのになんてもったいないと感じたのだろう。もちろんオレの中には京大>東大という価値観しか存在しないのでそのような質問をオレにすること自体が愚問なのである。オレは「自分が最高と信じるところに入学したかった」としか言えないのだし、「文気呂△らめて文靴砲靴茲Α廚箸いΩ搬な功利主義よりも、「人生をあきらめて京大文学部に入る」という究極の選択をオレがうっかり18歳の時にしてしまったから今の自分が存在するわけである。

 「行きたい大学」ではなくて「自分が持っている偏差値という価値で買えるもっとも高い大学」を選ぶのが普通の受験生であるらしい。大阪市立大学の真ん前に住んでいても、センター試験で8割5分とれてるから大阪大学を受験しようというのが受験生として普通の行動で、歩いて0分の大阪市立大学よりも、1時間以上かけて満員電車に揺られて、阪急石橋の駅で降りてからも長い坂を登って大阪大学まではるばる通学してしまうのである。そこで「オレは朝はゆっくり寝ていたい!」「大阪市民だから学費が安い」「生活科学部があって女子学生が多い」「レモンライスが好きだ」「通学に耐える体力がない」などという理由で大阪市立大学を選ぶと周りから「アホや!」と言われてしまうのである。それは1000円持ってるのに850円のものを「つりはいらねえよ!」と言って買うのと同じ行動であると世間では思われるのだ。1000円あれば1000円のものを、あわよくばもしかしたら手に入るかも知れない1200円のものを買いたいのが受験生なのだ。

同志社と立命館の両方に合格すれば普通は同志社を選ぶ。そこで両者の設備を比較したり女子大生の美人度を調査したり、近隣の食べ物屋を回って学生生活をシミュレーションしたりということはない。慶応と早稲田と両方に合格すれば普通は慶応に行く。受験生の常識的な行動とはそういうものである。このような価値観はオレが受験生だった頃からちっとも変わっていないのである。新興勢力の大学がいくらがんばったところで、歴史のある偏差値も高い大学が新しく作った、なんかよくわからない横文字の名前の学部に負けてしまうのである。それが悲しいほどの現実なのである。

 受験生たちが抱いてるこの序列意識について、オレは変えようとは思わない。それに逆らったところで世間がどっぷりとこの序列意識に染まってる以上、受け入れるしかないからだ。徒歩0分の大学ではなくて満員電車に1時間ゆられて行く大学にわざわざ入るのは、その方が就職などで有利だと信じるからの行動である。大企業が就職面接を行う際に「出身校は不問」と称していても実際はそうではないというのはよく聞く話である。それにきびしい受験勉強に耐え抜いてやっと入れる大学と、全く競争がなくて高校でずっと遊んでいた生徒が志願すれば誰でも入れる大学とを同じに扱おうとしても無理だ。ちょっとした質問を学生にぶつければすぐにその差ははっきりするのである。知識や教養が全く違うのである。灘高校の生徒など、電車の中で雑談の中で政治や経済の問題を議論しているのである。スマホでゲームをすることしかしないどこかの馬鹿な中高生たちとは全然違うのだ。

 今年も多くの受験生が「複数合格した大学の中で入学する一つの大学を選ぶ」という作業に大いに頭を悩ませるのだろう。昔公立高校の時に同僚だったある女性教師は、津田塾大と奈良女子大の両方に合格し、結局奈良女子大に進んだ。もしも彼女があのときに津田塾に進んでいれば全く別の人生を歩んでいただろうと思うのである。彼女は今はある公立高校の校長先生になっている。30年前ならばその選択は何の疑問もなく行われたかも知れない。しかし、女子大が不人気となり、奈良女子大がかつてのレベルから大きく易化したことを思えば今ならその選択は不自然だろう。

「好きな学部学科よりも高偏差値」

 このような誤った選択肢から進学先を選ばないように受験生はきちっと判断してもらいたい。文学部なんてヤクザな世界には来ない方がいいのである。


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2014年01月20日(月) 堀江さん、都知事になってください        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan



 東京都知事選挙である。舛添要一、細川護煕の一騎打ちだとか言われているが、その二人のじじいが都知事になったところで全然面白くもなんともないのである。それよりももっと都知事になったら面白い存在がいる。それは刑務所から出てきた堀江貴文さんである。堀江さんこそ都知事にふさわしいとオレは思っている。東京都政を変えようと思えば自民党からも公明党からも民主党からも距離を置いたこういう人を選ぶしかないのではないか。少なくともオレは大いに期待しているのだ。

 堀江さんは冤罪としか思えない罪状で収監された。それよりもはるかに悪質なことをしていた日興コーディアルなどの連中は罰金で済んでいるのに、なぜ堀江さんだけが実刑判決だったのか、オレには納得いかないのである。暴力団の薬物取引資金やインサイダー取引のゼニを融資して巨額の利益を得ているM銀行のことなどはマスコミもびびって完全スルーなのである。真の巨悪どもは誰一人刑務所に入っていない中で、「それも一つの社会経験」と受け止めて塀の中で修行してきた堀江貴文さんにこそ政界で活躍してもらいたいとオレは思っているのだ。

舛添要一や細川護煕に対してオレは全く期待していない。特に細川に対しては「政治はおまえの趣味の一つじゃない!」と言いたい。日本新党を立ち上げながら途中で政治を小沢に丸投げして隠居したのはどこの誰だ。どうせあんたには政治なんて殿様の道楽でしかなかったんだろう。そんなアマチュアに都政はまかせられないのである。

 だったら舛添要一はどうかというと、彼は自民党を一度は見捨てた人間であり、その自民党から再び推薦を受けてるというなんだかよくわからない首尾一貫しない男なのである。脇からの批判はできても、実際に何かを作り出したり役に立つアイデアを出したりはできないタイプの人間なのだ。もちろん自民や公明が期待する「猪瀬の代わり」という役目は忠実にこなしてくれるだろうが、しょせんそれだけの人材なのだ。だったら田中康夫とかはどうかというと、もう今は世間から忘れられた存在になってしまった。新党日本は議席のない政党として滅びつつある存在である。

 ライブドアがマネックス証券の松本大の陰謀によってつぶされなかったら、堀江貴文さんはソフトバンクの孫や楽天の三木谷と肩を並べるIT企業の雄となっていただろう。ライブドアショックを起こしたのは松本大が何の予告もなくいきなりライブドアとその関連企業の信用取引の掛け目を0%にしたせいである。投資家がパニックのように売り急いだのは別にライブドアが倒産するとかいう理由ではなくて、追証が発生するのを嫌ったからである。もしかしたらその陰謀の黒幕は、堀江つぶしを意図して松本大にそうした動きをさせたのかも知れないが。

 刑務所の中で彼は全く別の世界を見てきた。多く他の受刑者たちを通じて日本社会の暗部を理解しつつ、普通の人が体験できない世界の中で彼は多くの考える時間を手に入れた。これからの日本がどうあるべきか、今の日本に欠けていることは何か。それに答えが出せる稀有の人材であるとオレは堀江貴文さんを評価している。

 もしも東京都知事選挙に堀江さんが出馬すれば、おそらくネットの上に棲息しているWEBの民たちや2ちゃんねらーたちは、彼を熱烈支持するだろう。日本の選挙区の中でもっとも浮動票が多く、もっとも人々が公正な判断を下すのが東京であるとオレは思っている。そこで堀江さんが立つことがこれからの日本の将来のために必要なのだ。

 孫や三木谷との戦いも終わったわけではない。今ここで東京都知事というステイタスを手に入れれば今度は堀江さん、あなたが大幅リードだ。東京から日本を変えるためにはあなたの力やアイデアが必要なのである。今からでも遅くない。都知事選挙に出馬するという意思表明すれば、一気に多くの「これまで選挙を棄権していた層」の支持が集まるだろう。浮動票ではなく、これまで存在しなかった大量の「選挙に行かなかった人たち」の票を獲得して、ジジイ代表の古い政治家ではなくて、これからの日本を背負うニューリーダーとして東京都知事選挙に名乗りを上げてほしいのである。


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2014年01月17日(金) 震災から19年〜神戸商船大の奇跡を忘れるな        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan



 今から19年前の1月17日の朝、オレはこれまで体験したことのないような激しい揺れで目を覚ました。揺れがおさまるまでオレは「このまま家が崩れて押しつぶされて死ぬんだろうか」という恐怖を味わっていた。揺れていたのはわずか1分足らずほどの時間なのだが、それは永遠のように長く感じられたのだった。隣室では生まれて半年の長男がベビーベッドに寝かせられていた。

 その時にその揺れを体験した者なら、それが大変な被害をもたらすに違いないことは容易に想像できただろう。しかし神戸市民にとって不幸だったことは、そのときの県知事というのは貝原俊民というかなり情けないオッサンだったことである。彼は震災の朝もいつもと同じように公用車が自宅に迎えに来るのを待っていた。交通が寸断されてとてもクルマが走れるような状況ではなかったのに家でのんびりと待っていたのである。なぜスニーカーに履き替えて徒歩30分の県庁に急がなかったのか。すぐに自衛隊の出動要請をしなかったのか。自分の目で被災状況を確認しなかったのか。オレのようなまともな人間には究極の馬鹿の考えてることはとうてい理解不能である。(ただもっと理解不能なのは、救助の遅れのために多くの犠牲者を増やしたことに関して、貝原俊民がほとんど責任を感じていないことなのだが。)

 当時、自衛隊は知事の派遣要請に基づいて行動することになっていた。10時になってやっと県庁に出勤した知事に知らされた情報は、死者4名ということだったらしい。自分の目で街を見ればその程度の災害じゃないことくらい馬鹿でもわかるだろう。貝原俊民は県庁まで行く車の中で目をつぶって瞑想にでもふけっていたのだろうか。

 神戸市東灘区の海岸部にある神戸商船大(今は神戸大学海事科学部)の学生寮も激しい揺れに襲われた。当時、その学生寮である白鴎寮には250人の寮生が暮らしていた。震度7の揺れを体験していながら、築40年のしっかりとした鉄筋コンクリート寮の建物にはたいした被害もなく、寮生たちは全員無事であった。寮の自治会長であった有田俊晃さんはすぐに暗闇の中庭に寮生を集合させて無事を確認し、周辺の被害を冷静に確認したあと寮生全員に救援活動に当たらせたのである。学生たちは全員が作業服に着替え、軍手や防寒服を装備して数人ずつの班に分かれて行動した。商船大の学生には航海実習もある。集団での訓練を日頃受けていた彼らは集団でのこうした行動に慣れていたのである。

 もちろん重機もない中、手作業で倒壊家屋から埋もれた人を救い出すのはどれほど困難なことだっただろうか。有田さんは学生を組織して活動内容や役割分担を決め、組織的に行動してどんどん倒壊家屋の下敷きになった人々を救出した。近隣2キロ四方に埋もれた100人以上の人々が、商船大の寮生たちの活躍によって救出されたという。訓練によって鍛えられた若者たちは、その英雄的な行動によって多くの人たちの生命を救ったのである。しかしその動機は「日頃お世話になっている近所の人たちを助けたい」という素朴なものだった。避難所に指定された白鴎寮には次々と周辺住民が避難してくる。その中には家屋の下敷きになった家族を残した者もいた。寮からは救援のために学生たちがチームを組んで出動した。もしも彼らの活躍がなかったらどれほど犠牲者は増えていたことだろうか。

 震災の後に起きた大火災のために迫り来る炎の中で、家の下敷きになって逃げられない状態で家族に向かって「お父さんはいいからおまえたちだけでも逃げろ」と遺言を残して亡くなった父もいただろう。たまたまその日に遠くへ出張していて神戸にいた家族全員を一度になくした人もいただろう。大災害は一度起きれば取り返しのつかない被害をもたらす。しかし起きてしまった後に一番頼りになるのは遠くからやってくるかも知れない自衛隊ではなく、近所に住む人々なのである。犬の散歩をさせたり、指定された日にゴミ出しをしたりするときに顔を合わせるご近所さんがお互い助け合うことがもっとも大切だ。ただその行動にはリーダーが必要である。神戸商船大の学生寮で自治会長の有田さんが指揮をとったように、たとえ十数人の集団でもそれをまとめて的確な指示を行うリーダーが必要だ。我々の地域社会はそうした人材を確保できているだろうか。

 震災直後の寮生の安否を確認してすぐに行動を起こした神戸商船大の有田さんと、迎えの車が来るのをのんびりと待っていた貝原知事、どちらがよりすぐれたリーダーの資質を備えているかはもはや言うまでもないだろう。そして我々の社会はなぜか上に行くほど凡庸な人間が増えてくるのである。衆参両院の議員たちがボンクラ揃いであることを見れば納得がいくだろう。目の前にある政治上の諸問題に対していつまでも答えを出せず、福島の惨状を見ながら原発をどうするのかを決められず、選挙でいつも問題になる一票の不均衡をいつまでも解消できない「何も決められない集団」が国会議員という税金泥棒たちなのである。

 阪神・淡路大震災で得た教訓を我々はきちっと活かせているだろうか。東日本大震災の時、かつての経験はどれほど役だったのだろうか。津波で流されて無くなった家に対して今もローンを払い続けてる人がいるわけで、阪神淡路大震災で多くの人々を苦しめた二重ローンの問題は結局そのまま解決していないのである。真に守られるべきモノは金融機関の利益ではなくて被災した弱者の生活ではないのか。

 神戸の震災復興に名を借りた行政による地上げや区画整理は地域コミュニティを崩壊させ、復興住宅では多くの被災者が孤独死した。同じことが東日本大震災でも起きるのだとしたら、我々は結局19年前の大災害から何も学ばなかったことになる。あれだけ多くの犠牲を払いながら何も学べなかったというのはあまりにも情けない話である。

 あれから19年、そして東日本大震災からはもうすぐ3年になる。消防団でも自衛隊でもない若者たちが組織的に行動して家屋の下敷きになった多くの人たちを救った神戸商船大の奇跡を我々は語り伝えないといけない。大災害はいついかなる時にやってくるかわからない。自分が助かることしか考えない者たちも当然いるだろう。しかしその時に勇気ある誰かが最善の行動を取ることができれば、多くの人の命を救うことができる可能性がある。そのことを我々は常に忘れてはならない。


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2014年01月14日(火) あべのハルカスをダイエットの聖地に!        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan



 1月13日、各地の成人式を伝えるニュースが流れたのをオレは見ていたのだが、その中でも特に目を引いたのが、春にオープン予定の「あべのハルカス」展望台の地上300mのところまで階段で上がるというイベントだった。新成人たちは1時間かけてへとへとになりながらこの階段登りを達成したのである。途中で力尽きてリタイアした者はいなかったのだろうか。

「300mの高さを1時間かけて登る」

いったいどれほどのカロリーが消費されるのだろうか。この運動だけで500グラムくらいの脂肪を燃焼させられるのではないか。そのあたりオレは栄養学やダイエットの専門家ではないので全くわからないのだが、少なくともかなりの運動になることは確かである。しかもその場所は天王寺という大阪で3番目の巨大ターミナルのところなのだ。交通至便な場所だけに通勤通学でそこで乗り替える人もかなりの人数になるだろう。つまり、日々その場所を多くの人が通過しているわけで、そこになんらかのビジネスを成立させれば集客ということではたいへん好都合なのである。

 もしもこの「ハルカス階段登り」をダイエットの商品として近鉄が売り出せばどうだろうか。登り切ったところでノンカロリーのドリンク類が無償で提供されるというということになれば、あるいは有料の展望台が階段登りの方だけは無料になるなどの特典があれば、きっと大人気になるような気がするのだ。

 カードが発行され、階段登りをした日はスタンプを押してもらえるということになれば自分への励みとなるだろう。一ヶ月に何回登ったかという回数に比例してダイエットの成果が上がればますますやる気が出る。かくして多くの「やせたい人たち」がハルカスをめざすということになるのである。

 多くのダイエッターたちが集まれば、当然そこで多くの交流が生まれ、出会いが生まれる。人が集まれば新たなビジネスも生まれる。ハルカスが「ダイエットの聖地」ということになればそこを拠点にしてイベントなどをプロデユースすることが可能になるだろう。「都心のど真ん中の階段登り」というのはそれ自体が魅力的な商品であることを認識すべきである。

 もちろんダイエッターばかりではない。山登りのための体力作りに励みたい中高年の方もそこでトレーニングすることが可能だ。登り切ったらすばらしい眺めというご褒美もある。きっと多くのチャレンジャーが現れるだろう。いつしかハルカス展望台は「歩いて登るのが普通」ということになるかも知れない。

 オレがこういうばかげたことを書いてるのを何かの機会に近鉄の重役の方々が読んだとしても一笑に付すかも知れない。しかし、大阪で「アベノ・天王寺」地区というのは一番不利なのである。オレが中学生高校生の頃、遊びに行くと言えば地下鉄に乗り換えてそのまま難波まで行ってしまって、あべのは素通りしていたのである。そこにあんなばかでかい高層ビルを建てたのだ。何もしなかったらそのまま巨大な負の遺産となって不良債権となってしまうのである。そうならないようにあらゆる手段を講じるのが経営者ではないのか。今の時代、斬新なアイデアを生み出せない経営者はどんどん淘汰されてしまうのだ。

 いや、近鉄の協力なんかいらない。勝手にダイエッターたちがそこに集まればいいのである。自然発生的にその階段登りが流行し、そして多くの人がそこで交流するようになれば自然とハルカスはダイエットの聖地となる。都心の便利なところにある階段登りのトレーニング場所で眺めは最高ということになれば、自然に人は集まるだろう。

 通勤帰りに「ハルカス」はいつも目に入る。まだオレは中に入ったことはない。しかしオープンしたらあの展望台には絶対行きたいと思っている。大阪を魅力的な街として世界に発信するためには「ハルカス」の成功は不可欠である。階段登りを見てオレが思いついたこのアイデアはどうだろうか?


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2014年01月13日(月) これからのATM強盗について        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan



 ATMの中には大量の現金が収納されている。だからそいつの中からゼニを奪おうとするのは犯罪者なら誰しも考えることで、重機で破壊するとかATMの機械ごと持ち去るとかいう乱暴な犯罪も起きていた。しかし手間取ったら警報装置が作動したりして警備員が駆けつけることになるし、この種の犯罪は短時間で手際よく行う必要があったのである。

 しかし、わざと警備員を呼び出して、彼らの持つ鍵で現金収納箱を開かせてそこからゼニを奪うという方法はこれまであっただろうか。警備員が逆に襲われるなんて事態は想定されていなかったはずである。読売新聞の記事を引用しよう。

警備員脅されATM開錠、2人組が数百万円強奪
 9日午前3時35分頃、兵庫県姫路市余部区上余部のJA兵庫西旭陽支店余部コーナーで、警備員(30)から「2人組の男に襲われ、ATM(現金自動預け払い機)から現金が奪われた」と110番があった。
 県警網干署員が駆け付けたところ、ATM付近に消火剤がまかれ、中にあった数百万円がなくなっていた。
 網干署は強盗事件として捜査。発表によると、警備員は警報が作動したため、同3時過ぎに現場に急行、周囲を見回っていたところ、突然、2人組の男に羽交い締めにされた。「金を出せ」と脅されたため、持っていたカギでATMの現金収納箱を開けると、頭から服のようなものをかぶせられ、粘着テープで後ろ手に縛られたという。男らは現金を奪って逃走。警備員は自力でテープをほどき、近くのコンビニエンスストアから通報したという。
 同署によると、男の1人は黒っぽい上下、もう1人は不明という。
(2014年1月9日12時51分 読売新聞)


 この事件でオレが不思議なのは「金を出せ」と言われて、そこで自分の持ってるゼニを出すのではなくて、ATMの中から出したことである。なぜそのカギを持って行く必要があったのだろうか。このような場合に駆けつける警備員がATMの現金収納箱のカギを持ってることが通常のことであり、日本全国で同じような状況であるならば、これからのATM盗は「警備員を呼び出してカギを奪う」というのが王道になってしまうだろう。

 犯人が拳銃や刃物を持っている場合、警備員は普通は抵抗できずにあっさりとカギを渡してしまうだろう。別に命がけで守るべきものでもない。そこにあるのは他人のゼニであり、自分はただ巻き込まれた被害者である。ここは犯人を怒らせないように穏便に素直にするのが得策だ。そういうわけできわめて簡単にこの犯罪は成功してしまうのである。つまり今回の事件は、これからのATM強盗がどうあるべきかというきわめて明確な指針を犯罪者たちに与えたのである。

 さて、ATM機を製造する側はどうやって対応すればいいのか。そもそもこのような犯罪の被害に遭ったときに損をするのは誰か。銀行にとって奪われるATM一台分のゼニなんてはした金は別に気にならないだろう。もしもATMの機械が壊されるならば新しく購入しないといけないが、カギを開けるのなら機械は無傷だからむしろその方がいいということになるかも知れない。かくしてこのパターンは銀行にとっても都合がいいのである。積極的に防止しようというモチベーションは上がらない。銀行が全く対応しようとしないから、かくして模倣犯はどんどん増えることとなるのだ。

 模倣犯の中には警備員と格闘する自信がないので、不意打ちで殺害するという方法を選ぶ者もいるだろう。殺してしまえばゆうゆうとカギを奪えるということになる。あるいは警備員とぐるになって八百長の強盗事件を起こす輩が出てくるかも知れない。

 これまで治安の良さを世界に誇ってきた日本では、今回のような犯罪はあまり想定されていなかったはずである。この事件の報道のために、逆に犯罪の具体的方法が明らかにされてしまった以上もはや手の打ちようがない。じゃあどうすればいいのか。警備員が襲われた時のために警備員の警備員を派遣すればいいのか。じゃあ犯罪者側はその警備員の警備員を襲う要員をさらに増員すればいいわけで結局防ぎきれないのである。なんとも物騒な世の中になってしまったものだと言うしかないのである。


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2014年01月07日(火) ゲームのやりすぎは身体に悪いです        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan

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 新年早々、17歳の次男が激しい頭痛を訴えて祖母の付き添いで病院に駆け込んだ。脳のCTを撮ったり、医師から「髄膜炎の検査をしましょうか?」と言われたり(頭痛だけでその必要はないだろうと断ったが)、とにかく本人は「めっちゃ痛い!」と訴えるのでなかなか困ったそうである。しかし、考えれば私も一年前に「めっちゃ頭痛が」と自分でクルマをを運転して脳神経外科に駆け込み、CTを撮ってもらったことがあった。考えたらそのときの自分の「パソコンの画面注視」「睡眠不足」と、次男の「スマホのゲームやり過ぎ」「睡眠不足」とは何か共通するような気もしたのである。

 それで、一日経っても症状がおさまらないという息子を連れて、オレは脳神経外科のある病院へ次男を連れて行った。そのときにオレの脳裏には「もしかしたら自分と同じ原因かも知れない」という予想があった。

 病院では付き添ったオレが自分の予想を伝え、そして念のために再度CTを撮ったがそこには何の異常もない。医師は息子の首筋などを押さえて「凝ってますね」と言い、とりあえず頭痛薬や、筋肉の凝りをほぐす薬などを処方してくれた。オレは帰りにドラッグストアでフェイタス(湿布薬)を買った。帰宅して首筋背中側にそのフェイタスを貼り、少し肩や首筋をマッサージした。すぐに指が疲れて中断する。このマッサージという仕事を生業とする人たちはどんなに強い指先の力の持ち主なんだろうか。とてもオレには無理だなと実感した。

 頭痛持ち(実は肩凝り)のオレの息子なら同じ体質を受け継いでいる可能性は高い。本人が「めっちゃ頭痛い。頭の中なんかなってるんちゃうんか!」と思ったほどの頭痛はオレが経験したのと同じである。だからきっとこれで大丈夫だろうと思って様子を見たら、一眠りした後の次男はケロリとした様子で散髪するために美容院に行った。どうやら痛みは治まったようである。寝る前にもう一度湿布薬を貼り替えてそれから眠らせたのである。翌日は全く頭痛を訴えることはなかった。

 おそらくこのお正月、日本中にゲーム三昧、パソコン三昧で寝不足だった方がいるはずだ。そしてその中には激しい頭痛を感じた方もいるだろう。もちろんその頭痛が重大な疾患に由来するものである可能性もあるので病院できちんとした診断を受けるのは大切である。しかし、肩凝りかも知れないのでまずは「首の運動」「肩の凝りをほぐす」「マッサージ」で様子を見てみよう。首筋に温湿布を貼ってみよう。それだけで劇的に症状が改善することだってあるし、最近増えたマッサージの店に立ち寄ってみるのもいいだろう。

 オレはパソコン画面に向かってるときは必ず一定時間ごとに休んでゆっくりとお茶を飲んだり、首をぐるぐるしたり、目を閉じて休んだり(そのまま気を失うこともあるが)している。そうしないとまた激しい頭痛がやってくる。それ以外にも50をこえたオレの肉体はもうかなりガタがきていて視力は落ちてるし、少し歩くとすぐに息切れするし、腹は出てきたし髪はどんどん失われるし、日々滅亡へ向かっていることがよくわかる。なんとかこの崩壊速度を緩めるためには定期的に運動したり、食べる量を減らしたりと工夫が必要なんだろうというのはよくわかる。しかし、仕事は忙しいしなかなかそんな余裕はないのである。実に困ったことである。

 フルマラソンを走る50代、60代の方を見ると立派だなあと思うし、街をロードレーサーで走る熟年の方々を見ると、かつてサイクリング部だった日々を思い出す。体力というのは不断の努力によってのみ維持されるのであり、何もしないとどんどん衰えていくのである。かつての貯金を使い果たした今はただもう墜ちていくしかないのだ。そう思うと早くこの衰えを食い止めるために何かしないといけないなあとオレは焦るのである。

 エレベーターを使うのをやめてどんどん階段を歩こう。廊下を歩くときはできるだけ早足で移動しよう。学校の近所に昼食に出るときはクルマではなくて徒歩で行こう。できるだけおやつを食べないようにしよう。そんな小さな工夫でも積み重ねれば何かが変わってくるはずだ。確実に衰えていく自分の肉体を感じながら、オレは残りの人生の時間を考えるのであった。


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2014年01月01日(水) 元旦に靖国神社について考える        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan


 昨年末に安倍首相が靖国神社を参拝したことは世界に大きく報道された。韓国や中国が反発してるからとなんとアメリカの駐日大使までが「失望した」というコメントを発表したことにはあきれてしまったが、そもそもなぜ靖国神社がこんなに誤解されてしまったのか。なぜ「戦争犯罪」なんてものがあって、A級戦犯とされた人々がそこに合祀されたことがいけないのか。そもそも戦犯の人たちは悪意があってあの戦争を始め、国民を苦しめたという罪をかぶる必要があったのか。そんな疑問を感じるようになったのである。

 もしも太平洋戦争が起きなかったらどんな歴史が存在しただろうか。映画「永遠の0」では妻子に「きっと生きて帰る」と誓ったのに特攻に出撃して亡くなった主人公が出てくる。昨年は奇しくもあの時代を描いた映画が多かった。「風立ちぬ」「少年H]も同じ時代を描いている。「少年H」は戦時下の国民の生活を描き、「風立ちぬ」はあの時代の純愛を描き、「永遠の0」は勝ち目のない戦いの中で死ぬことが美徳とされる狂気を描く。

「第二次大戦とはどういう戦争だったのか?」

 アメリカやイギリスといった連合国側は、この戦争の歴史的定義を確定させて、「枢軸国側=悪 連合国側=善」という史観を定着させる必要があった。ニュルンベルグ裁判や東京裁判はそのために必要な小道具であり、事後法によって裁くという全くのイカサマであったことは、参加して少数意見を述べた何人かの判事によって主張されているが、それらの多くは黙殺されてしまい、日本政府はその裁判の結果を受け入れるしかなかったのである。第二次大戦の中で起きた最大の戦争犯罪はナチスによるユダヤ人虐殺と、広島長崎の核兵器の人体実験であるとオレは断言する。南京事件の犠牲者(中国側の主張では南京市の人口の倍以上なんだが)よりも、蒋介石の行った黄河堤防決壊事件の犠牲者の方がはるかに多いし、中国だけで考えるならチベット侵攻で虐殺されたチベット人は数百万だし、文化大革命で殺された人は1000万人以上である。中国にとって南京事件を世界に誇張する意味は自国の黒歴史を隠したいからであり、だから東京裁判で松井石根大将を南京事件の責任者として処刑させる必要があったのだ。

 アメリカ人にとって、太平洋戦争開戦には「日本=悪」「卑怯なパールハーバーのだまし討ち」という刷り込みが国民に対して必要だったわけで、それは日本人にとっても同様であって、あの時代の国民は基本的にアメリカという国に対して敵意を感じてなかったのである。「鬼畜米英」という刷り込みを必要としたわけだ。もっとも現代でも隣国を「敵」だと学校で教える馬鹿な低レベルの国家があるが、そんなカス国家のことは今は無視したい。

 なぜ日清戦争が起きたのか。朝鮮に親ロシア政権ができればそれは日本にとって脅威となるし、そもそも中国は朝鮮をいつまでも属国としてとらえていて、日本にとって自国の防衛と言うことを考えたとき、少なくとも朝鮮半島を日本の支配下に置くことで自国の安全を確保したかったのだと言える。ただ、日本は朝鮮半島から満州、そして中国へと拡大政策をとろうとする。そこに大きな間違いがあったことは否定できない。

 辛亥革命が起きて清国が滅んだときが一つのチャンスだった。西欧列強が中国の土地を租借して進出しようとした時、日本はそこで中国を支援し、西欧列強の侵略に対して「東亜の大義」を主張し、インドシナ半島やインドネシア、フィリピンから西欧を追い出し、インド独立に手を貸してやるべきだったのだ。アメリカと戦わずにアジアからイギリスやフランス、オランダを追い出すのは高度な外交戦略を必要とする。連合艦隊はその時に大いに役に立ったはずである。あの時代に空母機動部隊を作戦運用することができた国はアメリカと日本しかなかった。軍隊は使わずに戦力を誇示することでもっとも威力を発揮する。だから実際には使えない核兵器を近代国家は保有してるのである。

 そんなふうに架空の歴史をそこで想像したところで、今の歴史はそのような流れにはなってくれなかったわけだし、戦勝国によって第二次大戦の善悪は決定されたわけで歴史の評価はすでに決められてしまっている。勝者はそこで自国の正義を主張した歴史を敗者に押しつけることが可能なわけである。(勝者でも何でもない韓国がそこに便乗して自国の歴史を書き換えてしまったことは笑止千万なわけだが。)日本はハングルを普及させ、朝鮮語をきちっと書けるように小学校で教えた。文盲率の高かった韓国に教育が普及したのは日本統治時代があったからである。

 もっともそんなことを主張すれば「植民地支配を正当化した」と言われそうだが、日本にとって台湾や朝鮮半島は植民地などではなくてそこは日本の一部だったのだ。だからソウルや台北には帝国大学が設置されたのである。学校を整備し、役場を置いて戸籍制度を整備するためにどれだけ日本はゼニを使ったことだろうか。日本並みにし、朝鮮人や台湾人は日本人同様に選挙権も被選挙権も持っていた。少なくともそのような統治を「植民地」とは呼ばない。

 戦争が起きたときに常に犠牲になるのは国民である。戊辰戦争から太平洋戦争に至るまで多くの血が流されたわけだが、靖国神社はその死者の霊を弔うことからスタートしている。明治維新という政治体制の移行の中で起きた戦争の犠牲者はいわば国家のために犠牲になったわけで、その慰霊のための施設として神社が造られたことは理解できる。日清日露戦争の犠牲者と太平洋戦争の犠牲者の間に何らかの違いがあるわけではない。国家が何らかの目的を遂行する手段として戦争を選択し、国民がその犠牲となることは有史以来繰り返されてきたことであり、それは21世紀の現代でも基本的に変わらない。

日清・日露戦争や第一次大戦と太平洋戦争の違いは何かと言われれば、日本の領土が戦場となり多くの非戦闘員が犠牲になったということである。靖国神社に祀られているのは軍人軍属であり、空襲によって犠牲になった市民ではない。その両者を区別した時点で靖国神社の性格が誤解を招くことにつながったとも言える。

 中国や韓国が靖国神社への安倍首相参拝に対して抗議するのは、両国が前述の「連合国=善」「枢軸国=悪」という価値観をそのまま受け入れているからである。だったら日本はその価値観を否定して自国が正義の戦いをしたと主張すればよいのかというと、少なくとも東京裁判や日本国憲法を受け入れて「すべてを懺悔して出直した敗者」として戦後の歴史をスタートさせた以上それを振り出しに戻すことはできない。

 日本が起こした太平洋戦争の意味を「侵略戦争」と規定し、日本が「悪」の側であったという連合国側の史観を受け入れた時点で、その犠牲者(軍人に限る)を慰霊する施設の性格は実に奇妙なものになってしまったのである。日本人から見れば戦没者は戦争の犠牲者なんだが、アメリカ人から見れば「悪事を働こうとして返り討ちにあった者たち」でしかないわけだ。そこに参拝する安倍晋三はアメリカ人から見れば「なんだおまえは戦争のことを反省していないのか?」ということになってしまうのだ。我々一般国民が考えてる靖国神社の意味と、韓国や中国、そしてアメリカがとらえてる性格が全く違うのは、歴史観に由来するのである。

 インディアンの土地を奪って成立したアメリカにとって、戦争の大義というのは常に「自分たちが正義」という立場から語られることになる。騎兵隊を悪、コマンチ族を善とする映画「ローン・レンジャー」がアメリカで不人気だったのは、アメリカ人が自分たちの黒歴史を正視したくないからである。太平洋戦争は「卑怯なジャップのだまし討ち」に対して「正義の戦いを挑んだアメリカ」という理由付けを必要としたわけだし、ベトナム戦争は「共産主義の悪を食い止める聖戦」だと国民には説明されていたのである。

 首相の靖国神社参拝をアメリカや中国・韓国に好意的に受け入れてもらうことは不可能だ。そのためには第二次大戦の意味を改めて問い直すことが必要だからだ。

 広島の平和公園には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がある。この碑文には主語がないのだが、誰が「過ち」を繰り返すのかと考えたとき、アメリカ人や中国人はその主語を「日本」および「日本人」としか理解していないのである。「日本は侵略戦争という過ちを犯したからその罰として原爆を投下された」という文脈でこの碑文は理解され、それはアメリカの重大な戦争犯罪を正当化することにつながるのである。また核保有国の中国から見れば「尖閣諸島のことで文句を言うならいつでも人口密集の大都市に核兵器をぶち込むぜ。なにしろ過ちをおかしてるのはおまえたちだからな」ということになるのだ。

 アメリカや中国、ロシアを盟主とする現在の世界秩序の枠組みの中で日本は永久に「敗戦国」であり、「もと敵国」なのである。それが戦勝国によって作られた歴史の持つ宿命であり、我々はその価値観の中で束の間の戦後の繁栄を謳歌してきたのである。

 かつて戦いとは神聖なものであった。西洋には騎士道があり、日本には武士道があった。織田信長が異端なのは、彼が戦いの中で非戦闘員まで皆殺しにしたからであり、それゆえ彼は排除される宿命を負った。そして近代の戦争の中でもジュネーブ条約によって非戦闘員への攻撃は国際法違反とされていた。そのルールはいつから無視されたのだろうか。たかだか150年ほどの歴史しかない金儲けのことしか考えてない連中が「勝つために」手段を選ばず非戦闘員の女も子どもも皆殺しにした。その「戦争犯罪」を「悪い国へのお仕置きなんだ」と正当化して文句を言わせないようにするために東京裁判が行われた。

 アメリカは日本にとって友好国でも何でもない。それは中国や韓国から見ても同様だ。彼らの頭の中にあることは「我々に逆らうならいつでも日本民族は滅亡させることができる」という傲慢な思い込みである。

 日本は第一次大戦の後にパリ講和会議の国際連盟委員会において「人種的差別撤廃提案」を連盟規約に入れることを主張している。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。この提案に対して投票が行われ、賛成多数だったのだが人種差別を国是とし、多くの植民地で差別的な政策をとっているイギリスは強硬に反対した。イギリス人から見れば日本人などは黄色いサルに過ぎないわけで、そんな連中の戯言は聞く価値もないということだったのである。結局提案は賛成11票、反対5票でありながら「このような重要な案件は全会一致が原則」という理由で否決されたのである。あの時代、世界で最も人権意識が高かったのが実は日本であり、アメリカやイギリスはいつまでも奴隷制度の習慣から抜けられない田舎国家だったわけだ。日本人は自らの精神の高潔さをこそ誇るべきだったのである。

 それなのになぜアジアにおいて自らを中国人や韓国人よりも優れているという勝手な優越感を抱いたのだろうか。どうして自分たちよりもはるかに低レベルの人権意識しかもたないアメリカやイギリスのレベルまで自分たちを貶めたのだろうか。オレはそれが不思議でならないのだ。アメリカやイギリスという腐った国家のレベルに自らを貶め、そのカスどもがやってることを真似た結果が満州国の建国であり、中国への侵攻ではなかったか。フィリピンや仏領インドシナ、蘭領インドネシアを英米の植民地支配から解放したことと、中国での戦いは少し意味あいが違っている。中国の人民と連帯して欧米支配を排除することはもっと外交的な工夫で可能だったはずだ。少なくともインパール作戦はインドの方々からはインド独立戦争と位置づけられ、チャンドラ・ボースはインドではガンジーと並ぶ英雄なのである。

 東京裁判の時にもしも堂々と日本の正当性を主張するような論客が参加していたらどうだっただろうか。おそらくその発言は議事録から削除されるか、裁判が始まる前に彼は暗殺されていただろう。

 現在の日本の繁栄の陰には多くの犠牲があった。その犠牲の上に今の我々の生活が存在する。かつて日本の戦いを正義であると信じ、その大義に殉じて散華した多くの尊い生命をどうして無視することができようか。もちろん戦争における殺戮に正義などないし、大義など勝手に大国の都合で決められるものである。しかし、そうして我々が考えることができるのは平和な世の中に暮らしているからであるということを忘れてはならない。戦争の渦中にある当事者にとっては自分が生き延びることができるかどうかしか考えられないのである。


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