道院長の書きたい放題

2002年02月15日(金) ◇勝手史観!

 歴史について述べることは私の無学(?)をされけ出す様で大変恥ずかしいですが、史観は少林寺拳法に関わるので、一応述べておきます。

■ 明治期、日清日露戦争頃のあたりは、日本軍の捕虜の扱い、交渉などは大変紳士的であったといわれています。まだ、武士道精神(?)が生きていたのでしょうか…? それが、例えば中国人に対しての「三光作戦」(焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ…でしたか)や「730細菌部隊」などなど、なぜ残虐行為を行う軍隊に変質していったのでしょう。不思議であり、残念でなりません…。

戦争には当然、勝者と敗者があり、「時間」という観点から戦争を眺めると、敗者の扱い、占領地の統治は大変重要な問題だった筈です。明智光秀は民政官として優れた才能があったので、信長は彼光秀を重用したと何かの本で読んだことがあります。自分の持っていない才能を一早く見抜いたのでしょう。裏切りを見抜けなかったのは皮肉ですが…。いずれにせよ、ここを誤ると真の勝者とは成り難かったのです。

しかしこれは、歴史を学んでいれば当然判る事です。ここでいう歴史とは、戦争を繰り返した古代中国の歴史で、だから「武は撫なり」「愛撫統一」という言葉は、恐ろしいほどの殺戮の歴史の中から生まれた有益な教訓だったのです。

■ 先程、武士道精神と書きましたが、武士がサムライ(?)たる所以は漢文の素養がある事と勝手に解釈しています。元サムライであった明治の先人達はすこぶる漢書に通じていて、当時の世界情勢などを聞いても、自らが学んだ漢学をバックボーンにして理解する相当な応用力があったようです。大国、強国のエゴイズムと小国の悲劇は、歴史的に繰り返されることを知っていたのです…。

日本を植民地化されない必死な努力であった明治維新。これを成し得た先人達は尊敬に値します。しかし、その後の日本の進路は残念ながら納得できません…。今次大戦では、まかり間違えば同じ立場であったろうアジア近隣諸国を侵略したのは真に遺憾です。しかし、そのひとつの原動力/動機が生まれた背景には、先進諸国の敗者の扱いにも責任の一端があったと考えます。この場合、敗者は国家ということになります。

日本、いや後進諸国にとって非常にショックであったのは、「阿片戦争」ではないでしょうか…。敗者の末路が単なる植民地では無く、亡国ではたまったものではありません。ところが、旧日本軍も日中戦争で阿片政策に手を染めていたという報道がありました…。また、第一次世界大戦中、ドイツにより、戦争で初めて毒ガスが使われましたが、それは当然、生物・細菌兵器という発想に行きついたことでしょう…。

NHK三回放映『アフリカ大陸(詳しいタイトルを失念)』を全て見ました。国境線が直線の地域が全アフリカの40%以上を占めるという馬鹿げた事実。先進国が示した規範は侵略であり、無秩序なのでした…。

■ 私は責任転嫁論を展開したい訳ではありません。先進国というのなら、当時(日中戦争開戦以前)、日本はアジアの中ですでに先進国だったのですから…先進国たる規範を示すべきでした…。あそこで、まやかしでない目がアジアと日本の共存に向いていたらと思うのです。ただ、東洋の文化であった「武は撫なり」「愛撫統一」という価値観が通じない世界情勢も、また事実であったことも述べておきます…。

比較で言えば、明治維新以後の政策が守りであったの対して、日清日露以後の政策は攻めであったと言えましょう。守りは敗者を生み難いですが、攻めは敗者を生み易いのです。多分、当時の日本の指導者、特に軍人は先進国/欧米流の弱肉強食的な考え方に傾倒しており、すでに「武の徳/東洋の文化」を喪失していたのでしょう。戦争の果てに発生する国家や個人等、敗者へのいたわりの心を喪失していたのです。

少林寺拳法は勝敗を争わない武道です。しかし、もし私達拳士が勝負に関わる世界に赴いた時は、必ず敗者へのいたわりの心を忘れないと信じます。また、歴史の過ちを繰り返さない様、つまり、先進諸国たる正しい規範とは何かを、それぞれの立場で考えなければならないと思うのです…。


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あつみ [MAIL]