| 【File128】男たちの硫黄島・・・��ある星条旗(ハタ)の物語【後編】 |
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2007年01月21日(日)
今や毎度お馴染みになりつつありますが、世間では殺人やら幼児投げ落としやら、火事、ガス漏れと物騒な事が次々に起こっております。日本は一体どうなるんでしょうか・・・考えるのも厭になるので、今回も早速観戦記を始めさせていただきます(今回も書込字数制限が〜汗)それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつもの如く当書き込み記事には資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】
【ジョー・ローゼンソールの栄光と影】 1945年2月23日午後、摺鉢山から下山したジョー・ローゼンソールは、撮影したフィルムを現像する為、その日の内にグァム島へ送りました。彼の写真は、報道写真として優先的に軍の空輸ルートで運ぶ事が出来たそうです。グァム島において現像された写真12枚の内、2枚は感光していて失敗だったそうですが、残りの写真は無事現像され軍の検閲を通過、翌2月24日土曜日朝7時には、在グァム島AP通信写真部長ジョン・ボドキンのデスク上に届いていました。写真を一枚づつ眺めていたボドキンが、一枚の写真を見て叫び声を上げます・・・「空前の写真だ。これは歴史的な一枚だぞ!」ローゼンソールの撮影した第二の星条旗掲揚の写真でした。ボドキンは、その写真を直ぐにニューヨークのAP通信本社に電送・・・その後AP通信からアメリカ各地の新聞社へ配信され、翌2月25日の全米朝刊各紙一面上段トップを、ローゼンソールの撮影した第二の国旗掲揚の写真が飾りました・・・それは撮影されてから約40時間・・・と言う当時としては驚異的なスピードでした。その後、空前のスクープに対して、AP通信本社からローゼンソール宛に祝福電報が届きますが、当のローゼンソールは、その時どの写真がスクープになったのか全く検討が付かなかったそうです。
※この時、ルイス・ローリー軍曹の撮影した最初の国旗掲揚写真は、報道写真としてではなく海兵隊の公式記録写真として処理される途中で、未だ現像すらされていませんでした・・・その後一週間程の間、他のフィルムと一緒に保管され、結局現像され正式に記録写真として登録されたのは、更に半月も後の事だったそうです・・・
名声には僻みが付き物です・・・星条旗掲揚写真については、当初から一部マスコミ関係者に疑いの目が持たれていました。1945年3月4日グァム島へ戻ったローゼンソールは、他社の記者に「撮影時にポーズを取らせたのか?」と聞かれ、てっきり星条旗掲揚後に撮影したE中隊の「ガンホウ」ポーズ写真の事だと思い「勿論だ」と答えます。この為、タイム誌特派員ロバート・シャーロッドは「ローゼンソールの星条旗掲揚写真はポーズを取らせて撮影したヤラセ写真だ」とし、タイム誌傘下のラジオ番組タイム・ビューズ・ザ・ニュースは「ローゼンソールは星条旗掲揚写真撮影者と言う名声の誘惑に負け、既に掲揚されていた星条旗を再度掲揚させて撮影した」との非難を繰り返しました。その後ローゼンソールは「ヤラセ写真を撮った」「自分が最初の星条旗掲揚写真を撮影したと言い振らした」等の非難を受け、ニューヨーク・タイムス紙はローゼンソールのピューリッツァー賞受賞を剥奪せよ、と主張するまでになります。結局ローゼンソールは絶えず批判の声に晒され、その都度反論を繰り返さなければならなかったそうです。 2006年8月20日・・・彼はサンフランシスコのゴールデンゲートパークの近くの介護施設で老衰により亡くなりました・・・享年94歳。1911年にワシントンD.C.でユダヤ系ロシア移民の子として生まれ、その後写真に興味を持ち、世界恐慌後にサンフランシスコに移り、1932年サンフランシスコ・ニュース紙に入社して報道カメラマンとしての第一歩を踏み出します。第二次大戦中は極度の弱視の為に兵役は免除されますが、AP通信社に移籍し海兵隊従軍カメラマンとしてニューギニア、ホーランディア、グアム、ペリリューそしてアンガウル、硫黄島等の戦場を転戦。戦後AP通信社を退社し、サンフランシスコ・クロニクル社に入社。1970年代に引退するまで同社カメラマンとして活躍しました。ローゼンソールは生前「自分は一生に一度だけ、とてつもない大仕事に恵まれた」と常に話しており、また星条旗掲揚写真のヤラセ疑惑については「もしヤラセなら、あれほど良い写真は撮れなかったよ。私はただ幸運だったんだ」と話していたそうです・・・合掌。
なおローゼンソールと共に、第二の星条旗掲揚シーンを映画フィルムで撮影した海兵隊記録班のウィリアム・H・ジェノースト軍曹は、星条旗掲揚の9日後・・・1945年3月4日に硫黄島北部戦区における日本軍洞窟陣地掃討作戦に同行中、狙撃され戦死・・・その後洞窟陣地は爆破封鎖された為、遺体は現在に至っても収容されていません。
【第二の星条旗を掲揚した男たち】 ローゼンソールが撮影した第二の星条旗掲揚写真は、その後多くの新聞や雑誌の一面を飾り、上陸後四日間朗報もなく、増大する死傷者数ばかりを知らされていた米国民を歓喜させ、その年のピュリッツァー賞を受賞しました。マイケル・マンスフィールド下院議員(モンタナ州選出/後の駐日大使)は、米議会においてローゼンソールの写真の星条旗掲揚者たちを、第七次戦時国債募集(7th WAR LOAN DRIVE)のイメージ・キャラクターに登用する事を提案し採択されます。1945年3月20日、星条旗掲揚者中の生き残り3名の兵士が前線から呼び戻され、ホワイトハウスでハリー・トルーマン大統領と会見。写真を基にした戦時国債募集ポスターは350万枚が製作され、米国全土に配布されました。生存者3名が参加した第七次戦時国債募集は、当初募集金額目標の二倍233億ドルを集め大成功を収めます。また写真を基に切手が発行され、多くの絵画や彫像が製作されました・・・その内の代表的なものは、今もバージニア州アーリントンの合衆国海兵隊戦争記念館で武勇と犠牲のシンボルとして見る事が出来ます。この辺の事情はイーストウッド監督による『父親たちの星条旗』の中でも描かれておりました。今まで述べてきた様に、このローゼンソールの写真に写っていたのは、摺鉢山山頂に掲揚された交換用の星条旗であって、その場にいた者たちにとっては殆んど重要な意味を持たない物でした。しかし、この第二の星条旗に関わった6名の兵士たちの内3名は生きて島から出る事叶わず、生き残った3名の、後の人生に大きな影響をもたらした事は皆さんも良くご存知の通りです。
星条旗掲揚者6名の立ち位置
マイケル(マイク)・ストランク(Michael Strank)軍曹 第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月1日、星条旗掲揚から6日後、硫黄島西部海岸戦区で味方駆逐艦の艦砲誤射により戦死。享年25歳。 ハーロン・ブロック(Harlon Block)伍長 第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月1日夕刻、ストランク軍曹が戦死したのと同日(数時間後)、硫黄島西部海岸戦区において日本軍迫撃砲弾により戦死。当初星条旗掲揚者とは認定されず、代わりにハンク・ハンセン軍曹が誤認されていた。1946年5月アイラ・ヘイズの証言により誤認発覚・・・1947年1月15日合衆国海兵隊ヴァンデクリフト総司令官により公式に修正された。享年20歳。 フランクリン・サウスリー(Franklin Sousley)一等兵 第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月21日午後2時半頃、ニミッツ提督による硫黄島公式占領宣言から5日後(日本軍の組織的抵抗の終わる数日前)に日本兵に狙撃され戦死。享年19歳。 アイラ・ヘイズ(Ira Hayes)一等兵 第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1955年1月24日、生まれ故郷のフェニックスのヒーラ・リヴァー・インディアン保留地にて、過度のアルコール摂取により事故死。彼は海兵隊入隊前からアルコール依存症の傾向があったが、戦後心的外傷後ストレス障害(PTSD)により一層アルコール依存症が重くなっていたと言われている。享年32歳。【追伸】著名なカントリー歌手ジョニー・キャッシュが「アイラ・ヘイズのバラード(1964)」を作り、ヘイズの人生を歌っている・・・後年ボブ・ディランもこの曲をカバーした。 レイニー・ギャグノン(Rene Gagnon)一等兵 第28海兵連隊第二大隊E中隊指揮班所属(中隊伝令):1979年10月12日、職場のボイラー室内にて心臓発作により病死。戦後、星条旗掲揚者という栄光にすがる人生を送っていた。享年54歳。 ジョン・ブラッドリー(Jhon.H.Bradley)海軍三等看護兵曹 第28海兵連隊第二大隊E中隊第三小隊所属(衛生下士官):1994年1月11日、ウィスコンシン州アンティゴーで長年葬儀社を営んだ後、老衰による心臓発作にて家族に看取られて死亡。戦後心的外傷後ストレス障害(PTSD)による不眠症等に長年苦しんでいた。享年71歳。
ついでですが、観戦記ネタの調査中に発見した画像と記事を紹介しておきます。前々回の【File126】男たちの硫黄島・・・�.ぁ璽好肇Ε奪匹猟�戦で紹介したトニー・カーティスがアイラ・ヘイズを演じた『硫黄島の英雄(THE OUTSIDER/1961)』の画像です。 もうひとつ・・・ジェイムズ・ブラッドリー著『硫黄島の星条旗(FLAG OF OUR FATHERS)』の文中で紹介されているリー・マービンがアイラ・ヘイズを演じた作品ですが、どうやら1960年にNBC系列で放送された『Sunday Showcase』と言う短編テレビドラマ・シリーズの1エピソード『The American』という作品らしいです。また彼は『硫黄島の砂(1949)』にもエキストラとして参加しています。因みにリー・マービンも実際に海兵隊に所属し1944年6月のサイパン攻略戦で負傷、名誉戦傷章を受章しています。一説では彼が硫黄島で海軍十字章を受章したと言われていますが、現在のところ明確な証拠はありません。 そうそう『硫黄島の砂(1949)』のラスト近く、摺鉢山登頂シーンに登場するハロルド・シュリアー中尉は、ご本人が演じています。
【摺鉢山の最初の星条旗】 さていよいよ話は核心に近づいて行きます・・・今までの話は前置きですから忘れてもらっても結構ですよ・・・(オイオイ。話は前後しますが、今回の観戦記の本題は『父親たちの星条旗』では殆んど重要なシーンではなかった最初の星条旗/1stFlag掲揚についてのお話です。話は1945年3月23日、米海軍長官ジェイムズ・フォレスタルが上陸作戦総指揮官ホーランド・スミス海兵中将と共に硫黄島に上陸する五時間程前に遡ります。 その日の朝、前日までの米軍の激しい砲爆撃によって、摺鉢山の日本軍からの反撃は殆んど無くなっていました。第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐は、摺鉢山へ偵察隊を送る事を決め、指揮下のF中隊長アーサー・ネーラー大尉に少人数の偵察隊を山頂に送る様命じました。ネーラー大尉は部下の中から、最も経験豊富な下士官で第三小隊の分隊長シャーマン・ワトソン軍曹を選び、摺鉢山北側からの登頂ルートを偵察する様命じます。0700時シャーマン・ワトソン軍曹は信頼出来る部下のジョージ・マーサー、テッド・ホワイト、ルイス・シャーロの3名を率い登頂を開始・・・一時間半程で無事に下山し、ネーラー大尉に対し摺鉢山の頂上には日本兵の姿は無かったと報告しました。ネーラー大尉からの報告を受けたジョンソン中佐は、今こそ頂上確保のチャンスと判断し、部下のE中隊長デイヴ・セヴェランス大尉に一個小隊を頂上確保に向わせる様に命じます。E中隊所属の各小隊は、上陸初日以来大きな損害を出していましたが、中隊長セヴェランス大尉は頂上確保部隊として第三小隊(残存25名)を選びます。第三小隊は本来の小隊長キース・ウェルズ中尉(海軍殊勲章受章者)が負傷し後送されており、小隊先任下士官であるアーネスト(ブーツ)トーマス軍曹(海軍殊勲章受章者)が、指揮権を引き継いでいました。E中隊長セヴェランス大尉は、摺鉢山麓北東の第二大隊指揮所に第三小隊員を呼び寄せると、歴戦の海兵隊将校で副官としても信認の厚いハロルド・G・シュリアー中尉を臨時の第三小隊長に任命します。またジョンソン中佐は第三小隊の戦力増強の為に、大隊の他の部隊から機関銃2班と60mm迫撃砲1班、負傷兵後送用担架兵1組と無線通信兵1名の計15名を臨時に第三小隊に配属します。この時、海兵隊員向け広報雑誌レザーネックマガジン誌の従軍カメラマン、ルイス・ローリー軍曹が、小隊への同行を申し出て許可されます。ジョンソン中佐は、小隊員たちを前に任務を説明した後、シュリアー中尉に、頂上を無事に確保出来た場合に掲揚するように、と一枚の星条旗を手渡しました。この小さな星条旗(W54inch×H28inch)は、大隊副官ジョージ・G・ウェルズ中尉が、艦隊輸送艦USSミズーラ号(APA-211)から持参したものでした。こうしてシュリアー中尉以下42名の海兵隊員たちは、不気味に静まり返った摺鉢山山頂(166m)を目指し、ゆっくりと登り始めたのです。 【写真上】大隊指揮所の前に集められた海兵隊員たち【写真下】摺鉢山山頂を目指して出発するシュリアー中尉率いる強行偵察小隊 シュリアー中尉率いる強行偵察小隊は、途中怪しい洞窟を見つけると火炎放射器で焼き払い、入り口を手榴弾で爆破しながら、用心深く山肌を登って行きました。歴戦のシュリアー中尉は、一列縦隊で山肌を登っている小隊の側面を護る為に数名を側衛として配置・・・場所によっては手も使って攀じ登る程の急な斜面を登って行きます・・・その間、上陸海岸や沖合いの艦艇からは、海兵隊員や水兵たちが心配そうに彼らの登頂を眺めていました。 【写真】砲爆撃により一層険しくなった山肌を登って行くシュリアー中尉率いる強行偵察小隊 【写真】海兵隊員たちの登頂ルートを当時の摺鉢山写真にて推定 【写真】ネット上で発見した現在の摺鉢山の写真・・・長年の風雨侵食で、1945年2月当時に海兵隊員たちが利用した登頂ルートは判別出来ず・・・現在は写真右上に見える舗装道路によって、車両に乗ったまま山頂まで登る事が出来る やがて45分程で山頂に無事到着・・・1010時、頂上に辿り着いた海兵隊員たちは最頂上付近の旧噴火口周辺部に散開、暫くの間は周囲を警戒していましたが、結局心配していた様な日本軍の反撃は無く、数人の日本兵の遺体を発見しただけでした。 【写真上】山頂付近に到達した海兵隊員たち【写真下】日本軍の反撃を警戒して配置につく海兵隊員たち 緊張の解れたレオ・ロゼクとロバート・リーダー(彼は小隊非公式画家と呼ばれていた)は、山頂に並んで立つと、噴火口跡に向けて立ち小便をしながら「この火山はアメリカ合衆国の所有地だ」と宣言したそうです。日本兵の反撃はないと判断したシュリアー中尉は、先任下士官のアーネスト(ブーツ)トーマス軍曹に、星条旗掲揚の旗竿に適当な棒状の物を探すよう命じます。トーマス軍曹はレオ・ロゼクとロバート・リーダーの二人に命じ、二人は散乱していた日本軍の雨水集水用パイプの中から手頃な長さの物を見つけ、トーマス軍曹の待つ場所に持って来ました。トーマス軍曹はパイプを受け取ると、ハンク・ハンセン軍曹、チャールズ・W・リンドバーグ伍長(火炎放射器担当/1927(昭和2)年に大西洋単独無着陸飛行に成功した飛行家とは別人)そしてジェームス・R・マイクルズ一等兵たちと共に星条旗を結び着けました。 【写真上下】パイプの先端に星条旗を結び付けるトーマス軍曹以下の海兵隊員たち 1020時遂に星条旗を結び付けたパイプが摺鉢山の頂上に掲げられました・・・合衆国海兵隊の公式戦史によれば、この時星条旗を掲揚したのはハロルド・シュリアー中尉、アーネスト(ブーツ)トーマス小隊先任軍曹、ハンク・ハンセン軍曹、チャールズ・リンドバーグ伍長、ルイス・シャーロ一等兵の5名と記録されています。
摺鉢山山頂に肉眼では確認出来ない程の・・・日本古来の領土に2600年間で始めて・・・星条旗が翻った瞬間、海岸拠点と沖合いの300隻以上の艦艇から驚く様な不協和音が一斉に沸き起こりました。海兵隊員たちは皆歓声を上げて口笛を吹き鳴らし、ヘルメットやライフルを打ち振り、沖合いの艦艇は太くて低い汽笛を鳴らし続けました。その光景はまるで、新年に変わった瞬間の様だったそうです。そして海兵隊員たちの何人かは、硫黄島での戦いが間も無く終わり帰国出来る、と錯覚を覚える程でした。
部隊に同行していた従軍カメラマンのルイス・ローリー軍曹は、同行中30枚程度の写真を撮影していますが、残念ながらローゼンソールの様な星条旗掲揚の決定的瞬間場面は撮影はしていません・・・一説によれば星条旗掲揚の瞬間にカメラが故障してシャッターが下りなかった・・・とか。結局、彼が星条旗掲揚場面として撮影した写真は、掲揚されてから暫く後に撮影した、あの�犂�竿を数名の海兵隊員が支えている手前で、マイケルズ一等兵がカービン銃を構え周囲を警戒している写真��なのでした。
ゲゲェ〜偉そうに書いておきながら、まだ本筋に到達してない!・・・お前は一体何が書きたいのか・・・ってですか。それは次回観戦記のお楽しみ・・・と言う事で【続く〜ッ】
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