| 2016年07月21日(木) |
盛夏の九州(熊本南部) |
朝起きて〜
・・・・・・・・・・・はい、今日も炎天下ですね(汗)
朝食無しのプランだったので、朝風呂には確りと入った以外は マッタリと時間ギリギリまで部屋でゴロゴロしていました(笑)
って言うか、朝の露天風呂の段階で今日の炎天下っぷりに 泣きそうになったよ(涙)
チェックアウトしてから、昨夜急遽行先を追加した 『青井阿蘇神社』を参拝します。 宿から超近所で町中にある神社なのですが、何と国宝!
国宝指定を受けたのは、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物五棟と、 附(つけたり)として造営時の棟札一枚と改築の年代や内容が明記された 銘札五枚!
現在の社殿群は、慶長15年(1610年)から同18年に4ヶ年を かけて造営されたもので、まもなく400年を迎えます!! 一連の社殿が同時期のものは全国でも珍しいという事です。 急勾配のかやぶき屋根をはじめ、随所に桃山様式をとり入れた多彩な 装飾や色彩、南九州地方にみられる雲龍の彫刻が施されているのが特徴で、 拝殿横に神供所を配置するL字状の配置は、球磨地方の社寺建築の 規範となっているそうです。 国宝の指定件数は全国で1075件目。建造物では214件目。 神社の指定は37件目で、昭和36年以来ぶり。 茅葺の社寺建造物では初めてで、九州内では22件目中、建造物は 6件目で、昭和28年指定の長崎県大浦天主堂以来55年ぶり。 神社では大分県宇佐八幡宮本殿に次いで2件目となるそうです。
相良氏入国より約400年前、今から1200年前の大同元年(806年) に神社が創建されました。 阿蘇の広大な原野を開拓し、その守り神として阿蘇山のふもとに鎮まる 阿蘇神社の御祭神十二神のうち、三神の御分霊が、重陽の日9月9日に この青井阿蘇神社に祀られたのです。 御祭神の名は、初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる 健磐龍命(たけいわたつのみこと)、 その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、 お二人の子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと) の三柱です。
急遽追加したのにかなり凄い物を見て来てしまったな(笑)
さて、神社拝観後は俺的にはこの旅一番のメイン! 『人吉城』へとやって来ました!! 人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国相良の出身で 人吉庄の地頭として着任した相良長頼が、平頼盛の代官矢瀬氏を滅ぼして 建久9年(1198年)に城主となり、翌年より修築したと伝えられて いる城です。 以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁で もあったそうです。 幕末に築かれた御館の石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である 槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の 石垣が特徴的です。 この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、 ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、登ってきた敵も割合簡単 に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも 使えるようにして造られています。 この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない貴重な 遺構です。
現存ではありませんが、球磨川沿いに築かれた武者返しの石垣が とても美しく、感動しました!
球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が 配されている、梯郭式の平山城で本丸には天守は築かれず護摩堂が あったと云われています。 明治4年(1871年)廃藩置県により廃城に(涙) 1877年(明治10年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の 拠点となり戦闘が行われました。 この際に幕末に再建された建造物も全焼したが、唯一焼け残った堀合門が 市内の民家に移築され現存しています。
境内には相良氏を祀る『相良神社』もありそちらも見学して来ました。
100名城の1つでもあり、このイベント的には99個目の城。 俺個人としては100名城コンプリートです♪
さて汗だくになった城見学を終え、何故だか満場一致でマックへ(ヲ) 昼飯をサクッと食ってから山奥へと進んで行きます・・・
『球泉洞』へとやって来ました。 この旅で人吉城に並ぶメイン! 日本観光鍾乳洞協会に加盟する9大鍾乳洞の1つです。
1973年(昭和48年)3月に発見された延長4.8kmの鍾乳洞で、 九州最大の鍾乳洞であり、およそ3億年前海底にあった石灰岩層が 隆起して出来たと推測されています。 ギラギライルミネーションがトラウマを刺激する 人口洞窟イルミネーション地帯を抜けると・・・
良かった 落ち着いた感じの普通のライトアップされた洞窟内だ(涙)
天然橋、カーテンと石筍、リムストーン、フローストーン、 ホマーテ型石筍などの鍾乳洞内でしか見る事の出来ない貴重な地形?を 眺めつつ、洞窟内を立体的に複雑に工場内の様な階段が張り巡らされて おり、何だか秘密基地みたいな感じで楽しかった♪(笑)
洞窟内が涼しかったので、外に出て来ると熱気がヤバい(汗) 売店で昨夜宿で飲んで美味かったので、試飲は出来なかったけど 色々厳選して球磨焼酎を1本買って帰りました!
今度、マッタリと肴にも拘って飲みたいと思います♪
さて、山エリアを突破して熊本県の海沿いへと出て来ました。 まず向かったのは『佐敷城址』
佐敷城は、肥後国の南部、現在の熊本県葦北郡芦北町にて加藤清正に よって築城された近世の城郭です! 別名「佐敷花岡城」とも呼ばれます。 佐敷城の城下は昔から薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の 要地であり、戦国時代中期までは相良氏、戦国時代末期には島津氏の 勢力拡大をめぐって佐敷城の攻防が繰り返された激戦区の1つでした。 詳細は不明ながら「肥後国絵図」に描かれた三層の天守閣を再現する 公園整備案が持ち上がったが、発掘の結果天守の礎石は発見されず 学術的な復元を望む慎重意見が多く、町長選でも天守閣再建反対派の 候補が当選したため、1997年(平成9年)より石垣の復元を中心と して歴史公園の整備が行われてきました。
シンプルに山頂に石垣が立ち並び、眼下の町並みや見渡す限りの山々に 石垣が綺麗に栄えて思わず見惚れてしまう程でした♪
・・・良かった ここにナンチャッテ天守閣が建っていなくて本当に良かった(汗)
さて、今日も確りと温泉を満喫したいと思います! 佐敷から道すがら『日奈久温泉』にて入浴です!! 「日奈久温泉センター」にて今回3つめの温泉です♪
詩人の種田山頭火が愛好したことで知られ、1409年(応永16年)、 刀傷を負った父の平癒を祈願した浜田六郎左衛門が、市杵島姫命のお告げ により干潟から湯を掘り当てた伝説が残る温泉です。 六郎左衛門が掘ったとされる湯元には、今は記念碑が建っています。
1540年(天文9年)8月11日から27日にかけて龍造寺氏、 1586年(天正14年)9月10日に上井覚兼が、それぞれ湯治した 記録が残っています! 江戸時代には熊本藩細川氏の藩営温泉となり、藩主の細川綱利の命に よって大浴場が設けられ、身分に応じて入浴が許可されました。 八代城主・松井氏や参勤交代途上の島津氏もよく利用したそうです。
小さいながらも露天風呂もあり、旅のラストスパートをかける前に 癒されましょう〜
それにしても朝からずっと暑いな(汗)
風呂上がり、海沿いを北上を続けて八代市へと到着。 『八代城址』を見学します! 市役所の目の前に残る石垣と水堀に囲まれた城址です。 江戸時代初期に球磨川河口の松江と言う場所に幕府の許可を得て 建築されたことから松江城とも言うそうです。
同じく八代城とも呼ばれた南北朝時代の「古麓城」と安土桃山時代の 「麦島城」の三つの城跡を併せて、平成26年(2014年)に 「八代城跡群」との名称で一括して国の史跡として登録されました。 八代城は、幅の広い水堀に囲まれた本の丸と、道路を隔てた所にある 北の丸の一部が公園として整備されています。 ・・・現在、城跡には建物の遺構は何も残っていません(涙)
本の丸へは、東側(表枡形門)と北側(裏枡形門)に虎口が開かれて います。 東側表枡形門にあった城門は移築現存しています。 南側からも入れるのですが、本の丸内にある神社への入口を造る為、 石垣を取り崩して後世に造られたものだそうです(汗)
築城当時、本の丸北西隅に小天守を伴った天守があったそうです。 大天守は、小天守を通り、渡り櫓を経て、大天守地下の穴蔵へと入る 造りだったそうです。 名古屋城の大天守への入り方と同じ形式だそうです。
名古屋城天守台が加藤清正単独で築いたことから、八代城にも同型式が 用いられたのだろうと推測されています。
水堀と石垣が立派な城でした。境内に建てられた「八代神社」も 見学しつつ城内を隅から隅まで歩き回って見て周りました。 殆どの石垣に登れたはずだったのですが、幾つかには近づけずに カラーコーンで封鎖されていました。 近くにいた清掃員さんに聞いてみたら、予想通り先の地震のせいだそう です(涙) 見た感じ壊れてはいないのですが、絶対に影響を受けているはず! でもそれを見れる専門家が皆熊本市内に行ってしまっていて確認出来る 人間が今は誰も居ない&何時見て貰えるかも不明との事で それまでは石垣に登る事が出来ないそうです(涙)
・・・・ま〜仕方が無いよね あの地震で無事に残っていてくれただけでも感謝ですよ
さて! お次で最後です!! 八代市内から車で少し移動して 『八代神社妙見宮』へとやって来ました、 八代神社は、熊本県八代市妙見町にある神社で、妙見宮、妙見さん。 とも呼ばれています。 旧社格は県社。上宮、中宮、下宮の三宮からなりますが、現在は 下宮が本宮だそうです。 福島の相馬妙見、大阪の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つ。
1730年(享保15年)に書かれた「妙見宮実紀」によれば、 795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀。 1160年(永暦元年)、中宮を建立。 1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、 検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。 と書かれています。
1870年(明治3年)まではただ妙見宮と呼ばれました。 妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴の事です。 神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の 一の宮として栄えました。 1871年(明治4年)、神仏分離令により、天之御中主神、国常立尊を 祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となりました。
11月22日、23日の妙見祭は、九州三大祭りの一つで 「八代妙見祭の御幸行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定されて います。
さて、俺らにしては意外と何時もよりはギリギリまで遊んでしまった ので急ぎ足で空港へと戻りましょう(汗) ・・・ま〜焦ったのは本当に最初だけでガラガラで渋滞0の高速を かっ飛ばして、給油を済ませてレンタカーを返却して『鹿児島空港』へと 帰って来たのが17時過ぎでした(苦笑)
食堂でジャンボラーメンを食ったり(本当にジャンボ!でも値段は ¥1000しない素敵なラーメン♪)、土産を追加で買ったりして 時間を潰し19:25発の飛行機に乗ってサラバ鹿児島!!
上空で何度かやや揺れたものの、だから何?ってレベルで定刻通りに 『羽田空港』へと21:15に着!
羽田の駐車場から真っ直ぐに帰路に着きます。
・・・・帰りの道が九州の自然豊かで走っていて気持ち良かった 道と比べてゴミゴミしていて混んでいて無駄に信号が多くて 無駄な工事ばかりで・・・・・・ ただでさえ、羽田空港に降り立った瞬間から羽田菌に感染して 鬱状態なのに、昨日今日と走った道の素晴らしさと比較してしまい 辛かったね〜(涙)
コチヤを家の近所で降ろしてから俺も帰宅したのが0時頃でした。
いや〜 今回の旅は盛り沢山だったな〜
100名城と9大鍾乳洞のダブル盛り♪ イベント的に初熊本進出!
残りの熊本のイベントは熊本城と阿蘇神社の復旧次第なので 次の予定は何とも立てられないのですが、何時の日か必ず行きます!
その日が1日でも早く来るように祈っております。
ですが、まずは今回もお疲れ様でした〜 次回は何処に行こうかな〜?(笑)
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