道院長の書きたい放題

2009年08月18日(火) 第一回 活人拳講義録/序 行を考える

―はじめに―

本日より、「活人拳」を明らかにする為、講義を開始する。

ただし、独りPCに向かい記述するのは寂しく、味気なくもあり、良い思考を浮かばせる為にも、09年夏季臨海合宿の際、私の部屋で行なった、紅卍諸氏10名に対する練習会の延長をイメージして講義=書き進めるすることにする。それなので、文章の調子については、これが前提であることをご承知されたい。

皆様に於かれては、叱咤激励と尚一層のご指導を賜りたく、また未熟な点は平にご容赦をお願いする次第である。  

            2009年8月18日 活人拳研究舎にて  
            金剛禅少林寺横浜根岸道院長 渥美紳一 


         <活人拳講義録/序 行を考える>


■「行とは、教えを身に付ける為に行なわれる行為である。当然、教えに目的があれば、行為も目的を達成するまで行なわれる。ないし行なわれ続ける。尚、教えを学び理解・知識とするのは、学問である」――。

しかし、身に付けるべき教えの目的は個人に止まるものであってはならない。少林寺拳法開祖・宗道臣師家の説かれたこの字の形の如く、行人偏は、小は(家族的、社会的)強者が弱者を背負う姿であり、さらに大は、指導者が背負う民衆=国家と喩えられるであろう。

090824訂正:強者が背負う弱者の姿であり→強者が弱者を背負う姿であり


■その使命を帯びた者同士、国同士が「行」となって向かい合うのは、お互いが合掌し、尊重し、協力し合って共に歩む世界を表している。すなわち、行は極めて平和を志向する字義である。開祖が少林寺拳法の修練において、苦行・シゴキを排した所以はここにある。

また、解脱を目指す仏教の行において、行人偏は自らの宿行=カルマを自覚していることを表す、と考える。その自覚を持った仲間が助け合って修行し、共に彼岸に至ろうとする姿である。ただし、金剛禅は無常観よりもダーマ=大生命力を観じるのであるが、今は触れない。

開祖が説かれた仏教に於ける行を記す。

「…仏教における行というものは、向上を求めながら自らが解脱することと、生きとし生きるものを教え導くことの調和にあるのです。他人の幸福を願わず、自己の向上だけを図るものは、真の意味で『行』とはいえないものです。」――「書きたい放題/2002年03月05日(火) /(続)会報少林寺拳法を読んで! 」


■開祖は少林寺拳法における宗門の行、ないし行そのものを説き続かれた。昭和47年、組織を挙げて出場した日本武道際(於武道館)において、試合形=闘う姿を観衆に見せず、法形・演武を修行する「行」としての少林寺拳法の在り方を、満天下に示されたのである。ちなみに、他の現代武道(柔道、空手、合気道、相撲、剣道、柔剣道、なぎなた、弓道)は全て試合形を行なった。

爾来37年、私達拳士は絶えず反省を試み、先生の教えを正しく行じ、継承し、発展させねばならない。私は行たる活人拳の研究を進め、先生の報恩に報いようと決意している。


090824訂正:開祖は少林寺拳法は宗門の行→開祖は少林寺拳法における宗門の行



【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。

良いものを残したい、伝えたい、と念じております。


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