| 【File078】戦場の好敵手・・・多勢に無勢【中編Vol.2c】 |
|
|
2003年03月07日(金)
何か、また中東で戦争が起こるかも・・・明日にでもテポドンが飛んでくるかも、って時に、こんな事を書いてる事自体も何なんですが、それはさて置き、いや〜ッ思いの他入れ込んでしまって「多勢に無勢・・・カスター編」もパート3まで来ちゃいました。でもまだ終わらせられませんよ・・・。ここまで書いたら行けるとこまでお付き合い願いましょう。�犢臀姐餬�VSインディアン激闘史��の中でも最大の出来事・・・「リトル・ビッグホーンの戦い」で合い見えた戦士たちの真の姿とは・・・。それでは開演《開演ブザー》です。いつものように携帯電話の電源はお切り下さい。【いつもの如く、この書き込みに史料的価値はありません】
ジョージ・アームストロング・カスター GERGE ARMSTRONG CUSTER(1839〜1876) 南北戦争・フロンティア期の米国軍人。1839年ミシガン州モンロー(オハイオ州説もある)生まれ。1857年ウエストポイント陸軍士官学校入学。1861年卒業(南北戦争勃発の年:同級生の半数近くが卒業前に南部に戻った)。専攻兵科は騎兵科。学科筆記科目の成績は級友中最下位、しかし戦闘実技(射撃、剣術、乗馬、状況判断等)はトップクラスの成績だった。最初配属されたのは砲兵の輸送隊や弾着観測気球隊だったが、1863年念願の連邦(北)軍第2騎兵隊に配属(大尉:騎兵中隊長)。バージニアの戦闘で、危機状態の友軍騎兵を救援し敵を撃退、この功績によりミシガン州義勇騎兵旅団長(連邦軍義勇名誉准将:23歳:連邦最年少将官/戦時特進)に任命された。南北戦争最大の激戦「ゲティスバーグの戦い」において、名将スチュアート将軍指揮の南軍騎兵主力(500騎)が実施した迂回奇襲作戦を劣勢兵力で応戦し、これを撃退。1865年連邦軍義勇名誉少将に昇進。以後各地を転戦し、4月12日南軍総司令官リー将軍の降伏調印の場面にも立ち会った(この降伏調印に使用された机は、後にシェリダン将軍からカスター未亡人に贈られた)南北戦争における最も著名な英雄の一人。戦後、軍の平時編制移行に伴い階級が正規軍大尉に戻るのを不服として一時退役し、故郷に戻り結婚(妻エリザベス・ベーコン/愛称リビー)義父の仕事など手伝うが、軍への復職願望が強く、知古を通じた猟官運動の結果、1866年第七騎兵連隊付中佐(連隊長ではない)に任官。実質的部隊指揮と訓練を担当し、インディアンとの抗争が始まると部隊を率いて各地に出動。1968年11月27日にはオクラホマ州ワシタ河畔でシャイアン族の集落を襲い、虐殺事件を起こす。後、過酷な任務を部隊兵士に課し命令を拒否した兵士へ厳しい処罰を行った事により一時休職させられ、また前任の陸軍長官ベルクナップ将軍(グラント大統領の親友)が関わった軍事物資の不正取引を糾弾した為に軍務を解任させられそうになる(以後グラント大統領に睨まれる)等常に問題を起こした。1874年シェリダン将軍の命により、部隊(政府関係者・学者・鉱山技術者と護衛兵士計1000名)を率いスー族保留地(1868年ララミー条約にて認定)内のブラック・ヒルズを探査し金鉱脈を発見(カスターが政府に出した報告書は「ブラック・ヒルズ地域が金鉱地としても酪農業地域としても最適である」という内容で、それにより大規模な開拓移住とゴールド・ラッシュを誘発、以後のインディアンと白人との抗争・・・ひいては自らの死の要因となる・・・)1875年ブラック・ヒルズ領有を巡る合衆国政府とインディアンとの交渉決裂が誘発したインディアン討伐戦が始まると、ダコタ軍のテリー将軍指揮下で第七騎兵隊を率い、居留地から逃亡したスー族とシャイアン族を追撃した。1876年6月17日に行われた「ローズバットの戦い」により当初予定の作戦(他部隊合同の挟撃戦)が実行不可能にも関わらず、指揮下第七騎兵隊主力のみでインディアンの一大野営地リトル・ビッグホーン河畔へ向かう。6月25日、自ら主力大隊を率い挟撃作戦を試みるも敵兵力と配置の判断を誤り、スー・シャイアン族中心の部族連合大集団に包囲され、部隊は全滅、自らも戦死した。享年37歳。その墓碑銘には「合衆国陸軍名誉少将は1839年12月5日ミシガン州モンロー郡に生まれ、1876年6月25日リトル・ビッグホーンにて、全部隊と共に散る」と刻まれている。南北戦争時より長髪の金髪と黄色の絹製スカーフを靡かせ、専属の仕立屋による派手な軍服(士官以上は軍服は自前)で目立っていた(当時まだ珍しかった写真肖像�� 肖像�� 肖像�� 肖像�� 肖像�� 肖像��を数多く残している事からも、目立ちたがりの性格が伺える)が、第七騎兵隊に配属後は白い鹿皮で出来たジャケットで一層目立つ格好をし、実際の階級は中佐だが部下には�狆�軍��と呼ばせていた。愛用の銃はコルト・パーカッション・モデル61ネービー。愛馬の名は�爛瀬鵐妊���。ベトナム戦争以前、彼に対する大半の評価は「南北戦争の英雄で、フィロンティア開拓の大いなる犠牲者」であったが、ベトナム戦争以後、民族・人権主義運動が昂揚してくると「若くして将官の地位に昇った為に精神的未成熟で、利己的かつ自己顕示が強く、自らの野心や出世欲(最終的には合衆国大統領)の為には部下や女子供の犠牲も厭わない冷酷な軍人」というような評価に変わってしまった。しかしある意味(�.ぅ鵐妊�アン虐殺は政府・軍の方針�∋峙い猟稾造靴討い辛�隊を鍛え直した�7殻害鯒い醗�き換えに不正に目を瞑らせられた�ぜ�らの素行故か10年近くも昇進がなかった、等)彼は「常に軍の命令と任務に忠実であろうとし、何よりも第一線で部下と共にある事を望んだ根っからの兵士・・・騎兵だった」とも言える。そして伝記によれば「彼は勇気と自信を兼ね備え、常に危険と栄光を求めた。全くアルコール類は嗜まず、煙草や賭け事もやらなかった。時に楽天的で情熱的、また精力的で粘り強く、名誉を重んじ臆病を最も嫌った。豪胆で自制が効かなくなる事も度々あったが、反面温かい心の持ち主で、家庭では忠実で献身的な夫であった・・・」と。
附設 米軍における「戦時昇進:野戦任官=TEMPORARY RANKS」 米軍は、平時においては予算等の関係で兵力・編成が縮小されていて、戦時になると予備役や州兵(NATIONAL GUARD)沿岸警備隊(US.COAST GUARD)を指揮下に加え、兵力を増強する仕組みになっていました。また指揮官が戦死した場合、次席者が指揮権を継承しますが、旧日本海軍では�犒確畩宜堽甅�によって指揮権委譲が細かく設定されていたのに対し、現場での状況判断で臨機応変に指揮官を決定し、作戦を続行する様になっています。これに対応するシステムが�狎鏤�昇進��とか�猝鄒鑁ご鵜�と呼ばれる特別昇進制度(TEMPORARY RANKS=一時的な階級)です。これには�(捨倭�強(部隊増設)に伴う対応、と�∪鐺�による消耗への対応、があります。�,録景埓�部隊の各級指揮官を充足する場合、基幹となる古参部隊から士官や下士官兵を抽出し、昇進(尉官→佐官、下士官→士官、兵→下士官)させ新設部隊の指揮を執らせる事。これは第一次大戦後兵力を制限されたワイマール共和国軍で、少ない兵員を高度に訓練し、ナチスによる再軍備時に急激に膨張したドイツ国防軍各部隊の基幹要員たる士官・下士官とした事例にも当て嵌まります。また戦前の合衆国海軍では、平時昇進による最上位階級は�牾し馨�将��で、戦時に艦隊や職位が新設された時点で、中将や大将に一時的に昇進させ指揮させるシステムになっていたようです。陸軍でもアイゼンハワーなど開戦前まで万年大佐だったのに、欧州反攻連合軍総司令官(元帥)職に抜擢された後、僅かな期間で�狎�(将官の階級章)��を増やしています。合衆国軍の組織は、士官学校や兵学校卒業時の先任順位や席次(ハンモックナンバー)、陸大、海大の卒業が昇進や任官に大きく影響した旧日本軍とは異なり「危機対応に促した柔軟な組織機構」だった訳です。�△六愆�官が戦死した場合、例えば激戦で中隊長(大尉相当)以下の将校が殆んど戦死してしまった部隊で最上級者が軍曹だった場合、臨時に少尉や中尉に昇進させて中隊の指揮を執らせる事。戦争映画でもよく見られるシーンですなぁ・・・有名なところでは「史上最大の作戦(THE LONGEST DAY1962)」オマハ地区の戦闘で工兵が防壁の下に爆薬を仕掛けるシーン、工兵将校が全員戦死してしまった為に第29歩兵師団副師団長コータ准将が、軍曹を臨時に少尉に任命します。それから名作「地獄の戦線(TO HELL AND BACK1955)」でのオーディ・マーフィー・・・先任者が次々に戦死した為、僅か数年で二等兵から中尉(退役時)まで昇進(まぁ本人の武勲の結果でもあるんですが)次に佳作「重戦車総攻撃(THE YOUNG WARRIORS1966)」でも主人公ハッカーが分隊長クーリー軍曹の負傷直後軍曹に昇進、相棒のガスリーも伍長に昇進してました。まぁ「地獄の戦線」のフィルム流用なので生姜無いか・・・さらに隠れた名作「プライベート・ソルジャー(WHEN TRUMPET'S FADE1998)」1944年の独ベルギー国境での激戦で、部隊が大損害を被った為、主人公マニング上等兵は僅か三日の内に上等兵→軍曹→中尉になってしまうのが凄い。極め付けは「脱走大作戦(THE SECRET WAR OF HARRY FRIGG1968)」では、極秘作戦の為とは言え、主人公ハリー・フリッグ二等兵をいきなり(陸軍航空隊の)少将閣下にしてしまう太っ腹・・・結局は曹長で大団円。さてカスターですが、1961年に士官学校卒業と同時に騎兵少尉に任官後「壮烈!第七騎兵隊」では司令部の副官が、カスターが無断で乗って行った軍馬を早急に返却するように・・・という命令書と、空席になった騎兵旅団長の任命書の宛名を書き誤るという凡ミスからいきなり少尉から旅団長=准将になってしまいますが、実際は中尉を経た卒業三年目の大尉から准将(義勇軍名誉准将)への野戦任官(四階級特進)だったようです。それでも若干23歳で閣下と呼ばれる身分・・・かのヤン・ウェンリー(銀英伝)が28歳で准将(帝国軍には貴族出身の10代の将官はワンサカいましたが)。皇帝ナポレオンは26歳で共和国軍少将(まぁ革命のどさくさって言や〜そうですが)。独空軍のエース、アドルフ・ガーランドが空軍少将になったのは僅か30歳。第82空挺師団ギャビン准将は幾つだっけ・・・?しかしながらカスターの階級には�犁鼠Ψ殻祥�・・・��というオマケが付いてるんですよ。そう、あくまでも�犧�だけサービス!��って言う但し書きです。戦争が終わり軍が平時編成に戻ると、昇進前の正規の階級であった�狎亀�軍大尉��に戻されます。今まで部下として、自分の指揮下にあった正規軍の少佐や大佐から逆に命令される訳です・・・それがカスターには耐えられなかったんでしょう・・・一端軍を退役します。これなら退役前の階級である�犁鼠Ψ殻祥西�将��を公式の場で名乗る事が出来ました・・・ただし頭に�犖記�が付きますがね。しかし彼の軍人としての血・・・とりわけ根っからの騎兵の血が、軍務への復帰を強く欲し、結局は1866年に知故を頼りに手に入れた辺境警備の�犁格赦�隊長付中佐��として任地に赴く訳です。因みに彼の直属上司・・・第七騎兵連隊長スタージェス大佐も南北戦争時は将官でした。また部下の騎兵隊員の中には元将校の下士官や兵が結構いたようです。戦後の急激な軍組織の縮小によって炙れた軍人たちが�倏悗吠△鯤僂┐蕕譴梱�に飛びついたのが、フロンティアの西進によって需要が昂まった辺境警備の騎兵隊だった訳ですな。カスターは言ってます「歩兵の将校よりも、騎兵の一兵卒の方がましだ」と・・・。
シッティング・ブル SITTING BULL(1837年〜1890年)フンクパパ・バンド(スー族) クレージー・ホースやジェロニモと並び西部史上最も有名なインディアン指導者。伝統的な文化や生活、慣習を棄てさせて白人文明社会に組み入れようとする合衆国政府の「同化主義政策」に対し、抵抗し続け他の部族からも人気が高かった。彼は戦士というよりは�猴集声圻�であり�犒鎧姚�だった。1876年の合衆国軍との戦いでは、彼の手腕によりスー族七部族(オグララ、フンクパパ、ミニコンジュ、ヤンクトン、サンティ、ブルーレ、サン・ザーク)そして北部シャイアン族とその同盟関係の雑多な部族、更に北部アラパホ族が結集した。シッティング・ブルという名は、白人たちにとって彼の本名タ・タン・カー・ヨ・タン・カーを発音出来なかった為、英語表記で呼ばれた名(他のインディアンの人名や地名も同じ)。幼名は飛び跳ねるアナグマ。元来タ・タン・カー・ヨ・タン・カー=座れる雄牛という名は、彼の父親の名であるが、14歳の初陣で手柄を立てた褒美に父親から名を譲られた。その後、族長を継ぎ幾多の部族を率いる指導者へと成長していった。リトル・ビッグホーンでの勝利後、合衆国軍の激しい追撃をかわし、僅かな手勢を率いカナダ領内(サスカチュワン地方)へと逃れたが、厳しい生活環境と食料不足から、1881年遂にマイルズ将軍指揮下の部隊に降伏。スタンディング・ロック保留地に一時収監されたが、後に釈放。白人達はカスターの部隊を全滅させた偉大なる酋長に興味を示し、1885年にはバッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショー興行に参加させられ、各地で好奇の目に晒された。しかし彼は頑なに自分の主義を変えようとはせず、後に「白人は皆大嫌い。お前達白人は泥棒で嘘つき。お前達は我々の土地を奪い我々を浮浪者にした」という言葉を残す。その後は居留地で隠棲していたが、1890年12月15日暴動を扇動しているとして、彼の逮捕状が発行され、執行官に包囲される。その時、彼は「私は行かない。さぁみんな立ち上がれ」と叫び、それに呼応した周囲のインディアンたちが騒ぎ始めた為、執行官が発砲・・・その一弾が彼の体を貫き・・・最も偉大な酋長の一人シッティング・ブルの魂は天へと還って行った・・・。
クレージー・ホース CLAZY HORSE(1849年〜1877年)オグララ・バンド(ダコタ・スー族) 最後まで白人たちに抵抗し、部族の文化と生活を守る為に戦い続けた偉大な戦士で第一線指揮官、数多歴戦の戦士の中でも最高の勇者だった。1876年6月25日の朝、出撃に際し「ダコタの戦士たちよ。今日は戦うには良い日だ・・・死ぬには良い日だ」と叫んだと伝えられている(しかし�犹爐未砲藁匹て�だ=it's a good day to die�瓩魯ぅ鵐妊�アンの一般的な言葉で、色んな酋長が叫んでいる・・・)。幼少時の名は「巻き毛」。13歳の初陣で敵部族から丸ごと馬を盗む手柄を立てた(馬は最も大切な財産のひとつで、馬泥棒は捕えられれば過酷な拷問の後、残忍に処刑された)。その後も豪胆かつ機敏、更に冷静さによって幾多の手柄を立て、20歳で部族戦士団のリーダーとなり、先祖代々受け継がれる偉大な族長の名「タシュンカ・ウイトコ=狂える荒馬」を父より譲られた。白人との対立が激しくなった1865〜68年頃には、同じく偉大な酋長レッド・クラウド(妻の兄。彼の結婚はシッティング・ブルがお膳立てした、と言われている)率いる部族と手を結び、W・フェッターマン大佐率いる騎兵隊を全滅させるなど、西部に「クレージー・ホース」の名を轟かせた。彼は本来の自然と共存した文化や彼らの生活様式を頑なに守ろうとし、白人の生活や文化を拒み続けた。西部史上最も有名なインディアンの一人ではあるが、現存する写真が一枚も無い(表示の写真は近年発見された、彼が降伏した後に撮影された物ではないか・・・と言われている写真)のは、その顕れだろう。白人との表面上の平和協定(ララミー条約)期間にシッティング・ブル等有名な酋長たちの写真は数多く残されているにも関わらず・・・。リトル・ビッグホーンの戦い後、猛烈な合衆国軍の反撃に遭い、シッティング・ブル達はカナダに逃げ延びたが、クレージー・ホースは1876〜77年に渡りゲリラ的抵抗を続けた。しかし多くの戦士を失い、またバッファロー激減により女子供たちが飢餓に襲われた為、1877年5月6日遂にG・クルック将軍の部隊に降伏した。収監中に特別保護区に移動させられる事になった為、逃亡を計画したが事前に察知され、逮捕・監禁の為の執行官が派遣されて捕えられ、留置場へ連行される時に些細な事から看守と争いになり、その時銃剣によって刺殺された、と言われている。時に1877年9月7日、偉大な酋長であり戦士クレージー・ホース・・・死去。享年28歳。彼の死後、合衆国政府は残ったスー族の酋長たちと交渉し�.屮薀奪�ヒルズを含む多くの土地の権利放棄�∨棉瑤任亮輓銚∧�棄�8魎江魴錣箸靴胴臀姐饑�府による生活の保証など白人側に有利な条約が締結された。これによって「豊かなる実りの大地ブラック・ヒルズ」は白人のものとなったのである・・・。
さて、これでやっと仕込みが終わりました。次回は「多勢に無勢Vol.2」の最終回・・・でもまだVol.3があるって・・・自爆。運命の赤い糸は、すべて「リトル・ビッグホーン」の戦場へと繋がっています。次回「リトル・ビッグホーンの戦い」の真実・・・やぁ、なんかヒストリー・チャンネルみたいだなぁ・・・。ところで、カスターってパットンに似てませんか・・・顔じゃなくて人生が・・・【続く】
|
|
|