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 日木流奈くんという存在

旅先で、NHKの『奇跡の詩人』という番組を見た。
手元にゲームがなかったというのもあるが(爆)
それ以前に、彼の執筆した本を読んで、
非常に感動した覚えがあったので、
思わず見てしまったというのが本音である(はずだ・・・)

日木流奈くん。
1990年2月11日生まれ。
極小未熟児、先天性腹壁破裂のために
生後2週間内で3度の手術を受け、
結果、低酸素性虚血性脳症の後遺症によって脳萎縮となる。

重度障害児にたくさん出会った私だが、
ここまでの重度で、言語レベルの意思疎通がとれる子供は
残念ながら一人もいなかった。
でも、彼の話を聞いて、
もしかしたら、今まで出会った多くの重度脳障害児たちも、
コミュニケーションの可能性があったのではないかと思った。
全てを理解できる能力があるのに、
意思疎通の方法が見出せないだけで、
一生赤ん坊と同じレベルの単調な生活を強いられること。
このことがどれだけ苦痛なことか。
私が関わってきた子供たちに、そんな子はいなかったか?
学校教育の場であっても、知能の向上を志向している風で
その実、抱きしめてやることだけに全てを費やしていなかったか?

教育実習先の養護学校で
先生のサポートのボランティアをしばらくやっていたが
その時出会った子供の一人が
今思うと、それに該当するような気がする。
入院ばかりで、1学期で数日も通学できなかった子が
久しぶりに学校にやってきて、みんながわいた時のこと。
その子は、
会話をすることはできなかったが、なんとか立つことができるという
私のいたクラスの中では、自立レベルの非常に高い子であった。
その日は、クリスマスシーズン中だったこともあり、
大きなブーツに入ったお菓子をみんなで開けた。
動ける子供は思い思いのお菓子を掴み、
咀嚼のできない子供たちは飴、
と各自相応に配られていく。
ところが、
彼女はニコニコしているだけで、特に欲しそうな様子もなかった。
それだというのに、おせっかいな私は、初対面だった彼女に
可哀想だろうと小さな綿飴をちぎって口に入れてあげた。
「××ちゃんに何もないのは可哀想なので、綿飴を少しあげました」
すると、複数の先生方が血相を変えて彼女のところへ飛んでいき、
口に指を突っ込んだ。
「ダメよ! 彼女は!!
普通のものは何も食べられないの!
××ちゃん、食べちゃダメよ! 飲んじゃダメよ!」
小柄な彼女が背負うには大きすぎる透明な箱のついた機械は、
呼吸をサポートする空気浄化装置だとは聞いていたが
今回の入院で、更に腹部外に消化装置をつけることになった
ということまでは知らなかった。
状況を完璧に把握していない子供に何かするという
根本的かつ致命傷にもなりかねない重いミスをしでかした私は
自分の軽挙さに青くなった。
が、次の瞬間、先生は歓喜の声をあげた。
「まぁ! ××ちゃん、良かったっ!!
口から出てたわ!」
全く手もつけられず落ちていたお菓子に、心底ホッとした私だったが
それ以降、病状を熟知している子供以外には近寄ることはなくなった。
(当たり前のことなのだが・・・)
この出来事を今にして思うと、
彼女は、
自分が食べてはいけないものを与えられたと判断する能力
食べてはいけないと制止されたことを理解する能力
その食べ物を排除しなければいけないと考える能力
などが備わっていたのではないか。
私達の会話や行動を理解し判断することのできるだけの知能があって、
口から「落ちた」のではなく、口から「落とした」
という行為をとったのでは・・・
言語や態度ではっきりと示す手立てを持っていなくても
理解して、精一杯の行動に移ることはできる。
その例だったのかもしれない。
ふと、そんな風に思った。

もし、こうして
知能はあるのにコミュニケーション手段を持たないがために
赤ん坊に対する愛護のような対応だけで
一生を終えていく子供たちがいるとしたら、
不幸なことである。
コミュニケーションの糸口を見つけ出した流奈くんのお母さんは、
本当に素晴らしい人だし
そんなお母さんの子供に産まれてこられた流奈くんは、
本当にラッキーな少年だ。
何より、彼自身がそのことを理解しているのが素晴らしいなと思う。

2002年04月28日(日)
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