■剛柔一体とはどのような意味でしょう。判り易いようで意外と難しい課題です。
□1.この言葉を説明する例えとして、歯と唇の関係で述べますが、これが武道における剛と柔を判り難くしているのではないでしょうか。私はそう感じます…。
少林寺拳法の拳士は突き蹴りを剛法。逆、抜き、固めを柔法と指導され、そう認識しています。しかし考えてみると、突きの中にも剛拳の正拳と柔拳の目打ち、掌打ちがあり、逆技にも関節をへし折る本逆と、曲がる方向に攻める順逆があります。
一般的に硬いと思われているもの。例えば金属や木材でも、実際は柔軟性があります。ですから硬いから剛。軟らかい柔では説明がつかない場合が多々あります。今様に言えば、あまりにアバウト過ぎるのです。
□2.野球選手はホームランもバントも同じバットで打ち分けます。雑誌はきつく丸めると武器になります。いや、紙で手を切ることだってあります。水は軟らかいと思われていますが、氷になれば人に突き刺さります。
私は釣りをするので、海を見ているとつくづく剛柔について考えさせられます。在る時は、湖と見間違う程の凪日よりから、一転、怒涛の波頭が襲い来る姿に急変する海。(これが同じ海なのか!?)と畏れを抱いてしまうのです。
□3.目打ち中段の天地連攻。あるいは、片手寄り抜きから同手での目打ち中段突き。これらは不思議な技(?)ですね。拳士は剛柔一体と認識しているでしょうか。剛法と思っているのでは…。時に応じ、二本の手を柔剛と使い、一本の手を柔剛と使う。凄い術理を教えていると感心します。
身体全部では、柔法、剛法共、下半身は剛構造となって柔構造の上半身を支えます。しかしこれも、全く固定的な剛構造ではなく、まったく脱力した柔構造でもありません。
以前、一級建築士の方と話をしたことがあります。特に橋を作る際、剛構造と柔構造に腐心すると言っていました。全長が長い程、梃子が強く作用するからでしょう。
□4.武道における剛柔論は(技の)存在論/二元論ではなく、心技体の操縦理論(?)とでも表現しましょうか…。“体”よりも“用”に、より視点をおいて論ずるべき問題と思われます。
具体的に認識するとすれば、剛中の剛、剛中の柔。柔中の柔、柔中の剛。以上の連環的な概念が最低必要でしょう。
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