ATFの戦争映画観戦記



【File127】男たちの硫黄島・・・△△訐云魎(ハタ)の物語【前編】

2007年01月12日(金)

世間では新年早々物騒で猟奇な事件や政治家の不可解な経費処理が問題になっておりますが、一体どうしたもんでしょうかねぇ・・・それはさておき、早速ですが今回の観戦記を始めさせていただきます(書込字数制限がぁ〜)・・・それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつもの如く当書き込み記事には資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【硫黄島の星条旗】
クリント・イーストウッド監督による『硫黄島二部作』は戦争映画としてだけなく、映画としての評価や興行成績からしても間違いなく映画史に名を残す事でしょう。そんな訳で前回の観戦記では【イーストウッドの挑戦】という事で、敵味方それぞれ別の視点から、二部作として同一の戦場で戦った兵士たちの姿を描く、新しい戦争映画の手法について取り上げてみました。そんな訳ですから、当然の如く今回の観戦記は、その第一作目である『父親たちの星条旗』と言う作品について書いて行こう・・・と思っていたのですが・・・実は映画を観戦して二ヶ月近くが経ってしまい、思い出そうにも細部について思い出せません。DVDはまだ発売されておらず、お得意の重箱の角を突く様な細部についての粗探しが出来る訳もなく・・・思い出せる範囲では・・・_甬(硫黄島の戦場/戦争国債ツアーと主要登場人物3人の戦後の物語)と現在(資料調査や生存者への取材)が入り乱れて、私ATF的には構成的に非常に観戦し辛かったという点、それと■達任大袈裟過ぎた・・・特に上陸シーンが混み合い過ぎ(幾ら何でもあんなに混み合ってたら、もっと被害甚大だぜ!)と言う二点くらいでしょうか。世間一般の評判通り、流石にイーストウッド監督!この映画については、それ程ツッコミどころがない・・・と言うか最初に述べた如く細部については記憶があやふやで、ネタが浮かばない・・・(大汗。しかし何とか観戦記執筆の足がかりを得ようと、原作であるJ・ブラッドリーとR・パワーズ共著の『硫黄島の星条旗(Flags of Our Fathers/島田三蔵訳・文藝春秋刊)』を読み返してみました。原作では、著者が父親ジョン・ブラッドレーが亡くなった後、遺品を整理していた中から、父が摺鉢山に星条旗を掲揚した6名の英雄(星条旗掲揚者/THE FLAG RAISERS)の1人であった事を知り、父が何故その事を家族にすら語らなかったのかという点に疑問を持ち、資料や関係者への取材を始めた経緯、6名の英雄それぞれの生い立ちと硫黄島へ赴くまでの人生、硫黄島での戦闘と国旗掲揚、第七次戦時国債キャンペーンにおける作られた英雄像と戦死者の遺族たちの苦悩、そして生き残った3人のその後の人生が丁寧に描かれています。この点は、前述の通り構成上での難点を除けば、『父親たちの星条旗』は原作を丁寧に描いておりました。しかし何度か原作を読み返していた私ATFは、あるひとつの点について疑問を抱いたのであります・・・それは、この『硫黄島の星条旗(Flags of Our Fathers)』は、全編560ページ(文庫本版)に及ぶ長編ノンフィクションなのですが、この物語における最も重要な場面・・・そう星条旗の掲揚についての記述は20ページ程(3.6%)しかありません。その20ページ中最初と第二の旗掲揚に関しての記述が、それぞれ半分と言ったところなのです。結局のところ、この『硫黄島の星条旗(Flags of Our Fathers)』は、1945年2月23日に摺鉢山の山頂に最初に翻った星条旗の交換の為に掲揚された旗に関わった6人(海兵隊員5名・海軍衛生下士官1名)について詳しく書かれてはいますが、その第二の旗が有名になった事によって完全に忘れ去られてしまった【第一の旗】については全体の僅か2%弱しか述べられていない・・・と言う事でした。

【摺鉢山の山頂に翻った二つの星条旗】
歴史上、戦争の一場面として語り継がれる数々の場面の写真の中でも最も有名なのが犧任眸しい戦場写真瓩箸盡世錣譴襦1945年2月23日にAP通信カメラマンのジョー・ローゼンタールによって撮影された『6人の兵士によって擂鉢山の山頂に掲げられる星条旗』・・・ミリタリーマニアや軍ヲタならば一度は見た事があると言える、あの写真です。しかし現在では、硫黄島の戦闘自体が戦争体験者や一部研究者、軍ヲタくらいにしか知られていません。でも今回の『父親たちの星条旗』公開によって、この写真の事が広く知られ、また写っている星条旗は、実は最初に掲揚された旗が小さかった等幾つかの事情によって掲揚し直された二枚目の旗だって事が、多くの一般観客の知るところとなりました。しかし肝心の一枚目の星条旗はどのような状況で掲揚され、その後どうなったのでしょうか・・・そして何よりも一枚目の星条旗を揚げた猖榲の星条旗掲揚者/THE TRUE FLAG RAISERSは一体誰だったのでしょうか・・・『父親たちの星条旗』の中では、ほんのワンシーンとしか描かれておらず、観客の記憶にも殆んど残っていないと思われる、この『摺鉢山の山頂に最初に掲げられた星条旗』について、私ATFは非常に興味をそそられたのでした。そんな訳で今回の観戦記は、映画そのものよりも摺鉢山の山頂に掲揚された星条旗と掲揚者たちについて、『父親たちの星条旗』の文庫本とネット上で知り得た情報(海外サイトの情報も翻訳サイトで変換して参考にしているので誤解釈している可能性は非常に大・・・汗)そして私ATFの溢れんばかりの妄想・・・いや想像を交えて書かせていただいております・・・大汗。

【摺鉢山の戦闘】
摺鉢山の山頂に翻った星条旗について語る前に、摺鉢山の戦闘について復習しておきましょう。硫黄島の東南端にある546フィート(166m)の死火山である摺鉢山は、敵よりも高地に陣取るという兵法の鉄則からも戦術上の重要拠点・・・硫黄島の大部分(海兵隊の上陸拠点が丸見え)が見渡せる絶好の観測地点で、日本軍守備隊1,700名余(陸軍二個大隊1,060名/海軍陸戦隊640名)が、網の目の様な洞窟陣地と主要砲台に配置されており、また米軍上陸部隊の第一の目標でもありました。摺鉢山の攻略を命じられたのは第5海兵師団第28海兵連隊。3月19日、山麓に接近した第一大隊は、日本軍砲台からの猛烈な反撃を受けます。日本軍陣地及び砲台の偽装は完全で、米軍の事前偵察では全く発見されていませんでした。結果第一大隊は、所属の中隊長が一人を残し全員戦死すると言う大損害を被りました。その後幾度か攻撃が繰り返されますが、M4戦車の支援も空しく、日本軍によって撃退されます。翌3月20日、第一大隊は部隊再編の為に後方へ後退させられ、今度は第二大隊が攻撃を開始します。海上からは巡洋艦や駆逐艦、砲艦等が海岸から300m程度まで接近し、第二大隊支援の艦砲射撃を加えました。艦艇の中には砲弾を消費し、再度補給を受けて砲撃を繰り返す艦もあったそうです。しかし摺鉢山の日本軍砲台からの反撃も凄まじく、大きな被害を被った艦艇も少なくありませんでした。3月21日夜半、その日決行された海軍特別攻撃隊第二御盾隊の突入に呼応して日本軍斬込隊が出撃し、米軍前哨陣地に殺到しましたが、圧倒的火力差によって撃退されました。3月22日、一時的なスコールによって日本軍守備隊は水分の補給が出来、また海兵隊の攻撃も一時停滞しますが、反面悪天候による日中の照度低下により、それまで巧みに擬装し発見が困難だった日本軍砲台が、その発射炎によって位置を特定され、次々に破壊されて行きます。摺鉢山の形が変わる程の二昼夜にわたる激しい艦砲射撃と艦載機による爆撃によって、日本軍砲台は全て破壊され、摺鉢山守備隊長厚地大佐も戦死。守備隊の兵力は300名程度しか残っていませんでした。生き残った日本軍守備隊兵士は、地下陣地の出入口に高射機関銃(海軍の13mmや25mm機銃等)を備え付け、山麓から登頂を試みる海兵隊員に向けて撃ち下ろし、大きな損害を与えています。結局海兵隊は二日間で200m程しか前進出来ませんでしたが、それでも火炎放射器やガソリン・黄燐、TNT爆薬を併用した爆破・生き埋め戦法によって、日本軍洞窟陣地をひとつひとつ潰して行きました。こうして日本軍の抵抗も次第に弱まり、海兵第二大隊は3月22日までには摺鉢山の山麓をほぼ制圧する事に成功します。3月23日、摺鉢山からの反撃が殆んど無くなったのを確認した第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐は、副官ハロルド・シュリアー中尉に山頂の偵察を命じ、約40名の小隊を山頂の占領に向わせます。シュリアー中尉指揮する偵察小隊は、日本軍守備隊の大した抵抗を受ける事もなく40分程度かけて摺鉢山登頂に成功・・・午前10時20分最初の星条旗を山頂に掲揚(約二時間後に第二の星条旗と交換)しました。これは日本軍にとって島の最重要拠点の失陥を意味し、海兵隊にとっては将兵の士気を大いに鼓舞する・・・星条旗掲揚直後、山麓や上陸堡、海上の艦艇から一斉に喚声や銃声、汽笛が沸き起こる・・・出来事でした。その後の島の中部や北部の戦闘で、頂上を占領したシュリアー中尉指揮の偵察小隊42名中、無事に生還を果たしたのは僅か5名に過ぎません。3月23日夜、生き残った日本軍守備隊将兵は地区隊長松下久彦少佐に率いられ、包囲網を突破し独混第二旅団主力への合流を企図。残存兵力をもって総出撃を敢行。2300時頃海兵隊の前哨線に潜入するも、その大部分が途中で発見・射殺され、僅かに水野軍曹他25名が独混第二旅団司令部に辿り着けたに過ぎませんでした。

【摺鉢山の第二の星条旗】
『父親たちの星条旗』でも重要なアイテムとなる第二の星条旗/2ndFlag掲揚についても確認しておきたいと思います。そもそも全ての事の発端ですが・・・1945年3月23日、米海軍長官ジェイムズ・フォレスタルが上陸作戦総指揮官ホーランド・スミス海兵中将と共に硫黄島に上陸します。そして摺鉢山の山頂に最初の星条旗が掲揚されるのを見たフォレスタルは、スミス海兵中将に「摺鉢山上の星条旗掲揚は今後500年間、海兵隊に対して重要な意味を持つな」と言ったそうです。そして気まぐれに掲揚された星条旗を記念に(戦利品として)持って帰りたいと言いました・・・全てはこの一言が発端でした。このフォレスタル長官の要請は、その後、人伝てに第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐に伝わります。この要請は生粋の海兵隊員であるジョンソン中佐には、とても受け入れる事の出来ない要請でした・・・ナッツ!(と言ったかどうかは不明ですが・・・汗)・・・糞喰らえとかふざけるな的発言があったのは間違いない様ですな。ジョンソン中佐にしてみれば「あの旗は我々第二大隊のものだッ!」だった訳です。彼は大隊副官テッド・タトル中尉を呼ぶと、海岸に行って資材の中から交換用の別の、そしてより大きな星条旗を探して来るよう命じます。タトル中尉は星条旗を探しますが、兵員や資材の揚陸直後で大混乱中の海岸堡で、そんな簡単に見つかるはずありません。しかし鬼の大隊長の命令は絶対です・・・右往左往した挙句、タトル中尉は戦車揚陸艦(LST)779号の乗員アラン・ウッド少尉から星条旗(H56inchXW96inch)を入手する事に成功します(海兵隊公式戦史による)・・・後に解った事ですが、この星条旗は真珠湾攻撃の日に沈んだ艦艇から引き揚げられ、オワフ島の廃材置場に置かれていた星条旗だったとか・・・なんか嘘臭いけど本当かなぁ。
※一説によれば、ジョンソン中佐に星条旗探索を命じられたのはタトル中尉ではなく、中隊指揮所付伝令であったレイニー・ギャグノン一等兵で、彼は戦車揚陸艦(LST)758号の補給担当士官ロバート・レズニックに星条旗を譲ってくれるように頼み、それに対しレズニックは艦長フェリックス・モレンダ沿岸警備隊大尉の許可を受け、艦に搭載されていた星条旗のひとつをギャグノンに渡したとの事(・・・レズニックが2004年11月に証言した)・・・因みにこの星条旗はメア島海軍工廠の職員メイベル・ソヴァギューが縫われている(沿岸警備隊戦史部による)

ジョンソン中佐は、山頂のシュリアー中尉の無線通信機のバッテリーが弱っていて交信に支障が出ていた為に、E中隊長デイヴ・セヴェランス大尉に対し、大隊指揮所と山頂の間に有線電話の電線敷設を命じ、セヴェランス大尉は部下のマイケル・ストランク軍曹にそれを命じます。またセヴェランス大尉は、シュリアー中尉の無線通信機の交換用SCR-300バッテリーを入手する為、中隊指揮所付伝令レイニー・ギャグノン一等兵を大隊指揮所に派遣しました。電線敷設を命じられたストランク軍曹は、自分の部下の中から気心の知れた3名(ハーロン・ブロック伍長、アイラ・ヘイズ一等兵、フランクリン・サウスリー一等兵)を選び、共に大隊指揮所に向い、そこでレイニー・ギャグノン一等兵と合流します。この時ジョンソン中佐は、ギャグノンにバッテリーと一緒に交換用の星条旗を持たせ、シュリアー中尉に届けるよう命じていました。1100時頃ストランク軍曹一行は電線を敷設しながら、摺鉢山を登り始めます。

同じ頃、AP通信社カメラマンのジョー・ローゼンソールが、海兵隊報道班カメラマンのボブ・キャンベル一等兵とムービーカメラマンのウィリアム・ジェノースト軍曹(星条旗掲揚の9日後に戦死)と共に摺鉢山山頂を目指して登っていました。ローゼンソール一行は、山の中腹で下山する海兵隊員一行と擦れ違います。その中に最初の星条旗掲揚の写真を撮影した海兵隊報道班のルイス・ロワリー軍曹がいました。ロワリー軍曹は、ローゼンソール一行に対し既に星条旗の掲揚が終わり、その写真を撮影した事を告げました・・・星条旗掲揚シーン撮影のチャンスを失ったローゼンソール一行は、一旦は下山しようと考えますが、ロワリー軍曹から山頂からの景色は絶景だと聞かされ、とりあえず山頂へ向う事にします。ルイス・ロワリー軍曹が撮影した最初の星条旗掲揚写真
1200時頃、無線通信機予備バッテリー、交換用星条旗を持って電線を敷設しながら登頂していたストランク軍曹の一行が山頂に到着。同じ頃ローゼンソール一行も山頂に到着します。

シュリアー中尉は、最初の星条旗降旗と新しい星条旗掲揚の二つの作業を同時に行うよう部下に指示を出し、新しい星条旗の掲揚をストランク軍曹一行に命じました。ストランク軍曹は、サウスリーとヘイズに旗竿となるパイプを探すように命じ、その間に自らは旗竿を立てる場所を選定・準備、旗竿を立て易い様にブロックに石を積み上げさせました。まもなくサウスリーとヘイズが重さ100ポンド以上もある長いパイプを見つけて来て、その先端にギャグノンが星条旗を結び付けました。その頃山頂には強風が吹いており、星条旗を結び付けた旗竿のパイプが重くなった為、ストランク軍曹は丁度両手に大量の包帯を持って通りかかったジョン・ブラッドリー海軍三等看護兵曹を呼び止め、手を貸すように頼みました。そしてシュリアー中尉の合図で、ふたつの星条旗の掲揚と降旗が同時に行われました。その時山頂にいた他の海兵隊員たちの中で、一分間ほどの旗の交換作業には注目した者は誰もいませんでした・・・それは、この作業が単なる事務的な作業に過ぎず、旗も単なる代わりの旗でしかなかった為で、第二大隊の戦闘報告にも、第二の星条旗掲揚については何も触れられていません。

星条旗の交換作業を準備している海兵隊員たちを見つけたローゼンソール一行は、とりあえず撮影する為の位置を確保します。キャンベル一等兵は山頂から少し下がった位置・・・最初の星条旗のほぼ真下。ジェノースト軍曹とローゼンソール・・・第二の星条旗から約30ヤード離れた場所(二人は殆んど同じアングルで星条旗掲揚を撮影します)で星条旗掲揚の絶好のタイミングを待っていました。この時、身長の低いローゼンソールは、より良い撮影アングルを確保する為に足下に石や砂袋を積み上げていました(彼のカメラは35mmSpeed Graphic・・・シャッタースピード1/400秒・絞り8と18の間でした)。またジェノースト軍曹のムービーカメラには、フィルムが数フィート分しか残っていませんでした。結局ローゼンソール一行は絶好のタイミングで星条旗掲揚シーンを撮影する事となります。この時カメラを岩の上に固定しようとしていたローゼンソールは、星条旗掲揚に気付いて慌て、ファインダー越しに被写体を確認しながら撮影する事が出来ず、撮影に成功したかどうかは確信がなく、ピンボケしているかもしれないと思っていたそうです。

ローゼンソールの撮影した第二の星条旗掲揚写真
ジェノースト軍曹の撮影した第二の星条旗掲揚映像
キャンベル一等兵の撮影した最初の星条旗の降旗写真


第二の星条旗掲揚写真の撮影後、ローゼンソールは山頂にいた海兵隊員たちを呼び集め「ガンホウ」ポーズ(日本軍で言うところの万歳写真)を撮影しています。星条旗掲揚シーンの撮影に自信のなかったローゼンソールは、この「ガンホウ」ポーズの写真こそ本国の新聞の一面を飾るに相応しい写真だと思っていました。そしてこれはキャンベル一等兵が「ガンホウ」写真を撮影するローゼンソールを撮影した写真・・・ローゼンソールが土嚢と岩を積み上げた上に立っているのが解ります。次は「ガンホウ」写真の直前或は直後に撮影された写真ですが、撮影者は不明です。
一時間後、思い通りの写真を撮影し終えたローゼンソール一行は下山しました。シュリアー中尉以下の偵察小隊の海兵隊員たちは、その後四日間を山頂で過ごす事になります。最初に掲揚された星条旗は、その後第二大隊長ジョンソン中佐の下に送られ、大隊指揮所の金庫の中に保管・・・この星条旗は、大隊にとってとても名誉な遺物であり、無防備な状態で放置出来ない・・・されました。第二の星条旗は、掲揚後三週間もの間、摺鉢山の山頂に翻っていて、終いには強風でズタズタになっていました。これら二枚の星条旗は、現在合衆国海兵隊戦争記念館に保管・展示されています。
※画像は現在の第二の星条旗

第二の星条旗掲揚の経緯・・・如何でしたでしょうか・・・しかし二つの星条旗掲揚を巡る物語はまだまだ謎を深めて行ったのでありました・・・【続いてます】

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