道院長の書きたい放題

2009年08月19日(水) 第二回 活人拳講義録/行に関する質疑

■宗門の行と行の違い。

さて、序文を書いたので、本題に入ろう。

「先生! その前に一つ質問があります。宗門の行と行はどう違うのですか?」

――宗門の行と行は、開祖もはっきり認識していなかったのではないだろうか。つまり同じ、あるいは、そんな細かいことはどうでもエエ!と言われたかもしれない。しかし開祖亡き後はそうもいかないので、一応、思う違いを述べておこう。

少林寺拳法は、教育に付与する現代武道として表現すれば「行」になり、人造りの宗教と表現すれば「宗門の行」となるだろう。行は幅広い概念であり、宗門の行はより専門的な制約のある概念と言える。


例えば、金剛禅(運動)と幸福運動という二つの言葉がある。前者は信条にある三か条(自己確立、自他共楽、理想境建設)に理想「境」を用いるが、後者は理想「郷」と用いる。境が特殊だが、少林寺拳法にはこのような字義の用法が散見される。「行」はまさにそうで、開祖の感性による独特な読み取りと言えなくもない。肘を張る合掌からして独特で、肘を張らないのは佛像彫刻に適した為だ、と仰っていた。


境と郷の使い分けは、昭和38年に発刊された『秘伝少林寺拳法/カッパブックス』からと思われる。だいたいこの頃に、一般にも分かりやすい用語を心掛けられたのだろう。あるいは、予想を上回る少林寺拳法の発展に合わせ、説明する為に新たな用語を導入されたのかもしれない。もちろん開祖ご自身のご成長もある。


教範を開くと、―金剛禅の主張と願い―の項で、「人間の心の改造と平和的な手段によって地上天国実現させようとしている」と述べられている。つまり心が境=精神世界で、地上天国が郷=現実世界を意味すると考えるが、布教普及の過程で「理想境=郷の建設→世界平和の達成」という大目的に気付かれたのだろう。

なので、拳禅一如の法門ではあるが、より精神世界の目的に働きかけるのが宗門の行で、この場合肉体ではなく、より現実世界の目的に働きかけるのが行と理解してはどうだろう。



■なぜ冒頭に行を論じる?

「ではこちらから質問しよう。なぜ冒頭、行の説明、定義から書き始めたのか。誰か答えられる人いるかな?」


――ハイ! 平和を志向する少林寺拳法にとって、目的と手段が一致していることが望ましく、手段である行が先生の言われた通り平和を志向する字義であるなら、行が手段で矛盾が無いからだと思います。

――では二人の矛を止めるとする武はどうでしょう。少林寺拳法では武も和協の道を表す字義とされますが…。


「これは面白い視点だね。喩えて言うなら、武はすでにケンカが始まったとか、睨み合っている最中に割って入る仲裁=和協というイメージがあるけど、行は未発の武を押さえる、…いや武(力)は感じられないね。向かい合うお互いが異なる価値観を乗り越え、平和構築に向かうイメージがある。想像だが、晩年の開祖は武を超越されて行に辿り着かれたのではないかな。個人的に喩えるなら、武による平和は核抑止、行による平和は核放棄、くらいの違いがある。

質問の答えは正解です。付け加えるなら、少林寺拳法は思想体系に整合する技法体系なので、手段の質=行の質が重要と分かってもらいたいのだよ」


■ある日のブログより。

『人類は紀元前から戦争の歴史を繰り返し、現在に至るも脱却できません。

開祖・宗道臣先生は不思議な方ですね。少林寺拳法=武を通して成長され、平和=幸福の達成を武力ではなくて、武徳(筆者注:今なら行)で達成されようと説かれました。

その意味で、少林寺拳法は特殊な技法体系=活人拳である体系を備えます。先生は、ついには幸福運動という境地にまで至られました。

いかにして武がこのように質的転換を為し得たのか、世界が平和=幸福になれるヒントがあると思われます』





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あつみ [MAIL]