ATFの戦争映画観戦記



【File077】合衆国軍VSインディアン激闘史・・・多勢に無勢【中編Vol.2b】

2003年02月26日(水)

前置きはさて置き、今回は前回の書き込みの補填書き込みですので、取り敢えず目を通して下さい。今回は【開演ブザー】は鳴りませんので、携帯の電源はそのままで・・・【毎度の事ですが、本記事に史料的価値はありません】寝惚け頭で急いで書き込んだので誤記多数・・・だと思われます。

【合衆国政府VSインディアン闘争史】
1803年
ジェファーソン大統領が「われわれが手を振り降ろしさえすれば粉砕されてしまうことをインディアンは理解すべきだ」と述べ、対インディアン強硬政策を推進。
1812年
「バトンルージュの戦い」クリーク族と白人開拓者の戦い。1814年まで続き白人側が勝利。クリーク族はジョージア、テネシーからフロリダに追われる。
1816年〜1818年
「第一次セミノール戦争」フロリダに逃亡したアフリカ系奴隷を追跡した合衆国軍とセミノール族が戦う。2年に渡って小競り合いが続く。
1817年
「ジョージア移住条約」チェロキー族と合衆国政府の間で土地割譲の条約締結。
1830年
ジャクソン大統領が「強制移住法」を制定。最終的に100,000人にも及ぶインディアンがミシシッピ川以西のインディアン=テリトリー(オクラホマ)へ移住させた。
1832年
「バッドアックスの戦い」強制移住に反対したブラック・ホーク酋長に率いられたサック族が三ヶ月に渡って合衆国軍に抗戦したが、制圧される。
1832年〜1841年
「第二次セミノール戦争」セミノール族のフロリダからの退去(ペインズ・ライディング条約)に抗議した大酋長オセオーラが蜂起。合衆国軍は討伐部隊(総動員数20万人)を送り込むが制圧に至らず。この間セミノール族はエヴァグレイズに拠点を移す。1837年12月25日「オキチョビ湖の戦い」オセローラを捕らえ、その後1838年1月30日モルトリ砦にて死亡した事により抵抗は急激に沈静化し、1842年終結。
1838年
移住を拒否し続けたチェロキー族12000人が激寒の中、五ケ月かけオクラホマへの長い行程を強いられ、この間、寒さと飢え、病気、暴行によって8000人以上の命が失い、後に「涙の旅路」と呼ばれる。この結果ミシシッピ以東は、ほぼ完全に白人の物となる。しかしミシシッピ以西には、まだ30万人近い平原インディアン(スー・シャイアン・コマンチ・ナヴァホ・カイオワ-アパッチ・クロウ・オセージ・ソーク・フォックスなど狩猟系部族が主体)残っていた。
1845年
合衆国にテキサス共和国併合。25000人のインディアンが合衆国統治下に入る。15000人のコマンチ族は合衆国への統合を拒否。この後10年間コマンチ族とアパッチ族はゲリラ戦を展開し白人開拓民たちを大いに悩ませた。
1851年
合衆国と有力部族(スー、シャイアン、アラパホ等)との間で「ララミー砦(平和)条約」締結し、白人開拓民の安全を金で買う。文字を持たないインディアンには条約が理解出来ず、その後この条約は白人側に都合良く解釈・改定される。1860年〜1875年の期間、白人猟師による乱獲でバッファローが激減。この為インディアンたちは土地と引き換えで得た金で白人から食料を購入せざるを得なくなる。しかし飢餓は深刻で、白人に対する怨恨が増大。
1855年
「ヤキマの叛乱」ヤキマ族と同盟部族がワシントンとアイダホの州境付近で蜂起、白人入植者を襲ったが追討軍の攻撃により酋長オウヒが戦死し敗退。
1860年
「ピラミッド・レイクの戦い」ネバダ州で餓えたパイユート族がヌマガ酋長に率いられ白人居住地を襲い、2度の戦闘の結果、鎮圧され保留地へ移住させられる。
1861年
「南北戦争勃発」北部工業地帯と南部農業地帯間の対立、各州での奴隷制賛否を巡る対立が表面化。南部諸州が連邦より脱退・・・J・デービスを首班とする�狷酩�連盟�畄訐�。首都リッチモンド。両軍が各地で激戦を展開。
1862年
ミネソタでの「サンティ・ダコタの叛乱」勃発。リトル・クロウ、マンケート、ビッグ・イーグルの各酋長に率いられたサンティー・ダコタ(スー)族がミネソタ州内の白人農場、商人交易所、騎兵隊駐屯地を襲撃。数週間で1000人近いの白人を殺害、ヘンリー・H・シブリー将軍指揮のミネソタ義勇部隊1500名が救援に向かう。叛乱の首謀者として38名のインディアンを処刑。
「ナヴァホのロング・ウォーク」J・E・カールトン将軍に強制移住を命令されたナヴァホ族は、ベアボンチート酋長を中心に反抗するも、1864年降伏。6000名のナヴァホ族が約560km離れたニューメキシコの居留地へ強制移住。多くのナヴァホ族(女子供中心)が劣悪な環境下で死亡した。
1862年〜1872年
アパッチ族のゲリラ活動活発化。居留地への入居を拒否した誇り高き酋長たち(マンガス、コロラド、コーチーズ、ジェロニモ等)は、以後10年間に渡ってクルック将軍指揮下の部隊(騎兵隊)との激しい抗争を繰り広げるが、圧倒的物量の合衆国軍の前に敗退。
1863年
「奴隷解放宣言」ゲティスバーグで北軍圧勝。
「ショショーニの戦い」
ネバダ州でショショーニ族が白人入植者を襲い、その報復としてP・E・コナー大佐指揮の義勇兵が酋長ベア・ハンター以下200名以上のショショーニ族を虐殺。
1864年
「サンド・クリークの虐殺」11月29日コロラド高原サンド・クリークにおいて無抵抗のシャイアン族約200名が虐殺された。一時的な休戦(停戦交渉)が行われていた最中、J・シヴィントン大佐指揮のコロラド義勇第三騎兵隊700騎が、突然シャイアン族の集落を攻撃。(大佐は事件後退役し、軍法会議を逃れた/映画「ソルジャー・ブルー」のモデルとなった事件)。
1865年
「南北戦争終結」南軍最後の拠点リッチモンド陥落。南軍総司令官リー将軍が降伏し戦争終結。リンカーン大統領暗殺。合衆国全土においてアフリカ系奴隷解放。
「ビーチャー島の戦い」9月G・A・フォーサイス将軍率いるコロラド民兵部隊がインディアン大部隊の攻撃を受け孤立するも、九日間防戦しこれを撃退。
1866年
「レッド・クラウドの戦い」西部ダコタ族と合衆国軍が衝突。オグララ(スー)族の天才軍師�爛譽奪鼻Ε�ラウド�瓩卜┐い蕕譴織ぅ鵐妊�アン側が合衆国軍を圧倒。同年W・フェッターマン大佐率いる騎兵隊81騎が、スー族に襲撃され全滅。
「北パイユート・スネーク戦争」オレゴン州で酋長パウリナに率いられた北パイユート族が白人入植者を襲い、討伐に向かったG・クルック大佐の部隊と幾度も小戦闘を繰り広げた末、パウリナが戦死し降伏。
1867年
「ワゴンボックスの戦い」8月ワイオミングのフィルカーニー砦近郊で、森林伐採中の白人入植者と護衛部隊がラコタ・スー族の襲撃を受けるも全滅は免れる。
「ポーニー・フォークの焼き討ち」W・S・ハンコック将軍は、蜂起計画有りとしてカンザス州ポーニー・フォークのシャイアン・ラコタ族の集落を急襲するも、襲撃を察知したインディアンたちは事前に脱出。合衆国軍は集落に火を放った。
「メディスン・ロッジ・クリーク条約」南部平原諸部族と合衆国政府との間で、敵対関係の解消を目指す条約締結。
1868年
「ワシタ河畔の虐殺」カスター中佐に率いられた第七騎兵隊が、ブラック・ケトル率いる南シャイアン族のワシダ川沿いの集落を襲撃し女子供を虐殺。以降カスターはインディアンから「長髪の女殺し」と呼ばれる。
1870年
「ブラックフォート・ピエガンの虐殺」ユージン・M・ベイカー少佐指揮の部隊が、白人入植者を襲ったピエガン族の集落を急襲し、女子供ら173名を虐殺。以後「サミットスプリングの戦い(コロラド1869年)」「ソルト・クレーク・プレーリーの戦い(テキサス1871年)」「マクラレン・クリークの戦い(テキサス1872年)」と激しい戦いが続く。
1872年
「モドック戦争」北カルフォルニアで居留地への移住を拒否したモドック族がキントプーアシュとフッカー・ジムに率いられ合衆国軍に抵抗したが、鎮圧され多くが処刑された。
1874年
サウス・ダコタのグラックヒルズ(スー族居留地・バッファロー狩猟地)で金鉱脈が発見され、カスター中佐指揮の部隊による調査(1873年)の結果、ダコタ地域を金鉱地としても酪農業地域としても最適と評価した為、多くの白人が入植した。
「アドービ・ウォールズ交易所襲撃」6月27日クワハディー・コマンチ族の若者クワナ・パーカーが、コマンチ族、カイオワ族、南部シャイアン族の連合軍を率いてテキサスの白人交易所を襲撃したが、合衆国軍の報復戦(ウィリアム・シャーマンの「総力戦宣言」)に遭い、降伏(1875年6月2日)。原因はバッファロー繁殖地域に白人の猟師が侵入した事で、明らかに白人側に非があるにも関わらず、多くのインディアンがフロリダ刑務所に投獄され、また残りはオクラホマの居留地へ移送された。
「レッドリバーの戦い」カイオワ族のローンウルフ、サタンタ、ビッグ・ツリーの各酋長がクアナ・パーカー酋長のコマンチ族と連合し、テキサス北西部で白人の開拓地や牧場を襲撃し、合衆国軍と抗戦した・・・が大部隊を投入した合衆国軍の前に10月24日降伏。
1875年
合衆国政府はスー族との交渉の為に使節団派遣。この時は「ブラックヒルズの買取(価格600万ドル)または賃貸(賃貸料年間40万ドル)」について交渉するも、スー族各酋長たちは売買価格7000万ドル以上を提示し交渉決裂。シッティング・ブルを中心としたスー族、対白人と白人に友好的なインディアンに対する敵対行為が多発。
1876年
合衆国政府は、スー族の敵対行為に対する問題収拾の為、軍による武力行使を決定。条約で認められているはずのインディアンの冬季狩猟を条約違反と見なし討伐軍を派遣(冬の作戦)、合衆国軍の各騎兵隊指揮官達は、インディアンが分散行動していると判断、作戦を楽観視した。しかしインディアン側はシッティング・ブルやクレージー・ホース等の下で残存戦力を結集、大規模部族連合軍を編成し待ち構えていた。インディアン側はゲリラ戦で、重装備かつ鈍重な補給馬車部隊を引き連れた合衆国軍を翻弄。「パウダー川の戦い」では合衆国軍を敗退させ�狹澆虜鄒鎰�は失敗に終わった。この年クレージー・ホースはシャイアン族の女性と結婚し、結果3000名にも及ぶスー族とシャイアン族連合軍のリーダーとなった(シッティング・ブルが後援)。
「ローズバットの戦い(6/17)」「リトル・ビッグホーンの戦い(6/25)」については次回、詳細掲載。
1877年
「クレージー・ホース殺害」5月6日圧倒的な合衆国軍の前にクレージー・ホース率いるスー族降伏。シッティング・ブルは手勢を率いカナダへ逃亡。9月7日クレージー・ホース、獄中で殺害。合衆国政府はスー族に交渉使節を派遣し�.屮薀奪�ヒルズ他多くの土地権利放棄�∨棉�狩猟権放棄�8魎江魴錣箸靴得験菠歉據△砲弔い討両鯡鵑鯆�結。
「ネズパースの戦い」アイダホでジョーゼフ酋長に率いられたネズパース族が白人に対し抵抗、以後四ヶ月に渡り合衆国軍の追跡をかわし逃走し続けたが、10月5日餓えと疲労の為カナダ国境近くで降伏。
1878年
「バノック戦争」アイダホ・オレゴン州境付近でバノック族長バッファロー・ホーンとパイユート族長エガンに率いられたインディアンが白人入植者を襲ったが、O・ハワード将軍指揮下の部隊により鎮圧。その後リトル・ウルフ降伏(1878年)シッティング・ブル降伏(1881年)により、1864年から続いた平原インディアンによる抵抗は終結する。
1879年
「シープ・イーターの戦い」アイダホのショショーニ族とバノック族が白人入植地を襲撃するも、E・S・ファロー中尉指揮の部隊により制圧。
「ミーカー虐殺」コロラド州で、鉛の発見により白人鉱夫が保留地に流入した事に怒ったユト族長ダグラスに率いられた一団が蜂起、居留地白人監督官N・C・ミーカー他を殺害。犯人は後に逮捕されたが、処分無し・・・。
1880年
全てのインディアン部族の保留地への強制移住実施。居留地内の土地は貧しく、また鉱物資源もない土地だった。不安定な気候、劣悪な給水事情・・・配給に頼らざるを得ない食料。居留地のインディアンたちは、精神的に追いつめられて行く。かつての自然の恵みに溢れた自由な生活の復活を願う中で、新しい救世主信仰である「ゴースト・ダンス」が発生。預言者や占い師が人々の中心となり、白人の滅亡と絶滅に瀕したバッファローや死んだインディアンたちの復活を祈り、老若男女が踊り続けた・・・。
1881年
「シッティング・ブル降伏」カナダのサスカチュワンに逃亡していたシッティング・ブルがノース・ダコタのバフォード砦で降伏。
1882年
南部アリゾナやニューメキシコの居留地に押し込まれていたアパッチ族は、大酋長ジェロニモに率いられ、合衆国に反旗を翻しメキシコに逃亡。アパッチ族はインディアンの中でも最も好戦的な部族で、1860年以降コーチーズ、マンガス・コララドス、ビクトリオ、ジェロニモら酋長に率いられ、白人だけでなく同じインディアンの他部族やメキシコ領内への襲撃を繰り返し、合衆国軍との戦闘を繰り返した(「アパッチ峠の戦い(アリゾナ1862/7/15)」「ソルト渓谷の戦い(1872/12/26)」「タレット山頂の戦い(1873/3/27)」「ビクトリオの戦い(1879/10/16)」「ティナジャデ・ラ・パルマスの戦い(テキサス1880/7/30)」)同年9月クルック将軍指揮下の騎兵隊によりジェロニモ逮捕。
1885年
5月ジェロニモ再度逃亡。
1886年
「ジェロニモ再逮捕」9月4日アリゾナ州のメキシコ国境付近スケルトン渓谷でマイルズ将軍指揮下の騎兵隊により掃討され降伏。これにより全インディアンの組織的抵抗が終焉を迎えた。
1887年
合衆国政府は、過去の対インディアン強圧政策を改めて「ドーズ法(一般土地割当法)」を制定。従来の各部族酋長下で共同生活の習慣の廃止、各家長には160エーカー、成人男子への80エーカーの土地分与、生活基盤を�犲輓牒瓩�ら�倏盛緬卉椨瓩愿彰垢魘�要。しかし分与された土地(しかも乾燥し痩せた土地で農耕に適さず、後に白人ブローカー達に買い叩かれる)は、過去インディアンたちが暮らしていた土地の僅か3分の1にしか過ぎず、残り大部分は結局白人開拓者のものとなっていた。
1890年
「シッティング・ブル殺害」12月15日暴動を扇動したとして、かつての大酋長シッティング・ブルに逮捕状を発行。連邦執行官が到着した時、シッティング・ブルは「私は行かない。さあ、みんな立ち上がれ。決起するのだ」と叫んだ。この時周囲のインディアンたちが騒ぎ始めた為、連邦執行官が発砲しシッティング・ブルは死亡した。
「ウーンデッド・ニーの虐殺」12月29日サウスダコタ州パイン・リッジ保留地内のウーンデッド・ニーにおいてゴースト・ダンスが高じ興奮状態のインディアンと彼らを武装解除しようとした兵士が衝突。第七騎兵隊分遣隊の兵士たちは「リトル・ビッグホーンを思い出せ、カスターを思い出せ・・・」と叫びながら発砲を続け、ビッグ・フット酋長以下のラコタ・スー族の女性や子供を含む約300名近くを虐殺した。
「フロンティアの終焉」同年、合衆国政府は�爐海旅颪砲�けるフロンティアは消滅した��と国勢報告書の中で宣言。インディアンたちは�狆�数先住民��と区別され現在に至る。広大な土地を奪われ、狭い保留地に閉じ込められ、個人別に痩せた土地を割り当てられ、農民となることを強制され、部族共同体の生活形態を壊され、自然や神や精霊たちとの生活をズタズタにされ、子供たちは白人との同化政策により親元を遠く離れた都会での寮生活を強制され、その精神から白人化させられて行った。このインディアン文明の終焉こそ真に白人たちが目指した�狆〕���だった。
1998年
合衆国議会は、それ以前に結審していた特別裁判(インディアンの土地に関わる政府との事件を扱った裁判)の判決に従い、ブラックヒルズの代償として9000万ドル(及び1877年からの年利5パーセントの遅延損害金)をスー族に支払うという決定を下した。これは合衆国政府によるブラックヒルズの取得は不公正であったというのと、ララミー条約に基づき、当時の有権インディアン数の4分の3以上の同意を得ることなく締結された違法による、という理由によるものだった。

さて、長々と拝読ありがとうございました・・・これで貴官も「血の西部史」は充分ご理解いただけた事でしょう。さて次回はいよいよカスター将軍の最後・・・遥かなるリトル・ビッグホーンをお贈りする予定です。それでは【続く】

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