道院長の書きたい放題

2001年12月07日(金) ◆五花拳は最上位の拳技 !?

■理想の拳技を共に考えましょうよ! 

□1.剛法、柔法とあって剛柔一体と考えるのは、往々にして別々の技法として存在するかの如く連想してしまい、具合が宜しくありません。

万が一、武技たる少林寺拳法を使用する場合の技は“制圧技”なのです。剛法、柔法の“武の用/護身的な用法”はこれを目的にし、協同して作用するように指導しなければなりません。

特に「剛法はノックアウト!」とイメージしている拳士は、ちょっとお寒いです。


□2.少林寺拳法は、人体の本体攻撃を嫌います。人体の本体とは、頭部、顔面、胸腹部、下腹部という意味です。むしろ、攻撃してくる相手の手足を狙います。だから後先であり、その瞬間をチャンスとする非常に特殊な技法です。

人体の本体攻撃はこれを有効にすべく使用されます。ですから固めは重要です。よく高段者の演武で投げた後、固めを用いずに当身で処理される演武があります。それも危険度が高い当身。私が採点したら「×・バツ」です。


□3.「愛撫統一」が“武”の理想です。敵の有効兵器を無効にし、戦意を消失させて勝ちを得るのは戦術としては大変有効です。そう言えば、アメリカの戦略ミサイル防衛構想はこれに近いですか。しかし戦略的に、アメリカは愛撫統一していなかったのでしょうか(?) 

また、「逮捕時に容疑者を痛めつけてしまうと、容易に自供せずに苦労します…」と、ある麻薬取締官が述懐していました。

殴り、蹴りかかってくる相手を、傷付けないで制することが出来る拳技(初期の教範では不殺不害技と言っています)を理想に置くのです。

指導をする際、ここに向かうようなカリキュラムであり、演武であり、乱捕りでなければ、拳士の意識は不殺活人拳(哲学的な意味合いを深く含む)に向かいません。そして、もし法形にも不備があれば、是正が必要であると考えます。


□4.例えば、片手十字抜き。抜いてから裏拳で上段/顔面を打って中段から、目打ち中段に変える必要がありましょう。裏拳で顔面を打つと、当たり所によって簡単に鼻骨が折れます。学生時代、空手部でこの事故がありました。

逆小手から裏固めをして背部、頭部に当身をして蹴り。これにしても、固めて「参った!」と意思表示した相手を叩く事が、果たして適切な処理方法でしょうか。勇気を持って(?)検討すべきでしょう。

ここまで述べると、「なんだ!? そんなに制約があるのでは、イザと言う時に使えないではないか?」という声が聞こえてきそうです。しかし良く考えてみると、相手が死なない拳銃。怪我をしない拳銃であれば、撃てば相手が死んだり、大怪我する拳銃より護身には適しています。

具体的にどのような銃かは判りませんが、容易に引き金を引けるでしょう。未来の銃は、撃つと相手が平和的な気分になるのかもしれません…。

そう言えば開祖の武勇伝は、争った後、説諭して相手と仲直りして別れたり、味方に付けたりしているものが多いですね。


□5.ただ一点。打撃技というのは対多人数、対凶器に有効です。これは天地拳第五、六や背越し一字固め、短刀振り上げや突きに対する技などにその片鱗を見ます。

しかし、多人数や凶器で襲われた場合は脱出を第一に考えなければなりません。ですから、金的を思い切り蹴る場面などは、すでに拳技の必要を超えた非常/異常事態なのです。手近な(防ぐ為の)武器の代用物を使用します。もちろん、最後は素手という覚悟は持っての上です…。

小は口喧嘩から大は殺し合いまで、人によって、イザという場合の想定は異なります。この点は確かにやっかいです。しかし、武技としての少林寺拳法が素手であると言う事実は、武器、ないしは武器化した人体を使用する状況とは異なる闘争状況を想定しているのです。この限界(?)を自覚すべきでしょう。

そして、相手を傷付けない武技は、自身が最大の力を発揮しても無意識が躊躇しないので、凄い力を発揮するのです。


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あつみ [MAIL]