| 2002年07月05日(金) |
◆鬼(技)!を考える |
修行中に現れる鬼を退治しましょう!
■「鬼!」というのは恐いという意味で、世間一般では「鬼のような○○!」と使用されます。
“鬼婆”“鬼軍曹”は、人あるいは役に対して付けられる形容です。“鬼のような仕打ち”は読んで字の如く酷い仕打ちのこと、行為を形容します。釣りでは、針に掛けた魚を絶対捕る仕掛けを“鬼仕掛け”といい、将棋では、妙手、名手に対して“鬼手”なる言葉/指し手があります。確かお酒で“鬼殺し”という商標がありましたが、この意味は分かりません…。
面白いのは鬼に“神”がつくことで、これは“鬼神”となり、いままでの意味とは少し異なるようです。戦場では人を殺します…。ですから、戦場でとてつもなく強い武人は敵にとっては鬼ですが、味方にとっては神のように映ります。複雑ですね…。
人間の心の中には鬼が棲むと言います。本当かな…!?
■「卍/まんじ」を、表と裏に分けるから分からなくなります。…と思います。つまり、少林寺では道場などで(意識で認識するため)便宜上、正面に二つに飾るから分かれてしまうのです。人間の理性の、実はそこが落とし穴ではないでしょうか…。
仮に卍がそのように左に回っているとして、それをお互いが向かい合って見詰め合うとしましょう。私の側から見る卍と、反対側の人から見る卍は違いますね。向こうからは逆回り、つまり“同一の物”が裏卍に見える訳です。
私はそういう非判別的な相反する世界を心の問題も含め、「卍/まんじの世界」と表現します。
■ 戦争と平和は卍の世界の時間差的な変形です。共産主義世界と資本主義世界という相異なる世界の存在は、空間的な卍の世界の変形です。
門下生を指導していると、彼等の出来ない技の動作に私の技が出来るヒントがあることを経験します。ひとつの卍の世界の自覚です。また、武道、武技は人造りの手段ではありますが、用い方により凶器となります。残念ながら、武道の卍の世界です…。
■ 善悪を縦の線とか横の線では表現できません。拳士が「卍(の世界)」を胸に着ける意義は、(従来の意味に加え)人間の生命が続く限り、善性を発動しなければならないことを表現しているのです。表卍を善の世界としてここに止まり、武道人として行ってはならない“人と鬼との境界”があることを認識する為に着けるのです。
少林寺拳法の鬼技は「シャクルこと!」「挫くこと!」「折ること!」―以上は柔法で、利かない相手についつい仕掛けたくなります。
剛法では「打ち砕くこと!」「流血させること!」。特に乱捕りでは、「壊しを意識した肘受け」「壊しを意識した膝受け」「ノックアウト!」「激昂すること」―以上は拳士の心を喪失した行為です。
卍を胸に着ける資格がありません…!
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