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2005年01月17日(月) あの日から10年。

“復興”の陰に課題 阪神大震災から10年
<震災アンケ>「被災地復興」65% 「生活に影響」64%
神戸新聞・震災10年 1・17特集

今日で、阪神淡路大震災から10年が経ちました。

被災した人は、それぞれの思いを胸に今日を迎えました。

毎年そうですが、この日を迎える夜は、

やはり、いろいろ考えてしまいほとんど眠れません。

午前5時46分、黙祷。

10年目の今日、外は雨が降っています。涙雨でしょうか・・・。

あの日を振り返ってみると、

地震が起きる寸前に、当時飼っていた犬のクッキーに起こされ、

クッキーが布団にもぐって来た直後、大きな地鳴りがし、

(今でも、背後から大型トラックが近づいてくると、

地鳴りを思い出して、思わずドキッとします。)

ズドーンと下から突き上げられる衝撃のあと、

とても文字では表現できない、激しくかき回されるような大きな揺れを経験しました。

布団の中で、必死にクッキーを押さえ、

何かが崩れる音や、ミシミシ、ベキバキという音を聞きながら

揺れが収まるのを待ちました。

地震直後は、何が起こったのか理解に苦しみ、

日本全体が同じような事態に陥っていると思ったほどでした。

幸いな事に家族全員怪我も無く助かったのですが、

自宅は全壊に近い半壊で、約3週間ほど近所の会館に避難していました。

テレビで、1995/1/17の映像を見ていると、

当時感じたあのとてもつらい忘れたくても忘れられない思い出が蘇ってきて、

生きなきゃいけない価値のある人の多くが亡くなったのに、

何故自分は生き残ったのだろうかという気分にもなります。

今でも、あの時と同じくらいとても悲しい気持ちになります。

また、それと同時に避難所で共に過ごした皆さんの顔、

緊急医療チーム、スタッフさんの笑顔、

ボランティアで訪れた人たちの笑顔と

避難所で過ごした3週間のことが思い出されます。

あの日、淡路と神戸の人たちは、最愛の人や思い出のいっぱい詰まった家、

思い出の品、思い出のある町並みなど数多くのものを失いましたが、

それと同時に多くの人々の暖かい心に触れることができ、

多くの教訓を得たことも確かです。

そして、全国各地から集まった自衛隊のみなさん、消防のみなさん、

警察のみなさん、医療チームのみなさん、電気、ガス工事のみなさん、

ボランティアのみなさん、救助救援復旧活動に携わってくださった

全てのみなさんのおかげで、被災された人が勇気付けられ

ここまで頑張ってこられたことも事実です。

支援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

人口は震災前を上回り、街は震災以前よりも美しくなり、

元の賑やかさを取り戻したように見えます。

しかし、その裏側では地域格差が広って、人の繋がりのない寂しい町があったり、

一歩路地に入れば区画整理のため、手付かずのままの空き地がたくさんあります。

そして、復興住宅で寂しく過ごすお年寄りが大勢います。

最愛の人を亡くし、心の傷が癒されることのない人もいます。

あの日、震度7の揺れは等しく平等でしたが、月日が経つにつれ、

崩壊したり焼けたりして自宅や職場を無くしてしまった方や、

最愛の家族を亡くされた方と、

自宅や家族が無事だった人との心の差や経済格差が開いてきました。

私たちは、そういう心の差をちょっとでも埋める努力をしてこれたでしょうか。

また明日になると、何事もなかったかのように、

来年の1月17日がくるまで、TVや新聞は報道しなくなるでしょう。

しかし、復興に向けて一生懸命努力している人たちや、

最愛の人を亡くし、寂しさの中で、

心の傷と懸命に戦って生きている人たちが、

たくさん居ることをどうか忘れないでほしいのです。

10年は節目の年というだけであって、

10年で、被災されたすべての人が、

震災以前と同じぐらいの幸福感を取り戻せたわけではないのですから。

また地震大国日本なのですから、明日はわが身とばかりに、

最悪の事態を想定して、自分で出来る範囲内の備えをしておいて欲しいのです。

ところで、昨日、テレ朝で震災当日の官邸の動きを

ドラマ化したモノを放送していましたが、

テレ朝は、当時の首相であった村山富一氏が、

自衛隊の出動を遅らせたばかりか、各国から寄せられた援助の申し出も

断ってしまったことをスルーして、ヤッパリ責任を行政に押し付けてました。

あの日、1分でも1秒でも、いや1時間でも早く、

自衛隊派遣を要請していれば、瓦礫の下でまだ息があった人や、

生きながらにして瓦礫の下で焼け死んでしまった人を

すべて助け出す事は不可能であったとしても、

一人でも多く助け出せたはずです。

未曾有の災害に襲われた国民をあのような悲惨な状況に追い込んだ村山氏は、

人として後悔していないんだろうかとつくづく思います。

また、上空からあの燃え盛る光景を見て、

「まるで温泉街のようです」と表現した筑紫哲也氏の思考回路がどうしても理解できません。


箴言の大家、ラ・ロシュフコーの言葉。
「本当の優しさを持つことのできる人は、しっかりした心構えのある人だ。
優しそうに見える人は、通常、弱さだけしか持っていない人。
そしてその弱さは、わけなく気むずかしさに変わる」

関連リンク:
阪神大震災-真実は非常の時にあらわれる
>■5.温室の中でしか通用しない非武装平和の幻想■は読む価値あり。


【中国】商務部:「中国の支援物資は期限切れ」で激怒
> 中国商務部の崇泉・報道官は、インドネシアのマスコミが、
>「中国からの支援物資は期限切れだ。食べられない」などと報じたことに対して、
>「現地住民を不安に陥れる卑劣な手段だ」と、強い口調で非難した。
>16日付で中国新聞社が伝えた。

> インドネシアの一部のマスコミは、支援物資に書かれていたとされる
>消費期限 「2004.12.10」をクローズアップ。
>中国からの支援物資の品質に問題があると 指摘したというもの。

>それに対し、崇・報道官は、「中国政府は、これまで食品の安全問題を
>重視してきた。緊急事態が発生した場合に、中国政府が期限切れの食品を
>現地に調達することなどありえない」と強く反発。
>「中国の『製品品質法』『食品衛生法』には、パッケージに生産日付と安全
>使用期間を明記することが規定されており、中国からの支援物資に
>書かれている生産日付などは、中国の関連法律に基づいていると説明した。


「2004.12.10」は生産日で、インドネシアが勘違いしたってことですか?

しかし消費期限記載がないということは、怪しい・・・。

賞味期限はおいしく食べられる期限で、期限が過ぎれば味が落ちていくだけですが、

消費期限は、その日までなら安全に食べられる期限なので、

消費期限切れは、ならなおさらダメですよ。

災害により衛生状態が劣悪ですし、

期限切れの食品が本当だったのならば、

生死に関わる問題にもなりえるので、報道するのが当然だと思うのですが。


>中国政府は、これまで食品の安全問題を重視してきた。

ここは笑うところですか。

使用禁止の農薬や防腐剤、防カビ剤を沢山ふりかけた野菜を日本に輸出してるのに。

いま食卓に急増する中国野菜は安全か(1/2)
仙台検疫所 違反事例報告

中国国内でもこれなのに。
食の安全:加工肉7割不合格、乳製品に抗生物質
カビた大豆等で豆製品5割が粗悪、食用油も問題




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名塚元哉 |←ホームページ