道院長の書きたい放題

2009年08月21日(金) 第三回 活人拳講義録/合掌(礼)を考える

■合掌(礼)を考える

「行についての見解を示してもらいましたが、では道はどうでしょう。行と道との関わりを知りたいです」

――行と共に道も重要と思われるが、本講義は少林寺拳法の全伝を明らかにする意図はなく、もとよりそれは未だ山麓を徘徊する身には手に余るので、活人拳の解明を主たる目的としている。すると、道より行と合掌に目が行くので、続いて合掌について講義を進めさせてもらうことにする。道については改めて論じることにしたいが、よろしい?

「ハイ!」

――少林寺拳法の修行において、人が人を背負う行として向かい合うとき、合掌・結手を交わすのが素晴らしい。最近、道場で「合掌形」ということを口にするようになったのは、拝み合い立て合う姿が相互尊重の形ばかりでなく、活人拳において教えと技法に深い意味を持つと理解したからだ。

合掌開手伸筋系と結手握拳屈筋系は陰陽に比すべきで、天である陽の顔面に合掌を配し、地である陰の下腹に結手を配置したのは、陰陽一体・天地自然の理を現して、まさに法形だ。法形は単に護身の形ではない。狭義にはそうなるだろうが、決してそこだけに止まってはならない、と考えるのが活人拳なのだよ(『教範/法形の真義』参照)。


■さらに合掌を考えよう。

そもそも護身術を習おうと思うのはどういうこと?

「自分の身を守りたいからです」

――そうだよね。誰に質問してもそう答えるだろう。まあ、自分の大切な人を守りたい、という答えもあるだろうが、まずは我が身が害されたくない、たった一つの大事な命を守りたい、というのを動機としてほとんどの人が習う訳だ。

ここが重要なんだ!

開祖は教範の中で、宗教的機縁の大切さを説かれている(『教範/苦悩の根源について』参照)。この言葉を拝借するなら、護身術を習う動機は、実は命の大切さ、尊さを学ぶのに最適な機縁となる。

なぜなら、一つしかない命を宿すのは他人も同様であり、自分の命を尊重してくれるのは大いなる安心であり、この自分と他人の命を思う心を表現する為に合掌と結手を行なわせる。この意味を、入門最初期から自覚させるのが活人拳の入り口なのだ。

皆は道場で見てきただろうが、私は新入門の最初の一ヶ月間をずっと直接指導し続けた。その際、特に合掌と結手と卍の意味(後述)と行、なので活人拳である、と説いてきた。

最近こそ、次世代を育てる為に副道院長にさせることもあるが、多分、活人拳の重要さに気が付いた辺り(1995年頃)から、積極的に新入門指導に取り組み、その経験が勉強になった。一ヶ月間、彼等に教える事柄に、活人拳の基礎が凝縮されていると確信できた。

命に軽重は無いので対等な礼をする。素晴らしいね! そして他人に向けられる合掌が、やがて人の霊止たる我の認識まで昇華する。


■黒板に書くと、

自己の命の尊さを思う→他人の命の尊さも同じと気付く→ダーマの分霊を宿す自らの可能性に気付く。

となる(『教範/人の霊止たる我の認識』『可能性の種子たち/作山吉永』参照)。

どうだろう? 深く合掌を意識するのが活人拳と分かってくれたかな。

「結手はどうなりますか?」

――これはうっかりした。我々拳士は合掌(礼)するが、冒頭述べたように合掌と結手は陰陽一体で、実は結手は結手礼だから同じなのだ。

どちらも命を大切に思う表現なので、法形修練でも演武修練でも、いや活人拳としよう!結手から合掌し、再び結手したのち、気合を入れて構える。この意味ある形を大切にし、修練時、通常の挨拶で繰り返し行なうのだね。





【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。

良いものを残したい、伝えたい、と念じております。


 < 過去  INDEX  未来 >


あつみ [MAIL]