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2018年02月03日(土)
『近松心中物語』

シス・カンパニー『近松心中物語』@新国立劇場 中劇場

うううーーーん、キャストもホンも、美術も素晴らしかったんだけど…で、いのうえひでのりの演出力もすごいと思ってはいるんだけど……やはり舞台における演出家の効力というものは大きい。

秋元松代原作×蜷川幸雄演出への敬意やオマージュが端々に。色彩はよりヴィヴィッドに、群衆はよりエモーショナルに、喧騒はよりアクティヴに。劇場の天井高や奥行きも「ここでやるならこういう場面が観たかった」と思う使い方。でも、自分には様式美が過ぎた。過剰とは違う。というより、自分は過剰にこそ惹かれるのだった。これは多分、いのうえさんはメタルのひとで自分はパンクよりだから、だ。これは長年モヤモヤしていたことではあるのだが、もうハッキリしたなあ。メタルも好きなんだけどね……。

持論ですが、このストーリーにおける堤真一と宮沢りえペア=忠兵衛と梅川はパンク、池田成志と小池栄子ペア=与兵衛とお亀はメタルだと思っています。衝動の赴くまま愛と死にまっしぐらの忠兵衛と梅川。旦那や友人の恩義も破壊し、一個人同士の思いを貫き通す。一方、入り婿という立場に引け目を感じる与兵衛と曽根崎心中に憧れるお亀は、慣習と形式に縛られている。しかしいざ死の場面となると、その立場が逆転する。忠兵衛たちは雪のなか、世にも美しい絵画的な心中をまっとうする。与兵衛たちは濡れねずみの無様さを晒し、一種事故のような形でひとりだけが死ぬ。

自分には、今回の演出にはこの逆転がなかったように感じた。そもそも逆転する必要はない。演出家がホンをこう読み解いた、ということなのだから。しかし与兵衛たちが生きるうえでの逡巡、切迫が滑稽に転じるさまを、ここ迄形骸化する──新感線用語でいえば「おポンチ」にする──必要があっただろうか? また成志さんも小池さんも、笑いの表現がべらぼうに上手いのだ。これをメタルというなら、確かにメタルには技術が必要だ。だからこそ、過剰なコント仕立てにせずとも伝わった筈なのにという思いが拭えない。技術を持つ者が笑いの底にある狂気を呼び起こしたとき、そこにパンクが現れる。死ぬ場所、死ぬ道具に拘るお亀と、正確なトーンを維持して上の空の返事を続ける与兵衛がパンクに転じるのを待っていた。しかしその瞬間は訪れなかった。

実際のところ、毎回同じクオリティで複数公演を続ける、演者とスタッフの安全を守る、という興行的な面からみて、演劇でパンクを期待するのはお門違いだ。それは理解している。でもときどき、そんなパンクな舞台があるのだ。一度でもそれを体験してしまうと、お門違いとわかっていてもそれを期待してしまう(アドリブやハプニングを期待するということとは違う)。進行どおりに、段取りどおりに、進んでいるのに何かが起こるような恐怖感が拭えない。背後から首を喰いちぎられるかも、という緊張感が常にある。それをどこかで望んでいる。観る側の問題なので仕方ない。すっかり我に返った状態で終始観てしまい、劇世界に没入することが出来なかった。劇団☆新感線の役者さんも、ゲスト出演する役者さんも、原田保の照明も大好きなんだけどね……。

とまあ、そんなメタルだパンクだといっているような自分が形式に縛られているのですねという自覚はある。スクエアプッシャーの「パンクは既に浸透したカルチャーに追従することではない。パンクのスタイルを持続する行為は、最早パンクの精神性ではない」という言葉を思い出しますね……。ごもっとも。

ラストシーン、与兵衛が色街の朱に紛れていく、見えなくなる。これをあのセットで、照明で、池田成志で観られただけでも実は満足なのでした。