道院長の書きたい放題

2003年02月24日(月) ◆河口湖事件の補足・1−1

松平先生の思い出を述べる前に、河口湖事件に関連した(色々と聞いた)話を補足しておきます。

■打ち上げコンパが終わり、翌朝各校の拳士は三々五々帰って行きました。ところが、中身が整理されていない旅行バッグが二個部屋に残っていました。最初のうちは、「誰のだ?何処行ってんだ?」という始まりだったそうです。

それで、飲み屋で酔いつぶれたのか…。ケンカでもしたのか…。と手分けして一帯を探したり、聞いて回りました。しかし何処にも見当たらず、皆でだんだんと最悪の事態を予想していったといいます。恐ろしいので誰もそのことを口にできないでいましたが、とうとう…やはり桟橋か、ということになり、警察に届けました。

■作山先生は中島先生の所に泊まっていましたが、本山から学生の行方が分からないという連絡を受け、二人して直ちに引き返しました。そして到着直後、「今し方、遺体が上がりました」と告げられたといいます。私に連絡があったのはその後でした。

学生の中には浮かび上がったご遺体を引き上げる為、背中に担いだ者もいたといいます…。

また事故当夜、飛び込み合って引き返そうとしたある学生は、「そう言えば…泡が上がっていたようだが酔っていたこともあり、深く考えなかった」と言っていたそうです…。

■地元の人の談話としてある新聞記事に、「河口湖は水面の温度は暖かくても、ちょっと下の層は極端に冷たく、酔って飛び込むなんて無謀だ」と非難されました。

飛び込んだ瞬間、心臓麻痺を起こしたのでしょう…。

讀賣新聞の全国版/社会欄にも報道されましたが、その記事には事件の概要に触れた後、「…学生達の合宿態度は非常に真面目であった」という旅館のご主人の談話が紹介され、大きな救いとなりました。

■中島先生はその後、検察の人と話したようですが、「これは…事故だね」と言ってくれたと、少なからず安心していました…。

事件が一段落して数ヶ月後だったと思います。中島先生と私は開祖に報告に行きました。新本堂の石段の前でした。中島先生がどう言われたか思い出せません。しかし開祖のこのお言葉は覚えています。

「皆で協力して解決してくれたそうだな。ありがとう、ご苦労さん」。

こう仰いました。細かいやり取りは覚えていませんが、先生は我々の苦労を分かっていて下さったと、熱いものが込上げました。

■おおよそ以上が、私が経験した河口湖事件の全てです。書こうか書くまいか迷いました。しかし、乱捕りに限らず死亡事故の悲惨さを伝えておきたいと、敢えて私の知ることを書きました…。尚、この事故に対し全国の道院、支部からお見舞金が送られました。

本件は『少林寺拳法五十年史/第一部正史、P479』に記録されています。

(松平頼明先生の思い出に続く)

訂正:081202 非情→非常


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