台風が近づいているようで、怪しい雲行きです。
今回は大変強い勢力を保ったまま、近畿地方直撃のコースをたどっているようですね。
夕食の話題に、強風の程度がのぼりました。
私が体験し、最も印象に残っているのが1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風(台風25号)です。
当時の一般住宅は築後かなり古いものが多く、台風の時などは家が随分揺れたものでした。
また、ほとんどが木造でしたので、石炭や、薪ストーブが当たり前の暖房だった冬場は、かなりの頻度で火事が発生したものです。
台風15号は両親もあまり経験したことのない強いものでした。
夕飯を済ませたころ、通りが騒がしくなり、外に出ると、大勢の近所の人が騒いでいました。
たって折れないくらいの強風が吹きつける中、遠くに赤い炎が空を赤く染めています。
情報が錯綜して、パニック状態に陥る住民に襲い掛かるように、またたく間に炎が迫ってきました。
祖父と父が屋根に上って水をかけ始めました。近状の人たちも同じような行動をとっていましたが、雨交じりの風の中、無意味にも、こっけいにも子ども心に見えたことを記憶しています。
それからが大変でした。
小学5年の長男である私と、生まれたばかりの弟を背負い、3才の妹の手をひいた母親を先導するように、わずかの荷物を持って、火と強風の中を逃げ回りました。
今でも覚えているのは、親指ほどの意志が飛んできて身体にびしびし当たっていたことです。風で石が飛び交うなど、このときが初めてでした。
道をふさぐように、一抱えもある大きなポプラの木が次々倒れてきます。
中学の体育館の軒先に身を寄せると、屋根が崩れ落ちてきました。
町全体が赤い炎に包まれているのを、山すそにある高校の窓から一晩中眺めていました。
朝、家に帰ると、たまたま消防署の隣にあった私の家を含む山側の家の一角を残し、町の大半が焼け野原になっていました。
水上勉の「飢餓海峡」はこの岩内大火から物語が始まります。
この台風で、青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、乗員乗客1200人近くが犠牲になりました。
同時に同じ航路の連絡船が湾外避難の最中、3000トン級の4隻がほとんど相前後して沈没しました。
このため、15号台風を「洞爺丸台風」と名づけられたのです。
この記憶が染み付いているせいか、いまだに台風には敏感です。
このたびの大型台風が最小限度の被害ですみますように祈ります。
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