白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2002年11月12日(火) 狩る紅葉。

今日は失業者らしく平日の休日を有効活用して京都へ出掛けてきた。
お目当ては京都国立博物館で開催中の『大レンブラント展』
光と影を描いたことで知られる、あの画家の作品に逢いに……

平日だけあって、会場は丁度良いくらいの人出で
ゆっくり鑑賞することができた。
私は絵を観るのが好きなのだが、特に人物画が好きらしくて
ツボにハマる作品が多くて大満足だった。
今回は良家の若旦那のような表情をしたイエス像が印象的だった。
画家の数だけイエスの顔もあるのだなぁ〜と思いつつ会場を後にする。

なんの予定も立てずに出掛けたのだが
ちょうど京都国立博物館前から東福寺行きのバスが出ていたので
そう言えば、紅葉が見頃かもとて、行き当たりバッタリでバスに乗り
東福寺へ紅葉狩りに……

東福寺へ行くのは2度目なのだが、紅葉の季節は初体験。
人の噂で「すごい」とは聞いていたけれど
そりゃぁ、もう噂に違わぬ素晴らしい紅葉だった。
通天橋からみた景色は絶品で、紅に染まる谷……といった印象を受ける。
絵画展は1人で行っても、不自由を感じなかったけれど
圧倒的な自然の美しさに出逢える場所へ行く時は
感動を分かち合う相手が欲しいなぁ〜と思った。

それにしても紅葉の紅というのは、表現しにくい鮮烈さだった。
血液の赤のように毒々しくなくて……
夕陽の赤のように透明感があるわけでもなくて……
強引にこじつけるなら「情念の紅」という感じだろうか。
人を恋うる想いとか、、哀しみとか、憤怒とか。
人それぞれに色が異なる情念の色のように思えてしまった。
もしかすると、そんなイメージを人に与えるから
紅葉は「見る」でなく「愛でる」でなく「狩る」なのだろうか?
あんなに濃厚なもに「見る」だの「愛でる」だのといった
淡白な動詞は似合わないような気がした。

そんな訳で、私は紅葉を狩ってきた。

なんと言うか……『大レンブラント展』も良かったのだけれど
今日は東福寺の紅葉にやられてしまった感じである。
現実離れした、強烈な美しさだったのだ。
今夜は夢に出てきそうだ。それくらい印象的だった。

紅葉狩りの余韻に浸りつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2001年11月12日(月) 同名の人。

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