ATFの戦争映画観戦記



【File129】男たちの硫黄島・・・こし咳卆顕嫉隆韻脇鹽戰魯(星条旗)を揚げる?【前編】

2007年01月26日(金)

イーストウッド監督による『Letters from Iwo Jima/硫黄島からの手紙』は、先週2007年1月15日(日本時間1月16日)に開催された第64回ゴールデングローブ賞授賞式において最優秀外国語作品賞を受賞、そして今週23日(日本時間24日)発表された第79回アカデミー賞の各賞候補作品の発表において、作品賞、監督賞、脚本賞、音響編集賞の四部門においてノミネートされました(日本語による作品が作品賞候補になったのはアカデミー史上初めて/残念ながら当初囁かれていた渡辺謙の主演男優賞候補、二宮和也の助演男優賞候補へのノミネートはありませんでしたが)・・・これは戦争映画ファンとっては誠に喜ばしい事なんですが・・・でも待って下さいな・・・イーストウッド監督の硫黄島二部作として製作された『父親たちの星条旗』は一体どうなったんでしょうか?残念ながら全く気配すらありません(悲・・・仕方無いので『Letters from Iwo Jima/硫黄島からの手紙』のアカデミー賞受賞を祈念しつつ、今回も早速観戦記を始めさせていただきます。今回は『父親たちの星条旗』の映画・原作ともに全く触れられていなかった狷罩に挑みます。毎度毎度、書込字数制限に苦しめられておりますが、今回は頑張って最初から前後二回分をまとめて書き上げましたよ!一応これにて観戦記『男たちの硫黄島/父親たちの星条旗編』は終了です。それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつも以上に当書き込み記事には資料的価値は一切ありません・・・(^o^;A】

【摺鉢山の山頂に星条旗は翻ったが・・・】
1945年2月23日午前10時20分・・・シュリアー中尉指揮する強行偵察小隊によって、日本の歴史上2600年間で始めて日本古来の領土に外国の国旗・・・星条旗が翻りました。しかしその時、強行偵察小隊に同行していた海兵隊広報誌レザーネック・マガジンの従軍カメラマン、ルイス・ローリー軍曹が星条旗掲揚場面として撮影した写真は、ローゼンソールが撮影した様な躍動感漲る決定的瞬間写真ではありませんでした・・・残念ながら2枚の星条旗掲揚写真(左:ローゼンソール撮影/右:ローリー撮影)を比較して見ても明らかだと思いますが、ローゼンタールの写真は、見様によっては如何にも抵抗激しい敵弾飛び交う中で星条旗が掲揚されている・・・迫力満点な写真であるのに比べ、反対にローリー軍曹の写真は、構図の手前で海兵隊員がカービン銃を構え、周囲を警戒してドラマ性を盛り上げている(言い様によっては、これもヤラセ写真なんですけどね・・・まぁ細かい事はさて置き)とは言え、他に写っている海兵隊員の様子が、如何にものんびりとして緊迫感がありません。私ATF的には、もしこの2枚の写真が米国内で同時に公表され、ローゼンソールの写真が第二の星条旗だと紹介されても、軍配はロ−ゼンソールの方に上がりそうな気がするのですが・・・如何なものでしょうか?

さて、ジェイムズ・ブラッドレー著『硫黄島の星条旗』の中の記述によれば・・・山頂に星条旗が翻った後に日本兵の小規模な反撃が起こった・・・と言う事になっています。しかし幾つかの米国内のサイトの記述によれば、日本兵の反撃は星条旗掲揚前に起こった出来事・・・とされているのですが、実際史実はどうだったのでしょうか?少数の日本兵による反撃の模様は・・・最初に飛び出して来た日本兵は、海兵隊員のハロルド・ケラーが射殺・・・次の日本兵を同じく海兵隊員ジェームズ(チック)ロブソンが射殺・・・更に怒り狂った日本軍将校が、折れた軍刀を振りかざしながら突っ込んできた様ですが、星条旗に近づく直前に射殺された・・・そうです。また無人と思われていた幾つかの洞窟陣地から手榴弾が飛んで来た為に、海兵隊員たちは素早く遮蔽物の陰に身を隠すと、今度は自分たちの手榴弾を洞窟目掛けて投げ返し、そして手榴弾の爆発が静まるやいなや、今度は洞窟を火炎放射器で焼き払いました・・・結局この小規模な銃撃戦は十数分間続いた様です。この戦闘における海兵隊側の唯一の負傷者はルイス・ローリー軍曹で、日本軍手榴弾の爆発を避けようとして足を踏み外し、山の斜面を20〜30フィートほど転がり落ちたそうですが、幸いにも軽い打撲症・・・またカメラは破損しながら、幸運にもフィルムは無事だったそうです・・・この事からも日本兵の反撃は、最初の星条旗が掲揚された直後の事だと推定されます。

【写真】星条旗の掲揚直後、周囲の不穏な雰囲気に一部の海兵隊員たちが気付いた・・・って言う風なキャプションが付けれそうな写真。
【写真上】日本軍の攻撃に対し散開し、反撃に移る海兵隊員たちの緊迫したショット・・・写真右端の海兵隊員はヘルメットを被ってないのでハンク・ハンセン軍曹と思われる。【写真下】上陸海岸側の斜面において、カービン銃で日本兵に射撃を加える海兵隊員・・・山頂での戦闘が続く最中も、海岸では続々と兵員・兵器・物資の揚陸が続けられていた。
【写真上】日本軍の攻撃を撃退し、星条旗の周囲でホッと一息吐く海兵隊員たち。【写真下】摺鉢山の旧火口側からの日本兵の攻撃を警戒する海兵隊員たち。

実は後に判明(戦利記念品目当てで洞窟内に入った海兵隊員が発見)した事ですが、山頂に星条旗が掲揚された時点では、シュリアー中尉指揮の強行偵察小隊42名の約4倍以上・・・200名近い・・・の日本兵が、摺鉢山山頂付近の地下陣地の中で生存していた様です。しかしこれら日本兵たちは、反撃する事もなく地下陣地内で手榴弾によって集団で自決していました・・・この状況は『硫黄島からの手紙』でも描かれていました・・・これらの集団自決は、米軍の攻撃によって上級指揮官(将校)の多くが戦死し、組織的な統制を失った中で突発的に引き起こされた集団自決ではないかと思われます。山頂での小規模な戦闘が終了した後、摺鉢山には海兵隊の増援部隊が送り込まれ、山腹や山麓での日本軍陣地の掃討戦が数時間以上も続けられました。

【写真上】摺鉢山の中腹で日本兵の掃討戦を行う海兵隊員たち。写真左上の山頂付近に海兵隊員と星条旗らしき物が確認出来る。【写真下】星条旗が翻る山頂近くの斜面で日本軍陣地の捜索を行う海兵隊員たち・・・ハンドトーキー型無線機で本部と交信する分隊長(?)の右肩横に開いているのは日本軍陣地の銃眼だろうか?海兵隊員が小銃に着剣しているのが興味深い・・・陣地から飛び出てくる日本兵との白兵戦を想定しているのだろうか?

摺鉢山の山頂に送られた海兵隊の後続部隊には、米国内のマスコミ各社の従軍報道班員たちが同行を許されていました。既にご存知の通りローゼンソール一行もその中に含まれていた訳ですが、彼らは1945年2月23日の正午頃に山頂に到達・・・早速カメラマンたちは写真を撮影し始め、記者たちは頂上にいる海兵隊員たち相手に取材を開始しました。そんな中シュリアー中尉の指揮の下、星条旗の交換作業が黙々と行われていた訳です。

【写真】摺鉢山山頂に到達し、最初の星条旗の下でポーズを取って記念撮影するローゼンソール他の従軍報道班員たち。

【硫黄島の三番目の星条旗の掲揚】
摺鉢山の山頂に星条旗が掲揚されてから19日後・・・硫黄島での戦闘も終盤となり、日本軍総指揮官栗林忠道中将が残存兵力による最後の攻撃を決断し、歩兵第145連隊長池田増雄大佐に軍旗の焼却を命じた1945年3月14日・・・その日の午前9時30分、硫黄島に上陸した三個海兵師団他を統括する第5水陸両用軍団司令部において、硫黄島における三番目の星条旗の掲揚が行われました・・・遠征軍総指揮官リッチモンド・K・ターナー海軍中将、硫黄島派遣部隊総指揮官ホーランド・M・スミス海兵中将、第5水陸両用軍団司令官ハリー・シュミット海兵少将、第3海兵師団長グレーブス・B・エルキンス海兵少将、第4海兵師団長クリフトン・B・ケーツ海兵少将、第5海兵師団長ケラー・E・ロッキー海兵少将ら米軍首脳が参列する中、ディビス・スタッフォード海軍大佐によって太平洋方面最高司令官チェスター・W・ニミッツ海軍元帥の猯臆島の占領と軍政の開始を告げる宣言が代読された後、第5水陸両用軍団司令部前の旗竿に、第三の星条旗が厳かに掲揚されると、参列した将兵が一斉に敬礼を捧げました・・・そして、それまで摺鉢山の山頂に翻っていた第二の星条旗は、その役目を終えて静かに降ろされました・・・米軍が硫黄島の完全占領を公式に宣言したのは、それから更に二日後の1945年3月16日午後6時の事でした。

【写真】第5水陸両用軍団司令部の旗竿に翻る第三の星条旗に対し、一斉に敬礼する米軍兵士たち。彼方に摺鉢山が聳える。

【最初の星条旗を掲揚した男たち】
さて、ここからが今度こそ話の核心です(本当ですよ!)・・・『父親たちの星条旗』では、殆んど重要ではなかった最初の星条旗を掲揚した男たちについてのお話です。まずは今までの公式解釈に基づく、ローリー軍曹の写真における各海兵隊員たちの立ち位置をご覧下さい。この写真には7名の人物が写っているのが確認出来ますが、その内で官姓名が明確に特定出来ていたのは6名だけです。ハンセン軍曹の左横に立っている通信機を背負った海兵隊員については、長い間その官姓名が不詳でした。しかしそれ以前に、このローリー軍曹の写真自体が、ローゼンソールの第二の星条旗写真が余りにも有名になり過ぎた為に、余り注目されずにいたのも、また事実です。その為、最初の星条旗掲揚に立ち会い、ローリー軍曹の写真に写っているチャールズ・W・リンドバーグ伍長は、戦後長い間「私は摺鉢山の星条旗掲揚に立ち会ったと言っても、周囲から散々嘘つき呼ばわりされ、禄な事がなかった」と述べています。当時まだ24歳だったリンドバーグ伍長ですが、既にガダルカナルとブーゲンビルでの戦闘を経験したベテランと呼べる海兵隊員で、1945年2月23日にはシュリアー中尉の強行偵察小隊所属する火炎放射器兵として摺鉢山に登り、最初の星条旗掲揚に関わりますが、その6日後の1945年3月1日に、硫黄島北戦区で日本軍陣地掃討中、迫撃砲弾片を右腕に受ける重傷を負い後送されます。その後硫黄島での英雄的行動と負傷に対して銀星章と名誉戦傷章を授けられています。そんな真の英雄であるリンドバーグ伍長ですら、戦後長年「嘘つき」呼ばわりされ続け、結局ニクソン大統領やクリントン大統領と面会を果たし、1996年にワシントンの硫黄島記念碑の落成に招待されるまで、公式には、摺鉢山上の最初の星条旗掲揚者と言う名誉を認められなかった訳です(2006年現在リンドバーグ氏は84歳で、星条旗掲揚者の最後の生き残り・・・とされています)

摺鉢山の山頂で撮影されたチャールズ・リンドバーグ伍長の雄姿。
現在(2006年)のチャールズ・リンドバーグ氏。
※ルイス・ローリー氏は晩年、自らが撮影した星条旗関連の写真の版権を全てリンドバーグ氏に譲っています。

くどい様ですが、ローリー軍曹が撮影した写真の中には、星条旗掲揚の決定的瞬間を写した写真はありません。しかし2005年に硫黄島戦60周年を記念して、新たに修正された海兵隊公式戦史に基づき、星条旗掲揚の瞬間を描いた戦争画が製作されました。この戦争画にはチャールズ・リンドバーグ伍長の姿がしっかりと描き込まれています・・・画面左下の氏名不詳の海兵隊員は、多分ローリー軍曹の写真においてカービン銃を構えているジェームズ・マイクルズ一等兵に間違いないと思われますが、画面右側の半身だけ描かれた海兵隊員は一体誰なんでしょうか?

【忘れられていた最初の星条旗を掲揚した男たち】
前述の通り、ローリー軍曹の写真に写っていた海兵隊員たち・・・最初の星条旗を掲揚した男たち・・・については、合衆国内でも長年殆んど注目されませんでした。実は1945年2月25日・・・星条旗掲揚の二日後に、ターナー提督やスミス海兵中将の座乗した上陸作戦総指揮艦エルドラド(AGC11)の艦上で、最初の星条旗を掲揚した海兵隊員の一人アーネスト・トーマス小隊先任軍曹に対し、CBSのドン・プライヤー記者が、星条旗掲揚の状況についてのインタビューを行っていたのですが、ローゼンソールの写真の影響力の大きさからか、このインタビューは歴史の闇の中で黙殺されてしまった様です・・・結局ローリー軍曹の写真が公の場で発表されるのは、太平洋戦争終戦から2年が過ぎた1947年9月になってからなのですが、その時点では、米国民にとっての硫黄島の英雄とは、既にローゼンソールの写真に写っていた6名の男たち・・・という認識が固まってしまっていました・・・また合衆国海兵隊の歴代司令官たちも、長年この最初の星条旗掲揚者については、敢えて公式な場での発言は控えていた様です・・・あくまでも推測ですが、海兵隊は関係者に対し緘口令を布き、民衆の話題に上らない様にしていたのかもしれません。
私ATFは、ジェイムズ・ブラッドレー著の『硫黄島の星条旗』を初めて読んだ時から、この最初の星条旗掲揚者たちが重要視されていない点について、非常に疑問に思っていたのですが、その疑問はイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』を観戦した後、一層掻き立てられる事となりました・・・そう最初の星条旗を掲揚した男たちは実際何人で、そして彼らは一体誰なのか?と言う疑問が・・・。

【ローリー軍曹の写真に写っている通信兵は誰なのか?】
この疑問を解く為に、私ATFが最初に取り掛かったのが、ローリー軍曹の星条旗掲揚写真に写っている7名の海兵隊員中で、唯一官姓名が解らない謎の通信兵について調べる事でした。しかし調べようにも、日本国内のサイトでは全く関連する記述を発見する事は出来ず(・・・まぁこんな事に興味を持つヤツは、日本にゃ他にいねぇ〜よなぁ・・・)、結局残された手段は海外・・・主に米国内の硫黄島戦関連サイトで調べるしかなかった!・・・のですが、以前の観戦記でも口が酸っぱくなる程述べていますが、私ATFは英語が大の苦手(そんな訳で大学受験では英語の試験がない国文科を受験しました)・・・結局翻訳サイトと英和辞典の助けを借りつつ、今回の観戦記を執筆する事となりました。従って今回の観戦記は90%以上米国内の硫黄島戦関連サイトの資料を基に執筆されていますので、誤釈・誤訳が非常に多いものと思われます・・・その点を予めご了承下さいませ(大汗。ただ幸いな事に米国の軍事関連のサイトは、英語翻訳サイトで日本語変換して多少変な語訳になっても、原文中の単語と前後の文脈から想像し易かった・・・って事でしょうか。例えば爛侫ックス会社2/28、第5海運課なんて、全く妙な語訳が文中に登場しても、これくらいなら軍ヲタを長年やって来たお陰で、即座に第5海兵師団第28海兵連隊第二大隊F中隊って判別出来る訳ですよ・・・。

さて件の官姓名不詳の謎の通信兵ですが、これが意外と簡単に官姓名が判明してしまいました・・・流石は本場米国の硫黄島戦研究サイトであります。実はローリー軍曹の星条旗掲揚写真は、合衆国海兵隊広報誌「レザーネック・マガジン」の1947年9月号の誌面に初めて掲載されたのですが、その時点では写真のキャプションに彼の通信兵氏の官姓名は既に掲載されていたのです・・・レイモンド・E・ジェイコブズ一等兵・・・しかしローリー軍曹の星条旗掲揚写真が長年注目されない中で、彼の名も歴史の闇の中に埋もれて行った様です。彼はシュリアー中尉指揮下の強行偵察小隊が編成された時点で、戦力増強の為に第二大隊長ジョンソン中佐によって大隊中の他の部隊から抽出された機関銃2班と60mm迫撃砲1班、負傷兵後送用担架兵1組と無線通信兵1名の計15名中の一人で、大隊指揮所と強行偵察小隊との間の通信の確保を命じられていたそうです。後に彼の背負っていた無線機のバッテリーが消費された為、中隊伝令レイニー・ギャグノン一等兵が予備のバッテリーを届けるよう命じられ、またストランク軍曹たちが、山頂まで有線電話回線を敷設するよう命じられたのは、前回の観戦記で記述した通りです。また彼が強行偵察小隊に配属された通信兵だったと言う事は、当時のロサンゼルスタイムズ紙に掲載された記事中に彼の名前が見られる事によっても確認出来るのです。本来ジェイコブズ通信兵はF中隊の所属の兵士で、強行偵察小隊の母体となったE中隊第三小隊の海兵隊員たちとは、殆んど面識が無かった為(前述のリンドバーグ氏を始め第三小隊の生存者たちは通信兵が配属されていた事は記憶していたが、氏名まで記憶していなかった)に、時を経る内に結局官姓名不詳とされてしまった様です。レイモンド・ジェイコブズ氏も健在(2006年時点)で、現在ではローリー軍曹の写真に写っている人物として公式に認定されています。ジェイコブズ通信兵は、強行偵察小隊長シュリアー中尉に随伴するよう命じられていた為にローリー軍曹が他に撮影した星条旗掲揚準備風景の写真でも、その姿を確認する事が出来ます。

今まで謎だった通信兵の官姓名は確認出来たのですが、その事が一層大きな謎を呼ぶ事に・・・後編に【続く・・・】

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