| 2002年03月05日(火) |
◆(続)会報「少林寺拳法」を読んで! |
前回からの続きです。
■ 第一次乱捕り検討委員会、開催の意義に関して、もうひとつ大切な事がありました。それは、この時、初めて「限定乱捕り」という考え方が提示/答申されたからです。
例えば、内受け突きには、順逆、開対、(差し替え)順逆、左右ということで、計36形があることを認識し、法形を一形に固着させないで修行/習得して行く。数段階の過程を経て、最終、融通無碍なる「自由乱捕り」の段階に至るという修練方法なのでした。
■ さて、前回、私は「…言葉に応用変化/運用法(?)がありますね」と書きましたので、まず、この点を説明したいと思います。
「乱捕り」という言葉/用語が少林寺で使用される場合、その中には上述のように、限定乱捕りに対する自由乱捕り。他に、防具乱捕りに空乱(防具不着用で寸止め。さすがに当時でも、フルコンタクトはしませんでした…)。競技乱捕りに交歓乱捕りなどという意味が含まれます。また大会などでは、模範乱捕りという紹介もありました。奉納乱捕りは聞いたことがありません。
そしてこの「運用法」という言葉は、詳しくは調べませんでしたが…86年度版の科目表中に現れ、昇段者は「運用法(自由乱捕り)を行う」と記されています。
ところで、現在では運用法という概念はどうなのでしょう。攻者、守者を限定する…!? では技は? 防具は何を? ちょっと…統一的ではありませんね…。私などは、旧乱捕り形式(胴、グローブを着用して顔面を加撃)/『私の主張・人命を失った反省が足りない』と表現しますので、いっそ、新乱捕り形式の方が運用法より判り易いです。
そんな現状で、「運用法(乱捕り)/うんようほう・かっこ・らんどり」と表現するのは、如何なものでしょう…。
「定義が曖昧なまま、言葉が摩り替わろうとしている」と言いたかったのです! そして開祖亡き後、修練体系、教義が関わる重大な問題は、一部署で行われるべきでないと考えます。
■ では、開祖は乱捕りをどのように考えておられたかというと、昭和30年度版の教範で「乱げいこ」という言葉を用いられている通り、稽古の一方法であると位置付けられていたことは明白です。
中野先生に乱捕りに関する興味深いお話を伺ったことがあります。「元々、少林寺がグローブを付けて乱捕りを行うようになったのは、三日月に当てても怪我をさせない配慮からであった。ところが大会等で盛んに乱捕りが行われるようになると、何時しか、相手を思い切り叩いても良いのだという風潮に変わっていった…」。
そんな風潮を開祖は憂いたのでしょう。昭和40年度版の教範中「防具着用の乱捕りについて」の項で、「剛法組演武の補助手段としてのみ行うべきである。(崇高な全文を読めば明らかです)」とはっきり述べられています。これは定義と言って良いと思います。
実は、今、鳥肌が立ちました。私は間違っていたようです。前回、「開祖は教範の中で、乱捕りを『剛法の補助手段』と記述しておられます。」と書きましたが…「剛法組演武」でしたか…。
「お前は何を読んでいたんだ!」と、あの世に行ったら開祖に叱られる(!?) 剛法と剛法組演武とでは、天と地ほどの開きがあります。これは…運用法/乱捕りは、やはり「行」ではないですね!
■ 開祖は「行」という言葉について、少林寺的に解釈されています。ですから、今月号、会報3月号の中で「…攻者は敵ではなく、戦術を上達させる協力者。これが少林寺拳法のいう“行”なのだ」は、まあ間違いではないでしょう。しかし、同時に『月刊武道(何月号かは不明、多分、本部講習会で配布された資料)』中で、インタビューに答え「行」についてこう述べられています。
「…仏教における行というものは、向上を求めながら自らが解脱することと、生きとし生きるものを教え導くことの調和にあるのです。他人の幸福を願わず、自己の向上だけを図るものは、真の意味で『行』とはいえないものです。」
文中にあるように、開祖は解脱する(悟りを目指す)という深遠さを踏まえ、且つ、私達に判り易いように、行について述べられたのです。
もし、乱捕り(運用法)を主行にして、「本当の強さとはどういうことか?」「活人拳の思想とはなにか?」「武の本義とはなにか?」という少林寺拳法の教えが身に付く、拳士を導くことが出来る、なら、何も言うことはありません。しかし歴史が証明するように、多くの拳士(この場合は特に学生拳士を指す)は、単なる殴り合い蹴り合いという勝負術に落ちてしまったのです。
■ 私は乱捕り修練を決して否定している訳ではありません。この点は誤解のない様にして下さい。また、乱捕りの研究を進めて来た関係各位のご努力には敬意を表します。ですから、もっと過程を明確に、焦らずに行ってもらいたいのです。批判を、甘んじて受けて下さい!
フェイスガードにしても、全国の一般拳士が使用した上での安全が確認された訳ではありません。88年のS大の死亡事故は、指導者不在という劣悪(?)な環境にいる学生拳法部で起きた事故だったはずです。「運用法は“行”だ」などと安易に述べると、勝手に、都合の良い様に乱捕りを解釈する拳士が出現しかねません。心配です…。
技術的にも、平面上のモノを打てばどうしても横拳になりがちです。「書きたい放題・縦拳と横拳の話」参照。蹴り技にしても同様です。「書きたい放題・蹴り上げと蹴りこみの話」参照。反撃技は相手を傷害してはならないとする点で、この方式は、まだ未完成と考えます。活人拳という視点から、法形でさえ改良の余地があるのですから…。
以上で終わりますが、どうか…私の声が届きますように!
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