道院長の書きたい放題

2003年02月18日(火) ◆新たな過ち!?/会報、乱捕り特集を読んで・1

■乱捕りに関する特集を組んだ会報2月号が配布されました。読んでみて、感じた事を書きたいと思います。

この件は掲示板にも、「…昨日、道場で会報を配りました。その中に運用法/乱捕りに関する特集記事があり、『二度と同じ過ちは繰り返さない』と書いてありました。大変嬉しく思いました。次回の“書きたい放題”でこの件に触れたいと思います。」(2003/02/05 13:03:38)と書きましたので、約束?を果たします。

ただし本論の前に、二件の出来事に触れておきたいと思います。この二つの出来事は乱捕りに関し、私の心の中に大きく影響しているものです。

ひとつは河口湖事件です。会報中で「二度と同じ過ちは繰り返さない」と声明を出したことを、何故、私が嬉しく感じたかを書きたいと思います。

もうひとつは松平頼明先生の思い出です。先生のお話を語るのは、本題名の「新たな過ち!?」に関わります。ふたつとも是非述べておきたいと思います。

尚、今回の「書きたい放題」はちょっと長くなるかもしれません…。お付き合いをお願いします。また、回想は当時の記憶を遡るので、交わした会話はまったくその通りでないこと。また、記憶違い、喪失があったらご容赦下さい。

■【回想、河口湖事件/1979年7月】…夏の蒸し暑い日の午後だった。全日本学生連盟の幹部合宿から帰宅した翌日、(自営業である)店内で、ホッとして冷たいジュースを飲んでいた。そこへ電話が鳴り、当時はまだ黒い電話機でベルもけたたましい音であったが、出ると声の主は本山の上野和博先生であった。

「先生、合宿お疲れ様でした…」とねぎらいの言葉。しかしその声は重く沈んでいた。「何か起きましたか?」。異変を感じ取って、すかさずこう聞き返した。

「学生が2名死亡しました…」

「えぇー!」

「打ち上げコンパで、ふざけ合って湖に飛び込んでいた学生が2名溺れました。他の先生方も現地に向かっていますので、先生も行って下さいますか?」

■おおよそこんな会話を交わした後、取るものも取り合えず家を出た。前日までの肉体的疲労に加え、これからの精神的疲労を予想し、マイカーは避けた。しかし夏のシーズンの最中、果たして直ちに引き返せるかどうか分からなかった。

案の定、新宿のバスターミナルは人で溢れ、座席も満席であった。仕方が無いので、数珠を手に列の最前列に行き、「急な不幸があって行かなければなりませんので、どうか席を譲って下さい」と係りと乗客の皆さんに深々と頭を下げてお願いした。こんな時の人間は皆親切なようで、「不幸があったんだってよ!」と、どうにか次のバスに乗せてくれた。私の坊主頭と黒ずくめの、しかも支那服姿が幸いしたのかもしれない…。

到着前後の記憶は定かではない。中島通雄先生がすでに現場の指揮を取っていた。指揮に従い私は富士吉田署に出向き、夜まで警察の事情聴取を受けた。

合宿は全日本学生連盟が主催している行事であること。指導依頼があって指導員(中野益臣、新井庸弘/現会長、作山吉永、中島通雄、東山忠祐/当時OBの諸先生と私)として参加したこと。指導が無事に終わったので当日に帰宅したこと、などを話した。当時の警察署長はこの事故を“事件”とみていて、厳しい対応だった。結論的には検察の段階で不起訴であったが…。

富士吉田署には静岡県の元道院長・竹森好美氏、東京からは鈴木秀孝先生も駆け付けてくれた。その他にも来られたと思うが今は記憶にない。

■現地には二泊したと思う。どうも二十数年前のことで…繰り返しになるが印象的な記憶以外、定かではない。

次の日、死亡者二人のご両親をお迎えした。ご遺体が近くのお寺に安置してあったので、新井先生と私が九州学生連盟、田中勇吾拳士のご両親をご案内した。

夕暮れの日差しが差し込む座敷に棺が置かれていた。その前にたたずんだご両親を私達は痛々しくて正視できなかった。そっと棺の蓋が開けられた。

「親よりも先に逝って…」

どちらが仰ったのか覚えていない。だが、夕陽の赤い色と対照的に、ご両親が組合そうとして現れたご遺体の白い手が目に焼き付いて離れない。私達は、ただただこのむごい場面に嗚咽した…。ヒグラシが鳴いていた…。

前後の記憶は定かではないが、当時、全日本、関東学生連盟の委員長であった津田君が、何処であったか号泣していて、それを中島先生が一生懸命慰めていたことは覚えている。もしかしたら、田中君のご遺体とご両親の対面の後だったかもしれない…。

■河口湖から帰って、中島先生の依頼で私は東海学生連盟委員長であった藤原裕史拳士の葬儀に参列した。実家は兵庫で、兵庫県少林寺拳法連盟の方々が参列していた記憶がある。作山先生は九州の葬儀に飛んだ。

辛い葬儀だった。当時、遺族の感情が…なんというか収まっておらず、そんな最中に出席したのだった。地方によって葬儀の方法が異なるのだろうが、主な焼香者の肩書きを大きな声で参列者に紹介されたのだ。

「指導員どのー」と呼ばわれて、背中に突き刺さった皆の視線が、今思い出しても痛い…。

■私は『私の主張/人命を失った反省が足りない』の文中で、「私は過去、学生拳士6人の不慮の事故に遭遇し、4回の葬儀に出席している。内、乱捕りの死亡事故に関しては2回である。」と述べている。

河口湖の事故は乱捕り以外の死亡事故であったが、ご両親とご遺体との対面の場面、その腕の白さ、藤原君の葬儀が辛かったことは、私は生涯記憶から消し去ることができない…。

私は思う。少林寺拳法創立50周年を祝った傍ら、少林寺拳法を修行したが為に失った命があることを…。彼等の遺族を嘆き悲しませたことを、決して忘れてはなるまい。

だから…「二度と同じ過ちは繰り返さない」と言ってくれたことが、本当に嬉しかったのである。

今年の夏で事故から24年目が来る。少林寺拳法の創立記念行事等は今後も70周年、100周年として皆で祝われるであろう。しかし果たして、彼等の失われた命を、この先、誰か思い出して上げることができるであろうか…。

(松平頼明先生の思い出に続く)


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あつみ [MAIL]