道院長の書きたい放題

2003年03月05日(水) ◆乱捕り年表の追加・2−1

【年表に記さなかったこと】

■これまでの「書きたい放題」を参考として乱捕りの推移/年表を書いたが、若干、追加したいことがある。尚、いくつかの題材は今後の論を展開する上で参考資料として掲示したい。

まず、1955年/昭和30年より以前、昭和25年頃の機関紙(←原本ではない、コピーである)を読み返すと、当時から競技乱捕りが行われていたことが窺い知れる。少林寺拳法は1947年/昭和22年の創始であるから、相当早い時期からである。

学生拳士が1962年/昭和37年の関東学生大会に競技乱捕りを取り入れたのは特筆的な事項ではなく、極々自然な流れからだったのだろう。

であるから、翌年に発刊されたカッパブックス『秘伝少林寺拳法』の中で、開祖が「少林寺拳法には勝敗を争う試合が無い」と著述されたことと並べて思う時、学生連盟との間にすでに大きなボタンの掛け違いがあったと感じる…。

一体に乱捕りの問題はむずかしいようで、“誰が”ということではなく、少林寺史として迷走?している。年表を作ってみて改めて実感する。しかし開祖のみ、飛躍的に進歩されている。1965年/昭和40年度版の教範は、10年前の昭和30年度版とは質量共に比べものにならない内容であることからも分かる。

乱捕り問題の根本は、開祖の精神的な飛躍と組織との間に生じたズレにあると考える…。

■もうひとつ年表に載せなかったのが「河口湖事件」1979年/昭和54年のことである。

大会改革の年に学生拳士を失ってしまった私にとって、事故は二度と起こってはならないことであった。それなのに…再度、学生拳士の死亡事故に遭遇してしまった。追い討ちをかけるように翌年、開祖のご逝去。ところが開祖のご意志に反するが如く、競技乱捕り復活の路線が着々と進行していた。

1981年/昭和56年、関西学生大会で死亡事故が発生したのはそんな時期だった。当時、私は学生委員であったが、事故の連絡を受け居ても立ってもいられず新幹線に飛び乗った。別に本山から指示を受けた訳ではない。河口湖事件が、私の中でまだ生々しく残っていたからであった…。

乱捕りを復活したいという欲求/今様にいえば抵抗勢力?が底流にあったのは否めない。しかし、学生拳士の死亡という事態を招いたことは真に大きな結果であった。

私は憤った…。

■それで、当時、本山の事務局長であった竹森氏にこう電話をかけた。かなり昂ぶっていたように思う。

「乱捕り復活を望む人達とケンカをさせて下さい」

「…どういう風にするの?」

「すべての部門の代表者からなる会議を本山で招集して下さい。そこできちんと乱捕り問題の決着をつけます」

「分かった…!」。おおよそこんな会話であった。

まあ、この提案が聞き入れられたのかどうかは分からない。ともかく、第一次乱捕り検討委員会となって会議が招集された。残念ながら私は学生部の代表として入れなかったが、盟友である作山先生が国際部の代表として委員となった。

1982年/昭和57年の第一次乱捕り検討委員会の決定を“組織決定”と表したのは、この時の委員会の人選が本山指名ではなく、それぞれの委員が部門代表者として各々に選出されたからであり、まさしく組織としての会議となったからである…。

■時を経て、再度憤ったのが2000年/平成12年のこと。これも載せていない。

都内の某大学支部が中心となって、禁止されている旧乱捕様式の大会を6〜7年前から行っているという情報が耳に入ったからである。

目の前が真っ暗になるほどの怒りを覚えた。

ただちに本山に電話をかけた。事実を確認して私は本気となった。すなわち、今度再び死亡事故が起こったら人災である。事故ではない。責任者達を「告発!」するつもりであった。

理屈を言えば、拳士が拳士を告発するなどとはとんでもないことである。しかし、拳士の命をなんとも思わない拳士は…拳士ではない。だから本山に、もしそうなった時、流れ弾?が当たらないよう(管理責任の問題が発生しないよう)にして頂きたいと、申し伝えた。

幸いこの件は関係者の努力により改善された。それにしても…何故こんなにも長い間、放置されていたのだろうと、今でも不思議である。事故が起きなくて本当に良かった…。

本件は「私の主張/人命を失った反省が足りない」で述べている。

■ついでながら言っておくと、私がHPを作成した動機となったのはこの一件が大きい。

憤りを一生懸命に綴り、当時の月刊誌『月刊少林寺拳法』に投稿した。しかし、何故かボツになってしまった。ならば仕方がない、自分の主張は自分でやる、ということになったからである…。

(年表から読み取る問題点・3に続く)


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