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2016年01月28日(木)
『夫婦』

ハイバイ『夫婦』@東京芸術劇場 シアターイースト

ハイバイ界隈では有名、あの夫婦の話です。というか、岩井秀人の両親の話です。ハイバイの代表作『て』に登場した、あの父親。

赤裸々派とでもいおうか、岩井さんは自分のことを書く。自分の家族のことを書く。彼の雑誌連載やtwitterを定期的に読んでいると、そこに書かれたことが舞台に載っていることに気付くことがある。ああ、これはあのとき書いていたことだな、作品に吸収したな。出演者のマネジャーがすっごい無礼だったエピソード、あの公演のときツイートしてたなあ、てことはあの事務所かなあ、とかね(笑)。そのうち「岩井さん」や「岩井さんち」を知っているような気分にさせられる。そうそう、お葬式は教会だったね。おばあちゃんが亡くなったときもそうだったもんね。「おまえはこいつに何をしてやってんだよ」と父に問われた母の答え、あれが岩井さんに果たした役割を知っている。爆笑し乍ら胸がつまる。

しかしこれらが全て本当のことだと信じきることは危険でもある。岩井さんは作家だからだ。本当だから面白い、ではないのだ。

たとえば『て』や『ヒッキー』シリーズには登場する末っ子が、今回はいない。あれ? 岩井家って四人きょうだいじゃなかったっけ? それとも末っ子に深刻な話はやめておこう、という暗黙の了解の末、ハブにされた=今回のストーリーには登場しないのだろうか? ちいさい末っ子に親の余命は言いづらい。可哀相だし黙っておこう。いやいや、末っ子ももういい大人だろう。しかし? そんなことを考えたのは、かつての自分がそうだったからだ。岩井家の父親の病歴がウチの母親と重なっていたことも混乱の原因になった。結核やってて肺ガンで。あと三年で自分は母が死んだ年齢になる。そこ迄いけたらあとは余生だ、のんびりしよう。いやいやおまえいつものんびりしてるだろう。そんなこと迄考えた。

こんなふうに、つい自分のことに紐付けてしまう。自分の家族について考えざるを得なくなる。観たことが全て自分に跳ね返ってくる。ここに、作家としての岩井さんのキモがあるように思う。家族を、他者を、生死を認識する作業。

ハイハイからバイバイ迄とはよく言ったものだ。岩井さんの作品にはいつも死(「て」に敬意を示して?「し」とでも呼ぼうか)が存在している。それは登場人物だけではなく、観ているこちらにもやってくる。いつのまにか、隣に死が座っている。『て』で母親が見る光景。肩を組んで「リバーサイドホテル」を熱唱する家族。有り得ない光景、熱望した光景。今作にそんな場面はあっただろうか? 病が判ってからの父親の言動が変わったこと。これが母親と次男が見た白昼夢だったら?

先述の無礼マネジャーの電話を切ったあとの捨て台詞「いつか絶対どっかに書いてやっかんな!!!」(爆笑。演じた菅原永二、岩井さん再現度素晴らしかった。乗り移ったかと思った)に再び思い出す。岩井さんが描く家族に、書くことに、柳美里のそれを連想するのだ。書いてやる、作品にしてやる。おまえが俺に対してやったことを。だいきらいだ、殺してやりたい、死んでしまえ。わたしは絶対に許さない。書いて、晒して、笑ってやる。そこに人間の滑稽さを見出し、哀切を見出す。笑いにしないでやってられるか。という叫びのようにも感じる。

今回はそれに受容が加わった。いや、それはもともとあったのだろう。作品の性質により露になったと言うべきか。父親の存在を認める、といったほうがいいかもしれない。ここが柳さんとの違いかな、とも思う(どちらがいいわるいの話ではない)。きょうだいたちは「(いつか)寝てる間に(父親を殺そう)」を合い言葉に日々を耐える。妻は夫に「家を担いで出て行け」と言う。そこ迄憎んだ相手は、社会的には立派な人物だった。彼のそういった面を認めるべきだろうか。妻はその功績を自身の身体で確かめ、次男(=岩井さん)はこうして作品にした。

死んでしまったから仕方がない、あいつがいなかったら俺は生まれなかったことになるし。認めるしかない。俺(というより、彼と数十年をともにした母親だろうか)の人生を肯定したい。しかし葛藤は消えない。だから岩井秀人は舞台上で三人の人物(岩井秀人役、小岩井秀人役、岩井秀人本人)となり、作家として複眼的に父親とその家族を見ようと試みたのではないか。取材を進めてみればそれなりに楽しい時間もあったようだ。結婚迄の不器用な交流、新聞紙で顔を撫でるとこどもが寝る(このシーン好き)発見、そんなエピソードが今後もたくさん出てくるだろう。認識の作業はこれからもずっと続くのだと思う。

こんなふうに言えるのは、こちらが第三者だからだろう。では、自分はどうだ? そう思わせる。これが岩井作品の特色でもあり凄みでもあると思う。認識する作業に参加しようぜ。「人の『死』と、それにまつわる風景が、もっと開かれたものになったらいいな、と。」当日配布のパンフレットの言葉が、心に残った。

ディテールの細やかさは毎回見事。棺桶のグレード、弔辞と言った現場では笑えない葬式あるあるが楽しい(そう、楽しいのだ)。ハイバイブランドの雑な女装、そのオールマイティぶりに改めて感心。滑稽にも哀愁にもなる。母親を演じた山内圭哉のスキンヘッドがああいった形で役に立つとは…登場時は「スキンヘッド(辮髪あり)の男性がヅラを被って母親を演じる」笑いとして、後半は抗がん剤の副作用を示すものとして。瞬時に死が身近に迫り、冷水を頭から被せられた気持ちになる。山内さんのスネのスミがスカートの裾から見える度、「夫にどんなに暴力ふるわれてもおかあさん強いもんねスミ入ってるもんね!」なんて思ったりもした。このワンクッションには随分救われた。予想外に山内さんのお腹がぷよぷよしてたのにはショックを受けたが、いやいや、役作りかもしれん(笑)。

父親役の猪俣俊明、姉役の鄭亜美、兄役の平原テツのなりきりぶりには舌をまく。勿論ほんものの岩井家を知るはずもないのだが、「そうとしか見えない」。田村健太郎演じる小岩井のそっくりっぷりには笑った。最前列だったんだけど、それ程近くで見ても似ていた。岩井さんが箱庭に置いていく岩井家のひとびと。家族を認識する作業が今後作品になるかはわからない。でも、なるなら観ていきたい。