道院長の書きたい放題

2002年05月23日(木) ◆開祖の「強」は?

開祖は「強い」とはどういうことと思っていたのでしょう。

■「富貴も淫する能わず。貧賎も移す能わず。威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫という」― 孟子

開祖は古今の名言を教範の中で紹介されています。開祖の感性に余程に響いた言葉だったからでしょう。この言葉はご法話でも引用し、「…名誉にもつられない。貧乏も恐れない。脅しも効かない。こういうことが“強い”(勇気だったかな?)ということなのだ」(要旨)と話されたと思います。

西郷隆盛も、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るなり。しかし、その始末に困る人でなければ天下国家の大事を成す事が出来ない」(要旨)とある時、話し、「それは孟子の言葉と同じ意味ですか?」と質問され、「そうです!」と答えています。

■ 薩摩の武士ほど死ぬことを恐れなかった武士達はいなかったそうで、「臆病者!」と罵られることを死ぬほど嫌ったからだと、何かの本で読みました。そういう教育を極端に施した結果でしょう。しかし、これはやはり極端で、だから“猪武者”“匹夫の勇”などと言う戒めの言葉が他方あるのです。

必ずしも、死ぬことが良い結果を生む(強さの証)とは思えません。しかし、これも難しいことです…。第二次大戦末期、神風特別攻撃隊は建前は志願制だったのですが、誰も進み出ない者は無かったと言われています…。薩摩隼人と同じ心境だったのでしょうか…。ちなみに私の死んだ父は回天特別攻撃隊員で、すんでのところ終戦に命を救われたそうです。

ですが…孟子の言葉を注意して見聞きすると、「命」に関して「捨てろ」とか「いらない」とは一言も言っていません。ここのところの解釈。聖人や英雄が勇気を発動するのに際し、心底には死の賛美より生への賛歌があるのです。私はそう確信します。

西郷にしても「敬天愛人」という彼の言葉/思想からすると、「命もいらず」と言ってはいますが、真意は「大事を成すには命を捨てる(無私の)気持ちで掛かれ」でしょう…。

■ 昔?何かの折に、ホテルに宿泊されていた開祖のお部屋にお邪魔させて頂いたことがあります。何人かいたと思いますが、太田達雄先生以外は覚えていません…。その時、開祖が「…私だって“恐い”と思う時はあるのだよ。でもそれは一瞬で、次には元に戻っておる…」と話されたことがありました。当時、「開祖でもそんな瞬間があるんだ!」と少々驚きました。しかし、今思えばそれは当然な事で、むしろ一瞬で元に戻る“強さ”に逆に驚かされます。

人間愛・生命の尊重に立脚した正義感、行動力、勇気、慈悲心を持った人。生を尊び、生きている限り負けたと思わない心。そういう人なり精神の存在を「真に強い」と開祖は思われていたのでしょう。

追伸:西郷の言葉について23日午後5時10分に訂正。


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あつみ [MAIL]