おぎそんの日記
おぎそん



 模倣犯を見てきたYO!

大変申し訳ないのですが、ネタバレを多分に含みます
そのため、本日はまた見ていない方をおいてけぼりにする内容です。それを考慮し、関連する内容をすべてこの様に反転という形を取らせていただきます。申し訳ございません。
そのため、まだ評価が温厚であろうYUZUKIさんのHPを案内させていただきます。YUZUKIさんは映画も数多く見ておられるためおぎそんより的確な評価を短くまとめていると考えます。どうぞ、ネタバレでもよろしい方などはこのあとも引き続きお楽しみ下さい。

-------
まず、この原作から紹介することに致しましょう。宮部みゆきが3年ぶりに放つ現代ミステリーとうたれたこの人を殺せそうな厚さの本であります。それが2冊。詳しいことは、稚拙の2001年12月でも見てください。(すみません)

でわ、紹介させていただきます。
映画化された宮部の作品はこれで2作目となります。前作は「クロスファイア」。おぎそんは見ておりませんので、比較はできません。
さて。今回の会場は最寄りのバージンシネマです。始めて入りました。
平日の午前10時のため、殆ど人は確認できません。てかまだ公開して1週間なのにさっそくヤバそうな雰囲気です。
そういえば、初日は某会場においてかなりの人が並んだということですから短期決戦なんでしょうか。
まぁ、N目当てなんでしょうけど。
と、不安を押さえつつとりあえずは席に。

・・・。全然人がいないはずなのに発券されたチケットによるとかなり後ろの席です。なんか策略ですか?見渡せば、367席しかないのに入場しているのはその10分の1ほど。
かなり哀しいです。以前、見たことのあるターンのレイトショーも淋しかったですけど、会場がその時に比べ大きいためなおさら閑散としているのが否めません。てか、なんでみなさん席が固まっているんですか?
発券した姉ちゃんが悪いのかよくわかりませんけどこの席の偏りですでにマイナスです。心象悪いです。感じ悪いです。

気を取りなおし、この映画館の“売り”である音響をチェックします。かなりスピーカーが散らばしてあり、遠くでおこっているように聞こえたりとなかなかここ(音響)はポイント高いです。

と、話を長引かせていたものの本編へ参りましょう。
はっきりいいます。駄作です。逆に傑作と評論家が言ったら(だれでもいいです)2chで祭り上げます。

・・・。原作を踏まえて映画を作るということを考えれば、この作品はいいものができるはずなんです。では、「なぜ、そのいいものができなかったのか」を考えてみましょう。
ポイント1:時間の制約(130分に纏めることの難しさ)
ポイント2:原作のテーマと映画のテーマの相違
ポイント3:役者の使い方の勘違い(役者をどう考えるか)
ポイント4:映像利用の視覚効果の勘違い
ポイント5:時代設定の誤り(現代とのリンクのさせ方)
と思い付いただけでも、出てきました。一番の罪なことはポイント2と考えるためそこを中心に他のものをからめていきたいと思います。
なお。かなりの長文になることが予想されます。

原作のテーマは。「被害者のことなんて誰も考えてくれやしない」と帯につけられたように、普通の人々(語弊がありますけど)が思いもしないことに巻きこまれる、日常の危うさ、右往左往させられながらも何をせねばならないのかを自分自身に問うなどのことがあげられる、とおぎそんは考えています。
では、この映画ではどのようなテーマを掲げているのでしょうか。
それは「環境影響論」です。
つまりは、悪人というものは元から存在するのではなく育った環境などに左右されてしまうものではないか。遺伝とか(犯罪者の血が流れている・親父が犯罪者だから子どももやっぱり・・・の疑いをかけられるなど)言われるけど、そんなことはないのではないのか。との投げかけをして、この映画はエンディングを向かえます。

さて。
映画と原作は全くベツモノということを先日述べました(青の炎の映画化)。
では、原作を置いておいて、この映画単体としてどれだけのメッセージ性・娯楽性・作品性があったのでしょう。
まず、オープニングから視覚的に何を訴えているのか見当もつかないものから始まります。
おぎそんは、毎日続く日常を描いているものと判断致しました。つまいりは毎日同じようなことが続く、そこにまるで秩序のようなものがあるかのように。そこに安住している私たちはそんなはずはないのに、つい信じきってしまう。それが崩れるとき・・・。
と考えたのです。

まず、原作を読まれた方はおわかりのように古川鞠子が失踪という形を取ります。この映画でもそこは同じ形を取るのですが伏線としているのか曖昧な描写が存在します。最後のほうに「私が向かった場所がわからないようにして」と言い残すシーンがあるのですが、それが不倫をさすのか、子どもとかの隠し子を指すのか結局最後まで明かされませんでした。
これで「模倣犯・特別編」などが公開された日にゃあ、抗議文を送りつける気満々です。てか、この監督の作品に対する評価をすべて最低にします。
そんな話はさておき。
で、帰ってこない鞠子を心配する真智子と義男という図。
そして、遺体発見シーンでは、塚田真一がロッキーを散歩に連れて行き見付ける手はずなのですが。(原作では)
ロッキーは滋子の家の飼い犬になってます。ってことは、真ちゃん(塚田真一)はいつ滋子の家に引き取られたのでしょう。これが一番大きな問題になります。
佐和市の事件が起きたあと、引き取ったという形なのかもしれませんが、ジャーナリストの家に転がり込む被害者なんぞどこにいるのでしょうか?そりゃ、原作のように知人の家を出る口実があるならば(ちょっと「可愛そうだから」で引き取られるものの立場・樋口の存在など)わかるのですが絶対にRealityないです。
しかも、よく思い出してみると大川公園の事件を滋子は取材旅行に行っていたため詳細を知らず、編集長に指摘されています。真ちゃんのこともここで知らされていたはずです。となると、どういう事情で引き取ったのか(すんなり来るわけがない)、お世話になっていた家とのやり取りはどこへ・・・。
仮に。仮にですよ。滋子が家に帰ってない状態だとしても、やはり説明不足というか犬が出た時点で勘違いされてもしょうがない演出です。

で、真ちゃんのキャラが薄いです。うす過ぎです。ジャニーズJrだとしても(真偽知らず)こんな作品に出たことを羞じるべきです。
単なる被害者面をするのは他の作品で十分です。その自分も原因があったかもしれない、と果てしない自分のミスと思われることを考えずにはいられない状況を描かないとラスト間際の「終わりにさせてください。そうしないと始められないんです」が全く生きません。てか感動させる唯一の場所なのにここをはずしてどうするんですか
カタルシスを得られるためにはそれに至る積み重ねが必要なのは自明なことなのに、それを丁寧に描かず蔑ろにしているのはなんと言っていいのやら。おぎそんは開いた口がふさがりません、ホントに。

滋子のダンナが殺されることになってました。これは、滋子が事件と関わるための御都合主義です。滋子が編集長に向かって「それ(他人の不幸は蜜の味。今回のことを利用して取材したら、のコメント)は言い過ぎじゃないですか?」というものの結局行動に動くのですが・・・。ジャーナリストが自問自答を止めたら(単なる情報を右から左に流すという行動をとったら)意義がありません。そのところをもっと突っ込めばいいのになんでこう不完全なのでしょう。作家と同じく「どんな状況でも書く/書かざるを得ない」というよりは「自分には書くことしかない」といった信念が物書きを動かすものだと思います。
どうやら、自分が被害者になったジャーナリストがその自戒を込めて取材に当たるということをラスト直前でしようとしているのですが、成功しているとは思いません。というかだれもその意図を読みとってくれないような気がしないでも・・・。

などとにかく思い出すだけでも腹が立つので次の論点に。
タレントさんがおおく出演されてます。
チラッと確認できただけでも

PUFFY(街中を走るバスの広告として)
山田花子(TVCMのタレントとして)
爆笑問題のふたり(浩美と和明の事故を目撃する役割)日本テレビのアナウンサー陣(井田アナウンサー・福沢アナウンサーなど)
まったく出てくる必然性がないです
それどころか雰囲気をぶち壊しにしているとしか思えません。
まぁ、なんですか中居を主演にした時点でアウトというのは決まっていたと言えますけど、脇を固める―いわゆるおぎそんがよく使う、detailの積み重ね―ことができてません。
むしろ、全くの素人さんを出した方がいいとおもいます。
おそらく“実在する(見ている人が知っている)人物を出すことでrealityを出す”ということを意識しているのでしょう。勘違いとしか言い様がないです。
もしかしたらそこまで考えてなくて、「落ち目だけど(とくにP)、このへん出しとけば話題になるかも」などと企んでてたら許しません。

役者さんとしてきちんと機能しているのは山崎努しかいないというのは見ていて哀しくなりました。
逆に彼がどれだけいい演技をしても浮いてしまうように見えるのです。彼は先日見た「女学生の友(原作:柳美里)」でも好演していましたが、昔いた「大人」の再現です。現在いる役者さんの中で60過ぎになってもアレだけの存在感を出せる人がいるのか大変心配です。
なんかこう書くと滑稽ですけど、東野圭吾の「超高齢化社会殺人事件」(超・殺人事件 に収録)のような自虐的なパロディが実際になりそうで怖いです。おぎそんが鬱いても仕方ないんですけど。それだけが救いでした。

あと、役者さんについて気になったのが、浩美を演じた津田寛治さん。仮面ライダー龍騎に出演されてます。ライダーではなく、いたってフツ―の人間役(編集長役)です。こういうちょっとほのぼの系が似合うのかなと思います。というか正直な話、これだけの大役は初めてですから仕方のないことですがもう少し身に迫る恐怖を感じさせてもらいたい気がしました。正直な話、たいして怖いという気がしないのです。相手役(襲われる女性)が過剰演技というか。
高井和明を演じた藤井隆。なんというか。ピースに焦点が当てられてしまい重要な役どころの筈なのに扱いが酷すぎです。演技がどうこうという前に。
今年の夏コミに浩美×高井のカップリングが出ないことを切に願います。×の前に浩美ということですから浩美がタチですよ
映画だけを見るとそちらの方面に奉仕させられる(by東京ミュウミュウ)可能性が物凄く高そうで、心配しています。映画の描写(回想シーン)はどう考えてもおかしなエピソードでしたし。
本来なら(というか流れを意識しているなら)、浩美が和明を利用しているように見えながらも精神的には浩美が弱い立場にあることを示していないため、ちぐはぐ感が拭えません。和明にとって浩美がヒーローならもっと和明が弱い立場にいるはずですし。最後だけ(事故時)対等になるのは論理的ではありません。
そして、成○大学時代はかなり性格が悪いと評判の滋子を演じた木村佳乃。先にも述べたことの繰り返しになりますがジャーナリストとは見えません。まぁ、おとなしい演じ方(大根役者?)なので可もなく不可もなくと言ったところでしょうか。滋子というキャラクターはたってませんでしたけど、邪魔をしなかったという点(これ以上ウザイ映画に貢献しなかったという点)では及第。

この作品はYahoo!JAPANと協力してます。そのためかこの映像の世界ではデジタル化が進んでいる状況だそうです。つまり、ネット上で色んな情報が流されるというのが普通になっているという苦しい説明です。
このことで情報の即時性・スピード感を狙っているようなのですが、その中で掲示板の意見を出しています。
現在でもそうですけど、ネット上というのは匿名であることが多いです。その玉石混合の状況で尾ひれがついたもの、全くのデマ、真実が一緒のはずです。そのところが何も言われていないのはどういう狙いなのかわかりません。まさか(宮部がネット接続をしてないから)という理由で誤魔化しないですよね?森田監督。

そろそろおぎそん自身罵倒するのに飽きてきました
こんなふうに考える輩もいるのだと、考えていただければ幸いです。




ちなみに。
おぎそんが好きな映画は、「永遠に美しく」
            「キラー・トマト」
            「テルマ&ルイーズ」
だったりします。

2002年06月20日(木)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加