ATFの戦争映画観戦記



【File122】スペイン内戦勃発70周年・・・誰がために鐘は鳴るなり豆戦車

2006年07月17日(月)

まだ梅雨も明けきらないというのに、既に何日も真夏日並みの気温の日が続いております。しかも世の中では物騒な事件ばかり・・・秋田では、やはり事件が起きた当初に誰もが想像した通りの結末となりつつあり、北の将軍様の打ち上げ花火は全世界的に批難されたにも関わらず、将軍様にとっては何処吹く風・・・世界一の共産党大国も、実は将軍様を持て余しているのではないでしょうか・・・全く以って厭な世の中になって来たものです。さて話変わって、実は『血戦奇襲部隊』を題材とした前回の観戦記は、ご存知の通り事情があって一度はボツとなった観戦記企画だったので、今回観戦記として新たに発表するに当り、以前書きかけの原稿を補完しつつ発表しております。そして、その補完の過程で、新しい資料や関連する幾つかの作品を調べ直したのですが、その中で幾つもの興味深い事柄を発見しました。そんな訳で今回の観戦記は、それら闇に埋もれかけた狄深足に光を当てさせたいと思います・・・それでは【開演ブザー】・・・携帯電話の電源はお切り下さい・・・【いつもの如く文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【やっぱり豆戦車が好きでしょ!】
世に戦車(模型)マニアは多かれど、その殆んどがドイツ軍戦車が好きだとか米軍や旧ソ連軍の戦車が好き・・・尚かつティーガー戦車が好きだのパンター戦車が好きだの、T34が良い、M4シャーマンが一番・・・一歩譲って英軍や日本軍、そしてイタリア軍の戦車がたまらん・・・等々と言った方々であろう事は明白であります。戦史を彩った数々の名戦車たちの影で、名も知れず歴史の闇に消えていった数々の戦車たちの姿があった・・・って、それじゃ前回の観戦記と同じ出だしだよッ!・・・第一次大戦の欧州戦線で登場した戦車は、現代に至っては、分類的にほぼMBT(Main Battle Tank/主力戦闘戦車)に統一されつつあります(一部偵察専門用途の戦車があるくらいでしょうか)。第一次大戦で英軍の開発したMk.儀神鐚岼聞漾∪こΤ胴颪砲いて様々な型式の戦車が開発されました。各国での主要分類的には、重戦車・中戦車・軽戦車の三種類(それに加えて各種火器を搭載した自走砲戦車)・・・この内、重・中戦車は現代のMBTに、また軽戦車が偵察戦車へと発展して行きます。戦車誕生国である英国では、巡航戦車・歩兵戦車・軽(偵察)戦車と言った各国とは少し異なった分類に分かれますが、やがて各国同様に巡航戦車・歩兵戦車が統一されてMBTへと進化して行きました。また第二次大戦中の欧州戦線では独ティーガー戦車や露JS戦車、米M26パーシング戦車の様な重武装・重装甲の戦車たちが火花を散らしたのは、皆さんもご存知の通り。しかし有力な敵の機甲戦力や対戦車兵器が存在しなかった中国大陸や、大規模な戦車戦には不向きな太平洋の島嶼を戦場とした日本軍では、ほぼ戦前に開発された九七式戦車チハが主力のまま・・・将に爛屮螢の棺桶で、強力な火力を有した米英軍部隊と対戦した日本軍戦車隊が大きな犠牲を払ったのも、また皆さん十分ご承知の通りです。しかし、そんな激戦を繰り広げた各国の戦車たちとは別に、全く目立たない戦歴を辿った戦車たちが数多く存在しているのです。一部の天邪鬼な戦車ファン・・・俺はティーガーやT34、M4戦車なんて全く興味ないぜ!と宣たまう方々(オイオイ・・・私ATF以外にもいるのか?・・・いやッ絶対いるって・・・検索すると、なんと多くの関連サイトがある事か・・・)の興味を惹いて止まない地味な戦車たち・・・そう、それが狷戦車=タンケッテ(Tankette)なのであります!

【豆戦車=タンケッテって何?】
調べたところ狷戦車=タンケッテとは、軽戦車よりさらに小型・軽武装な戦車の事を総称した名称です。装甲(自動)車とは違うのか・・・基本的には走行装置がキャタピラ(無限軌道)という点が装甲(自動)車とは異なります。乗員は1〜2名で、その多くには砲塔は無く、武装も多くは機関銃1〜2挺、精々20〜37mmの小口径砲1門を備えただけの軽武装。一説には、第一次大戦後の1925年に英陸軍少佐ジョージ・マーテル卿(Sir George Martel/後陸軍中将)が、自宅ガレージで旧式乗用車やフォードトラック等の様々な自動車部品を利用して試作した一人用豆戦車が、その元祖と言われています。その後、量産用試作車両が自動車メーカーのモリス社において4両製作され、1926年3月に完成しました(モリス・マーテル豆戦車/Morris-Martel Tankette)・・・その4両中3両は一人乗りでしたが、試乗の結果、操縦しつつ機銃を操作するのが困難として乗員が2名に変更されます。このモリス・マーテル豆戦車が、カーデン・ロイド社に引き継がれ、後の豆戦車へと発展、その多くが第二次大戦前の1930年〜1935年頃にかけて開発・生産されました。これら豆戦車は、その低コストさから第一次大戦後に新たに独立した新興国家や十分な軍備予算のない小国家、大規模な戦力を派遣するほど余裕の無い大国の植民地などに多数配備されました。これらの豆戦車は、大型の火砲や厚い装甲を有した各国の主力戦車には全く歯が立ちませんでしたが、有効な対戦車兵器や戦車を有さない反政府組織(独立or叛乱軍・反政府ゲリラ等)を相手とした場合においては、装甲された自走装甲機銃座として極めて有効な兵器となりました。また戦闘時以外では、砲や物資の輸送・牽引用のトラクター代わりにも用いられ、小回りの効く万能兵器だった訳です。因みに第一次大戦中にフランスで開発された、初の全周型砲塔を搭載したルノーFT17軽戦車を、豆戦車の祖だと言う説もあります・・・【以下は各国の主要・有名豆戦車】
イギリス/カーデン・ロイド(Carden-Loyd)系(MkI〜MkVI)ユニバーサル系多目的キャリア
イタリア/CV(カルロ・ベローチェ)33/35系
ポーランド/TKS(TK-3)系
日本/九四式軽装甲車系九七式軽装甲車系
因みに狷戦車=タンケッテ(Tankette)のTankette瓩慮豸擦任垢、調べてみたところ・・・はっきりとは解りませんでした・・・(汗。ご存知の方、是非ご教授下さい。一説ではKette瓩箸脇噺譴猫猴帯=キャタピラ瓩了だとか・・・英語で戦車を示すTank瓩汎噺譴陵帯を示すKette瓩合体した単語なんでしょうか・・・ね?

【工業大国アメリカの戦車開発史序説】
第一次大戦中、米国では仏製ルノーFT17軽戦車をコピーした6点鐚屬魏良・国産化したM1917戦車を開発していましたが、結局第一次大戦末期に参戦したにも関わらず、自国軍戦車を実戦に参加させたという記録はありません。これは戦場における戦車の運用・整備技術が未だ確立されていなかった事と、既に英軍や仏軍が大量に戦車を投入していた為に今更投入する必要がなかったからだと考えられます。結局M1917戦車が正式に採用されたのは第一次大戦後の1919年になってからでした。実は米国では1916年にホルト社の民間用トラクターに装甲と旋回砲塔を取り付けて改良した独自原型戦車を開発されていましたが、結局仏製ルノーFT17軽戦車をベースとしたM1917戦車を採用する事となったのは、周囲を海に囲まれ欧州の戦場からも遠く、対外戦争構想の中心戦力は海軍で、また当時は当面外敵の侵略の心配も無く諸外国との外交状況も良好、国内の治安対策の方が優先されていた為に、まだ兵器としては生まれたばかりで海のものとも山のものとも判断するのが難しかった戦車を独自で開発するより、既に欧州の戦場で実績のあった仏製ルノーFT17軽戦車をライセンス生産・改良し配備する方が有効であると、時の政府や軍の首脳が判断した為だと思われます。結局M1917戦車は1930年代まで第一線部隊で運用されます。しかし1930年代には世界各国では第二世代戦車の開発が進み、M1917戦車は一挙に旧式化。その為、米国においても軍や民間各社において様々な装甲戦闘車両の試作・開発が進みます。その中には後の旧ソ連や英国戦車に多大な影響を与える事になる、独特な懸架装置により高速走行を可能としたクリスティー製(T5/M1931)戦車がありましたが、米軍では余り重視されませんでした。そんな中で後の米軍戦車の祖とも言えるT1(M1)型コンバットカー(歩兵支援戦闘車)が開発されます。1932年からはマッカーサー陸軍参謀総長による陸軍の機械化計画が進められ、前述のT1(M1)型コンバットカー(戦闘車)を基にしたT2(M2)軽戦車が誕生・・・更に発展・改良が続けられ、第二次大戦前半の米英軍軽戦車の主力となるM3軽戦車の開発へと続いて行くのでした。

【参考作品 曄悒僖奪肇鸞臉鐚峽鈎(PATTON/1970)』でパットン将軍を演じたジョージ・C・スコットが、同じくパットン将軍の晩年と臨終を演じた『パットン将軍最後の日々(THE LAST DAYS OF PATTON/1985)』と言う作品の中の回想シーンでは、若きパットンが頭の固い米陸軍の騎兵将校たちの前で、新兵器である戦車のデモンストレーションを行うシーンがあります。ここではなんとパットン夫人がカールデンロイド型の豆戦車の操縦を行っています。女性でも簡単に操縦出来るって言う事をアピールしたかったのでしょうか・・・ね。実話なんでしょうか?
【参考作品◆枴胴餬沙ドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』や『刑事ナッシュ・ブリッジス』で知られるドン・ジョンソン主演の『遥かなる栄光(IN PURSUIT OF HONOR/1995)』は、マッカーサーによる米陸軍の機械化計画の為、手塩にかけた軍馬が屠殺される事に反抗した米軍の騎兵たちが、軍馬を引き連れてカナダへ亡命するという実話を基にした作品ですが、この中で逃亡する騎兵たちを追跡する部隊は、M1917戦車やM2スカウトカー等を配備した機械化部隊です。しかし肝心のM1917戦車は長距離の追跡が不可能な為、通常トラックに積載されて移動するのですが、いざ逃亡騎兵たちを攻撃する場面ではエンストを起こし全く役に立ちません・・・トホホ。

【工業大国アメリカの戦車開発史補説・・・マーモン・ヘリントンの系譜】
1930年代に世界各国で第二世代戦車の開発が進む中、米国においても軍や民間各社において様々な装甲戦闘車両の試作・開発が進みます。米軍の豆戦車と言うと、まず思い浮かぶのがフォード社が開発した3点鐚ってのがありますが、この豆戦車は余り実用性が無かった様です。当時既に自動車社会であった米国では多くの自動車製造会社が存在しておりました。そのひとつにマーモン・ヘリントン社(Marmon-Herrington Company)があります。マーモン・ヘリントン社は、現在では乗用車や装甲車両の他に大型のトラックやバス、自動二輪車の製造で知られています。マーモン・ヘリントン社では、1935〜1942年の期間に米軍のみならず海外向けの様々な型式の商業用軽装甲車両が開発・製造されました。米軍内での車両は一部が海兵隊に採用されただけで、他の殆んどが様々な国々に輸出されたので、戦車ファンでも余程のマニアにしか知られていないと思われます。MH-CTL(Marmon-Herrington Combat Tank Light)として知られている初期のシリーズは、旋回砲塔を持たず、上部構造を高くして機銃を取り付けていました。 海兵隊はこれらMH-CTL系列の戦闘車両開発に資金を供給し、導入を推進した海兵隊少将ハロルド爛戰謄瓮好拭璽にちなんで、これらMH-CTL系列の戦闘車両をBettiesの愛称で呼んでいました。初期のモデルは、独特のリーフ・スプリング・サスペンションと強化ゴム製履帯を採用していましたが、1938〜1939に開発されたCTL-3M型からは独特な板バネ型の懸架装置が採用されました。またCTL-6型からは特殊鉄鋼マンガン製の履帯が採用されています。1940〜1941年には海兵隊からの需要に応える為、小型砲塔を搭載した最初のモデルCTM-3TBDが開発・生産されています。この車両は小型砲塔に50口径機銃2挺、また車体前部には30口径機銃3挺が装備された3名乗りの軽装甲車両でした。海外向け車両としては、オランダ領インドネシア駐留の蘭印軍から628両の発注がありましたが、全車両の納入が完了する前に蘭印軍が日本軍に降伏した為、残った車両は他のオランダ系植民地の部隊に納入されました。第二次大戦中におけるマーモン・ヘリントン社製の軍用車両としては前述の豆戦車たちよりも、実は英軍で使用された装輪装甲自動車が良く知られている様です。英軍にはハンバー、ダイムラー、ガイ等多数の装輪装甲自動車が装備されていましたが、数多くのマーモン・ヘリントン社製装輪装甲自動車も、北アフリカ戦線から欧州戦線まで幅広く活躍し、現在でも軍用や警察用の装輪装甲自動車が開発・製造されています。また米軍初の正式装備ハーフトラックであるM2兵員輸送・火砲牽引型ハーフトラックの車体の母体となった試作T9ハーフトラックも、マーモン・ヘリントン社において試作されました。

【工業大国アメリカの戦車開発史補説・・・最も有名なマーモン・ヘリントン製戦車】
しかし何と言ってもマーモン・ヘリントン社製の装甲車両で、戦車ファンの間でも最も良く知られているのは、敵占領下後方に降下・強襲を行う空挺部隊の支援用として開発されたM22空挺戦車(Locust/いなご)ではないでしょうか。米軍では1941年に空挺部隊に随伴できる新型戦車の開発を決定。この要求案に対し大手自動車メーカー3社が試作案を提示した結果、マーモン・ヘリントン社案が採用、試作車両は「T9型」と命名されます。武装はM3軽戦車系列と同じ37mm戦車砲Mk.6を採用。主砲同軸に30口径機銃1挺を装備。全長3.93mX全高1.75mX全幅2.23mで総重量は7.3tとコンパクトな仕上がり。ライカミング社製空冷6気筒(162馬力)ガソリンエンジンを搭載し、最高速度は56.3km/時。航続距離は180kmでした。砲塔は鋳造式で車体は圧延鋼板の溶接式装甲、最高装甲厚は前面で25mmでした。しかし当時の連合軍には、この車両を搭載できる輸送機が存在せず、航空機に搭載するという要求はクリア出来ませんでしたが、この車両に目をつけた英軍からの要求で改良が行われ、最終的には砲塔を取り外し、車体を輸送機の機体下に吊り下げて空輸する方式が採用され、また更なる車体軽量化の為に予備機銃、砲塔の電動式旋回装置、ジャイロ・スタビライザー等が取り外されました。しかし脱着式砲塔にした事で、着陸後に別途輸送機から砲塔一式を降ろして取り付ける手間が生じ、これによって空挺部隊の持つ奇襲性が発揮出来なくなりました。米軍からは、試作中の1942年4月に早くも500両の量産命令が出され、更に試作車両の性能試験結果が良好だった為、新たに1400両が追加発注されました。しかし1944年2月、830両が完成した段階で生産は打ち切られます。結局本車輌がM22戦車として正式採用されるのは生産が打ち切られた後の1944年9月の事でした。その後280両が英軍に送られ「ローカスト(いなご)」の愛称で呼ばれます。英軍は大型グライダーGAL49ハミルカーを保有していた為、1945年3月に実施されたライン川渡河作戦時に、英軍第6空挺師団所属の12両が実戦に参加しますが、独軍の抵抗が殆んど無く活躍の場を得る事は出来ませんでした。結局それ以降実戦に参加する事なく終戦を迎え、戦後は一部が訓練用として短期間使用されただけで退役。英軍所属の一部車両が中東に渡り1948年に勃発した第一次中東戦争で使用されたらしいですが、定かではありません。全くそこそこ有名な割には全く恵まれない戦車ですな。
※乗員やM4戦車の大きさと比べて、日本軍の戦車並みに車体の小さな戦車なのが良く解ります

さてマーモン・ヘリントン社製豆戦車のお話は如何でしたでしょうか・・・マーモン・ヘリントンと聞いてピンと来た貴方・・・そうです、前回の観戦記で紹介した犒貔鐇鐚孱換罩の改造母体となった車体がマーモン・ヘリントン社製の豆戦車でしたね。そこで次回は『血戦奇襲部隊』以外にマーモン・ヘリントン社製の豆戦車が大活躍する、あの作品・・・もうバレてるって!・・・をじっくり堪能していただきます。それでは次回もお楽しみに・・・そうそう今年の7月18日で、スペイン内戦勃発70周年なんですよ!【続く】

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