| 2016年07月20日(水) |
盛夏の九州(鹿児島西部) |
今日から九州だーーーーー!!!
もう何度目かね?(笑)
今回は人数が集まらず、俺とコチヤのみ(涙) ま〜でも飛行機系のイベントは人数少なくても金も運転の負担も そんなに変わらないから平気だけどね(苦笑)
今回の行先は鹿児島西部! 今まで全く行っていないエリアです そして・・・・熊本南部! 震災の影響をあまり受けていないエリアなので観光もOK!!
何気にうちらのイベントでは熊本は初の侵入です(笑)
1時頃、大雨の中茅ケ崎でコチヤを拾ってから『羽田空港』を目指します。 今回も空港の駐車場に直接向かいます。
案の定、夜中は駐車場はガラ空きなので余裕で駐車可能でした♪
飛行機は6時半過ぎの便だったので、2時間ほど車内で 仮眠をとります・・・
6時に起床して空港内へと移動。 手続きを済ませて出発ロビーへと移動します。 今回はロビーから飛行機までバスで移動だったので、乗り場を通り 過ぎてかなり無駄足を踏みましたが、バスには余裕で間に合ったので 良かったです(苦笑)
飛行機に乗り込み、定刻通り6:40に離陸 明け方まで大雨でしたが、空は荒れる事無く穏やかなフライトだったと 思います・・・・・って、機内で座ってすぐに昇天したから空の上の 状態とか全く分からん(汗)
取りあえず『鹿児島空港』へは予定通り8:20に着! 空港内でレンタカーに電話を入れて、空港までバスで迎えに来て貰い レンタカー屋へ
・・・・前回薩摩半島を回った時(過去日記参照)に使った ワンズレンタカーでした(笑)
本社が北海道だったらしく、そこから配車されて来たそうで 鹿児島なのに、まさかの帯広ナンバー!! 遠くからでも自分の借りた車がすぐに分かるなコレは(笑)
レンタカー屋から真っ直ぐに高速に乗り、桜島SAにて朝飯を食ったり 飲み物やお菓子を買い込んでから本格的に観光を開始します!
まずやって来たのは・・・・最初から今回もマニアック度MAXです! 『串木野城址』 串木野城は、鎌倉時代に薩摩郡司薩摩氏によって築かれた城です。 薩摩六郎忠直の三男忠道が串木野を領し、以後串木野氏を称して 代々居城していました。
南北朝時代に島津氏によって滅ぼされ、以降は島津氏の拠点の1つ として存在します。
明治時代になり、廃城になると城址には串木野麓の地頭御仮屋が 建てられます。
調べた時、写真には立派な石垣が写っていたので 楽しみで見に来たら・・・
普通に民家の壁だし(汗) 普通に排水管出てるし(涙)
現地の案内板によると、城も地頭御仮屋も綺麗に消滅していて 一部城の遺構が竹藪の中にあるらしいのですが、そこまでの生き方が 書かれておらず、一応付近を探して見たのですが・・・・
ヤバい
暑い
直ぐ向こうでアスファルトが蜃気楼でユラユラしている(滝汗)
無理
撤収(涙)
気を取り直して&車内でエアコンをガンガンで効かせてお次は 『泰平寺』を参拝!! 川内市内にある寺で、708年に元明天皇の勅令により創設されたと 伝えられている古刹です。 境内には民話「塩大黒天の昔話」の大黒様が鎮座しています。
塩大黒天の昔話= 昔、この辺りが塩不足の時に、甑島まで自腹で塩の買い付けに行って くれた男前な大黒様の話です(笑)
ま〜俺ら敵には、1587年の豊臣秀吉の薩摩侵攻の際豊臣軍の本営と なった場所で、更には秀吉と島津義久が和睦を結んだ場所としての方が 有名・・・・かな?(笑) 島津義久は泰平寺に出向いて秀吉と対面し和睦が行われました。 お互いがお互いを武将らしい態度であったと褒め会った記録が残って います。 境内には向かい合う2人の像が建っていました。
しかし、セミの大合唱が凄いね〜 あまりに凄いセミの爆音鳴き声に、近くのコチヤと話すのに大声で 言い合っている感じになります(苦笑)
さて、続いて『新田神社』 ・・・薩摩の国の一之宮です。
・・・・あれ?この前行った「枚聞神社」が一之宮じゃないの?? (過去日記参照)って思った人
正解です!(ヲ)
元々、薩摩国においては一宮が未確定だったんです! なのに、鎌倉時代に蒙古襲来に際して、一宮において「異国降伏祈祷」を 行うよう鎌倉幕府から命じられた事を切っ掛けに、新田神社と枚聞神社の 間で薩摩国一宮相論が開始されました。 未だに未解決でお互いが当時から一之宮を名乗り続けています(汗) ・・・って言うか、元寇前に地元で揉めてたのかよ(汗)
新田神社は、薩摩川内市街地にある神亀山(高さ70m)の山頂にあり、 天皇のご先神であるとされるニニギノミコトを祀る神社です。 6月の御田植祭で奉納される「棒踊り」「奴踊り」は県の無形民俗 文化財に指定されています。 また、隣接している可愛(えの)山陵は、神代三山陵の一つにあげられ、 明治7年7月にニニギノミコトの墳墓として宮内庁直轄で管理されて います。 社殿に上る石段の途中には御神木のクスなど多くの木々が茂り、静かで 落ち着いた雰囲気をつくっています。
え〜・・・ 麓から神社まで300段オーバーの石段があります(涙)
車で本殿近くまで行くことができますので、麓の大鳥居や朱塗りの橋を 見学したら一気に車で山道を通り抜けてサクッと参拝して来ました♪ 子供を抱いた抱え狛犬なんて可愛いものに遭遇しました♪
さてさて、少しペースを上げて行きましょう! やって来たのは『清色城跡』 清色城は、薩摩川内市入来町にある山城です。
山城です(笑)
宝治元年(1247年)、入来の地に渋谷定心が下向します。 清色城の築城時期は明確ではありませんが、文献では永和年間 (14世紀末)に「清色殿」との記載があることから、その頃と 考えられます。 清色城の規模は、南北約650m、東西約840mで、この地域の 中世山城としては中規模です! 南九州独特の土質であるシラス台地の自然地形を巧みに利用しており、 人工的に手を加えた空堀を造り、各曲輪を独立させた構造となって います。 現在、判明している曲輪の名称は、本丸・西之城・松尾城・中之城・ 求聞持城・物見之段の6つで、名称不明のものも含め大小16の曲輪より 構成されてたと考えられています。
城に行く前に、まずは城下町だった『入来麓武家屋敷群』を 見学してからにしましょう! 知覧の武家屋敷と少々異なり、丸石を使った石垣が特徴的です。
九州っぽい木々や花が植えられた古い石垣の街並みを・・・
ギラギラ太陽光とセミの大合唱の中でフラフラ彷徨います(汗)
城の敷地は山と入来小学校です。 山に入るとマジで今日が終わってしまいそうなので、学校前の 立派な石垣と門址を見学して撤収です(苦笑)
さて、城下町を彷徨ったせいで汗だくになってしまったので 近所の『入来温泉』にてリフレッシュを図ります♪ 「入来温泉湯之山館」と言う日帰り入浴施設にて汗を流しましょう!
副田温泉と表記される場合もある温泉でして、歴史は古く 南北朝時代の建徳二年(1371年)に「副田湯」として記録が 残っています。 その後「ゆかわち(湯川内)」として記録され、江戸時代中頃の天保年間 には「湯河内温泉を世俗に入来温泉と称す」と記録されていた事から、 この頃より入来温泉という名称が定着したと考えられています。 当時は入来領主の経営する六温泉と湧湯二箇所が存在していた そうですが、明治以後に温泉は五つとなって村有となりました。 現在残る柴垣湯とあぜろ湯の二つの市営浴場は、いずれも江戸時代の 六温泉にルーツを持ち、柴垣湯の名称は明治以降、あぜろ湯の名前も 「網代湯」として江戸時代から記録されているそうです。 明治53年(1900年)に私営温泉が新設され、大正6年 (1917年)からは入浴料をとる公営浴場が営業を開始し、昭和時代 には私営の公衆浴場亀の湯も新設されました。 泉質は炭酸水素塩泉(低張性・中性・高温泉)の塩化物泉
適度な熱さで露天風呂は無かったのが残念でしたが、風呂場は大窓が 庭に面していてそこから光が差し込みとても明るくて良い感じの 湯でした♪
風呂上り、御当地牛乳を飲んでリフレッシュ完了!! さて次へ急ぐぞ!
お次は『出水麓』 出水麓は、薩摩藩が肥後国(現在の熊本県)との国境を守る場所として、 外城制度(薩摩藩の地方統治制度)に基づいて数多くの薩摩藩士を 郷士として住み着かせたミニ城下町「麓」(ふもと)の1つで、出水城 の麓の丘陵地帯を整地して形成したものです。 1599年に初代地頭として本田正親が配された後、約30年かけて 3代地頭の山田昌巖の時代まで整備が続けられました。
一国一城令が幕府から出される中で「・・・城?城じゃないし麓だから」 って言い切った薩摩はマジヤバいね(汗) そして藩内の各地に「麓」をジャンジャン造って地方支配の拠点とした 薩摩藩ですが、出水麓はその中でも最大規模でした。 現在、国の重要伝統的建造物保存地区に登録されていて 「出水麓伝統的建造物群保存地区」として44ヘクタールが指定され、 3軒が公開されていますので見学してきました。
「竹添邸」 平成23年4月1日から一般公開された税所邸 家の中に設けられた弓的場が特徴的でした。 雨天時に腕がなまらないよう、矢を射る形などを練習する場所だそうです。 さすがは戦闘民族薩摩 いかなる時でも鍛錬は欠かしませんね(汗)
他にも「武宮邸」「出水御仮屋門」「宮路邸」とつい最近まで人が 普通に住んでいた家まで見学して来ました。
せっかくの風呂上りなのに、またウロウロ炎天下を歩き回ったせいで 汗だくです(涙)
開き直って次です! 結構車で山道やら農道を迷子になりながらも『木牟礼城』へと 何とか到着です(涙) 築城年代は定かではないが建久年間(1190年〜1199年)頃に 本田貞親によって築かれたと云わっています。
元暦2年(1185年)に惟宗忠久は源頼朝より伊勢国波出御厨および 須可荘地頭職に任ぜられ、日向国島津荘下司に任命されました。 この惟宗忠久が島津氏の祖となり、島津忠久とも呼ばれています。 文治2年(1186年)忠久は家臣の本田貞親を下向させ、守護所として 築いたのが木牟礼城だと云われてり、薩摩の入口にあたるこの地に 築かれたそうです。 木牟礼城は岩下川に面した低丘陵に築かれ、国道3号線の北側に 「木牟礼城跡」と大きく掲げられた丘陵があり、ここが本当に僅かに 残された曲輪の跡だと云います・・・
畑の中にイキナリ出て来る看板が目立ち過ぎていて、城の遺構と云われる 部分が・・・・・畑内の小山?盛り土??って感じがする(汗)
続いて『野間之関所跡』へGO! 徳川300年は幕府の命として固く各国との通行を禁じていましたが、 薩摩藩は更に独自の封建社会により二重鎖国ともいえる厳重な取締を 行っていました。 肥後との国境にある野間之関は、薩摩第一級の番所で、その鉄壁さを もって全国に知られていました。 「薩摩人,いかにやいかに,刈萱の関もとざさぬ御世とは知らずや」 高山彦九郎があまりの出入国の厳しさに書き残した一文が残るほどに 厳重だったそうです(汗) 因みに薩摩の三大関所のひとつです。 現存するものとして「古井戸」が敷地内の残ります。 後は復元の木の柵と門がありました。
・・・ま〜あれだけ密貿易だのしまくっていれば幕府だけではなく 他国からの目も神経質にならざるを得ないだろうな(苦笑)
さてさて、次の目的地から熊本県へと入ります! 我々のイベントとしては熊本へ初突入です(笑) 記念すべき熊本一発目は・・・・・・『水俣城址』
はい 最初からマニアックですね(苦笑)
水俣城趾は現在は城山公園となっていています。 城の曲輪などの遺構は殆ど残っていないです(汗) 唯一、城山公園のグランド造成中に偶然発見された低い石垣が長さ50m ほどの残っているだけですが、それが残っているだけでも全然OKじゃん! って事で立ち寄る事にしました♪ 水俣城の築城年代は南北朝期といわれているが定かではないです。 寛正6年、肥後守護菊池為邦から人吉城の相良氏が水俣の領有を 認められていましたが、天正15年の秀吉による九州征伐後、芦北郡は 秀吉の直轄領となりました。 以後、宇土城の小西領、熊本城の加藤領と領主は変遷しましたが、慶長 17年、幕命により廃城となりました。
時刻は流石に夕方 そろそろ宿へと急ぎましょう!! 今日の宿は『人吉温泉』です! 鹿児島との境に近く、山間に拓かれた町ですが 人吉は小京都と呼ばれるほど歴史があり、趣のある所です。 お湯は美人の湯とよばれ、入浴後のお肌はツルツル・すべすべになると 好評だそうですので楽しみです?(ヲ)
開湯時期は不明ですが1492年に、当時の人吉の当主であった 相良為続が入湯した記録が残っていますので結構な古さの温泉街です。
そんな中で本日のお宿は『芳野旅館』
『』表記です!
・・・実はこの旅館 明治42年創業で、元は相良藩御典医屋敷跡で、その後料亭から旅館に なった母屋は普通に文化財です(笑)
我ながら良く今回の予算でこの宿を探して予約を取ったな〜と 自画自賛です♪
飯はアユの刺身や塩焼き!食い終えた骨はすぐに回収して唐揚げに♪ 追加で頼んだ球磨焼酎は九州では珍しい米の焼酎でして 予想以上にスルスル飲めてしまい、でも度数は35度☆ 不味いパターンだと思いストレートから急遽水割りに変更です(汗)
いや〜良い飯でした!
食後、部屋でゴロゴロしていたら気が付いたらコチヤ轟沈! 起こしても起きなかったので一人で風呂へ 小さいながらも内風呂から外に出て露天風呂もあり!
いや〜夜なのにまだ暑かったけど、そんな中の露天風呂も中々に乙で 良し!!(笑)
一応駅近くの街中なので、宿を出てすぐ目の前にコンビニもあり アイスを買いに出掛けて、風呂上りにご機嫌アイスタイムも満喫出来で 大満足でした(笑)
さて 今回は2人旅で運転手は俺一人ですので早目に寝ますね〜 明日は本格的に熊本観光です!
続く
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